1

開かれているということ B301『生きていること』(ティム インゴルド)

ティム インゴルド (著), 柳澤 田実 柴田 崇, 野中 哲士, 佐古 仁志, 原島 大輔, 青山 慶 (翻訳)
左右社 (2021/11/5)

コーヒーイノベートでのbooks selvaさんとのコラボ企画にて購入したもの。

インゴルドはこの時はまだ読んだことがなく、ちょうど読みたいと思っていたところだった。
パラパラとめくってみたところ、インゴルドがギブソンの生態学をベースとしているのがすぐに分かった。
この時は、自分がこれまで読んでこなかった分野のものを買おうと思っていたので、少し自分の関心に近すぎるかもしれないと迷いながらの、一種の賭けとしての購入だった。

結果的には、本書はまさにこの時探していたもので、賭けに勝ったと言って良いかもしれない。

この時の関心は、デカルト的二元論に対比する形でのアニミズムを、ぼんやりとしたスピリチュアル的な言葉ではなく、存在論や認識論として説明できるような言葉を探していたのだ。

ここからは、本書を読んで私なりに掴めたであろうことを書いておきたい。(スケッチは本書の押絵を参考に、自分の解釈も交えて書いたもの。)

ネットワークからメッシュワークへ

本書を読んだ印象では、インゴルドは線の思想家である。

この線は本書のタイトルである「生きていること」のメタファーであるが、これまで私が考えてきたことの中では、オートポイエーシス的な”はたらき”、という考え方が近い。

A. 生命はオートポイエーシスな視点から「ぐるぐるとサイクルをまわしながらはたらき続け、そのはたらきによって自分と自分以外の境界を作り出すシステム」と捉えられると思う。左の図では、円環をなすはたらきによって、生物の境界が生まれている。

B. しかし、Aでは境界が明確なため、内と外という構造的な印象が強すぎるかもしれない。それよりは、はたらきの周りに要素が絡み合って、一時的にはたらきがまとまりを生み出しているというイメージの方が適切だろう。オートポイエーシスはシステムであって、構造ではないし、内側を他者が通り抜けながらその時時に構造が生成し続けるイメージはトポロジー的にも良さそうだ。

私は有機体(動物や人間)を、環境に取り囲まれる境界づけられた存在者としてではなく、流動空間における境界のない線の絡み合いであると結論付けたい。(p.163)

C. ここで、線の思想家であるインゴルドは、この円環を”開く”。開かれた線は、オートポイエーシス的なはたらきがより鮮明になり、そこにはもはや、明確な境界はなく、生命は世界の中に泳ぎだしている。しかし、その遊泳は決して孤独な旅ではない。それどころか、他の線と密接に絡み合いながら、躍動感に満ちた世界をなす存在となる

D. このいくつもの線が絡みあった世界がメッシュワークである。ここでは、生命は、境界に囲われた”対象”ではなく、はたらきとしての線そのものである。

E. 一方、メッシュワーク的な世界観と比較されている、ネットワーク的な世界観では、線は点と点を結ぶもの、すなわち関係性・構造を示すものであり、はたらきを示すものではない。ここでは、結ばれる点はそれぞれ独立した”対象”、境界に囲われた存在として描かれる。本書には、アリ(ANT:Actor-Network-Theory を想起させる)とスパイダー(網:インゴルド自身を想起させる)の寓話が載っているけれども、アクターネットワーク理論オブジェクト指向存在論に感じた、静止した印象はアクターやオブジェクトが境界づけられた”対象”として捉えられていることによるものなのかもしれない。(といっても、この印象には誤解が含まれているであろうことも承知している)

メッシュワークとアニミズム

このメッシュワークの世界観においては、”開かれている”ことが決定的に重要である。

先程、円環のイメージが開かれて流れる線になったように、”開かれている”ということは、対象化されていない、すなわち境界によって世界から分離されていない、ということだ。

