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ノンモダニズムの作法 「すべてはデザイン」から「すべてはアクター」へ B258『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明教)

久保明教 (著)
月曜社 (2019/8/9)

ラトゥールは1947年生まれのフランスの哲学者・人類学者で、アクターネットワーク理論(Actor-Network-Theory ANT)で知られる。
本書は著者が「極めて難解ではないが、極めて誤解しやすい」というラトゥールの思想を、「入門書や解説書ではなく、その言語運用を広範に活用できる道筋を精査する「取り扱い説明書」として」まとめたもの。

では、ラトゥールの思想においてどのような道筋を見出すことが可能だろうか。少し考えてみたい。

5つの問いに対して

その道筋は「テクノロジーとは何か」、「科学とは何か」、「社会とは何か」、「近代とは何か」、「私たちとは何か」という五つの問いを通じて描かれるが、まずは、重要な概念及びそれらの問いに対する部分を抜き出しておきたい。

アクターネットワーク論

アクター(行為者)は人間に限定されない。差異を生みだす事によって他の事象の状態に変化を与えうるものはすべてアクターであり、それらは相互に独立したものでもない。各アクターの形態や性質は他のアクターとの関係の効果として生みだされる。アクターの働きによって異種混交的なネットワークが生みだされ、アクターはネットワークの働きによって定義され変化させられる。(p.49)

「知る」こと

より良く「知る」ことが問われる場は、世界と表象の対応ではなく、世界の内側にある諸要素の関係性に移ることになる。「知る」とは様々な要素を関係づけることであり、その良し悪しもまた関係づけの只中において生じる。(p.18)

翻訳

「翻訳」とは、あるアクターを起点にして種々のアクターが結び付けられ共に変化していく過程である。(p.49)

非還元の原理

いかなるものも、それ自体において、なにか他のものに還元可能であることも、還元不可能であることもない。(p.56)

仲介と媒介

それらは、入力に対して一義的に出力を返す仲介項(Intermediary)として把握されている。(p.61)

二つのエージェントが互いに互いの行為を変容される媒介項(Mediation)として働くとき、それぞれがもともと持っていた目的が変化する(p.62)

技術決定論と社会構成主義は、諸要素間の関係を主に仲介として捉えることで「(自然の事実に基づく)技術」や「社会」への還元を行う。ANTはそれらの関係を主に媒介として捉えることで還元主義を回避する。(p.63)

こうした「ブラックボックス化」(Black Boxing)と呼ばれる契機に至って、媒介項(未規定の入出力)は一時的に仲介項(一義的な入出力)に変換される。(p.65)

構築

ラトゥールの議論における科学的事実の「構築」とは、諸アクターが関係し合いながら、「循環する指示」を形成することである。「構築する」のは人間や社会ではなく、人間と人間以外の存在を含む媒介項の連関である。翻訳を通じて隊列が整えられ多数の媒介項が少数の仲介項に変換されると、対象を観察し解釈する「主体」としての人間を、観察され解釈される「客体」としての物質に対置することが暫定的に可能になる。(p.140)

「テクノロジーとは何か」

「テクノロジー」と呼ばれる実態や独立した領域など存在しない。むしろテクノロジーとは、自然と社会、非人間と人間、科学と文化といった領域間の近代的区別が表面上のものに過ぎないことを常に突き付けてくる初関係の動態である。(p.73)

「科学とは何か」

科学もまたテクノロジーと同様に人間と非人間の媒介項同士としての関わりの産物であり、科学は循環する指示の形成により深く関わり、テクノロジーは循環する指示の応用により深く関わる点において実践的に区別されうるにすぎない。世界=アクターネットワークに内在する私たち人間が他の異質なアクターたちと様々に関わり、膨大な媒介項が少数の仲介項に変換されるにつれて、私たち人間が世界を外側から観察/制御しているように見える状況が一時的に生みだされる。だが、外在は内在の効果にすぎない。(p.123)

「社会とは何か」

社会とは、近代的な人間たちの関係性に還元されるものではなく、人間と人間以外の存在者を含む異種混交的な関係性が絶えず新たに生みだされるプロセスである。社会を研究する者もまた、そうした関係性に内在するアクターに他ならない。(中略)「連関の社会学」の最終的な目的は、諸アクターと共に社会=集合体を組み直すことに置かれる。(p.159)

「近代とはなにか」

近代とは私たちが内在する異種混交的なアソシエーションを「自然」と「社会」に還元する純化の実践を表向きは固辞しながら、両者に仕分けされるはずの諸要素を暗黙裡に結びつける翻訳のプロセスを爆発的に拡張してきた機制である。近代を非近代と峻別する根拠とされてきた純化の水面下に膨大な翻訳と媒介の働きがあることを認めれば、額面通りの近代的世界は一度たりとも実現されなかったというノンモダニズムの視座が得られる。(p.219)

「私たちとは何か」

近代人としての私たちは非還元主義による知のデトックスを必要とするものであり、分析するものとしての私たちは噛み合わないまま話し続ける技法を培うべきものであり、生活者としての私たちは「経験的・超越論的二重体」としての人間から離脱して、世界の絶えざる構築に参与することの受動性を引き受ける道筋を探るべきものである。(p.254)

これらはもちろん、著者がラトゥールの思想を取説化する上でまとめたものの一部を抜き出したものに過ぎないので、詳細は本書もしくはラトゥールの著書を読んで頂きたいが、大まかな主旨はこれらの中に含まれているように思う。

ノンモダニズム アクター及びネットワークとして捉えること

ラトゥールはあらゆるものを自然や社会に還元しようとするモダニズムやポストモダニズムを否定し、近代という前提を放棄して世界を捉える「ノンモダニズム」を提唱する。

私たちが普段常識的に考えている近代的な思考形式、OSを否定することがラトゥールの言説を取り扱い注意なものとしているのかもしれないが、これまでこのブログにおいては、近代的な枠組みからいかにして自由になるか、というのが一つの大きなテーマであったため、それほどとっつきにくい印象は受けなかったし、これまで考えてきたことと重ねられる部分も多かった。(それこそが誤解である可能性は多分にある)

人間ならざるものも含めたあらゆるものをアクターとして捉え、その関係性を近代的なフィルターを通さずに見ようとする姿勢はモートンに通ずるし、「前もって完全に理解することも制御することもできない」関係性の動態をこそ扱おうとする姿勢はオートポイエーシスに通ずるように思う。

ノンモダニズムの作法 汎デザイン主義から内在的な汎構築主義へ

これまで、このブログでは、すべてが別様でありうるポストモダニズムの作法として、「すべてはデザインである」という姿勢を肯定してきた。
本書ではこの主張を、外在的な汎構築主義→「汎デザイン主義」と呼び、すべてが構築されたものであり、再構築可能であるとするラトゥールの議論がある意味この発想を基礎づけるという。

しかし、ここでは、デザインするのは世界に外在する主体であるという、近代的な枠組みからは逃れられていない。

では、ラトゥールの議論の先にある、内在的な汎構築主義にはどのような可能性があるだろうか。言い換えると、「すべてはデザインである」というポストモダニズムの作法は、ノンモダニズムにおいてどのような作法にアップデートできるだろうか。

それに対し、これまで考えてきたことを振り返りながら、とっかかりになりそうなこととして、「遊びの文脈」「ハイパーサイクル」「ネットワーク理論」「全体に従ってきたもの」の4つを挙げてみたい。

遊びの文脈
人間という主体を一旦放棄し、関係性の中に身を置くことは、自己の不確実性や受動性が増大していくことになる。
それを「どのように引き受けながら初関係を組み直していけるのか」というのが一つテーマとなる。

それに対しては、熊谷晋一郎が否応なしに生じる予測誤差を「痛み」ではなく「遊び」の文脈に置くことで、環境を制御するのではなく、環境(アクター)との相互作用の中でお互いに変化してく(翻訳)契機としていく姿勢が参考になるだろう。

B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』
二-十一 遊び―出会いの作法

ハイパーサイクル
近代的な「自然」や「社会」への還元を否定した上で、世界を変えようとすれば、自らアクターとなり、関係性の中に入り込むことで、異種混交的なネットワークを組み直すことを目指すことになる。ラトゥールは研究、分析、社会といったものへのアプローチを異種混交的なネットワークの組み直しと捉えるが、自らは無数にあるアクターの中の一つに過ぎず、前記のような不確実性や受動性と向き合わざるをえない。
その時、どのように世界と関わりうるか。

それに対しては、予測も制御もできないとされるオートポイエーシス・システムにおける関係性の扱い方がヒントになるように思う。
河本英夫は臨床の現場での介入の仕方を例に、どのように他のシステムに関与可能か、もしくは創発や再編がどのように起こりうるかを考察している。
ラトゥールのアクターネットワークを、河本の複合的なシステムの作動状態(ハイパーサイクル)として捉えると、世界との関わり方のヒントが見えてくるかもしれない。

子育てをしていると、まったくままならないことばかりであるが、ままならないものを引き受けつつ、どう関わることが可能か、という問いと日々向き合わざるをえない。

実践的な知としてのオートポイエーシス B225『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本 英夫)

以上2つは、建築においては設計に対する姿勢のようなものとして現れると思われる。
設計する場面では無数のアクターとの関係を整えていく必要に迫られるが、還元可能な概念にアクターを押し込めるのではなく、それらを引き受けつつどうやって創発や再編へとつなげていけるか、というのは重要なテーマである。
また、建築を構成する各要素をアクターとして捉えた際に、そこを利用する人(アクター)とどのような関係性を結ぶことになるのか、という視線もまた重要である。

ネットワーク理論
ラトゥールはANTの発想を拡張することで、ネットワークでのアクターの関係の仕方を捉える存在様態論を探究しているようで、非常に興味深いのだが(検索した感じでは)残念ながら『存在様態探究』はまだ邦訳は出ていないようである。

世界をアクターのネットワークと捉えた場合、ネットワークそのものの性質を探究するネットワーク理論にもヒントが含まれているように思われる。
アクターの関係性や立ち位置に注目し、「つなぎかえ」と「近道」、「成長」と「優先的選択」といった操作を意識して配置することで、ある種の空間の質が実現できるのではという気がしている。
それは還元や構成に頼らない、ノンモダニズムな空間の質の探究につながりはしないだろうか。

設計プロセスをネットワークを編み込んでいく連続的な生成過程と捉える B218『ネットワーク科学』(Guido Caldarelli,Michele Catanzaro)

全体に従ってきたもの
ラトゥールは近代的な枠組みからこぼれ落ちてあいまいなままであるものを「プラズマ」と呼ぶが、ANTの捉え方においては、それらも一つのアクターとして捉えられる。つまり、内在的な構築主義の中では取り扱いの対象となりうる。

近代的な建築の考え方では、各要素や部分は、全体の理論に従うものとして取り扱うべきものであった。
しかし、ラトゥールやモートンはそれらを、近代的な色眼鏡を外して、それそのものとして扱うことを推奨する。
それによって、全体に奉仕すべき部分に過ぎなかったものを、一つのアクターとしていわば直接的に扱う道筋が見出される。

増田信吾は、私とのやり取りの中で、「空間自体の直接的創造ではなく、近代で無視されてきた、排除された雑味たちによって、空間の質や意味が激変する可能性がある」と述べてくれた。つまり、精神性の具現化としての空間への信念は、増田にはないと思われる。「空間」への信念を基礎とするモダニズムのもとでは無視されてきた「塀」や「窓」のような客体のほうが放つ、私達が生きているところへの目に見えない力を発見し、それを極力解放することのほうに、新しい建築の可能性があると増田は考えていると私は思う。(『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』p.212)

こうした全体に従ってきたものを開放する視線に、ノンモダニズムの建築の可能性があるかもしれない。
同様に、塚本由晴のものや人間のふるまいに対する捉え方にも、全体に従ってきたものを開放する視線を感じる。
また、自然を人間と自然とを切り分ける近代的な枠組みを外して、フラットに解像度高く捉える視線も同様である。

あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武)
実践状態に戻す-建築における詩の必要性 B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』
生態学的な能動的態度に優れた人々 B190 『アトリエ・ワン コモナリティーズ ふるまいの生産』(アトリエ・ワン)
距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン)
都市の中での解像度を高め余白を設計する B257『都市で進化する生物たち: ❝ダーウィン❞が街にやってくる』(メノ スヒルトハウゼン)

すべてはアクター

さて、「すべてはデザインである」というポストモダニズムの作法は、非還元主義のノンモダニズムにおいては「すべてはアクターである」と置き換えられる。
そこでは、不確実性や受動性を引き受け、アクターとして世界に内在したままサイクルをまわし、アクターに新たな光を与える関係性を探りながら新しい空間の質を追い求める、そんな建築家像がイメージされる。

(「すべてはアクターである」はさすがにそのまま過ぎるが他に思い浮かばない・・・関係性や構築も良さそうだけど分かりにくいし。いいのが思いついたら書き換えます。)




全体性から逃れる自由な関係性を空間的に実現させたい B252『現代思想入門』(千葉 雅也)

千葉 雅也 (著)
講談社 (2022/3/16)

デリダをはじめ哲学者の言説はいたるところで目にしてきたけれども、体系的に学んだことがなく、その都度ぼんやりとしたイメージを頭に浮かべることしかできなかったため、このブログでももう少し体系的に学びたいと度々書いてきた。

そんな中、この本の発売を知って早速読んでみた。

これまでも、いろいろな分野の網羅的に書かれた超入門書を手にしたけれども、その多くは知識の羅列でしかないように感じることが多く、結局身につかないことが多い。
しかし、本書は、著者の考えや実践をほんの少し織り交ぜながら、著者自身が初学者であった頃の体験を活かしたような配慮が随所でなされていて、すっと読めた。
また、著者のツイッターをフォローしていて、この本で書かれていることの実践ともいえるつぶやきを頭に浮かべながら読めたのも良かったと思う。

薄く重ね塗りするように

哲学書を一回通読して理解するのは多くの場合無理なことで、薄く重ね塗りするように、「欠け」がある読みを何度も行って理解を厚くしていきます。プロもそうやって読んできました。(p.215)

私が建築を学び始めた頃は、ちょうどこの本で書かれているような現代思想を引いた難解な文書が多く、建築の文献を開いてもまるで暗号文を読んでいるようで、全く理解できないばかりか、理解できるようになった自分を想像すらできない状態だった。
だけど、分からないままでも、建築の文献や、関連しそうな本をとにかく読んでみて、1行でもいいから自分の感じたことを書き出してみる、というのを繰り返していると、100冊くらい読んだあたりから、なんとなく言いたいことが予想がつくようになってきた、という経験がある。
「薄く重ね塗りするように」というのはまさにそのとおりだと思う。

秩序と逸脱と解像度

おおまかには、デリダ(概念の脱構築)、ドゥルーズ(存在の脱構築)、フーコー(社会の脱構築)を中心に、その先駆けとなった思想と、その後展開された思想が紹介されていて、期待していた思想の流れ・関係性を掴むことができたように思う。

二項対立を崩した秩序と逸脱のシーソーゲーム。その拮抗する状態の中から、人生のリアリティを浮かび上がらせていく。
(特に、著者はフーコー的な統治が進行する現代のクリーン化を求めがちな社会に対し、逃走線を引くような、「古代的な有限性を生きること」を大切にしているように感じた。)

「秩序と逸脱」は建築においても、例えば、

建築構成学は建築の部分と全体の関係性とその属性を体系的に捉え言語化する学問であるが、内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生むと思われる。

内在化は、たとえばある条件との応答によって形が決まったりするように、外にあるものを建築の中に取り込むことだと思うけれども、それだけでは他律的すぎるというか、建築としては少し弱い。
何かが内在化された構成・形式から、あえてどこかで逸脱することによって建築は深みを増すように思う。もちろん、逸脱のみ・無軌道なだけでは建築に深みを与えることは難しい。

何かを内在化し、そこに構成を見出し、そこから逸脱する。この逸脱が何かの内在化によってなされたとすると、さらに、そこに構成を見出し、そこから逸脱する。すると、そこには複数の何かを内在化したレイヤーが重なり、そこにずれも生じることになる。
この内在化・観察/分析・逸脱のサイクルを繰り返せば繰り返すほど、建築の深みが増す可能性が高まる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 建築構成学は内在化と逸脱によってはじめて実践的価値を生む B214『建築構成学 建築デザインの方法』(坂本 一成 他))

というように、リアリティを浮かび上がらせるための重要なテーマである。
個人的にも秩序と逸脱の拮抗した状態を現代的な感性のなかでどう実現するかを考えたいと思っている。それは本書の文脈でいうと、ドゥルーズの逃走線、求心的な全体性から逃れる自由な関係性と、ある種のクリエィティビティのようなものを空間的に実現させたいということなのかもしれない。(それが実現できているかどうかはさておき)

また、さまざな要因が絡み合っていると思うけれども、建築が扱う差異は、ますます繊細なものになってきているし、ものごとをより高い解像度で捉えることが必要になってきているように思う。

今後の目標

現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになるでしょう。(p.12)

今後の目標としては、まずは、この本で紹介されている入門書を中心にいくつか読んで、より解像度の高いイメージを掴みたい。

『ドゥルーズ 解けない問いを生きる(檜垣 立哉)』『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学(千葉 雅也)』は読んだことがあったので再読してみるとして、

『デリダ 脱構築と正義 (高橋哲哉)』
『ミシェル・フーコー: 自己から脱け出すための哲学 (慎改康之)』
『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-(松本卓也)』

と、前から関心のあった、

『マルクス 資本論 シリーズ世界の思想 (佐々木隆治)』
『四方対象: オブジェクト指向存在論入門(グレアム ハーマン)』
『ブルーノ・ラトゥールの取説 (久保明教)』
『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて(ティモシー・モートン)』

あたりを読んで、今年中にブログに書くところまでやってみたい。

また、これまで、関心をもってきたアフォーダンスやオートポイエーシスは、哲学ではないかもしれないけれども、秩序づいた状態を扱うのではない、関係性を中心としたはたらきの思想、beではなくdoの思想だと思っているので、ドゥルーズ的な変化や、古代的な有限性を生きることと重なる部分も多いように思う。その辺の解像度ももう少し高められればと思う。
『知覚経験の生態学: 哲学へのエコロジカル・アプローチ(染谷 昌義)』は生態学を哲学の中に位置づけ直すような意欲的な本だと思うけれども、開いてみるとガッツリとした哲学書っぽく、読める自信がなかった。これが読める見通しがつけばと思っている。)

さらに、本書と一緒に買った『現代建築宣言文集[1960-2020]』も「現代思想のつくり方」的な構図で読めれば、より解像度高く、かつ、その先を見据えた読み方ができるかもしれない。

そして、願わくば、学生時代に買って全く歯がたたなかった『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて(東浩紀)』を面白く読めるようになりたい。

今年は、省エネ等含めた環境的な部分の学びを進めていくとともに、この辺りの地力をじっくり上げていきたい。




メガネと広告とわたし B191『広告の誕生―近代メディア文化の歴史社会学』(北田 暁大)

北田 暁大 (著)
岩波書店 (2000/3/6)

この本は2000年出版でだいぶ前のものだけど、たこ大の課題図書だったため興味を持ち購入したもの。
気がつけば読書記録も2年近くストップしていた。読みっぱなしで身につかないままの本も溜まってきたので、これを機会になんとか時間をみて再開してみようと思う。

メガネと広告とわたし

通勤・通学というきわめつきに凡庸で退屈な場面においてどうしてもわれわれが感じてしまうあの、<いま、ここ、わたしだけ>という感覚、共在する他の人間の姿は見ることができるのに、他者=隣人の存在を信じることができなくなってしまうようなあの経験。住居のような「私的」空間においてではなく、逆説的にも、非私的であるはずの都市空間に踏み出すことにおいて現前する、純化された「私性」
・・・(中略)・・・
広告という存在が、われわれの生活世界の中へと静かに滑り込んでくるのは、まさしくこうした空虚で所在なげな日常の位置場面においてであろう。いわば広告は、「通勤する」「読書する」といった目的意識が弛緩するふとした瞬間に<わたし>の一瞥を捉えるべく、虎視眈々と息をひそめて日常世界の襞に待機しているのだ。(p.2)

2000年問題というワードが記憶に残っているからこの本が出版された頃だと思うけど、建築を学ぶために上京していた時のことが思い出された。

その時は、売れない芸人のような極貧生活をしていたため電車代が出せず、借りていたアパートのある千歳船橋から六本木の事務所まで、片道1時間ほどの自転車通勤をしていた

東京の街中を通過するため、目には多くの人々とともに様々な広告群が飛び込んでくる。
最初は建築を学ぶ身分なので街を体感するいい機会くらいに思っていたのだが、4日目頃には何かに耐えきれなくなって、それからは通勤時はメガネを外して自転車に乗るようになった

上京は一時的なものと考えていたので知り合いはほとんどいないし、極貧生活を送っていたため広告の類もほとんど自分には縁のないものばかり。そんな状況だったので、この感覚はよく分かる。

この頃は孤独をあえて受け入れようと思っていたのだけども、今思えば広告によって<わたし>がより純化されたかたちで目覚めさせられることが怖かったのだと思う。
孤独であろうと思って上京していながら、孤独というものを受け入れ・向き合うことができなかったのだ。
そして、わたしは広告すなわち<わたし>を拒絶し、メガネを外した

広告コードと身体性、<香具師的なるもの>と<気散じ>

さて、この本は副題にあるように近代メディアとしての広告と受け手との関係を歴史を追いながら社会学的に捉えようとしいている。

その際に用いられているのが、
<広告である/ない>というバイナリーコードの作用をめぐる問題系と意味作用{コト的次元の系譜学} と 受け手の身体性と広告の関係{モノ的次元の系譜学} の二つの視点による系譜学的方法。
・広告が持つ<香具師的なるもの>と<気散じ>の身体性というキーワード
である。

広告コードが未分化の時代から、広告コードを獲得し、やがて、散逸そして融解していく様、それに合わせて受け手の身体性、広告との関係性も変化し、<気散じ>という身体技法を獲得していく様、また並行して広告が背負い込んだ<香具師的なるもの>の変遷、が社会情勢や印刷技術などのコンテクストとともに描かれる。

私たちが生きていく社会は、その社会に融解しながらふいに<わたし>を目覚めさせる<香具師的なるもの>として存在し、眠ることも目覚めることも許さないような広告とともにある社会である。とするならば、そんな社会に生きる我々にはどんなあり方が可能なのだろうか
そんな疑問が頭に浮かぶ。

しかし、著者は終章で

表象の制度としてはあまりに脆弱で、それゆえにいかなる文化表象にもまして、近代に生きる主体の両義性を赤裸々に物語ってしまう広告の潜勢力をまずは見極めること、その歴史性を対象化してみること、そして自らも生きる現代という近代の複雑な様相を矮小化することなくそのものとして捉えること。こうした視座に徹することにより、広告を善悪の彼岸にある実定的な契機として眺めてきた。それはそう、ちょうど、楕円を円の逸脱体としてまなざす思考からの、ロジカルな、そしてシニカルな脱却を意味するだろう。
広告という不定形の装置は、楕円としてたえまなく多様な方向性をもって運動する近代という時空間に生きる、どうにも落ち着きのない<気散じ>する身体を可能にする一つの契機であった。(p198)

