1

これ便利 – Firefox拡張「MakeLink」

ブログに他のブログから引用する時、管理ページと引用ページを何度も行ったりきたりしてコピペしてたんですが、これが結構めんどくさい。せめてブログのタイトル部分でも簡単コピーできないかなー。

こういう機能があればいいのになー、っていうのはたいていフリーであるもんだと思ってfirefoxの拡張機能を探してたみたら思ってた以上のがありました!


窓の杜 – 【NEWS】任意の書式でWebページのタイトルやURLをコピーできるFirefox拡張「MakeLink」

任意の書式でWebページのタイトルやURLをコピーできるFirefox拡張機能「MakeLink」v2.1が、15日に公開された。

こちらからインストールできます。
右クリック>Makelink>configureでいろいろカスタマイズもできます。

僕は

Name:blockquote

Format:<a href=”%url%”title=”%title%”>%title%</a>
<blockquote>%text%</blockquote>

というのを作りました。

引用もとのテキストを選んで右クリック>Makelink>blockquoteを選んでコピー完了。

あとは自分のブログにペーストすればOK。

上の引用もこれで一発でした。




リアルとフィジカルに関するメモ

随分とのんびりとしたReactionになってしまいましたが。

『先端の音楽の告げる予言』さつませんだい徒然草

機械的に造られた環境を「ヴァーチャル」というのなら、その反語はもう「リアル」ではなくなってる。今やそこに位置するのは「フィジカル」。で、リアル はその両方を抱合してる。mixiでの出会いは当人にとっては立派な「リアル」だ。でもそこにはまだ熱い血は通ってない。フィジカルな経験、体験を通じて 血は熱を帯びていく。

になるほど。「リアル」を「ヴァーチャル」に対置することにずっと違和感があったけど、これでスッキリしました。

建築に関して言えば「フィジカル」がより重要、というか「フィジカル」を浮き彫りにするような「 ヴァーチャル」のあり方が求められてる気がする。

ヴァーチャルがある種の抽象の役割を担ってるような。

それと、もひとつ。

『その影は装飾か?』404 Blog Not Found

それは何か?物理である。こうした装飾を施すことで、本来はただのデータに過ぎない、ディスプレイに表示されるさまざまなものに物理的質感が与えられるの だ。そしてその物理的質感が、ユーザーの使用感をより自然なものとする。ものをつかめるのなら、ウィンドウだってつかめるはずというわけである。

確かに、いわゆる『Web2.0風』のデザインは影がついたりと奥行き感があって親しみやすくなってることがポイントなのは確か。

でも、それはデザインの手法やレベルの問題であって、装飾が善か否かという問題ではないと思う。具象的な装飾でなくても抽象化などによって自然の秩序を浮き彫りにすることはできるし、それこそモダニズムが手に入れようとしたものじゃないだろうか。

”装飾”といった場合、人によって捉え方が全く違うのは注意が必要。少なくとも、Dan氏とhigepon氏が同じ装飾について語っているようには思えないし、『「仮想の現実化」というのは必要だし、それが現実に近いほど使用感は「自然」に感じられる。』というDan氏の認識を除けば両者がそれほど違う方向を向いているようには思えない。

higepon氏の『建築に無駄な装飾をとりのぞくモダンアーキテクチャという流派があるが』 というのもモダニズムをスタイルの問題に矮小化してるようで気になるし。

B037 『装飾の復権-空間に人間性を』オノケンノート

内井において装飾とは『人間性と自然界の秩序の表現』『宇宙の秩序感を得ること』であるようだ。

秩序を表現できるかどうかが装飾と虚飾との境目であり、おそらくそれらは身体でしか感じることのできないものだろう。
また、それゆえに身体性を見失いがちな現在においていっそう魅力的に映るときがある。
むしろ、身体が求めるのかもしれない。

僕的には、影をつけたり金属を真似たりというのはそういう秩序に近づこうとする一つの方法でしかないし、モニター上のデザインが独自の表現方法をいまだ見出せていない過渡期の状態である証拠なのだと思う。

モニターでの制約をひっくり返すぐらいの表現手法が見つかれば面白いことになるんじゃないでしょうか。

何が言いたかったか分からなくなってしまいましたが、リアルとフィジカルについてちょっと考えてみましょうというメモでした。

 




