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B099 『我々はどこへ行くのか―あるドキュメンタリストからのメッセージ』

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書評/ルポルタージュ

世界を駆けめぐり、NHKスペシャルを150本も作った日本を代表するドキュメンタリストの本。
──世界をこれだけのスケールで見つめたドキュメンタリストは、ほかにいない。
──世界をこれだけのスケールで描いた本は、ほかにはない。
私たちは毎日、あらゆる出来事についての膨大な報道に接する。だが、膨大な断片になった報道にいくら接しても、私たちは世界を知ることはできない。世界観を持てない私たちは、場当たり的な反応だけで世界と接し、次第に孤立を深めている。
私たちはなぜ、世界を知らなければならないのだろう。
日本が世界のなかで存在感を示せず、漂っているのはなぜだろう。
そのなかで生きる私たちひとりひとりの孤独感や浮遊感は、どこから生まれてくるのだろう。
日本の置かれた現状と、私たちが抱えている心もとなさは、同じ根っこから発生しているのではないだろうか。
膨大で断片的な報道は、世界観を持つことができない私たちの有り様をそのままに表している。
報道とはなにか。
世界を理解するとはどういうことなのか。
私たち人間はなにを求めて生きているのか。
世界で起きたあらゆる事件を語りながら、川良浩和は、同時にそれを読者に語りかけている。
いま、これだけのものが書けるドキュメンタリストは、どこにもいない。

”本が好き!”プロジェクト。いきなり内容解説の全文引用から始めたけれど、この本を読んで感じたことのかなりの部分がこの解説文に凝縮されていたように思う。

私たちはなぜ、世界を知らなければならないのだろう

この疑問にどう答えるか。それがこの本のひとつのテーマだろう。
それについては後述するとして、まずこの本の印象から。

最初に目次を見たときに一瞬、入門書なんかでありがちな退屈な事実の羅列ではないか、という不安がよぎった。しかし、時代を椿の花に例える出だしの文章でその不安は消えた。そこには著者自身の視点があった。

個々の番組や事実の羅列だけから複雑な世界を捉えることは難しい。
しかし、本著は一貫して著者個人の視点から描かれているため、ひとりの人間が感じたひとつのストーリーとして時代を捉えられ、著者の視点を通して時代と向き合うことができる。
内容は昭和が平成に変わりベルリンの壁が崩壊した1989年から9・11を経てテロの頻発する最近までの、いわば世界の戦争の歴史とでも言うものをドキュメンタリーを制作している現場からの視点で描いたもの。

人間はさまざまな理由をつけてこれでもかと悲しい歴史をくりかえすのだが、「歴史は繰り返す」の元の意味は『忘れられた歴史は繰り返す』より正確には『過去を記憶できないものは、その過去を繰り返す運命を背負わされる。』という意味だそう。
著者はさまざまな事件をより真実に近い場所で見てきた末、次のようなシンプルな考えに至る。

本書の筆を置くのが近づくにつれ、私は、いろいろな理屈は信じまいと思うようになった。(中略)森(光子)さんの青春は戦争一色だった。森さんは過去を振り返りながらこう言った。「ああしなければいけないとか、こうしなければいけないとか、いろいろ理屈はあっても、戦争だけは絶対にやってはいけません。」と。これは至言だと思った。なるほど、戦争へ向かっているのか、そうでないのか、すべてをそこで判断するという基準を持てば、はっきりするし、わかりやすい。今はそう思って生きることが一番正しいような気がしている。

そのように生きるため、歴史を繰り返さないためには、やはり『過去を記憶』すること、すなわち世界を知ることは必要なことではないだろうか。

メモ

■もうちょっと<私たちはなぜ、世界を知らなければならないのだろう>という問いに対して考えてみたい。

■この本のコソボの内戦のあたりを読みながら、妻に”悲しい現実ばかりだ”というようなことを言った。すると、妻はそれを聞いて悲しいものは見たくないと言った。それに対し僕はうまく答えることができなかった。悲しいものを見たくないのは素直な感情だと思う。だけど、悲しい現実から目を背けてばかりでは未来は描けない。
本著であらわになるのは、私たちの今の現状がいかに不安定なものであるかということであり、人間は愚行へと流されやすいという現実である。世界は今でも不安定だし、日本だって決して例外ではない。
もし、日本の現状が揺さぶられ、”悲しい現実”を招く流れが生まれそうになったときに、<世界観を持てない私たち>であったならばその流れに逆らうことができるだろうか。茶色の朝の恐怖が現実のものとならないためにも世界を知ろうとすることは必要なことのように思う。

■また、さまざまな”悲しい現実”が起こっている現状と私たちの生活は全く別の世界ではなく、同じ構造の上にある。その原因の一部であるかもしれない私たちがそれについて全く目をそらしてよいものだろうか。世界を知ろうとすることは私たちの最低限の責任ではないか。その責任から目をそらしてきたことが今のテロの世紀につながっているのではないだろうか。

■さらに身近なことに限っても、膨大な情報にさらされ<世界観を持てない私たち>と<私たちひとりひとりの孤独感や浮遊感>とは無関係ではなく、それが今を生き難く感じるひとつの要因だと思う。
だとすれば”世界を知る”こと、世界に解釈をあたえることは、今の生き難さを克服するための手段となりうるのではないだろうか。
原理主義に至るような極端な解釈は危険であるが、生き難さやそれに伴う不安や恐れが戦争の引き金になるならば世界を知ることはやはり有効であると思う。

■いろいろと考えてみたが、遠くの悲劇を語ることはできても、知ることの必要性を自らの身近なものとして感じられるようにするのは簡単なことではない。遠くの悲劇はいつもの日常から簡単にこぼれ落ちてしまう。
それを自分の問題として捉えるためにこそ知ることが必要なのだから、知る以前からそれを要求するのは無理な話だ。
<私たちはなぜ、世界を知らなければならないのだろう>、それを知るためには世界を知ることが必要なのだ。

■9・11の後、アメリカの街に星条旗が並ぶ光景に違和感を感じまったく理解できなかったのだが、下の文を読んで少しは理解できた気がした。

「アメリカは、私はアメリカ人だという自覚で成り立っている。この求心力を喪失するとアメリカは簡単に解体するのだ。」アーサー・シュレジンガー

アメリカの人々が、ことあるごとに国旗を手に国家を歌っているのは、夢が永遠に消えないことを祈っているのだ。夢を追ってきた短くも美しい歴史をいとおしく思う気持ちが絆となって、多様な人種が共存するアメリカという国を成立させてきた。「夢」がアメリカのすべてといっても過言ではないのである。

しかし、アメリカ人であるため、夢にしがみつくために戦争が必要だとしたら、そんな夢は早く手放して別の道を探るべきだ。