と述べた。
広告はその時代の結果であると同時に、時代と並走し、われわれと並走する契機だったのだ。

自分の言葉に引き寄せて言うならば、目的合理的な行為ではなく、行為合理的な行為としての<気散じ>という身体性を獲得した遊歩者は、生態学的な「出会いの作法」とでも呼べる態度に近づいた存在であり、広告はその契機としてもあった。となるだろうか。(その際は<気散じ>は、生態学的な探索行為の一形態として捉えなおしてみてもいいかもしれない。)

私が拒絶した広告のある風景は、そのころから追い求めていた「ポストモダンの世界を生き抜く作法」への扉をあける鍵の一つだったのかもしれない

だとすれば、その扉の先にあるはずの建築へと続く、何らかのヒントが含まれていたはずだ。

できることならあの頃の自分に会いに行き、外したメガネを再びかけなおしてあげたい。




B168 『定本 柄谷行人集〈2〉隠喩としての建築』

柄谷 行人 (著)
岩波書店 (2004/1/28)

鹿児島大学の井原先生より全3回の読書会にお誘い頂いたので参加してきました。(2回目は日程を勘違いして不参加という失態を犯してしまいましたが・・・)

学生の頃に磯崎さん周辺の本を読んでからこの手の本には苦手意識があって、あまりまともに読んでこなかったのですが、なおさらこれはいい機会だと思い、今の自分の問題意識の先につながればいいなと読んでみました。

読書会での議論をまとめようとすると収集がつかなくなりそうなので、読書会前にメモしたことを多少読書会での議論を加味しながら書いておこうと思います。
いつものごとく個人的なフローの記録という位置づけですのでお暇な方はどうぞ、という感じで。

「制作」「生成」「世俗的な建築(教えることと売ること)」

私が本書でやろうとしたことは、ディコンストラクションをコンストラクションから、すなわち建築から考えてみる事だといえる。(p.3)

本書には「制作」「生成」「世俗的な建築(教えることと売ること)」という大きく3つの流れがあり、「制作」「生成」と「世俗的な建築(教えることと売ること)」の間にはダイナミックな「転回」があるような構成なのですが、まずは、特に序文を参考にモダニズム以降の建築の流れをこの3つの流れに大まかにプロットして見ることからとっかかりを探すことにしました。
プロット自体はかなり大雑把で強引なものであり、個人的な解釈や印象に基づくものです。メモにすぎないのですが、おかしな点はご指摘頂けると嬉しいです。
プロットの先に探したいのは著者の「転回」の先にあるであろう今の建築に対するヒントです。
また、定義が曖昧なまま書いてますが、「主体」とは何かということもテーマとして重なるように思いました。

「制作」

モダニズム・機能主義や、例えば幾何学の応用等がこれにあたるかも知れません。

建築家がある思想のもと全てをコントロールし「建築」を制作できるという信頼がベース。
個人的には建築単体としては豊かで魅力的なものが多い気がする。
その魅力・豊かさの源泉は「主体」としての建築家の豊かさが建築に織り込まれていて、建築そのものが「主体」と成り得てることではないだろうか。ただ、都市のスケールでの「制作」になると一転して退屈で息苦しいものに感じる。
また、「主体」としての個人の建築家を離れ、機能主義のみが独り歩きした建物は、どちらかというと、主体不在で「生成」された、ポストモダン的なものになっているように思う。(そしてそれにはあまり魅力を感じない)

「生成」

狭義のスタイルとしてのポストモダニズム・ディコン等は機能主義の「外部」に出ようとしたが、結果として、その操作を行う「主体」としての建築家の「外部」に出られず、どちらかと言えば「制作」の範囲にとどまっている、という印象。

コンピューターの発達により非線形的な方法を導入して、「別様であり得る」可能性の中からあえて一つを選んだ、というような方法は「主体」が曖昧にされつつ、建築としての質を建築家が担保するという点で「生成」的でありながら「制作」的でもあり、現実的にはバランスがよさそうに感じる。

純粋な「生成」というのは難しそうだけれども、建築家不在の建築がそれにあたるのか?
「生成」に主体の不在を求めると、なんとなく貧しいイメージしか浮かばない気がする。(実際には生成=主体の不在というのは正確ではないと思いますが上手くつかめてません)

「世俗的批評」

これは「世俗的な建築」と言って良いかも知れないけれども、超線形設計プロセスや超並列設計プロセスは「世俗的な他者」をコミュニケーションに組み込みつつ社会性の中に豊かさを織り込んでいくという点で「世俗的な建築」の可能性を示すもののように思う。

「制作」から「生成」へと移るさいに「主体」が忘れられ、その先でまた、別の形での「主体」のあり方が求められている。と言うような印象。

転回の先に何を求めたのか

この本を読むにあたって一番知りたかったのは、著者はなぜ「外部」を求めたのか?「転回」の先に何を求めたのか?ということだったのですが、強引にプロットしてみてなんとなく自分の問題に引き寄せられたような気がします。

「制作」での「外部」への欲求は建築と言うより都市のスケールでの不自由さ・貧しさ・息苦しさから。
「生成」での「外部」への欲求は主体の不在による不気味さ・貧しさから。
とすると、「転回」の先に求めるのは都市における建築と主体の新たなあり方のようなものかもしれない、と思いました。

読書会でも「ポストモダンの社会でいかにして、あえて主体たりうるか」と言ったことが話題に登ったのですが、建築や都市の語を例えば個人や社会といった言葉に読み替えることもできそうです。(適切な言葉を当てはめれば著者の欲求にも当て嵌まりそうな気が。)

第3部「教えることと売ること」で出てきて気になった「教える-学ぶ」「社会的/共同体的」「固有名」「社会性」については合わせて読んだ「ウィトゲンシュタインの建築」の所で書きます。つづく。

—-うーん、まだまとめるほど頭が整理できてないのでほんとのメモ書きみたいになってしまいました。期間を開けて何周か読んでみないと・・・。




B163 『ど田舎のたこ焼き屋とtwitter』『ツイッター×たこ焼き社会論』

著者: otakohan
電子書籍パブー (2010/9)

著者: rectus
電子書籍パブー (2010/9)

このブログとリノベ研のどっちに書こうか迷ったのですが、今の段階では個人的な部分が大きいのでこっちに書きます。
うまく展開できればリノベ研にも書きたいですが。

たこ藩現象の中心にいるotakohanとそれを間近に見ているrectusによる2冊の電子書籍。

市内組としては多分たこ阪を早く発見して長く観察している方だと思うので、これは是非読んで感想を書かねば、ということで読んでみました。(変な生物みたいに書いてすんませんw)

『ど田舎のたこ焼き屋とtwitter』

otakohanの書籍は本人が「感想を書きにくくした」とこっそり?言っていたように確かにぱっと読んだだけでは少し掴みにくいかもしれません。
(おそらく意識的に)当事者もしくは店主としての視点を徹底し、客観的な解説のようなものを省いて書かれているので、そういう解説書・ノウハウ本のようなものを期待していた方はもしかしたら肩透かしをくらったような感じがするかも知れません。

だけど、僕が全部をつかめている自信はないですが、その主観的な視点の文章の中に肝になるような事が散りばめられていています。

たぶんotakohanならもっと丁寧に解説できたはずですが、「こっから先は自分に置き換えて自分で考えなはれ」という感じにわざと大きく余白をとっているように感じました。
たぶんそうやってじっくり噛みながらじっくりメッセージを読み取っていく、そして自分なりに答えを出していく、そんなビーフジャーキーのような本だと思います。

僕もじっくり噛んでみます。

『ツイッター×たこ焼き社会論』

一方rectus氏の書籍は、そのたこ藩現象を現代社会の特徴を絡めて丁寧に解説した本です。
rectus氏はリノベ研にも興味深い記事を上げてくださいましたが、その内容がさらに分かりやすく整理されています。

あらたに出された、「分人ポートフォリオ」「カーニバル支出」等々の言葉は示唆に富みますし、内容については、まー読んでみてください。面白いです。

ポストモダンを生きるモデル

ここで僕の興味に惹きつけてみると、twiiterの利用やたこ藩現象を通じて、またこれらの書籍を読んで感じたのは、このブログでも何度も書いているポストモダンを生きるモデルが少しずつ実現しつつあるということです。

少しツイートを抜き出してみると

onokennote: 早速購入。感想を書くのに僕個人の(悩ましい)関心に引き寄せるならカーニバルからポストモダンを生きるスタンスかな。 RT @rectuswarky: も一度だけ宣伝。おたこはんに続き電子書籍出版なう。たこ焼き無料のおまけ付き。 https://bit.ly/bxdFzu [09/16 22:34[org]]


onokennote: 『カーニバル化する社会』の時の感想では「個人の内面における「感性」の水準が前面化」することに可能性を感じてたけど、たこ藩現象を目の当たりにして今ならどう感じるか。 [09/16 22:36[org]]


onokennote: 「これでいいのだ!」と言いやすくなったのは確か。 [09/16 22:36[org]]


otakohan: @onokennote それの延長+それぞれの繋がりとでも言うか… [09/16 22:42[org]]


onokennote: あの本手元にないですが、たぶん繋がりの視点はあまりなかったですよね。繋がりの質とか意味とか考えだすと深みにはまるけど知りたい。 RT @otakohan: @onokennote それの延長+それぞれの繋がりとでも言うか… [09/16 22:53[org]]


otakohan: 一言で言うと非連続、かと。 RT @onokennote: あの本手元にないですが、たぶん繋がりの視点はあまりなかったですよね。繋がりの質とか意味とか考えだすと深みにはまるけど知りたい。 RT @otakohan: @onokennote それの延長+それぞれの繋がりとでも言うか… [09/16 23:05[org]]


onokennote: あーーーー。非依存ではちょっと違うかと思ってたので、なるほど。 RT @otakohan: 一言で言うと非連続、かと。 RT @onokennote: あの本手元にないですが、たぶん繋がりの視点はあまりなかったですよね。繋がりの質とか意味とか考えだすと深みにはまるけど知りたい。 [09/16 23:09[org]]


onokennote: いや、さっきの一瞬で帰ってきた一言、けっこうすごい。 [09/16 23:16[org]]


otakohan: なので、個人のモデルも変化してる気がしますがよ wRT @onokennote: (cont) https://tl.gd/62l708 [09/16 23:22[org]]


otakohan: 現代を生き抜くのに一番必要なスキルは、自分の中に沢山の矛盾を抱え込むことなんだけど、真面目な人にはそれがわからんのです。 [09/17 19:24[org]]


カーニバルについては
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B128 『カーニヴァル化する社会』

僕の理解では、このモデルは”今までは社会の慣習や宗教、常識などによってある程度枠組みがあったものが、ポストモダンの社会では全てが個人の選択にゆだねられるようになる。そこには依拠すべき理念や物語は存在しない。だけども、人間はそんなに孤独で際限のない自由の負荷に耐えられるほど強くはない。そこで、これまでの慣習などに代わってデータベースがさまざまな選択のためのネタを提供してくれる。”というもの。

というような理解だったのだけど、それで本当に”孤独で際限のない自由の負荷”に耐えられるかというと、ちょっと難しい感じがしてました。

だけど、otakohanの言う「非連続な繋がり」「自分の中に沢山の矛盾を抱え込むこと」のようなことの可能性のようなものがここへ来てなんとなく体感できるているような気がしています。

まさに

onokennote: 「これでいいのだ!」と言いやすくなったのは確か。 [09/16 22:36[org]]


です。

ただ、カーニバルをよしとする不安から自由になるには
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B064 『脱アイデンティティ』

ここから抜け出すために、またこのような社会で生きるために必要なものは「欲求をもつための体力」のようなもの、言い換えると「野性」のようなものかもしれないな、と少し思った。

みたいな体力(otakohanの言葉だと「日々足腰を鍛えておくこと」?)が必要なのかもしれません。

建築と分人

rectus氏の分人に対する論を読んでいると、最近多い建築の分散・分棟プランへの欲求に重なる気がしました。
一つの建築(個性)としてのアイデンティティを重視するのではなく、例えば個々の振る舞い(分人)の関係性を豊かにすると考えれば、両者に時代の空気として重なるところがあるのかもしれません。