生活の表出

町並みを豊かで親しみのあるものにするには、生活の表出なんてのも一つのテーマになったりする。

それって、わくわくだったり、おっ!だったり、いいなぁだったり、ほっ。だったり、あれっ?だったりと反応できる何か一つの表情がほんの少しあればそれでいいんじゃなかろうか。そこで見てる人とのちょっとした関係が生まれる表情。

所有権の主張しか表情がないのはやっぱり嫌。




地形とアイコン

okanoaruie.jpg
永山祐子『丘のある家』

引っかかるところのあるものを気が向いた時にメモしてみる。

この人僕と同い年。地形としての強度。アイコンによるイメージの引き伸ばし。

都市型住宅の採光を確保するために考案したすり鉢状の白い屋根を、彼女は「丘」に見立て、その先端に小さな木のオブジェを設置した。誰も登ることのできない、神聖な場所とされた屋根に立つその木は、「私があそこにいけたらどんなかな」と自分を投影するためのもの。『(design dDict 2)』

すごく良く分かるし魅かれるなぁ。




×Reaction×Reaction

僕も楽しく読ましてもらってるあるブログに対して、TBを打つためだけのブログっていうのがあった。

その手があったか。

そのブログにこれまたTBを打つだけためのブログ『○○ ×Reaction×Reaction』ってブログを作ったら面白いだろうか。

っていうか 『○○ ×Reaction×Reaction×Reaction×Reaction×Reaction×Reaction×Reaction×Reaction×Reaction×Reaction×Reaction』ぐらいいった先が元のブログだったら元の記事はどう変化するんだろう。(伝言ゲームみたい)

○○バトンってのが一時期はやったけど、こういうReactionバトンってのはあるんだろうか。

meddo氏のアレの別形態でブログに貼り付けて次々バトンで渡せる(そんで戻ってくる)ってのはあり得ないかなぁ?




とろける

友人のブログで知った『溶け行く日本人

まだあまり読んでませんが思いつきで書くぞー。

このコラム集自体が『溶け行く日本人』的な存在の気もする。

現代が『溶け行く』ことが不可避な時代だとすれば、どう溶けるかが一つのテーマにもなりうるし、最近は素敵に溶けた人がトレンドな気もする。




原理・原則と強度について

原理原則だけでは息が詰まってしまう。

例えばコルビュジェは周りに原則を説いたけど、その原則を遵守すれば建築的強度が得られるかと言うとそうではない。
当のコルビュジェは原理・原則を超えた自由を愛したように思う。
それによってしか強度は得られないのではないだろうか。




カテゴリー追加

MEMO
たわいもない事を書きやすいカテゴリーがなかったので追加。単なる思い付きや自分用のメモ、ニュースや人の記事への便乗や突込みなど。
このカテゴリーは気楽にテキトーにをモットーに書くのでその辺よろしく。




B131 『鉄を削る―町工場の技術 』

Amazonで購入
書評/国内純文学


『本が好き!』経由でこの記事を読んでどうしても読みたくなってしまいました。

図書館にも著者のものはたくさんあったのですが、あえて1985年初版の本書を書評にしているところに興味があったので取り寄せて読むことに。(AmazonではなくOPSIAのHPで取り寄せ買いに行きました。)

いろいろと心に残るエピソードが載っているのですが、その中に、『ヨーロッパに負けないホルンを作ろうとして99.99%同質な真鍮を作ってホルンを作ったがよい音が得られなかった。研究した結果その差は99.99%の真鍮にあるのではなくて残りの0.01%の不純物にあることが分かった』、というものがありました。

塩やブランデーの味の違いも0.何パーセントかの不純物にあるそう。

そのエピソードを話してくれたという機械メーカーの社長さんはこう続けます。

「今の世の中はね、99.9パーセントばかりに眼がいってしまっている。ほんとうのモノづくりというのは、実は残りの0.1パーセントをどう作るかにあるんだということに気がついていないんですねぇ」 (p.40)

あぁ、こういうことなんだろうなと思いました。

パレートの法則ではないけれども、”豊かさの99%は1%の制御できない部分に含まれている”とか言ってみたくなります。(99%というのは大げさかもしれませんが)

