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『仲良くせざるをえない家』に関するメモ その2

えー、『多様で豊かな関係性を(ほどほどに)もてるのがいい家』なんて言っておきながらなんなのですが、近所のおばあさんに困っています。

詳細は書きませんが前々から親しくしていたおばあさんがあまりにも他人の迷惑を考えない言動ばかりになって、終日家で子守をしている妻がかなりまいっている状況。

僕としては、生活環境(特に子供が育つ環境)としては多様性を許容する町であるべきだという思いもあって、なんとか仲良く出来ないかという気持ちと、妻に悪いという気持ちの間でもんもんとしていたのですが、考え方を変えるとすっきりしました。

多様性のある町といっても、誰とでも等しく仲良くしなくてはならないというわけではありません。
昔ながらのコミュニティが崩れ都市化・個別化が進んだのは、昔ながらのコミュニティの持つ一種の同調圧力のような煩わしさから逃れたいという欲求を多くの人が持ったからからであって、それを現代において強要してコミュニティを、といってもうまくいくはずがありません。

もし、いろいろな人がいる中で『誰とでも等しく仲良くしなくてはならない』ということを推し進めていけば、やがて多様性そのものを否定せざるを得なくなって結局は個別化に進んでしまいます。

そうではなく、気の合う人もそうでない人も含め、多様な人がいることを許容するというのが大切であって、そのために仲良くするための作法の他に現代的に割り切ってしまうような作法もありなのかなと思いました。

そういう自由のある中での共存である方が可能性があるように思いますし、近所だから何をしたっていいということではなく、一定の緊張感・マナーのある中で関係性を築くべきだと思います。

ですから、『仲良くせざるをえない』という回路の他に、一時的にでも『ばっさり切っちゃうよ』という回路も担保しておくべきかもしれません。

例えば(たこ阪さんは分かると思いますが)関西では単純に笑いという意味ではなくもっと複雑な意味で『おもろいやつ』であるかどうかというシビアな基準が存在します。

それは人に対してよりもむしろ自分にたいしてシビアな目線であって、一定の緊張感の中で人間関係が築かれているように思いますし、その緊張感が逆に、(ある意味無根拠な)信頼関係を生み人間関係を円滑にしている面はあると思います。
(多分他の地域の人にはその緊張感は見えずに妙な連帯感だけが見えるのでしょうが。)

また、『おもろい』にも関西圏共通で通用するメタおもろいから一部だけで通じるマイナーなおもろいまで、いろいろなレベルのおもろいが存在していて、それが連帯感と多様性を同時に担保しているように思います。

なんの話かよく分からなくなりましたが、家づくりやまちづくりにも、こういう作法の構造が応用できるんじゃなかろうか、という話と、近所のばあさんは僕はもう相手にしない、という話でした。

つづく(かな?)