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B064 『脱アイデンティティ』

上野 千鶴子 編
勁草書房(2005/12)

複数の人がアイデンティティについてさまざまな視点から論述している。
本著は『「アイデンティティ強迫」に憑かれた近代社会および近代社会理論へのレクイエムを意図して編まれた(上野)』そう。

しかし、個人的な実感としてはアイデンティティの概念はレクイエムを唄うまでもなくすでに失効しているようにも思う。
今では「アイデンティティ」という言葉にピンと来なくなっている。
もちろん個々の状況によって感じ方は様々だろうが、少なくとも僕にとっては「アイデンティティ」が自分にとって重要なテーマではなくなっている。

本著の中では、三浦展の論(『消費の物語の喪失と、さまよう「自分らしさ」』)はとっつきやすく、なるほど、と思わせるものであった。

面白く読めたと思えば、近いうちに読もうと思っている『下流社会』の著者だった。説得力がありマーケティングが専門なのも分かる。

三浦の論は前半はとっつきやすくなるほどと思わせる分、もはやありがちな視点であった。しかし、後半の論はちょっと考えさせられるものがあった。

最近の若者の中では「食べることを楽しいと感じない、面倒と思う子が増えてきた」というのだ。

欲求の基本的な源泉は不足である。しかし、欲求の対象(食物)だけでなく欲求そのもの(どういうものを食べたいか)までが過剰に供給される社会では正常な欲求を維持することは難しくなる。

何を食べたいかまで、押し付けられていると、本当に自分が食べたいのか、『単なる刺激(広告)に対する反応(消費)』でしかないのか分からなくなる。

その結果

食欲を満たすことは幸福感にはつながらず、むしろ食欲は、食べても食べても決して満たされることのないもの、むしろ、いつ何時自分に襲いかかってくるかも知れない不快なもの、不気味なものとして意識されるようになる可能性がある。それが、若者が食べることを面倒くさいと思うようになった理由ではあるまいか。そして、若者は、いつ何が欲しくなるかわからない自分というものをもてあますようになった。自分がわからなくなったのだ。

(これは他のさまざまな欲求に対しても言える)

また、現代の若者は「自分らしさ」をもとめるが、それは単に「楽であること」「マイペース」の同義語になりつつある。

自分の嗜好を表す言葉を聞くと、「個性的」「先進的」「人と違う」といった言葉はまず挙がってこない。むしろそそれらは嫌いな言葉ですらある。逆に好きな言葉は「さりげない」「目立ちすぎない」「シンプル」といった言葉である。
そう考えると、現代の若者の求める自分らしさ志向はずいぶん屈折している。それは1960年代から70年代の若者文化に求められたような、既存の体勢からの個人の解放、アイデンティティの確立としての自分らしさではないし、80年代における、消費を通じた自己表現としての自分らしさでもない。・・・(中略)・・・思えばそういう時代はある意味で幸福であった。

単に欲求をもつことや自分らしさを求めることでさえ、消費社会から自由になることが難しく、全てが絡めとられてしまう。
それを、敏感に感じ取り拒絶する若者は『欲求を欲求すること』さえ奪われているのではないだろうか。

これは他人事ではなく、残念ながら自分自身にも思い当たる節がある。

欲求というものに対してなんとなく胡散臭さを感じ少し距離をおこうとしてしまうところがあるのだ。
素直に欲求をもてない自分がいる。(これは昨日も妻に指摘された。)

ずっと、(ものをつくるということに対して)どこか一歩抜け出せない感じを持っていてその原因がこの距離にあることも自覚している。今見つけようとしているのはきっとそこから抜け出た感覚である。

この欲求にたいする姿勢はモノをつくるものにとっては決定的に重要な問題だろう。安易に姿勢を決めることは出来ない。

自分の中で整理がつかないまま、どこかから借りてきて”とりあえず”欲求を持っているふりはできるかもしれないし、ほとんどの人にとってはそれで良いのだろう。

だけれども、とりあえず借りた欲求からものがつくれるはずがない。つくれるものはやはり借り物だけで、それでは人の心に達することは出来ないように思う。

この悪い意味での優等生的な「一歩抜け出せなさ」は僕の中でのコンプレックスでもある。
ここに目をつむったままだと前に進めない気がする。

いつか必ず抜け出せるという感覚はあるのだが。

— メモ —
ここから抜け出すために、またこのような社会で生きるために必要なものは「欲求をもつための体力」のようなもの、言い換えると「野性」のようなものかもしれないな、と少し思った。
また、平野 啓一郎氏の提唱する分人のようなものがアイデンティティの新しいあり方になってきているのかもしれない。