だけど、周りを見渡せば”機能性や耐久性、その他もろもろ数値化できるようなことは99%は満足できるのだけれども、1%の何かが決定的にたりない”、そういうもので埋め尽くされつつあるように感じてしまいます。

それでその99%の満足は、決定的な1%(豊かさの99%)を犠牲にすることによって成り立っていることを忘れてる。

その99%に目を向ける方が分かりやすく簡単なのは分かります。しかし、あまりにも皆がそちらの方ばかり向きすぎではないでしょうか。

”1%の何かが決定的にたりないもの”ばかりに囲まれた生活環境ってやっぱり何か哀しくはないでしょうか。

(僕はこればっかり書いてるけど)そうやって、リアリティーが身の周りから失われていってハリボテ化していくのは僕は嫌ですね。

30%は面倒なことが残るけど、決定的な1%は失われていない、っていう方を 選びたいし、実はその30%が決定的な1%をより活き活きとさせることだってあるのです。

寿司ロボットの出現で、安価な寿司が気軽に食べられるようになったと喜んでばかりはいけない。あれは、寿司のようなもの、寿司もどきにすぎない。こわいのは、寿司のようなものばかり食べさせられているうちに、人間は本当の寿司の味を忘れて、のようなものを寿司だと思い込む、ということにある。(p.188)

こんな風に、20年以上も前から危惧されてたことではありますが。

偶然にもunder’s highの『職人』っていうテーマとシンクロした本書、個人的に興味のある部分をクローズアップしましたが、働くってどういうこと、っていうのをとても考えさせられる本です。(あえて引用等はしませんので自分で読んで感じてみてください。)

かえる文庫の『高校生に読ませたい本』にぴったりだと思うのですが、こういう感じをいいなぁ、と感じる感受性が今の高校生の中にもまだ生きてるのでしょうか。

おじさんとしては『昔話じゃん。』で済まされないか、 ちょっと不安。。。




地主たちはどんな戦略をとるべきか?

『遺伝子レベルとのフラクタルな関係で地域経済というものを捉え』るところが面白かったので脊髄反射的にエントリー。
自然選択説[Wikipedia]等参照。この分野の本、読みたくなったなぁ。いろんな説に従って先の記事の地主がどういった選択をするか描くと面白いかも。というか誰かやってくれないかなー。)

「いや、個人レベルだけで考えればそうかもしれないけど、もう少し俯瞰して考えればこういう行動とったほうが合理的じゃないっすか」ということはあると思う。

それと、囚人のジレンマと決定的に違うことは 『彼らは2人は別室に隔離されていて、2人の間で強制力のある合意を形成できないとする。』という条件がないということ。

『二人とも懲役2年ですめばハッピーじゃん』という合意をとりあっての選択だってできると思うし、僕にはどう考えたってこの選択が一番合理的に思える。(この場合も裏切りの可能性は残るが、それなら契約を結べばいい。)

後はイマジネーションの問題。

ハッピースカウターの代わりになるビジョンや達成感を得る仕組みがあればいいし、それにはそれを理解するイマジネーションと共有するために可視化するイマジネーションが必要。

あと宮台的には コモンズ、どういうゲーム盤にしたいかというイマジネーションと合意。

まぁ、それを”描く能力”が一番不足してるのかもしれないけど。

こういう進化論みたいなのに詳しい人、最新の理論では地主はどう行動するのか教えてー。

(あと、まだよく読んでないけどこの辺にヒントがないかなぁ)




under’s high vol.4

undersvol4
under’s high vol.4がでたので早速もらってきました。
最近どうしても読みたいと思って入手した本が偶然”職人”がらみの本だったので不思議な感じ。

まだじっくり読んでませんが、前回に比べてテキストの分量がぐっと増えた感じ。じっくり読もうと思います。

皆さんも良かったらどうぞ。(設置店はこちら




パノラマ

QuickTimeでぐるぐると360度見回せるQTVRを作ってみました。

だいぶ前に作ったときはForm-Zで作成した360度パノラマパースをCANONのスキャナか何かについてたPhotoStitchというソフトを使ってQTVRにしてたのですが、PhotoStitchの入ったCDもダウンロード先も見付からないので、何かいい方法はないかとずっと探してました。

で、ここに書いてる情報を参考にいろいろ試してみると出来ました!

