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探すよりは作り出す

たこ阪さんの記事『「やりたいことを見つける」ってどうよ?』を読んで。
やっぱり、何かに向かって突っ走って、才能もあってやりとげる、って人はなかにはいると思う。
でも、その人にしたって「やりたいこと」を探して見つけた、というのとはちょっと違う気がする。
どこかにやりたい「こと」ってしうシロモノがあって、それを見つけだせば幸せになれるというのは、チルチルミチル的な幻想ではないだろうか。

僕は「こと」はあくまで手段であって、代替可能なものだと思う。
こういう風に生きたい、というような目的があれば、「こと」はそれに適したものを選べばいいのであって、目的に適うのであればなんだっていい。
それを「こと」を見つければ結果もセットになってついてくると逆から考えるとおかしくなる。どんな手段を手にしても目的がいい加減だと結果の出しようがない。

最初に書いた突っ走る人っていうのは、本能的に目的を掴んでいて、それが人よりも突出していて、たまたま近くにあることを手段にしてしまっただけではないだろうか。他のことが近くにあったって何らかの結果を出したはずだ。

僕の今がやりたいことかと聞かれるとそんな気もするが、他にやりたいことはいくらでもあるし、探して見つけた訳でもない。
たまたま関わり始めたのが今の仕事で、それを手段として今まで続けてきた、と言うだけの話である。(といってもいい加減にやってるわけでは全くありませんから!)
「探していたものと違う」と言って捨てるような機会はいくらでもあったし、今だっていつ捨てたっておかしくない。だけども、手段にしてやろうと思っている。

うまく言えないけれど、どこかにあるものを「探して見つける」、と言うよりは手段を「つくりだす」という感じ。

そういえば前にも似たことを考えたことがあった。
ポストモダンの時代、目的そのものも絶対的なものを探すよりは仮説であっても自らデザインして生み出す(ようは、なんだっていい!)というような態度の方がうまく生きていける気がします。(誤解されそうな表現だけど)

P.S やっぱり誤解を受けてそう・・・。僕は建築が好きだし出会えたことは幸運だったと思います。
ただ、どんなことでもそうだろうけど、そう思えるまでに、「こんなはずじゃなかった。他の仕事のほうがいいんじゃないか。」ということは一度や二度ならずあるはずです。(建築なんて結構いぢめられます)
その度に、それは建築と言う「こと」が違ったからという判断をして違う「こと」を探していたらきっといつまでたっても何も得られないままだったと思う。
何かをモノにするには継続する意志が必要、て言うようなことを書きたいだけでした・・・。