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三 出会いと設計

「何か?」から「どう?」へ

これまで、建築における出会いとは何か、何とどう出会うのか、ということを書いてきたけれども、それらは建築の専門家であるかどうかに関わらず、自らの体験として捉えることが可能なものだったのではないか思う。

しかし、設計者の立場としては、そのような建築がどのようにつくられるのか、どのようにすれば設計可能なのか、という点に興味がある。

そこで、ここからはどうやってつくるのか、について出会いとはたらきの点から考えてみたい。

はたらきとしての設計

出会う建築と言った場合、同様に出会う設計というものがあるように思う。
それは、環境を能動的に探索しながら情報をピックアップし、何かに出会うことによって調整する、というこのと循環による自律的なはたらきとしての設計である。

ここで、設計をはたらきとして捉えることが決定的に重要であるように思われる。

概念のところで書いたように、思考とは自己と自己との言語を介した出会いの循環、そこで生成された言葉と出会うことで、次の言葉を生成し、またその言葉と出会うというサイクルである。
同様に設計も、自己と環境との、出会いと行為のサイクルだと捉えられるが、そこにはそのサイクルが動き続けるとというはたらきがある。

それは、設計行為に関わるはたらきが環境の中で回転し続けることで、建築がその形や境界を調整しながら形成されていく、といったような動的なイメージであり、そのはたらきを豊かに維持し続けることが設計の密度へとつながり、ひいてはつくられた建築での出会いを豊かなものにするように思う。

遊びと分散

設計のはたらきにおいてさまざまな予期せぬものに出会う。ここでいう予期せぬものは物理的なものに限らず、要望や社会・文化・歴史的環境、さらには、その時点の図面や模型、パースなどのように設計者によって投入される事柄も含む。

その予期せぬものは、主観的な設計意志に対する制約(痛み)ではなく、遊びの文脈に乗った探索可能な出会いの可能性であり、設計行為を出会いと行為のダイナミックなはたらきへと導くものである。

また、それらの予期せぬものは、多様であればあるほど出会いの可能性を高めるが、あまりに突出した要素は他の要素の探索を阻害し、循環によるはたらきを弱めてしまうため、適度に分散されていることが望ましい。

そうやって、出会いを多様に分散することは、設計による調整行為にある種の自在さのようなものを与えるように思うし、その自在さが、出会いと行為のはたらきを持続可能なものにするように思う。

出会いの投入

ところで、建築の設計過程で、オノマトペのような言葉や思考により生み出された概念、その他これまで考えて来たようなものとの出会いが発見されたとすると、それれは設計のはたらきにどのように関わりうるだろうか。

先の遊びと分散で書いたことを思い出すと、設計の過程で発見されたこれらの出会いは、設計の原理というように強いものではなく、可能性としての予期せぬものとして、再び設計環境に投入されることが好ましいように思われる。

そうすることで、設計のサイクルにおける出会いの可能性をより多様なものできるはずだ。

少年のモード

また、設計の問題は「どのようなはたらきの中に身を置くか」というように置き換えられる。それはシステムの問題であるが、設計のはたらきを豊かに作動させ続けるためには、経験を開くような態度が必要である。

経験を閉じて、一定の範囲の価値基準や手法の中で設計を行うのでは、そこに出会いは生まれないしはたらきは維持できない。絶えず目の前の予期せぬものを、遊びの文脈で可能性としてキャッチするような態度こそが求められるように思う。

それを河本英夫氏は経験に対する少年のモードと呼んだ。

それは自分の経験と建築とを前に進めるための態度であり、「どのようなはたらきの中に身を置くか」を実践するためのものである。その先には、手法に焦点を当てるのではなく、態度へと焦点を当てた設計論がある。

つまり、出会う設計とは、理論的手法から実践的態度への転回のことなのである。