一般的に、動物は意識を持たず、本能によって生きているとされる。一方、人間はデカルトが身体と精神を分けたように、意識をもち、世界を捉えることができるようになったとされる。
これは、人間が世界および自らを対象化することで世界から分離したといえる。このことによって、人間は世界をはたらきのメッシュワークとしてではなく、構造としてのネットワークとして捉えることになった。
人間は世界を対象化し、眺めることで”開いた”ようにみえて、逆に境界に閉じこもるようになってしまったが、動物は世界から分離されていない、すなわち”開かれた”まま、世界を生きている

ここでなにも、人間が動物に劣っていると言いたいわけではない。そうではなく、ネットワーク的な世界観(この世界観を持っている期間は、人類の長い歴史の中では一瞬のことである。)では見落としてしまうこと、感じられないことがたくさんあり、そのような静止した世界観に生きるのは単純にもったいないような気がするのだ。

これまで考えてきた結果、環境問題は「省エネ」といった技術の問題というよりは、「自然とのエコロジカルな関係性」を築けるかどうかの想像力の問題である、というのが一つの結論であったが、それは端的に言えばアニミズム的な存在論に立ち返ることができるか、ということである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » アニミズムと成長主義 B288『資本主義の次に来る世界』(ジェイソン・ヒッケル))

ここで、本書を購入する当初の関心であったアニミズムについて考えてみよう。

アニミズム的な世界観では、例えば風や雷などの気象現象や、石や水などの無機物がまるで生きているように語られることがある。私たちは、このことを未開文明の無理解だと切り捨てがちであるし、このイメージが私自身、アニミズムという言葉を使うことをためらわせもする。
しかし、本当にただの無理解だと切り捨てて良いものだろうか。もしくは、私たちには理解できないものなのだろうか。

インゴルドはアニミズムに対する捉え方は二つの誤解を招いているという。

第一に、私たちがアニミズムという考え方で扱っているのは世界について信じる方法ではなく、世界のなかで存在する条件である。(p.168)

つまり、アニミズムとは世界の構造を理解する方法ではなく、世界に生きるための方法である
ここに、根本的な食い違いがある。デカルト的な世界観がインストールされている私たちは、世界の構造を知ろうとし、風や石は生物ではない、と判断する。しかし、アニミストに必要なのは、世界での生き方であり、風や石が生物に分類されるかどうかはそれほど重要ではない。むしろ、ここには世界の構造について知ることだけに腐心し、世界のなかで生きる方法を置き忘れてしまった私たちにとって大切な何かがある。(と、書くとスピリチュアルな印象を持たれるかもしれないと、ためらってしまうけれども、おそらくこれは、客観的なファクトである。)

第二の要点は、むしろアニマシーとは、人のようなものであれ物のようなものであれ、あらゆる種類の存在が連続的かつ相互的に違いを存在せしめる関係の全体からなる、ダイナミックで変化する力のある潜在性であるというものである。要するに、生活世界のアニマシーは魂をサブスタンスに注入した結果でも、エージェンシーを物質性(materiality)に注入した結果でもなく、むしろ存在論的にそれらの差異化に先立つものである。(p.168)

ここで再び先程の、D.メッシュワークのイメージを見ていただきたい。
この中の1本の線が私が生きているというはたらきである。
私が生きるということは、このさまざまな線の絡み合った世界(メッシュ)の中をそれらに応答しながら通り過ぎることである。世界をなすそれらの線は、時には自己という境界の中と思っている領域を影響し合いながら通り抜けさえする。

この時、これらの線は生命であるとは限らないし、その必要もない。むしろ、アニミストがそうするように、すべてを生きているように捉えた方がイメージしやすいかもしれない。

本書では、〇〇している、というような表現が何度も現れる。
風が風している。雷が雷している。石が石している、大地が大地しているなど、その存在そのものとはたらきに注目し、名刺を自動詞のように捉えることで、これまでの存在論的な捉え方を反転させる。(よくよく考えると、これはアニミストのやり方とあまり変わらない。)

このように、生物、無生物を問わず、それらさまざまなはたらきが、線として複雑に絡み合いながら、世界(メッシュ)をなしているのがメッシュワークであり、それらは私の線の流れと不可分な存在として相互浸透している。
(これについては後で少しだけ触れるけれども、さらに、知識や技術、物語といったものも、この世界に線として流れ込んでいる。)