「振る舞い(分人)ポートフォリオ」のバランスをプロデュースするというのも、ある振る舞いを少し過剰にしてみたり、新しい振る舞いの重なりを発見する面白さ、みたいなのに通じそうです。

ついでにいうと、分人ポートフォリオのうち、僕は明らかに建築分人が過大ですね。いいか悪いかはよく分からないけど。

本当は事務所開設当初の時間があるときに、自分の分人ポートフォリオのバランスをいろいろいじってテストしてみようかと思っていたのですが、しばらくは”建築分人”ばかり一層ひいきすることになりそうです。

まー、今のところ自分の分人バランスに不満があるわけではないのでいいんじゃないでしょうか。

さて、これをリノベ研的に展開できるだろいうか。rectus氏が言い切った感があるから難しいな。




ポストモダンと笑いと建築に関するメモ

某氏のtwitterで

ポストモダンをどう捉えるか。渦中にいる頃は判らなかったけど、今から振り返れば、あの時代の建築や建築家って、すごく「物語」を信じてた。物語は終わったとか、すべてを参照・操作のネタにするとか言ってたけど、すごく元ネタへの思い入れや理解が、深いというか湿っぽい。

だからポストモダンにおけるマニエラは、「動物化」とは違う気がする。逆説的に、建築における「物語」が生きていた最後の時代って言えるんじゃないかな。本当に乾いた、すべてを記号としてフラットに操作対象とするような、「動物化」した設計態度は、ユニット派以降のものな気がする。

という発言を読んだ後の帰りのバイクでなんとなく考えたことをメモ。

僕のイメージするところのポストモダンと建築様式としてのポストモダンはあんまり一致しない、というか全く別物のように思っていたので、これを読んでかなり納得。

といっても、僕が哲学におけるポストモダンを正確に把握しているかと言うとそうでもなくて、”僕のイメージするところのポストモダン”というのはだいぶ昔に読んだ『意味に餓える社会』(ノルベルト ボルツ 1998/12)によるところが大きくて、ニュアンス程度でドゥルーズをイメージしている程度。

この、『意味に餓える社会』は途中ツッコミをいれまくるだけなので、最初と最後を読めばあらかた内容は分かります。

そんな事を考えてたら、ツッコミといえばお笑いってのはかなり(僕のイメージするところの)ポストモダンだよなと思いました。
意味なんて言ってたら笑ってられないし、そういう意味を剥奪していくことがむしろ笑いの前提となる。そして一般的な前提をひっくり返して勝手にでっち上げることも日常茶飯事。「全てが別様でありうる世界」、それがお笑いなのです。(と偉そうに書いてますがお笑い論はよく知りません)

実は「動物化」というのも動物化するポストモダンの文脈から離れて使われる時に、どういう意味で使われるのか良く分かっていない。
僕の期待する”ポストモダン”の先の可能性は、この「動物化」に感じるあきらめに似た何かとはたぶん別のものです。

先の話に戻って、お笑いもただ前提や意味を消して「動物的」になれば笑いが起こるかといえばそうではないと思います。
前提や意味を一旦消した上で、なおかつ一定の”強度”を獲得できた場合だけが笑いを取れるのだと思うのです。

先のM-1で優勝したパンクブーブーと笑い飯を取り上げてネット上でもいろいろ議論がありましたが(僕は笑い飯が好きだけどパンクブーブーの優勝は納得派)、両者とも相当な”強度”を生み出せることは間違いありませんし、笑い飯の持つ”強度”は相当なものだと思います。

再度建築に戻ってこれに重ねて考えてみると、ただ「動物化」しただけではおそらく建築には成り得ない。
そのうえで、尚且つ”強度”を獲得できた場合のみが建築と成り得るのだと思うのです。

なるほど建築とは笑いをとることか。

そういう意味では”かわいい建築”、”弱い建築”、”負ける建築”も強度を獲得する(笑いをとる)ための手段でしかないと僕は思う。(なので概念としては弱くても、というか弱ければ弱いほど強くなるはず。アンガールズとかか?)

僕の今のポジションとしては、笑い飯に憧れつつも、そこに行き着くには一皮も二皮も脱がなきゃ行けない、お笑い志願者、と言ったところでしょうか。いずれパンクブーブーになることは想像できても、笑い飯になれるかは未知。どうにか一枚ずつ脱いでいくしかないな。

---多少焼酎が入っている中勢いで書いたので後で修正するかも。---




B156 『思想地図〈vol.3〉特集・アーキテクチャ』

東 浩紀 (編集), 北田 暁大 (編集)
日本放送出版協会 (2009/05)

興味を持った経緯

藤村龍至氏による「批判的工学主義」「超線形設計プロセス論」をまとめた論が載っているというので今後の建築の議論の前提として読んでおいた方が良いのかな、と思っていたところにtwiiterで

ryuji_fujimura: 超線形設計プロセス論って、レムコールハースと伊東豊雄と坂本一成とSANAAとMVRDVから学んだ方法論。条件を読み込んで、スキームを揉んで行くうちにどんどん育って行く感じ。同世代では石上さんと長谷川の設計手法が似ていると感じる。/動物化せよ!!というアジテーションに乗っかれないニンゲン=学生が印象論的に嫌悪感を抱いているという印象。設計うまい奴ほど動物なのにね。 RT @saitama_ya もしかして超線形プロセスって設計行為を動物的な方向に持っていくものとして、学生に見られがちなのかしらん。。。


というのを発見。
実は結構自分の興味と重なるのではという気がしてきました。

onokennote: 学生のころ(10年ほど前)妹島さんにポストモダンを突き抜けた先の自由のようなものを感じたんだけど、藤村さんの理論はそれを方法論として突き詰めた、ということなのだろうか。だとすれば大いに興味がある。早く思想地図3号をゲットして東さんの動物化との関連を知りたい。 [12/02 09:21]


オノケンノート ≫ B008『妹島和世読本-1998』

今考えると、妹島の持つ自由さという印象は、モダニズムのさまざまな縛りから自由に羽ばたき、ポストモダンの生き方(建築のあり方)を鮮やかに示しているように見えたため、多くの若者の心をつかんだのだろう。 もちろん、妹島の建築は意匠的な狭義のポストモダニズムなどではないが、その思想の自由さには、やはりポストモダンを生きるヒントが隠されているように思う。

妹島さんにポストモダンを感じて以降、ポストモダンを生きる作法、意味を突き抜けた先にある自由のようなものに対する感心はずっと持っていて東 浩紀の動物化にも結構影響を受けたので、自分の興味とうまく繋がるんじゃないかという気がして早速図書館で借りてきて読んでみました。

まずは先に読んだ序章と藤村氏の部分について考えたことを書いておきます。
(twitter経由で本人が見られる可能性もあり多少尻込みしますが、不勉強な現時点での考えということで)

アーキテクチャの問題

まずはじめに前提となるアーキテクチャの問題について序章と冒頭及び共同討議の導入部を引用しておきます。

「アーキテクチャ」には、建築、社会設計、そしてコンピューター・システムの三つの意味がある。

この言葉は近年、批評的な言説の焦点として急速に前景化している。わたしたちは、イデオロギーにではなく、アーキテクチャに支配された世界に生きている。したがって、必要なのは、イデオロギー批判ではなくアーキテクチャ批判である。だとすれば、わたしたちはアーキテクチャの権力にどのような態度を取るべきなのか。よりよきアーキテクチャなるものがあるとすれば、その「よさ」の基準はなんなのか。そもそも社会を設計するとはなにを意味しているのか。イデオロギーが失効し、批評の足場が揺らいでいるいま、それらの問いはあらゆる書き手/作り手に喫緊のものとして突きつけられている。(東浩紀)

しかしいまや、権力の担い手というのは、ネットにしても、あるいは「グローバリズム」や「ネオリベラリズム」という言葉でもいいんですが、もはや人格を備えたものとしてイメージできない、不可視の存在に変わりつつある。(中略)しかし、その原因である世界同時不況がどうやって作られたのかというと、複雑かつぼんやりした話になってしまい、誰が悪いとは簡単には指差せない。(東浩紀)

僕がブログに感想を書いた本でいうと
オノケンノート ≫ B065 『ポストモダンの思想的根拠-9・11と管理社会』

自由を求める社会が逆に管理社会を要請する。 管理と言っても、大きな権力が大衆をコントロールするような「統制管理社会」ではなくもっと巧妙な「自由管理社会」と呼ばれるものだそう。

というのが近いかもしれません。

コントロールする主体がつかめず訳がわからないまま何かに支配されている、そういう感覚が広がる中そういう問題にどうやったらアプローチできるのか、という事だと思います。

地方における問題

onokennote: 工学主義をどう乗り越えるかは、ここ鹿児島でもというより地方でこそ本質的で重大な問題。鹿児島で感じるもやもやを明確に示して貰った感じがする。 [18:08]


工学主義の定義は後で紹介するとして、例えば、街並みがハウスメーカーの住宅やコンビニ、大型商業施設といったどこに行っても同じようなもので急速に埋め尽くされつつある、と感じたことは特に地方都市で生活する方なら誰でもあるんじゃないでしょうか。

個々にとっては例えば地元の顔のみえる商店街も大切だと思ったり、潤いのある街並みのほうが好きだという気持ちがあっても、なぜか先に書いたような画一化の波は突き進んで行くばかりで止められないし、どうすればよいか分からない。

東京などの大都市においては規模があるのである程度の多様性は担保されるように思いますが、地方においては、その人口・経済規模の小ささ、情報伝播量の少なさから画一的な手法に頼りがちでこういった状況がより加速しやすい。と、鹿児島に帰ってきたとき最初に感じました。

皆があるイメージを共有し自らの判断の積み重ねでこの問題をクリアしていくのが理想だと思いますが、実際にはこのアーキテクチャの権力は強力でなかなかそれを許してくれないように思いますし、アーキテクチャの問題は地方でこそより切実だと感じます。

批判的工学主義

onokennote: 思想地図の藤村氏の論を読む。工業化→批判的機能主義(コルビュジェ) 情報化→批判的工学主義 の比較は非常に明確で食わず嫌いでいる必要は全くない [12/02 18:05]


こういう問題に対して藤村氏の提唱する「批判的工学主義」は思考の枠組みを与えてくれます。

本著を読むまではヒハンテキコウガクシュギと聞いて既存の単語のイメージを当てはめても何のことかよくわかりませんでした。
しかし、読んでみれば難しい話でなく、おそらく機能主義とコルビュジェの成果を知っている人であれば誰でも理解できるものでした。

工学主義の定義の部分を引用すると

東浩紀は、社会的インフラの整備による技術依存が進む私たちの社会環境の変化を「工学科」と呼び、整備された環境のもとで演出された多様性と戯れる消費者像の変化を「動物化」と読んでいる。(中略)ふたつの変化が同時進行する状況をひとまず「工学主義」と名付け、「建築形態との関係から、以下のように定義したい。

1.建築の形態はデータベース(法規、消費者の好み、コスト、技術条件)に従う
2.人々のふるまいは建築の形態によって即物的にコントロールされる
3.ゆえに、建築はデータベースと人々のふるまいの間に位置づけられる

まだよくわからないかもしれません。本著に載っている下の表がわかりやすいです。

[社会の変化と建築家の動き]
table1

「工業化」による機能主義に対してコルビュジェらは単に肯定するのでも抵抗するのでもなく、『「機能主義」を新しい社会の原理として受け入れ、分析的、戦略的に再構成し、20世紀の新しい建築運動として提示』しました。その後コルビュジェらの建築は世界中に伝播し風景をガラリと変えました。(その広がりの裾野に行くに従い「批判的」の部分は徐々に失われてただの機能主義になっていったように思いますが)

