知覚のよろこびと、場所への信頼 B247 『あらゆるところに同時にいる:アフォーダンスの幾何学』(佐々木正人)

佐々木 正人 (著)
学芸みらい社 (2020/3/24)

ここのところ、移動時間などに何冊も読みためていたのだけど、忙しすぎてなかなかこちらに書く余裕がなかった。
ようやく、少し落ち着いてきたので順番に書いていきたいと思う。

あらゆるところに同時にいる

久々に佐々木正人の著作を読んだ。

本書のタイトル「あらゆるところに同時にいる」(To be everywhere at once,Being everywhere at once)は、ジェームズ・ギブソンが最後にまとめた著書『視知覚へのエコロジカル・アプローチ』の後半に二度書いたフレーズである。
何を意味しているかわからなくて、気になり、この本を繰り返し読んだ。かなりして、この一文は、彼がたどり着いた思想を、いっきょに示していることが分かった。 (p.6)

著者はこのフレーズが示しているであろうことを、本書を通じてじっくりと浮かび上がらせようとする。

この「二度書いた」とはおそらく下記の2つのことであろう。(『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る(THE ECOLOGICAL APPROACH TO VISUAL PERCEPTION)』より)

十分に広がった経路群で十分に長い時間にわたって、移動する観察点で外界を見ることによって初めて、あらゆる場所に同時にいられるかのように、すべての観察点で外界を知覚していることになる。(生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』p.211)

個体は環境に定位する。それは、地形の鳥瞰図をもつというよりも、むしろあらゆる場所に同時にいるということである。(生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』p.214)

この部分は私も気になり、以前、考えをまとめる際に引用している。

また、探索的移動によって動物は環境に定位できるという。それは、地形の鳥瞰図を意識の中に獲得するというよりは、環境内の不変項の抽出を通じて「あらゆる場所に同時にいる」ような知覚を得ることである。(その中で、現時点で見えるものは自己を特定する。)(おいしい移動 ~あらゆる場所に同時にいる|オノケン(太田則宏)|note)

人は見渡す、歩きまわる、見つめるなどの探索的な移動(ここでは身体を動かさずに環境を探索するような行為や想像力も含む)によって、あらゆる場所に同時にいる、もしくはあらゆる場所にいることが可能、というような感じを得る事が出来る。それは、「私のいる空間が私である(ノエルアルノー)」というような感覚かもしれない。 この「私である」と感じるような領域は、想像力も含めた探索的な移動によって大きく広げることができる。(オノケン│太田則宏建築事務所 »  二-五 移動―私のいる空間が私である)

「あらゆるところに同時にいる」

これは、ギブソンの思想を表すとともに、自分が建築を考える上での原点とも言えそうである。

自分が20代の頃に書いたメモのようなものを見ると、「私のいる空間が私である」「廻遊性」「敷地」「想像力」など、「あらゆるところに同時にいる」ような感覚に対する意識が強かったことが分かる。

知覚のよろこびと、場所への信頼

あらゆるところに同時にいること、言い換えると環境への定位には、知覚することのよろこびと、場所に対する信頼がある。

このことと、私がスキップフロアを多用することや、私自身が極度の方向音痴であることとはおそらく関係がある。

思えば私の建築への入口は、知覚することのよろこびや場所に対する信頼が伴わない建物の作られ方に対する違和感から始まっている。

その違和感から抜け出そうとした先で、ギブソンの「あらゆるところに同時にいる」ことを示す理論に偶然出会ったのだ。

知覚はタイムレス

この本の中で一つ、ピンとこないところがあった。

視覚は、一つの種類の持続ではない。見ることは、見ることがある限り、見ているあいだ続いている。視覚には時間がない。タイムレスである。(p.34)

ここでいうタイムレスとはどういうことだろうか。

古典的な視覚論は、目で捉えた光の刺激を脳が一つの像として処理する、というもので、一瞬の像の連続と考える。そこには過去・現在・未来と流れる時間がある。

しかし、定位の感覚はこの一瞬の像のみによってその都度生まれるものではなく、移動を伴う絶え間ない探索と並走する形で生じる。
目の前に過去・現在・未来と流れる時間のうちから切り取られた一瞬の像があるというよりは、時間を超え、場所・空間そのものと結びついた感覚として環境への定位があるのではないだろうか。

そして、時間を超え、場所・空間そのものと結びついている、まさにそのことによって、場所に対する信頼と、それをベースとした知覚することのよろこびが生まれるのではないか。

そうだとすると、「知覚することのよろこびや場所に対する信頼が伴わない建物の作られ方に対する違和感」から抜け出すためのヒントは、「あらゆるところに同時にいる」こと、すなわち環境への定位にある。

そして、そのために、環境の一つである建築を意味や価値との出会い、アフォーダンスに満ちた場にしよう、言い換えると定位するためのとっかかりとなる情報に満ちた場にしようというのは、私の建築への入口から考えると、たどり着くべくしてたどり着いたように思う。それは簡単に言うと、近代化・工業化を目指す社会がそういうとっかかりを、やっきになって消し去ろうとしてきたことへの反省もしくは抵抗なのである。

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