これを開いて画像の上で軽くドラッグしてみてください。ぐるぐる廻ります。(画像は小さくしてますが割と軽いデータでもっと大きいのも作れます。)

模型には敵いませんがなんとなくの雰囲気はつかむのには良さそうです。




ようやく

お手伝いさせていただいてる住宅の図面がひととおり書き終わりました。


あとは細かいところを修正・検討すれば見積もりに出せそうです。 (Hさん、大変遅くなりましたが明日いったん郵送しますのでお待ちください。)

それにしても、勤め先の方の仕事がラッシュして大変です。去年はほとんど利益の出る仕事がなかったのに今年に入ったとたん急に忙しくなりました。それも納期が2月いっぱいとか3月いっぱいとかそういうのばかり。

ちょっとしたことでは『できない』とは言わない主義ですが、一つ一つの仕事の量が多いのでさすがにキャパオーバーしそう。

所長と相談しながらうまく段どらないとなぁ。平均して仕事があればどうってことないんだけど、波があるのがこの仕事。何とかのりきらねばね。

うーん、でもやっぱり、時間を見つけて この家の模型までは何とかつくりたいところです。




こりゃ面白い。

仮設テント-『事件だよ』

今日はここ↓の動画見てワーオって言いました。

上の記事をよんで、僕もワーオとなりました。

この技術自体は前にバラエティ番組で紹介されてたのを見たことがあるのですが、そのときは「プログラム組んで合成させてるだけじゃん。」と思っただけでした。

それが、人の目線で撮られた映像をみたり、 すでにフリーで利用できるツールがでるところまで来ているのを知ると俄然面白く感じてきました。

あー、このツールで遊んでみたいー、という誘惑に駆られてますが、ここは我慢。(ちょっとそんな暇はなさそう)

けっこう近いうちに、こういう機能が携帯にもついて普通に利用するようになるんだろうなぁ。

▽上の引用先のリンク先の映像

[youtube:https://www.youtube.com/watch?v=Y9HMn6bd-v8]

是非とも1:00あたりから始まる「龍安寺の石庭で戦うダースベーダー」の映像を見ていただきたい。おそるべきは、これがリアルタイムで、しかもノートPCで動いているという点。

だそうですよ。ニコ動もおもろそう。

ってか 電脳コイルみてみたくなった。




高校生に読ませたい本

今、センター試験中ですね。ということで、かえる文庫のTB企画の『 高校生に読ませたい本』を考えてみようかなぁ。

でも、たこはんさんも言ってるようにこれ、けっこう難しい。

今まで、そういう視点ではあまり本を読んだことがないし、個々のヒトに対してではなくて”高校生一般” に対してとなると、僕自身何を伝えてあげればいいか分かりません。その辺の想像力が鈍ってるのかもです。

それに対してすぐに”これがイイよ!”と言える人は、日頃から子供たちに対して誠実に接しているんだろうなぁと思います。

ええっと、では考えてみます。

  • 自分が高校生の時にどんなことと出会っていればよかったか。

うーん。自分なりに精一杯やっててそれなりに充実してたし、思春期ならではの悩みというか自分を確立しようとするので精一杯で、今の僕がそのころの僕に出会っても、一緒に話はするだろうけど”そこは自分で悩みなさーい”となるだろうなぁ。

  • 今の高校生にどんな事を伝えてあげればいいんだろうか。どんな情報や機会が不足してるんだろうか。

これは、たこはんさんみたいに高校生と付き合いがあるわけじゃないので難しいけど、今の高校生に伝えないといけないのは、嫌なことと楽しいこと、両方だろうなぁ。

今の高校生が向き合わないといけない問題や身につけておくべきことは僕らのころとは比べ物にならないぐらい(それもシビアな問題として)あるだろうし、それに対して”こうしとかないとヤバイよ”的な情報は好き嫌いは別にしても必要かもしれません。