「工業化」に対し「情報化」を当てはめ同じように考えた場合、”単に肯定するのでも抵抗するのでもなく、『「工学主義」を新しい社会の原理として受け入れ、分析的、戦略的に再構成し、21世紀の新しい建築運動として提示』”する第3の道の立場がありうることは誰にでも理解できると思います。

超線形設計プロセス論は風景を変えうるか

その第3の道の立場を実践するための方法論として藤村氏は「超線形設計プロセス論」を提唱しています。

詳細は本著を読んでいただくとして、この方法論の特徴の一つとして著者は「スピードと複雑さの両立」をあげていますが、これらによって例えば今の風景を変えることは可能でしょうか。

これに対してはよくわからなかったというか、あまたある設計手法の一つであって他の手法とそれほど大きな違いはないんじゃないか。というように感じていました。

だけど、今日、なんとなくどこの誰が設計しかも分からないような変哲もないマンションの前にたって、これが超線形設計プロセスで設計されたものだったらと想像してみると、何か可能性のような物が見えた気がしました。
誰もがこの風景を少し変える方法論を身につけたとしたら、少し変わるのかな。と

onokennote: 何でもない羊羹形のマンションの前に立ち、これが超線形設計プロセスで設計されたものだったらと想像してみた。確かに街の風景を変えうる可能性がある。風景を変えるには、誰でも(例えば地方の組織系ともアトリエ系とも言えない設計事務所でも)使える汎用性のあるツールでなければならないと思う。そのためには組織系、アトリエ系それぞれに対応するパラメータの抽出と、それらを統合するノウハウの集積が必要。(前者は実現可能性を高め、後者は伝播力を高める。どうせなら、WEB上でノウハウと事例を集積・公開し、集合知を形成するようなシステムと教育システムの構築までいって欲しい。そこまでいって初めて風景を変える力を持ちうるのだと思う。超線形設計プロセス理論に反感を覚える人は、これがアトリエ系とはまったく別のアプローチで汎用性を目指し長期的視点を持ったものであることを理解すべき。


誤解が含まれているかもしれませんが、重要だと感じたのは

・誰でも利用できること。
・組織型・アトリエ系それぞれの長所を結びつける手法であること。

だと思いました。
(アレグザンダーとの決定的な違いは何かということについてはまだ理解が足りない)

最初は「スピードと複雑さの両立」だけで何が変わるのか、と思いましたが、それらはパラメータの一組に過ぎず重要なのは、組織型・アトリエ系の再統合にあるのだと思いました。(例えば前者は実現可能性を高め、後者は伝播力を高める)

特に前例のコルビュジェは伝播力という点では天才だったと思いますし、彼は機能主義を「乗り越えた」というよりは自分のやりたい事のために「利用(戦略的に再構成)した」のだと思います。

藤村氏もメディアの利用や啓蒙するスタイルはコルビュジェに似ていると思いますが、コンテンツにおくウェィトは少し違いがあるように思います。学生たちの反応をみると、初期導入の部分ではコンテンツのウェイトを増した方がうけが良いようにも思いますが、そこは汎用性のあるプロセスを鍛えるためにあえて抑えているのかもしれません。
(こんな発言も)

ryuji_fujimura: と、強気な主張をしつつも、オリジナルのスタイルを確立してファンとだけ仕事をするサッカがうらやましく思えたりもする。「厨房には立ち入らないで下さい」とか言ってみたい。よほど自信が無いと言えないからそれが言えるだけでもすごいとは思う。


超線形設計プロセス論は風景を変えうるか、ということについてはまだ分かりませんが可能性のひとつのとしてはあるように思います。

批判的工学主義の立場を取る際の方法論は他にもあるかもしれませんし、アーキテクチャへのアプローチは今後意識するようにしようと思います。

ポストモダンを生き抜く作法となりうるか

僕の個人的な興味である、建築が”ポストモダンを生き抜く作法”を体現できるか、という意味での「動物化」との関連はよくわからなかったのですが、もしこのプロセスの応用によって、意味に頼らずとも魅力的なものができるのであれば可能性はあるのかもしれません。

最初の引用を繰り返すと

ryuji_fujimura: 超線形設計プロセス論って、レムコールハースと伊東豊雄と坂本一成とSANAAとMVRDVから学んだ方法論。条件を読み込んで、スキームを揉んで行くうちにどんどん育って行く感じ。同世代では石上さんと長谷川の設計手法が似ていると感じる。 [02:06]


ここに挙げられている方たちの建築は共通して”ポストモダンを生き抜く作法”を体現しているように見えます。

僕自身はそれに対して方法論を持ち合わせていないので、もう少し方法論に対して意識的である必要があるかもしれません。




ポストモダンなのかな。

友人の幻エントリーで思いついたのでメモ。

最近の若手の動向についてちょっと考えてみたのですが、純粋に個別の欲求に向かったり、”あり方”のようなものに向かっている感じがするのはある意味ポストモダンなのかなという気がします。(もちろん狭義のスタイルとしてではなく)


僕がポストモダンを理解しているとは言いがたいですが、自分なりのポストモダンのイメージは、こだわらない、というより囚われない、もしくは別様でありうる事を前提とした上で囚われてみる、ということなのかなという気がします。

彼らはモダニズムをしてみる対象として捉えているんじゃないだろうかと。

まだ、あまり言葉に出来ませんが、あっポストモダンなのかな、と思えばちょっとしっくりきました。
妹島和世あたりからの流れなのかな。とか思ったら、前にも似たようなこと書いてたな。




『ウィンドウ・ショッピング』の世界展 ギャラリートーク


RAIRAIで『ウィンドウ・ショッピング』の世界展のギャラリートークがあったので行って来ました。

鹿児島大学准教授の井原慶一郎さんとイラストレーターの大寺聡さんのコラボレーション。
展開がまったく予測できなかっただけに楽しみにしていた展覧会です。

ギャラリートークでは展示されている作品の背景などを順に説明して下さって興味深い話を沢山聞くことが出来ました。

この展覧会のもとになった『ウィンドウ・ショッピング―映画とポストモダン』は特定のメッセージを声高に主張するようなタイプの本ではなさそうです。研究の一成果の中からどういうメッセージをうけとるのかは個々が何を感じ考えるのかによるのかもしれません。(まだパラパラとしか読んでいないので誤解しているかもしれませんが)

そういう意味では特定のメッセージと言うよりはこの本をきっかけとした大寺さんの世界観が展示されているのだと思います。そこにコラボレーションの面白さがあると思うのですが、その世界に羨望の視線を送りながらも、職業柄かこの本で提示されている視点を僕の中でどう位置づけたらいいのかということに興味が向きます。

管理された視線?

ギャラリートークを聞きながら印象として浮かんだのが「移動性をもった仮想の視線」というものも管理された視線でしかないのではということ。
大寺さんのsale@departmentという作品の中、エスカレーターに乗っている人たちは主体性を剥ぎ取られた監獄の中の人のように見えました。

「パノラマ、ジオラマ、ショーウィンドウ、パサージュ、デパート、万国博覧会、パッケージツアー、映画、ショッピングモール、テレビ&ビデオ、ヴァーチャルリアリティ・・・」、どれも見る側と見られる側、見る空間と見られる空間がはっきりと区別でき、その視線はあらかた計画・管理されたものでしかありません。

パノプティコン(全展望監視システム)の断面が描かれた作品がありましたが、「移動性をもった仮想の視線」は見られる側に主体性を与えているようで、管理の仕方が実はより巧妙になっただけではないのかなと言う気がしました。
例えばショッピングモールにしてもそのミニチュア世界の完結した中で自由に振舞ってもらっている限り、客を管理することは容易になります。
オノケンノート ≫ B065 『ポストモダンの思想的根拠-9・11と管理社会』

自由を求める社会が逆に管理社会を要請する。 管理と言っても、大きな権力が大衆をコントロールするような「統制管理社会」ではなくもっと巧妙な「自由管理社会」と呼ばれるものだそう。

後で井原さんに聞いてみたところもともとはフーコーがパノプティコンを引用して描いた主体と、ここでいう遊歩者は対立する概念だったようですが、パノプティコン的遊歩者というような概念も後に提示されているようでした(間違ってたらごめんなさい)。

想起するキーワード(備忘録として)

わけが分からないと思いますが、この展覧会の前後に浮かんだキーワードを備忘録として時系列で並べてみます

移動する仮想の視点-現実の再現
リアリティリアル-フィジカル
コルビュジェ建築的プロムナード写真→映像
アフォーダンス移動する視線環境とのインタラクティブな関係リアリティ
ミニチュア
ポストモダンシミュラークルアートデザインの役割
パノプティコン管理社会
受動性と能動性モチベーションの減退
スーパーフラットバリアフリーメンテナンスフリー○○フリー
歴史の消滅時間・記憶の消滅

なんとなく「ウィンドウ・ショッピング」的なるものに否定的な見方になってしまいそうですが、否定的な部分とそうでない部分も混ぜ合わせたようなイメージがもてればいいなと思います。

また、最近の伊東豊雄や青木淳の「動線体」、藤本壮介初め若手建築家などをみると、「見る側と見られる側、見る空間と見られる空間」のような単純な図式を溶解させることによって新しい主体性を得ようとしているように思いますが、これとうまくつながるのかどうか。

8月11日まで

展覧会は明日(本日)8月11日19時までです。まだの方は機会があれば是非。

ちなみに、大寺さんのヴィジュアルブック(写真左・500円)はかなりオススメです。

『ウィンドウ・ショッピング―映画とポストモダン』はじっくり読んでいずれ感想書く予定です。




ハリボテ砂漠

僕が大学生のころ神戸の酒鬼薔薇事件があった。

それがあまりにショックで悶々としていたころ 宮台真司の『まぼろしの郊外』を読みさらにショックを受けた。

そのときのショックに対して落とし前をつけるために僕は建築に関っているといってもよいかもしれない。

いずれ『人生を変えた一冊』というテーマで記事にしようと思っていたのだが、少しここで考えをまとめないと前に進めなさそうなのでその後僕なりに考えたことを書いてみたい。

ハリボテ砂漠

何がサカキバラを生んだのだろうか。
それを考えているときに上記の本を読み、『郊外』というのが一つのキーワードになった。
『郊外』では土地が整然と区画され、そこにはサイディングなどの新建材を主体としたハリボテのような家が建ち並ぶ。土地の残りは所有を示す門や庭がほんの気持ち程度に作られるだけだ。そしてその隙間は車のための道路で埋められ、ところどころに公園然とした公園が計画される。
町は計画・機能化されたもので埋め尽くされ、どこにも息をつく場所、逃げ出す場所はない。( 事件では唯一の隙間であったタンク山で犯行が行われた。)
あたりの空気は大人のエゴで充満し、人の存在を受け止めることのできない建築群は人々、特に子供たちから無意識のうちに生きることのリアリティを吸い取ってしまう。
リアリティーを奪われてしまった人から見ると郊外の風景はハリボテの砂漠のように見えるに違いない。そこに潤いはなく、乾いた砂漠でどう生きていくかが彼らの命題となる。

そして、郊外の住宅地を計画し、ハリボテを量産しているのは間違いなく僕ら大人、それも僕が今から関ろうとしている建築分野の人たちだ。そのことが学生のころの僕にはかなりこたえたし、実際4回生の夏に親に建築をやめると相談したほどだ。

便利さや快適さと言った単純な一方向の価値観のみが追い求められ、深みや襞のようなものがなくなったぺラっとしたものばかりになってリアリティを失いつつあるのは何も建築だけの話ではなくあらゆる分野で起こっていることだと思うし、あらゆる人は今の子供たちが置かれている状況や問題と無関係ではない、というのが僕の基本的な考えだ。

こういう話がある種の説教臭さを伴った懐古趣味とどう違うのか、と自問もするが僕は決して新しく生まれてくる可能性までをも否定したいのではなく、むしろそういった新しい可能性に敏感に開かれていった先に今の閉塞感のようなものを抜け出すきっかけがあると信じている。