このイメージを頭に描けた時、これまで学んできた生態学やシステム論、その他もろもろと、事務所移転してからここ一年での経験が、一挙に結びついて確信のようなものに変わった気がする。
もはやアニミズムという言葉を使わなくても良さそうだけれど、アニミズムは、現代人にとって、分断の思想をつながりの思想へ、知るための方法を生きるための方法へ、静を動へと反転するヒントなのだ。(もちろん、アニミストの解像度や知恵には遠く及ばないだろうが。)

また、この確信のようなものは、建築のイメージにもを何らかの確信を与えてくれそうな気がしている。

土と風 ~陸を海する

建築そのものが、境界もしくは対象としてではなく、一本の線としてメッシュワークの中を生きる。そんな、生きていることとつながっているような建築のイメージが湧く。
それは、建築を、本書の意味で”開いていく”ことにならないだろか。つまり、建築を世界の中のはたらきに溶け込ませていくのである。

それをうまく実現できるかどうかは置いておいて、そのイメージにはこれまでにはなかったような手応えを感じるけれども、この手応えはおそらく、机上の蓄積からだけでは決して得られなかったように思う。
ここ1年、生活に変化を与えてみた実感として(それこそ、世界のなかで生きる方法として)、直接的に感じたものが支えになっているのは間違いない。

その中でも、最近少しだけ触れることができた、大地の再生のアプローチの影響は大きいかもしれない。

大地の再生や、建築でも最近話題になっている土中環境。どちらも、地上、上空、地下、それらの領域をまたいで、そこに本来備わっていた、水や空気、生物などによる循環を再生しようとする実践である。
この実践に触れて感じられたのは、さまざまなものが相互に影響を与えあいながら生きている(成立している、と言っても良いけれども、ここはアニミズム的な意味で生きている、と言ってみる)という、自然の壮大かつ緻密で不可思議なシステムである。
それは、私がこれまで感じとれていなかったものだけれども、いざ触れてみると、想像を遥かに超えたつながりがあることが少しづつ見えてきた。

ここ最近、単体の生命のイメージは少し掴めてきたところだ。次は、それらの壮大なつながりを大局的なイメージとして手繰り寄せるような概念がないだろうか、と生命科学や物理学などの分野で探していたのだけど、たまたま読んだインゴルドのメッシュワークのイメージは求めていたものにかなり近かった。

といっても、大地の再生や土中環境がみている風と土の関係が、最初からしっくり来ていたわけではない。
そもそも、風にしても土にしても、それを見るための目を持ち合わせていなかったし、風は地上の話で、土は地下の話と切り分けて考えることから抜け出せず、それらの間の関係にはどちらかというと半信半疑だったのだ。

ここで、本書に戻る。

本書では、大地と天空についての考察にかなりのページが割かれている。
それは、私がそうであるように、それらに対する見る目を多くの人が失っているからかもしれない。

F. 多くの人にとって、大地は自分たちを支える、固まった台のようなもの、単なる固形物で、天空は私たちの上部を覆う空虚なもの、というイメージだろう。そこでは、人は大地や天空と切り分けられた存在であり、大地や天空は、その”対象”としての存在を支える背景でしかない。

ここでインゴルドは”陸を海する”ことを提案する。
陸上で生活する私たちは、例えば陸から海を見た時に、陸の視点から海を理解しようとする(海を陸する)。
では、逆に海の視点から陸を理解しようとする(陸を海する)と何が起こるだろうか。

G. この視点によって、大地は単なる個体としての台ではなく、そこにはたくさんの生命があり、水や空気が循環し、不断の運動と変化の中にある、たくさんの線として世界を形づくっていることが見えてくる。同様に、天空は単なる空虚ではなく、風が吹き、鳥が飛び、さまざまな音が満ちている世界の一部であるとともに、大地と天空とはたくさんの線によって結びついている。(ここで空気や水、土などは、メッシュワークの線の流れを保証する、地の部分、メディウムでもある。)