だけど、やっぱり高校生に対してそれだけじゃちょっと先輩としては無責任すぎるし、不安要素を吹き飛ばすぐらいの希望も示してあげないとかわいそうじゃないでしょうか。

そういう意味ではたこはんさん(のお客さん)が薦めてくれてる本は生きる力が湧いてきそうです。
不安要素もひっくるめて “いきるぞー!”と思えるような本がいいのかも知れません。

とは言っても、”高校生一般”に “いきるぞー!”と思わせられるような本、というのがすぐに思い浮かばないので、僕の場合、[ちょっと建築に興味あるかなぁ]という人に対してということにします。 これも、建築によって好き嫌いがあるのと、最初から意味が分かるような本が少ない(僕も建築本を少し読めるようになるまでは意味がわからないまま3年ぐらいはひたすら読み続けました。)ので難しいのですが、僕が読書録に書いたもので3つ挙げるとすると

の3冊になるかも知れません。

建築少年になるには好きな建築家や作品と出会うだけでいいんですが、それはその人でないと分かりませんからそれは(リスアップはできるけど)当人に任せます。

だけど、建築そのものにいく前に、もっと大きなもの、生活だとか人間だとか自然だとかのところに魅力を感じていて欲しいと思います。

自分が知ってることより、もっともっと、世界は広くて、人間は面白くて、生活って豊かなものだと知って欲しいし、そこから建築(やそのほかの仕事)をスタートさせて欲しいと思ってこの3冊にしました。

というか、自分がそういう本ともっともっと出会いたいです。

皆さんの『 高校生に読ませたい本』も是非教えてください。(かえる文庫のTB企画へもどうぞ)

-追記-
藤浩志さんのこの記事に書かれていることが本についても成り立たないだろうか。高校生と何かを共感し合うことができる本。とか。 そういう視点?




B130 『愛と哀しみのル・コルビュジェ』

aitokanasimi.jpg市川 智子 (著)

彰国社 (2007/09)


モチベーションをあげるにはコルに限る!っということで、今年の初めの気合入れに本屋で買ってきました。

aitokanasimi2.JPGあのコルビュジェに『おそよう』と言わせるあたり、著者のコルに対する並々ならぬ愛を感じます。
さて、この本から感じたこと。

(この本を買うきっかけにもなった)倉方さんの著作『吉阪隆正とル・コルビュジエ』のところで”多面的なものを引き受け決定する勇気と強さ”ということを書きましたが、まさにそれが『愛と哀しみ』だなぁと思いました。

決定するには建築や人間に対する愛が必要ですが、 決定してしまうことにはその愛の大きさに比例する哀しみがついてまわるんじゃないでしょうか。

そして、その愛と哀しみを引き受けるだけの勇気や強さを兼ね備えた人だけが価値のある決定を下すことができるし、それを体現したのがコルではないかと。

だから、著者がコルの言葉の表面だけが一人歩きしている「哀しみ」を語っているのもよく分かりますし、(著者を含め)多くの人に勇気や強さを分け与え続けているのもまた事実でしょう。

僕もまたコルに勇気を分けてもらいました。

(遅いですが)今年もがんばりましょー!

追伸
(この本を買うきっかけにもなった)と書きましたが、倉方さんのブログのコメント欄の著者のやり取りが興味深かったので読みたいなぁと思っていたところでした。




四大浮世絵師展

ukiyoe
今日孫を見に屋久島から出てきた母が、浮世絵師展を見たいと言うので市立美術館に行ってきました。

写楽・北斎・歌麿・広重の作品に加えて「写楽は誰か?」みたいな感じで写楽に似た作風のものも展示されてて、想像以上のボリュームがあったのでびっくりしました。172点あったそうです。

子供が騒いでしまうので交代で面倒を見ながら少しずつ観てまわったので大変だったですが。(美術館には2時間ほど滞在してたみたいです)

全体の構成の大胆さとか、線や色の一つ一つの躍動感とかも当然素晴らしかったのですが、描いている本人が楽しんでいろんなアイデアを出してるんじゃないかなぁ、というのが見えてきて面白かったです。

うーん。やっぱり、すごいなぁ。おもしろいなぁ。

親しみやすい展覧会なのでお客さんも多かったですが、 かなり見応えがあるので時間のある方は是非。1月27日までやってるようです。(373news.comの記事はこちら。)