生きることのリアリティ

そういう事を考えているうちに、生きることのリアリティとは何か、というのがその後のテーマになったのだけれども、少なくともそういう問題から目を背けずにいることが建築に関わるものの最低限の良心だと思うし、何らかのリアリティを感じられるものを作れたときに僕が建築に関わった意味が生まれるのだと思う。

この最低限の良心の必要性は個々の建築を見たときにそれほど感じないかもしれない。しかし、その集積が町となって子供たちが育つ環境となることを考えたときに、この良心を持った上での積み重ねかそうでないかでその風景はずいぶんと違うものになると思う。(そして、今はそうでない風景、すなわちハリボテの砂漠になりつつあるように思う。)

では、 生きることのリアリティにどうすれば近づくことができるか。

そのために今考えているキーワードを重複・矛盾を恐れずざっとあげると以下のよう。

・環境と関わる意志をもつこと
・関係性をデザインすること。
・DNAに刷り込まれた自然のかけらを鳴らすこと。
・ポストモダンの振る舞いを突き詰めること。
・ポストモダンを受け入れながらも実存の問題を受け止めること
・「生活」というものに一度立ち返ること

それぞれに関することはこれまでにも何度も書いてきたけど、また別にまとめてみたい。




探すよりは作り出す

たこ阪さんの記事『「やりたいことを見つける」ってどうよ?』を読んで。
やっぱり、何かに向かって突っ走って、才能もあってやりとげる、って人はなかにはいると思う。
でも、その人にしたって「やりたいこと」を探して見つけた、というのとはちょっと違う気がする。
どこかにやりたい「こと」ってしうシロモノがあって、それを見つけだせば幸せになれるというのは、チルチルミチル的な幻想ではないだろうか。

僕は「こと」はあくまで手段であって、代替可能なものだと思う。
こういう風に生きたい、というような目的があれば、「こと」はそれに適したものを選べばいいのであって、目的に適うのであればなんだっていい。
それを「こと」を見つければ結果もセットになってついてくると逆から考えるとおかしくなる。どんな手段を手にしても目的がいい加減だと結果の出しようがない。

最初に書いた突っ走る人っていうのは、本能的に目的を掴んでいて、それが人よりも突出していて、たまたま近くにあることを手段にしてしまっただけではないだろうか。他のことが近くにあったって何らかの結果を出したはずだ。

僕の今がやりたいことかと聞かれるとそんな気もするが、他にやりたいことはいくらでもあるし、探して見つけた訳でもない。
たまたま関わり始めたのが今の仕事で、それを手段として今まで続けてきた、と言うだけの話である。(といってもいい加減にやってるわけでは全くありませんから!)
「探していたものと違う」と言って捨てるような機会はいくらでもあったし、今だっていつ捨てたっておかしくない。だけども、手段にしてやろうと思っている。

うまく言えないけれど、どこかにあるものを「探して見つける」、と言うよりは手段を「つくりだす」という感じ。

そういえば前にも似たことを考えたことがあった。
ポストモダンの時代、目的そのものも絶対的なものを探すよりは仮説であっても自らデザインして生み出す(ようは、なんだっていい!)というような態度の方がうまく生きていける気がします。(誤解されそうな表現だけど)

P.S やっぱり誤解を受けてそう・・・。僕は建築が好きだし出会えたことは幸運だったと思います。
ただ、どんなことでもそうだろうけど、そう思えるまでに、「こんなはずじゃなかった。他の仕事のほうがいいんじゃないか。」ということは一度や二度ならずあるはずです。(建築なんて結構いぢめられます)
その度に、それは建築と言う「こと」が違ったからという判断をして違う「こと」を探していたらきっといつまでたっても何も得られないままだったと思う。
何かをモノにするには継続する意志が必要、て言うようなことを書きたいだけでした・・・。




B098 『電車の中で化粧する女たち―コスメフリークという「オタク」』

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livedoor BOOKS
書評/社会・政治


”本が好き!”プロジェクト書評第1弾。
つまらない本だったらどうしようかと思っていたが、そんな不安もなんのその、期待以上に面白い本だった。

僕自身は、最近の自己主張の強い化粧はなんだかなぁ、と思うぐらいで化粧にはさして興味も知識もなかったのだが、それが逆に本著の内容が新鮮に感じられて良かったのかもしれない。

文章も読みやすいし、「叶姉妹」「藤原美智子」「君島十和子」「中村うさぎ」と特徴のある個人を中心にした章立てもよかった。

化粧がガングロ・コギャルを皮切りに「大人の身だしなみ」から「ウチらのはやりモン」に、またスーパーモデルの登場によって「生来の美」から「獲得される美」へと変わり<叶姉妹>、”化粧は人格”とのカリスマ(教祖)の呼びかけで美人道という宗教になり<藤原美智子>、化粧そのものが自己目的化し膨大な語彙と文法、文体のある「読み」「書き」「語る」ことのできる趣味・道楽となって人々を虜にし<君島十和子>、「意味」から自由になるため、現実の世界から虚構の世界へと逃れるための手段となる<中村うさぎ>。

ダイナミックに話が展開するのには、読み進めるたびになるほど!と推理小説の謎を一つ一つを解いていくような喜びがあった。
終盤、コスメフリークが東浩紀の動物化するオタクと合流するあたりは、ようやく犯人にたどり着いた!という感じだ。

その謎解きの詳細は是非本著で味わっていただきたい。

さて、意味から自由になりポストモダンの世界を生き抜く達人であるコスメフリークとオタクたち。

その先に見えるものは何か、というのがこのブログの最初からのひとつの課題であったのだが最近は少し当初と感じ方が変わってきたように思う。
以前はその突き抜けた先にある可能性というものにある種の期待を抱いていたのだけれども、このごろはその態度は自己防衛的な一時的避難でしかなく、長いスパンで考えた場合やっぱりその先には何もないのではないかという気がしている。

自己防衛を進めていくのではなく、自己防衛をしなくては生きられない現状をずらさなくてはどうしようもないのではないか。(宮台真司の方向がこんな感じで変わった気がします
コスメフリークとオタクたち、両者には逆に自由に縛られている不自由さのようなものを感じてしまうのは、彼らに対する嫉妬からだけだろうか?

動物化の行き着く先は自由をエサに飼いならされ搾取される「自由管理社会」のような気がする。




B065 『ポストモダンの思想的根拠 -9・11と管理社会』

岡本 裕一朗
ナカニシヤ出版(2005/07)

『差異のポストモダンから管理のポストモダンへ』

このアイデアはヒントになる。
しかし、本著の全体的な構成は、周辺の思想をたどるガイドブックのようなもので、専門でもない人にとっては少しまわりくどい気がした。

自由を求める社会が逆に管理社会を要請する。

管理と言っても、大きな権力が大衆をコントロールするような「統制管理社会」ではなくもっと巧妙な「自由管理社会」と呼ばれるものだそう。

一般には、自由と管理は対立し、互いに排除しあう、と考えられるだろう。ところが、ポストモダンな管理社会では、管理は自由を容認し、みずからに組み込んでいる。自由な「差異の戯れ」が肯定され、その上で差異が巧妙に管理されるのだ。そこで、こうした管理社会を、本著では「自由管理社会」と名づけることにしたい。ポストモダンな管理社会は、差異を組み込んだ「自由管理社会」なのである。
・・・(中略)・・・「自由管理社会」では、自由のみが強調されて、管理は不可視になっている。しかし、管理の実態を理解することなしには、自由も危ういと考えなければならない。

自由を謳歌しているつもりが、実は巧妙に管理されたものである。
なんか孫悟空がお釈迦様の掌の上を飛びまわっているようだ。

それに対して、どのようにふるまうか?

・掌の上でもいいから、飛び回ることを謳歌する。
・なんとなく釈然としないので飛び回ることをやめる。
・釈然としないがとりあえず飛び回って謳歌しているつもりになる。
・掌からなんとか降りようとする。
・その他(何があるだろう。飛び回らなくとも楽しむ?)

どのようにふるまうか決めかねてるのが一つ前で書いた「一歩抜け出せなさ」なのかもしれない。

それは、僕の生き方の問題でもあるし、表現の問題でもある。
極端に言えば、去勢された生き方では去勢されたようなものしかつくれないのでは。
(そういえば、この本を読むきっかけになった対談(NA 2006 4-10)で内藤廣がそういう感じのことをいってた)
さて、どうしようか・・・

— メモ—
・掌でもなんでも楽しめばいいじゃん、って言うのが現代の傾向かもしれない。

しかし、皆が自由に振る舞い、利便性を求めると当然リスクが高くなり、セキュリティ対策・情報管理が要請される。
当然それにはいろいろなコストもかかる。
自由なつもりが逆にがんじがらめで、管理社会を維持・強化するために搾取されてるってことはないだろうか。

僕は漠然と感じる生きにくさ、ただ生活するだけでも膨大なコストを要求される社会の原因はこのあたりにあるような気がする。
それを少しだけずらすことはできないだろうか。

・著者は批判的だがジジェクの次の文にも何かしらのヒントが隠れてそうな気がする。

今日のような状況においては、革命的な機会に開かれている唯一の方法は、直接的な行動への安易な呼びかけを断念することだ。そのような呼びかけによって、物事は変わっても全体の情勢は変化させないような行動へと、われわれは必然的に巻き込まれるだけだ。今日の苦境とは、もしわれわれが直接に、「何かをしたい」(反グローバル化運動、貧民救済・・・への参加)という衝動に屈するならば、われわれは確実に現存秩序の再生産に加担することになるのは疑いないということだ。真のラディカルな変革のための基礎を据えるための唯一の道は、行動への衝迫から撤退すること、「何もしないこと」である。こうして、異なった種類の行動のための空間を開くのだ。(ジジェク)

なんとなく東洋的に感じる言葉ではあるが、現代の若者も似たようなことを動物的な嗅覚で感じ取っているのではないだろうか。
(良否は別にして僕は若者のそういう敏感さは信頼してみてもよいと思っている。)




「確信」について

-5/29追伸アリ
友人からもらったコメントでなんとなくつながりが見えてきた気がしたので書いてみる。

僕は今、何らかの「確信」を持っているわけではない。

ただ、まだうまく言葉にならないが、なんとなく何かが「確信」に変わってくれるはずだ、という期待のようなものはある。

しばらくは「確信」まではいかないだろうし、「確信」を探すんだろうなと思う。

いや、探すというより「確信」に変えていく、ということなんだろう。流れの中で。

存在しているものを探すんじゃなくて、生み出す。

ポストモダンの生き方としてはこの違いが決定的な意味を持つ気がする。

存在の確信を持てるものがあるのならそれでもよい。
しかし、中途半端に不変の存在を信じようとすることは、逆に不在に対する不安を伴う。

自ら絶えず確信を生み出し続けること。
仮説としての確信を生きること(!?)

