1

秩序を回復させる。




時には装飾のタブーも恐れず。

オノケンノート – B037 『装飾の復権-空間に人間性を』

内井において装飾とは『人間性と自然界の秩序の表現』『宇宙の秩序感を得ること』であるようだ。

秩序を持っているかどうか、が『空間に人間性を』取り戻す鍵のように思う。

■人間の分身、延長としてつくっていくのが装飾の考え方で、もう一つは建築の中に自然を宇宙の秩序感を回復すること。
■水平・垂直のうち現代は世俗的な水平が勝っている。しかし、人間の垂直思考、つまり精神性をもう一度取り戻す必要がある。
■装飾というのは付けたしではない。「装飾」は即物的にいうと、建築の材料の持ち味を一番よく見せる形を見いだすこと。
■ファサードは人間の価値観、宇宙観、美意識、感覚の表現であるからこそ人間性が現れる。建築はその設計者の姿をしているのが一番いい建築。

また、秩序は幾何学によらなければいけないというわけではない。

オノケンノート – B058 『informal -インフォーマル-』

■階層的で固定的な意味での秩序は、物事の自然状態から最も遠いものとして理解される。
■こうした乱流に直面して、秩序が安全な要塞として承認される。でもそれは、大事な点を見逃す。それは現実の本質はまさに偶然であり、「秩序」というものが、ひょっとするともっと大きなランダム性の中での、小さい局所的な安定状態に過ぎないかもしれないということだ。

むしろこっちの方に突き抜ける可能性がある。

もう少し古典的というか基本的な言説としては
オノケンノート – B025 『建築意匠講義』

建築とは、空間を秩序づけることであり、人間は空間によって秩序付けられる

人が生きるということは存在に対する信頼の上で行動しているということであり、私たちはそれを信じつくっていく中でしか、秩序を捉えられない。「行動的懐疑」こそが建築の様式の絶えざる交替を生んできた力である。

「秩序とはなんであるか」この問いは開かれたままにしておかなければならない。
それは行う中で、ものをつくる中で、一瞬示されるだけでたちまち消えてしまう。
秩序の存在を論理による説明、学問的な認識によってとらえることはありえず、ただ道徳的確信、行動的信念の中においてのみ得られるものである。

造型論を追い求めた倉田 康男も建築を次のように捉えている
オノケンノート – B040 『建築造型論ノート』

■自らの生きざまを見つめ続けること。そして目の前の畑を耕し続けること。いつかはもたらされるであろう[建築]を夢見続けること。それが建築を学ぶことのすべてなのである。

倉田の造型論は造型論によって捉えようというよりは、むしろ捉えられない不可能性に対する確信から造型論を求めているように思う。

決して宇宙の秩序に到達できないという認識の謙虚さを持った上でそれでもなお秩序を求めること。