(余談ですが市立美術館の HPはもうちょっとなんとかならないんでしょうか。とても美術館のサイトとは思えませんし、イベントや入館料もよく分かりませんでした・・・。)




模型撮影

22

ずっとそのままにしていた模型をようやく自宅で撮影しました。

手持ちのデジカメで撮影したのですが、 撮影用に買ったライトではうまく感じが出なかったので結局蛍光灯で撮影。

もっと模型撮影の技術を身につけておくんだったなぁ。

また、それに合せて画像はFlickrを利用することにしました。

スライドショーも簡単に作れるし、レンタルサーバーの容量も気にしなくていいんで気楽に画像をアップできます。

(アップした画像のスライドショーはPROJECTのHouseStudy-03~05です。)

ところで、無印良品のアクリルケースはモデルチェンジしたんですかねぇ。

先日、無印に行ったときにサイズが変わってたのでネットで確認してみると、つかってたサイズのケースがもうなくなってました。

だいたい27cm×20cm×13cmのDVDボックスが丁度いい大きさだったので、模型の大きさを全てそれに統一しようと思っていたのに・・・。けっこうショックです。

IMG_1436こういう感じでどんどんスタッキングしようと思ってました。

結構な値段がしたことだし、これからはスチレンボードとプラ板で ケースを作るか・・・・う~ん。

アクリルケースの情報、お持ちの方は教えてください。




B129 『ピタゴラ装置 DVDブック2』

佐藤雅彦

ポニーキャニオン(2007/04/18)

クリスマスに義兄さんから前から(息子に)欲しいと思っていたピタゴラ装置のDVDブックを(息子に)もらったのですが、(息子は)喜んで大はしゃぎ、今日も(息子そっちのけで)何回も見てしまいました。面白いなぁ。

前々から何か木のおもちゃを作りたいなぁと思っていたのですが、DVDに刺激を受けたこともあってこの正月休みに何か作ることに。

息子は御多分に洩れずミニカーが大好きなのですが、ダイナミックにミニカーが動く繰り返し遊べるおもちゃが欲しかったのでトミカで遊べることを条件にすることに。

子守をしながら合間合間でなんとか休日中に完成することができました。

どうやってトミカをUターンさせるかが考えどころだったのですが、木の音も欲しかったので”獅子落とし”風にすることに。

こんな感じで動きます。(始めての動画アップに挑戦。)

けっこうでかくなってしまいましたが、喜んでくれたみたいなんで良しとしましょう。




B128 『カーニヴァル化する社会』

鈴木 謙介 (著)
講談社 (2005/5/19)


年の初めに長めのエントリ。。。

ポストモダンを生き抜くモデル

詳しくは本書を読んで頂きたいが、この本を読んで浮かび上がるのはポストモダンを生き抜く一つのモデル、”データベースとの往復運動から得られる情報、すなわちネタを燃料に、瞬発的でハイテンションな自己啓発、すなわち祭りを駆動力としながらなんとか前に進み続ける自己像”である。
噛み砕いて言えば、こんな先の見えない世の中じゃ、祭りをしながらテンション上げていかないと生きていけないよ。という感じになるのだろう。

そこで”バカな若者”と言って単純な”説教”をしてしまうとしたら、それは説教者の自己満足で終わる可能性が大きい気がする。
その若者はおそらくそういう説教者が出会ったことのないような種類の問題に直面しているのであり、問題を共有していないのであれば偶然でもない限り有効な処方箋が示せるわけがない。

前にも一度書いた気がするけれど、”子供は時代の鏡”というのは本当だと思う。先に挙げたモデルにしても、彼らがバカになったのではなく、彼らなりのやり方-理性というよりはおそらく本能に近い能力で-社会に適応した、というより防衛本能を駆使した結果なのだと思う。
頭の固い大人にはマネも理解もできないものだろうけど、そこには目を背けてはいけない何かがある。

何に対して防衛本能を駆使しているのか。

そこで思い出したのが、少し前に書いた”なぜ勉強しなくては」いけないか”という問い。

前のエントリでは『古典的な問題』と書いたけれども、そのニュアンスは時代によって微妙に変化しているのではないだろうか。問い自体は古典的でもその意味は極めて現代的なものではないだろうか、という気がしてきた。