このようなイメージのもとに世界を眺める時、今まで静止していた世界がとたんに動き出すように感じるけれども、大地の再生などで感じるのはまさしくこの感覚なのだ。

これまで、大地の再生や土中環境といった時に、なぜそれをやるのか、ということに明確に答えられる言葉を持っていなかった。
土中環境とかって、流行っているからやっているのだろ、と言われると返答に困っていたかもしれない。

では、今ならなんと答えられるだろうか。
これらの実践は、風が風するため、土が土するためであり、静止していた世界を再び動き出させるために行うのだ
それは、世界(メッシュ)を形づくっているいくつもの線を感じ取れるものに変え、私たちの生を再び動き出させることでもある

建築することが、ささやかであってもそれらの再始動に関わることができたとしたら、そこに住む人の住まうことがより満たされたものになると思うのである。

物語と技術

最後に余談というかメモとして。

先に、「知識や技術、物語といったものも、この世界に線として流れ込んでいる」と書いたけれども、これはどういうことだろうか。

インゴルドは知識や技術、物語といったものは、複製物として人から人に伝達されるようなものではないという。
人は、世界の中に線として編み込まれた知識や技術、物語に出会うことで、それらを実践的なプロセスを通じてその都度、再産出するのである。
(これは、ギブソンの理論を人間を取り巻く社会的な環境へと拡張したリードの理論に近いし、私が以前書いた『出会う建築』の考え方にも近い。)

このことは、技術の伝承の問題や教育の問題とも関わりがありそうだ。

技術が失われることは、複製物としての知識や道具が失われるというよりも、それを獲得するための一回性の形成の機会が失われる、ということだろう。それどころか、形成の体験そのものの機会が失われているともいえる。
『出会う建築』に関連付けて言えば、その出会いと形成そのものに喜びがあり、その機会を生み出すことも一つのテーマとなりうると思うのだ。




車輪の再発明とリアリティ B293『空想の補助線――幾何学、折り紙、ときどき宇宙』(前川淳)

前川淳 (著)
みすず書房 (2023/12/5)

珠玉の数理エッセイ集

著名な折紙作家であり、天文観測のエンジニアでもある著者によるエッセイ集。
折り紙と幾何学にまつわるすばらしいエッセイが詰まっていて、あと数篇未読のものがあるが読み終わるのがもったいない。

著者の引き出しは折り紙と天文学のみならず歴史や文学、絵画など幅広く好奇心に満ち、教養の深さを感じさせるが、それでいて謙虚で落ち着いた人柄を感じさせる文章。このような本を純粋に読み物として楽しむのは久しぶりかもしれない。

車輪の再発明とリアリティ

この本は昨年の12月に出版されたのだが、ちょうどそのころに「折り紙と幾何学」をテーマに日置市の「青少年のための科学の祭典」に出展することになったため、嬉々として購入した。

その科学の祭典は昨日無事出展完了し、その後出展メンバーで反省会をした時に、テンダーさんから「車輪の再発明」とリアリティというような話が出た。

「車輪の再発明」に関して、ちょうどこの本で読んだところだったので、その部分を抜き出してみる。

科学や技術に限らず、あらゆることが歴史の積み重ねの上にあるのは当たり前なのだが、時にそのことは忘れてしまう。ある意味では、忘れたほうがよいこともある。たとえば、ソフトウェアエンジニアリングの世界では、同じ機能を持つものはできる限り再利用することが効率的な開発の基本で、すでにあるものを一からつくりあげることは、「車輪の再発明」として揶揄される。既存のものは所与のものとして、第二の自然のように扱えばよいとされるのだ。しかし、すべての細部を一から理解する必要はないとしても、自分がどこに立っているのかを知ろうとすることは重要だ。(p.107)

今回、子どもたちとワークショップをしてみて、「自分がどこに立っているのかを知ろうとする」意識が薄く、ずっと答えを与えてくれるのを待っているような印象を受けることが何度かあった。
(それは、珍妙な格好をした大人を前にして縮こまっていただけかも知れず、私の力量による部分が多々あったかもしれない。今度このような機会があったら、ツカミのギャグ的なものを準備しておいた方がいいのかも。それはそれでハードルが高いけれども)