そういう姿勢に自由を感じる。

-追伸
「仮説としての確信」はちょっと弱い気がする。
仮説よりはやはり確信である。

普遍としての確信ではなくて
オリジナリティとしての確信。




価値観と軸 テンプレート

先に書いた発達保障理論に触れた講義録に書かれていたことは、僕の中での最初の問題提起に通じるように思った。

そして、この軸を複数設定するという方法は思考ツールとして使えるのではないだろうか。

一つの軸で考えれば「良いこと」だが、別の軸では多大なマイナスになるということも多い。

「良い面」が扱いやすい場合は往々にしてマイナス面は覆い隠されて見えにくくなる。

そして、一度二元論的に「良い」とされたことを覆すのは容易ではない。

そういうときに複数の軸を設定し、それをうまく扱えれば視界をグッと拡げることが出来るだろう。(おそらく、前記の講義は多くの人の視界を拡げることに成功したのではないだろうか)

しかし、軸の設定は恣意的なものにならざるを得ないので、あることに対する評価は軸しだい、つまり評価自体意味がないということにもなりかねない。

実際そうかもしれない。これによって「評価」という視点そのものをなくすのが最終的なイメージだと思う。

「評価自体意味がない」というのをいったん受け入れた上である軸を恣意的に設定する。
それが、デザインという行為ではないだろうか。

例えば「家、住まうということを考える」ということは、「軸を発見する」ということではないだろうか。

与えられた軸をむやみに受け入れるのでは生活を考えたことにはならないと思う。
先の講師のように自らの視点を持っている人が面白い豊かな軸を設定できる。

無限に沸き起こるさまざまな軸のテンプレートをぱらぱらとめくり、重ね、変形させながら、最適な軸を設定していく。そんな建築家像がイメージされる。

それは、僕の思うポストモダン的思考や『決定ルール』『地形』の考え方につながるかもしれない。

僕の中で少しだけ光、繋がりのようなものが見えてきた。




B026 『はじめての禅』

竹村 牧男
講談社(1988/06)

確か大学生のころだったと思う。
(狭い意味で)宗教的な人間とはとても思えない父の書斎の本棚を物色しているときにこの本を見つけた。
興味本位で拝借したまま、いまだに返さずに、時々読み返したりなんかしている。
出版当時、著者は筑波大の大乗仏教思想の助教授である。
宗教家と学者の中間のような、程よく情緒的かつ学問的な心地よい文体で読みやすく分かりやすい。

僕は組織や宗教は、深入りすると自己の保守・維持自体が目的となってしまうことが多いような気がして、これらとは少し距離を保っておきたいと思っている。
その中で、「禅」は比較的自由な感じがしてそれほど抵抗感を感じない。
それどころか、魅力的でさえあり時々自分を見つめなおしたくなったときなんかにこの本に戻ってきたりするのである。

さて、なにが魅力的かというとなんとなくぐれた感じかっこいいのだ。
宗教臭くなくどちらかというと『思想』という感じ。
(すこし偏見を含む言い方ですが「宗教とは」という問はおいておきます。)

この本の章立ても実存、言語、時間、身心、行為、協働、大乗と惹かれるものであり、内容も哲学書よりも感覚的に捉えやすい。

(以下、僕の勝手な解釈)

この本に書かれている禅の思想は、「本来の面目(真実の自己)とは何か」との問いに対して道元の読んだ

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり

という詩に集約される。

主-客の分離を超え、言葉や時間によってとらわれることもない。
あらゆるものを否定し尽くし、それでもなお「個」があるところ、否定の先に大きな地平が拡がっているところに単なるニヒリズムにはない魅力があるのだ。

今思ったのだが、その地平とはもしかしたら僕がポストモダンの先に広がっていることを期待している何か、このブログでも今まで考えてきた何かと重なるのではないか。

禅の思想のような曖昧に見えるもの、感覚的なものは現代社会から急速に奪われつつあるもののように思う。何か一方的な見方に世界が覆われていくような怖さを感じる。

しかし、現代社会の行き詰まりを易々と突き抜けてしまいそうな、そんな期待を禅の思想は抱かせる。

それにしても、最初のころ(学生のころ)に読んだ本の影響力とはすごいものがある。
なんか、今まで考えてきたことは、最初のころの直感の枠の中を全く出ていないんじゃないような気がしてきた。
手のひらの上を飛び廻るだけの孫悟空の気分。

(引用や感想等まとまりなし)

我々が有ると思うところの自己は、考えられた自己である。見られた自己、知られた自己であって、対象の側に位置する自己である。しかし、自己は元来、主体的な存在であるべきである。その主体そのものは、知られ、考えられた側にはないであろう。

私にとってかけがえのないある桜の木を、桜といったとたんに、我々は何か多くの大切なものを失いはしないだろうか。我々の眼に言語体系の網がおおいかぶさるとき、事象そのものは多くの内容を隠蔽されてしまう。その結果、我々はある文化のとおりにしか、見たり行動したりすることができなくなり、我々の主体の自由で創造的な活動は制約をうけることになる。

自由であるには考えることよりそのままを感じることが重要ではないだろうか。

ここで道元は、古仏が「山是山」と言ったのは「山是山」といったのではない、「山是山」と言ったのだ、と示している。結局、山は山ではない、山である、といっていることにもなろうが、否定と肯定が交錯してなお詩的ですらある。

こんな一見非論理的なものいいに奥行きが与えられていて、かつ真実を掴んでいるというあたりが魅力的だ。

その場合、桜に対し桜の語を否定することは、実はその前提の主-客二元の構図をも否定することにつらなり、無意識のうちに培われた自我意識を否定していくことをも含んでいるであろう。・・・つまり、桜は桜でない、と否定するところでは、自己も自己でなくなり、逆にそこに真実の自己が見出されうるのである。

我々は、既成の言語体系のままに事物が有ると固執することが、いかに倒立した見方であるかを深く反省・了解しなければならない。そして存在と自己の真実を見出すためには、言語を否定しつくす地平に一たびは立たなければならないのである。

この絶対矛盾に直面させるやり方は、言語-分別体系の粉砕をねらう禅の常套手段でもある。そのことがついには、真に「道う」体験に導くであろう。

『日日是好日』
人生は、厳しいものである。・・・そのときは、苦しみのたうちまわるしかない。その今を生きるしかない。ただひたすらに今に一如していくところにしか、真実の自己はない。そこを好日というのである。

仏教に於ては、すべての人間の根本は迷にあると考へられて居ると思ふ。迷は罪悪の根源である。而して迷と云ふことは、我々が対象化せられた自己を自己と考へるから起るのである。迷の根源は、自己の対象論理的見方に由るのである。『場所的論理と宗教的世界観』西田幾太郎

自己を意識することで怒りや迷いが生まれることは多い。
もう一つ離れてみることでそういった怒りなどを感じずにすむならばそれはすごくハッピーでは。

禅の絶対なるものへの感覚は、極めて独特である。『碧巌禄』第四十五則、「万法帰一」は、そのことを鮮やかに伝えている。
僧、趙州に問う、「万法、一に帰す。一、何の処にか帰する」。
州云く、「我れ青洲に在って、一領の布衫を作る、重きこと七斤」。

絶対とは何かを問われて「布巾を作ったが、七斤の重さがあった」と答える。全くもってファンキーだ。ステキ。

禅は決して一の世界と同一化することを求めているのではない。層氷裏の透明な無と化することを目ざしているのではない。大死一番・絶後蘇息という。絶対の否定から、この現実世界へとよみがえったところに、真実の自己を見出すことを求めているのである。

ゆえに我々に対して現れる仏は、すべて虚妄な幻影にすぎない。対照的に自己を捉えることが迷いの根源であったように、対照的に仏を捉えることはまた、正に迷いの集積である。臨済は「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」といっている。対象の位置におかれた仏は否定されるべきである。その否定する働きの当体にこそ、真の仏が見出されるべきである。・・・このとき、不可得の主体に成りつくし、真実の自己になりきるがゆえに、真に自己に由る、すなわち真に自由となるであろう。

結果、自由を得る。『徹底した否定のあとのつきぬけ・自由』。これは今までさんざん探してきた筋書きである。

なんとなく主客の区別や言葉の縛りを超えた自己をイメージするだけでとても穏やかになれる。それが悟りだとは思わないが、心地よいのだ。

関西人の気質やお笑いと禅をつなげたいなとも思っていましたが、またの機会があれば。
(僕は関西人的気質が世界的に注目され必要となる。と以前から考えている。
近頃はあまりにもフラットな世界が関西人的気質を奪っていかないかと危惧を抱き始めたが)




B024 『モダニズム建築の軌跡―60年代のアヴァンギャルド』

モダニズム建築の軌跡―60年代のアヴァンギャルド 内井 昭蔵 (2000/07)
INAX出版


60年代に活躍した日本の建築家を論文及び内井昭蔵との対談形式で紹介。
対談の最後は毎回、後進への一言で締められ示唆に富む。

登場する建築家は

丹下健三 Kenzo Tange
吉村順三 Junzo Yoshimura
芦原義信 Yoshinobu Ashihara
池田武邦 Takekuni Ikeda
大高正人 Masato Otaka
清家清 Kiyoshi Seike
大谷幸夫 Sachio Otani
高橋?一 Teiichi Takahashi
菊竹清訓 Kiyonori Kikutake
内田祥哉 Yoshitika Utida
鬼頭梓 Azusa Kito
槇文彦 Humihiko Maki
林昌二 Shoji Hayashi
黒川記章 Kisho Kurokawa
磯崎新 Arata Isozaki

長谷川堯の序説、この時代の舞台を「演出家=前川國男」「劇作家=浜口隆一」「俳優=丹下健三」とみる部分も面白かった。
建築評論家が脚本を描けた時代だ。

日本におけるこの時代を把握するにはとても良い本だと思う。建築を学び始めの人にもお勧め。

って、このブログは本の紹介が目的ではない。
僕自身の思考の記録である。
だから、うまくまとまらないと思うが感じたことを書いておこう。

この時代の作品や言説に触れてみると、ものすごいパワーを感じる。
今の建築は設計者の考え、『頭の中』が見えるようなものが多いように感じるが、この時代のものには当然考えも見えるが、設計者の『人間そのもの』が見えるものが多いように感じる。
人と建築が分離していない。
(黒川記章や磯崎新の世代あたりから『頭』の方になってきた気がするが。)

その違いはどこから来るのか。
今の建築はこの時代から前に進んでいるのだろうか。
今、どこへ向かうべきなのか。

60年代は、モダニズム、日本、機能、モニュメンタリティ、大衆性・・といった課題やキーワードがはっきりと見えやすかった時代ということもあるだろう。
前の世代に物申すという姿勢もはっきりしているし、前に進むという意志と自信とに溢れている。

しかし、今の時代だって課題は山積み、物申すことだってたくさんあるはずで、みなそれに向かって奮闘している。

なのに、この時代の建築に学生時代に感じたような「希望」を感じるのはなぜなのだ。

建築、社会がまだ純粋だったからか。
そもそも、何を乗り越えようとしているのだろうか。
モダン、ポストモダン。
モダン、ポストモダン。
モダンは幻想か。
なにが、どこからポストなのか。

この本自体の射程が「モダニズム」や「年代」といった大きすぎるものというのもあり、踏み込むと容易に答えの出せない抽象的な問いにどうしても迷い込んでしまう。

おそらく僕にとっては必要なのは『希望』のイメージである。

『問題意識』と『希望』どちらも大切だと思うが、今焦点が『問題意識』に向きすぎている。

しかし、『希望』を描くことこそデザインではないだろうか。

描きにくいからこそ取り組むべきものなのではないか。
それこそがデザイナーの仕事ではないか。

頭ではなく人間の中から湧き出るようなもの。
それを描きたい。

(実は学生のころからずっと望んでいることで、ずっと果たしえてない。
なかなか難しい。
それは、やっぱり人間そのものでぶつからなければ描けないのだ。)

このころの作品や言説にもっと触れてみたくなった。




B014 『原っぱと遊園地 -建築にとってその場の質とは何か』

青木 淳
王国社(2004/10)

ちょっと雑な気がするけれど、建築は、遊園地と原っぱの二種類のジャンルに分類できるのではないか、と思う。あらかじめそこで行われることがわかっている建築(「遊園地」)とそこで行われることでその中身がつくられていく建築(「原っぱ」)の二種類である。(p14)

とし、『現在において「原っぱ」が失われつつある』ことを危惧する。

普通には「いたれりつくせり」は親切でいいことだと思われている。でも、それが住宅全体を決めていくときの論理になることで確実に失われるのは、「原っぱ」に見られるような住む人と空間の間の対等関係である。しかし、見渡して見渡してみれば、住宅を取り巻く状況は、すでに「遊園地」に見られるように、空間が先回りして住む人の行為や感覚を拘束するのをよしとする風潮だろう。(p16)

