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B106 『脳と仮想』




こちらも「本が好き!プロジェクト」より献本して頂いたもの。
「クオリア」という概念は別の本で少し触れられているのを読んだことがあるが、「クオリア」という問題意識を「仮想」という言葉で展開したのをまとめたのが本書。
本著の中で考察されていることは、おそらく今まで哲学の分野などでさんざん語られてきたことで、それほど目新しいことではないと思う。
しかし、著者の功績は今まで科学の名の元に切り捨てられてきた扱いにくいものを、あえて科学という世界に正面からぶつけた上で、一般の人の科学に対する視界を広げようとした点にある。(それは本著で重要な位置を占める小林秀雄の姿勢でもあると思う。)

もともとある程度の期待を抱いて読み始めたのだが、やはり「仮想」という言葉の射程にあるものは、僕が建築に求めるものとかなりの部分が重なる気がした。

もう10年ぐらい前から、建築において「イマジネーション」が重要であると考えている。それと今、「仮想」を再評価すべきだと言う姿勢とは同じ問題意識によるものだと思う。

IT(情報技術)が全ての情報を顕在化しつつあるように見える今日において、仮想というものの成り立ちについて真摯に考えることは、重大な意味を持つのではないか。目に見えないものの存在を見据え、生命力を吹き込み続けることは、それこそ人間の魂の生死にかかわることではないか。

現実と仮想を考えた場合、科学的思考の中では扱いにくい仮想は価値のないものとして切り捨てられ、現実と呼ばれるもののみが重要視されてきた。そして、それが私たちの思考の大部分を「常識」という形で支配してしまっているように見える。
しかし、私たちの生きていく上での豊かさは仮想というものの中にこそあるのではないだろうか。おそらく、現実と仮想というように分けてしまっているうち、重要であるとされている「現実」というものも「仮想」という大海原の中に浮かぶ氷山の一角でしかない。

建築の空間について考えた場合、建築というものは単なる現実に存在する物質でしかないし、実際、多くの人には建築はそのようにしか捉えられていない。住宅は「何坪の広さのある、建材という名の物質のかたまり」であって、それ以上でも以下でもない。と思われている。
しかし、その物質の配置によって空間が生まれると建築家は考える。
その考え方自体が仮想以外のなにものでもないのだが、空間はまさに仮想であることによって豊かさへの可能性を開くのである。
建築によって仮想と接続されると言っても良い。
単なる物質が永遠の時間や無限の広がりといった仮想を引き寄せることもあるのだ。

著者は空間を『自己の意識の中心から放たれる志向性の束によって形づくられる仮想である』と言う。私たちの心は「志向性」によって脳という容器の中から飛び出すのだが、この概念は建築を考える上でも示唆に富んでいる。この志向する先を広げることによって心を、無限の仮想空間へ解き放つことができる。
建築を学んだ人であればこの『志向性の束』というのは納得のいく考えではないだろうか。

人類にとって、「現実」こそ全てと思い込まされている今ほど空間の限定された時代はないのではないように思う。それは非常にもったいないことではないか。
仮想のもつ豊穣さを取り戻すことは建築の役割の一つでもあると思う。しかし、「志向性」と言うものが能動的なものであるとすれば、仮想というものの存在や価値を多くの人が認めるようにならなければその役割を果たすことも難しい。

本書では「仮想」の豊穣さがいろいろな角度で語られているが、多くの人が本著に触れ仮想への扉を開いてくれることを望む。