多くの人は意識化してないにしてもこの問いの奥には

  • なぜ勉強しないといけないのか。

  • なぜ働かないといけないのか。

  • なぜ生きないといけないのか。

という問いがつながっているように思う。先のモデルの彼らは最後の問いを自らに問いかける事を回避するために、防衛本能を駆使してやり過ごすための方法を見出したのではないだろうか。

著者も

現在の私たちは誰も「いかにあるべきか」を語りうるほどに。現在についての知識を蓄積していると私は考えていない。である以上、もうしばらくは「いかにしてあるのか」について問い続ける必要があるといえよう。

と言っているように、「いかにあるべきか」の答えを出すことは容易ではない。

しかし、だからこそと言って良いか、私たちは”なぜ生きないといけないのか。”という問いと共に”どうやってポストモダンの社会を生きていけばよいか。”という問いを考え続ける必要があるのではないだろうか。

でないと、「なぜ勉強しなくてはいけないの」という問いに対してさえきちんと向き合うことができないし、納得してもらうこともできない。少なくとも完全な答えは出ずとも共に考えるということが必要じゃないだろうか。(「大人も答えが出せないでいる」というのが一つの答えになるかもしれないし、答えを知ったかぶりすることで子供を幻滅させることになるかもしれない。)

これらの問いについてはゆっくり考えてみたいと思いますが、みなさんも良かったらどうぞ。

このモデルについて

補足的になりますが、本書で示されているモデルについて。
僕の理解では、このモデルは”今までは社会の慣習や宗教、常識などによってある程度枠組みがあったものが、ポストモダンの社会では全てが個人の選択にゆだねられるようになる。そこには依拠すべき理念や物語は存在しない。だけども、人間はそんなに孤独で際限のない自由の負荷に耐えられるほど強くはない。そこで、これまでの慣習などに代わってデータベースがさまざまな選択のためのネタを提供してくれる。”というもの。

かといってデータベースがよって立つことのできる”大きな物語”となれるものではない。ただ、もともと相手がアルゴリズムなど、物語を期待する余地のないものだからかえって割り切れはするが、これによって孤独感や無力感が拭い去れるわけではない。

こうしてみると、本著は東浩紀の『動物化するポストモダン』の焼き直しと言えなくもない。

大きな違いは駆動力が”欲求の充足”であるか”瞬発的な祭り”であるかという点。

やっぱりデザイン?

このモデルでひとつ希望があるとすれば、それは次の一文にある。

このようなシステム作動の帰結とはいかなるものになるか。わりあい容易に導き出される結論は、人の「知性」の側面がデータベースへと外部化されることにより、個人の内面における「感性」の水準が前面化するという事態が、監視社会化に伴って進行するということだろう。

「感性」のみは一種のアイデンティティとして残されるということだとすれば、そしてその他のものがもともと外部化できるものだったとすれば、これは割合使えるんでない?という気もする。

先日書いた「インプットとアウトプット のらせん状のループの可能性」というのはこのあたりのことで、特にネット上では「知性」の外部化を割り切り、他人の知性・感性を共に巻き込む形でこのループを繰り返して残される自らの「感性」を磨いていくような作法が流行っているように思う。

僕は今のところ、ポストモダンに対応できるのはデザインという姿勢かな、と思っているけれども、もしかしたらそこに接続できるんじゃないか、という気がしないでもないのだ。

○すべてがデザイン
「デザインは意味を描いてみせる。」
「だから、デザインが意味の問題を抱えることは決してない。デザインは意味の問題を解決するものなのだ。」
「人間の態度と構想が世界を意味あるものとして開くのだ。」
「人間は意味を形成することによって、意味を求める問いに答えるのである。」
「作為の学の優れた先駆的思想家のホルガー・ヴァン・デン・ボームは要約していう。「・・・人間とは元来意味をつくり出す生き物なのだ。・・・それは、世界を開くデザイン、一つの象徴的形式、一言を以てすれば文化に他ならない。」(『動物化する~』読書録の最後にも書いたけど再び『意味に餓える社会』から引用)

まだ、思いつきの段階で明確なイメージではないですが。

p.s 読み返してみると、本著と同じく全体像の見えにくい文ですね・・・。