この本を通して述べられていることは、建築の持つ不自由さを自覚しそれと向き合うことである。

はっきりいって設計するということは、残念ながら本来的に人に不自由を与えることなのだと僕は思う。どんな設計も人を何らかのかたちで拘束する。だから、僕はそのことを前提にして、それでも住むことの自由を、矛盾を承知のうえで設計において考えたいと思っている。それが、つまり、「いたれりつくせり」からできるかぎり遠ざかった質、ということの意味である。もともとそこにあった場所やものが気に入ったから、それを住まいとして使いこなしていく。そんな空気を感じさせるように出来たらと思う。(p172)

形式の外にいられるように錯覚することが自由なのではない。形式の中にしかいることができないにもかかわらず、その外があるとして物事を行うこと。それが自由という言葉の本来の意味だと思う。(p182)

これは、まさしく僕が感じていたことで、それをうまく言葉にしてもらったという感覚があった。

僕の場合、形式の外の存在を感じるのは『イマジネーション』の問題であり、それを感じることができるのが自由であると考えていた。

「動線体」「つないでいるもの」「つなげられるもの」

これらのキーワードで語られるのは、「つなげられるもの」に発生する近代的な「機能」による拘束であり、それからの開放の模索である。
われわれは簡単にそれらの「機能」から逃れられそうにない。

「つないでいるもの」にも「つなぐ」という機能が割り当てられていて、僕は道を歩いていて途方にくれそうになるような不自由さを感じることがある。
何か、歩かなければいけない、というように命じられている気分になるのだ。
ほとんどの空間がそのように機能によって自由を奪われている。

宮台真司が『地上90cmの目指し』と呼ぶように、地べたに座り込む行為はそういった機能による拘束から開放されようとする行為であり、僕はそれに対し「だらしない」と思うよりは同情するのである。
それは、僕たちがつくってきた空間に大きな責任があるのだ。

著者が『馬見原橋』を設計する際に「つないでいるもの」であると同時に「人が居られる場所」であること、という同時性に親近感をもつといっているが、それは「つないでいるもの」のもつ機能性からの開放を意図しているのだろう。

「ナカミ」「カタチ」「決定ルール」

僕が『コンセプト』のところで言い切れなかったことが書いてあり、なるほどと感じさせられた。

僕も「ナカミ」か「カタチ」かという葛藤を感じることがあるし、これからもふとするとそういう葛藤に絡めとられると思う。

ここで重要なのは「決定ルール」を「ナカミ」「カタチ」と同列ではなく、それらの上位の概念として位置づけることであろう。

それによって、「ナカミ」か「カタチ」かという葛藤から開放される。

はっきりしていることがふたつあって、それについて書いてみようと思う。ひとつは、空間のどんな決定ルールも、本当のところは、そこでの人間の活動内容からは根拠づけられるべきでないこと。つまり、どんな決定ルールもついには無根拠であることに耐えること。ふたつめは、そのことを誠実に受け入れるならば、より意識的に決定ルールに身を委ねて、それが導いてくれる未知の世界まで、とりあえずは辿り着いてみなくてはならないだろう、ということである。(p66)

この態度をとれる思想をもてるかどうかが重要である。

たいていの建築では、決定ルールが中途半端な適用になる。ある程度は形式的できかいてきだけど、またある程度は、人の心の反応を想定した経験的なものになる。こんな風にすると人はこんな感覚をもつだろう。こんな感覚をもたせたいからここはこうしよう、そんな意識が混入する。確かに人間は、歴史的にでき上がっているそうした意味の網目の世界に住んでいる。だけど、こういう作業が当然のように行われることによって、建築は人間の心をきっと不自由にする。
実際に、ぼくがある種の建築に感じるのは、それゆえのあざとさであり、お仕着せがましさだ。(p80)

僕は人気のリフォーム番組なんかを勉強になるかと思って何度も見ようと試みるが、いつも居心地が悪くなってすぐにチャンネルを変えたくなる。
テレビ番組の企画としての意図や安易な決めつけなんかがみえみえで、なんとなく押し付けがましい不自由さを感じてしまう。
かといって、僕が著者の言うような態度を貫けるかどうかは、まだ自信がないのだが。

ゲーリィの「グッゲンハイム美術館ビルバオ」について次のようなことを書いている。

これは最も恣意という言葉から遠い建築の達成であり、それがぼくたちに完璧な透明な感覚を与えているのだ。
ここでのゲーリィは、それまで誰もできなかったような、未来に属するまったく新しい実験を行い、しかもそれに成功しているように見える。行われた実験は、ナカミかカタチかという二項対立をこえてしまうような次元での、純粋で自律的な決定ルールの、オーバードライブである。(p76)

ややもすると、カタチに大きく振れ、恣意的でしかないと見られがちなゲーリィの建築に感じる自由さをうまく言い当てている。
こういう態度を貫けるゲーリィはやはりタフなのだろう。

住宅「O」についての「現象としての動線体」という解説も、僕の「自分の領域を拡大する」という感覚とかぶる部分が多くて興味深く読めた。「構成を表現を捨てること」については、複雑性を縮減することがデザインであるならば捨てなくてもいいんじゃないかと思うのだが、それについては今後じっくり考えてみよう。

いずれにせよ、意味を求めないクールな突き放したように見える視点など、これは「ポストモダン」の生き方に対する一つの姿勢の模索であるように思う。それは、言葉にするほど簡単ではなく、ゲーリィのようなタフさを要求される姿勢である。
しかし、その先に見える自由はきっと大きい。




B009 『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』

東 浩紀
講談社(2001/11)

気が付けばすっかりテーマがポストモダンになっている。
意図的というよりやっぱり気になるのだ。
どこへ向かうにしろ、僕のような不器用な人間には、ある程度けりをつけなければならない問題なのだ。

『動物化』という言葉に何かの期待をしてこの本を手にとったのだが、その『動物』という言葉は、もともとはフランスの哲学者コジェーヴの書いた『ヘーゲル読解入門』のある脚注から来ているそうだ。

コジェーヴの主張(の東の要約を)を要約すると、ヘーゲル的歴史の後人々には「動物への回帰(アメリカ的生活様式の追求)」と「日本的スノビズム」の2つの生存様式しか残されていない。「動物」とはヘーゲルの「人間」の規定(与えられた環境を否定する存在)と対応し、常に自然と調和して生きている存在である。
また、「動物」は「欲求(単純な渇望。欠乏‐満足の回路が特徴)」しかもたず、「人間」は「欲望」をもつ。「消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく」アメリカの消費生活はこの意味で動物的である。一方「スノビズム」とは「与えられた環境を否定する実質的理由が何にもないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式」である。
「スノッブ」は形式的な対立を楽しみ愛でる。コジェーヴは「アメリカ化=動物化より日本化=スノッブ化を予測していた」ため、80年代の日本のポストモダニストに好んで参照されたそうである。
——————–
さて、オタクについてだが、
オタクはスノビズムをへて、いまや動物化している。

あえて、フェイクと知りながら意味を見出して消費するのではなく、もっとクールに「萌え」や「泣き」を「データベース的」に消費する。

そこにあるのは例えば「猫耳」「しっぽ」「触覚のように刎ねた髪」などの単なる要素の集積であり、それらのデータベースから、もっとも効率的に「萌え」や「泣き」を与えてくれる要素の組み合わせを選び出す。

それらの要素の働きは「プロザックや向精神薬と余り変わらない」。
たとえ、ある作品に深く感動したとしても、それを自分の「世界観(大きな物語)に結び付けないで生きていく、そういう術を学」んでいる。

作品のバックにあるのが大きな物語(世界観)ではなく単なるデータベースであることを前提とすることがマナーなのである。

このような小さな物語と大きな物語の切断を東は精神医学の言葉を借りて「解離的」と呼んでいる。

近代は「小さな物語から大きな物語に遡行」できると信じられ、移行期の人々は「その両者を繋げるためスノビズムを必要とした。」
そして、ポストモダンの人々は両者を繋げる事を放棄した。
——————–
オタクを切り口にしての、現代文化分析はある程度理解できた。
そのような「解離」は今の社会を生きるためのひとつの処世術なのだろう。さて、そこで僕の差し迫った問題は「じゃあどうすんべ」ということなのだ。またしても、いつもの問いが頭をぐるぐると廻り出す。
・大きな物語ほ放棄しても良いのか。
・彼らは幸せなのか。
・豊かな行き方ってなに。
・ぼくにそれができるのか。
・「建築」になにがのこされるのか。
・設計の意味はどうへんかするのか。
・そもそもこんなこと考えることに「意味」があるのか。
などなど。きっと、こういうことを考えること自体、意味に対する未練であり、「大きな物語」という幻想の呪縛から抜け出していないのだ。
やっぱり、ポストモダンを生きるのはなかなかに難しく、「オタク」はなかなかのやり手である。しかし、これを自分の中で整理しなければ、自信を持って線の一本も引けやしないのだ。そこで、再び『意味に餓える社会』の最終章を見てみよう。

○すべてがデザイン
「デザインは意味を描いてみせる。」
「だから、デザインが意味の問題を抱えることは決してない。デザインは意味の問題を解決するものなのだ。」
「人間の態度と構想が世界を意味あるものとして開くのだ。」
「人間は意味を形成することによって、意味を求める問いに答えるのである。」
「作為の学の優れた先駆的思想家のホルガー・ヴァン・デン・ボームは要約していう。「・・・人間とは元来意味をつくり出す生き物なのだ。・・・それは、世界を開くデザイン、一つの象徴的形式、一言を以てすれば文化に他ならない。」

なんだ、「自身」をもって線をひけばよかったのだ。

意味とは捜し求めるものではなく、つくり出すものだったのだ。
それは、動物なんかにゃ出来ないだろう。
(なんか、一周して元に戻ったような感覚である。)
だとしたら、「小さな物語」=「大きな物語」となるようにおもうが、如何に。。。




B008 『妹島和世読本 -1998』

妹島 和世、二川 幸夫 他
エーディーエー・エディタ・トーキョー(1998/04)

この本は、僕が大学を卒業し、上京して再度学ぼうとしていたころに購入した。
今考えると、俺も結構ミーハーだなぁ。と思うが、とにかく妹島和世には相当な衝撃を受けたのである。
当時はその衝撃を自分の中でどう解釈してよいか、相当に悩んだ。

恥を惜しむがその当時のメモには

「このごろ、妹島和世の建築にも魅力を感じ始めている。それは、さまざまなものからの開放に対する興味でもある。僕の心は絶えず、内側への収束と外側への発散との間を揺れ動いている。98.5.17」

と書いている。

他にも気になる建築家はいたのだが、当時は両端としての安藤忠雄と妹島和世との建築の間で揺れ動き、自分の考えがどちらに近いかを早急にきめねば前に進めない。という焦りを感じていた。

このころ、僕の中で発見したキーワードは「収束」と「発散」である。
たとえば、安藤忠雄の空間の質は人を精神の内へ内へと志向させる「収束」であり、妹島和世の空間の質は人を精神の外側へと志向させる「発散」ではないかと考えていた。

そして、内へ向かおうが、外へ向かおうが、その究極の行き着く先は同じで、そこにはある種の『開放』と精神的な『自由』があるのではないか。

なんだ。結局は同じではないか。そんなに今悩むことないや。というのが、その当時のとりあえずの結論である。

この、「収束」「発散」「開放」というのは割合気に入っていて、架空の事務所名にも”release”という単語を入れている。(※記事作成時の事務所名)
今考えると、妹島和世の持つ自由さという印象は、モダニズムのさまざまな縛りから自由に羽ばたき、ポストモダンの生き方(建築のあり方)を鮮やかに示しているように見えたため、多くの若者の心をつかんだのだろう。

もちろん、妹島和世の建築は意匠的な狭義のポストモダニズムなどではないが、その思想の自由さには、やはりポストモダンを生きるヒントが隠されているように思う。