この辺の話をこれまで考えてきたアフォーダンスの文脈で考えてみる。

アフォーダンスは、「環境が動物に対して与える意味や価値である」と、環境が一方的に動物(人間)に情報を提供しているように誤解されがちだ。(特にデザイン的な文脈で)
しかし、実際には、アフォーダンスを獲得する前提として、まず、環境に対する働きかけとしての探索がある。また、環境の中から意味を見出すような嗅覚(技術)も必要だ。

<意味>と<価値>は環境内にある外的なものであって心の中の内的なものではない。<意味>はアフォーダンスを特定する情報であり、その探索的活動・知覚の動機となる。<価値>とは情報によって利用可能となった<意味>を実際に利用した結果として得られるもので、遂行的活動・行動の動機となる。動物はアフォーダンスを意識し行為するために<意味>と<価値>を求めるのである。また、ヒトなどの社会的動物はその意味と価値を共有することが可能となり、集団で意味と価値を求める。そうした動機づけの集団化は文化と技術と言える。それらもまた新しい選択圧を受け洗練されうる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » ギブソンの理論を人間の社会性へと拡張する B187『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』(エドワード・S. リード))

環境の中に何かしら「意味」の可能性を嗅ぎ分け、能動的に探索することで、何かの「価値」を得る。知覚はその運動性の中にあるのであり、静的で単独・受け身なものなのではない。
動物はそのサイクルを繰り返すことで命をつないでいくし、であるからこそ、その運動性の中に環境とつながっている、もしくは生きているというリアリティが宿る。(そこにある種の実感が宿るのは、生きていくために必要であるため生命の歴史の中で身につけたものだろう)

しかし、いつも「価値」あるいは答えだけを与えられ受動的にそれらを摂取するだけでは、そこにリアリティは宿り難い。何より、「意味」の可能性を嗅ぎ分けるための嗅覚も、探索するための目も、価値を得るための身体性も育たない。
そうなると、ますます受動的にならざるを得なくなる。知覚するには、もしくは世界とつながっているリアリティを得るには技術が必要なのだ。

子どもたちに、その「リアリティを掴みに行くぞ」という能動的な姿勢と技術の不足を強く感じたのだが、生きるために必要な基本的技術を持たせないまま大人にさせてしまってもよいものだろうか。

テンダーさんは、先程のソフトウェアエンジニアリングの文脈と同じような意味でライブラリーという言葉を使っていたけれども、あらゆるものがライブラリー化していく世界では「車輪の再発明」をしないでもよいエリア、すなわち探索の余地のないエリアが世界の多くを覆って生き、リアリティを得る機会が失われていく。

そのような世界では、あえて「車輪の再発明」のタブーを犯してでも世界をこじ開け、リアリティを掴み取るための技術を身につける機会を取り戻すことが必要なのではないか。私はテンダーさんの話をそのように解釈した。

それに対して、私は最近、「遊び」という言葉をキーワードにしている。
私は今のところ「遊び」を「ある特定の部分での解像度を高めて、世界とのキャッチボールをしながら探索と行為のサイクルを高密度でまわすこと」と捉えているが、そのような遊びの機会と、その技術を身につけるための機会を大人が奪わないことに意識的であるべきではないだろうか。(その点で、今回の私のワークショップではお膳立てをしすぎた感が強く反省点が多い。)

おまけ

今回、「青少年のための科学の祭典」で本書から小ネタを拝借した部分を紹介する。(展示用にかなりデフォルメしているので、内容についての責は私にあります。)








世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也)

河野 哲也 (著)
東京大学出版会 (2022/3/14)

2013年に刊行された『知の生態学転回』三巻本の続編とも言える新しい九巻シリーズのうちの一つ。
一気に全巻は難しいと思い、まずはそのうちの一冊を買ってみた。
(前回のシリーズも購入前はきっと読むのに苦戦するだろう、と思っていたけれども読み始めると面白くてどんどん読み進められたので、今回のシリーズも期待している。)

間合いとリズム・流れ

間(ま・あいだ・あわい・はざま)とは、引きつけると同時に引き離し、分けると同時につなげ、連続すると同時に非連続とし、始まると同時に終わるような、拮抗する力が動的に均衡している様子である。日本語における、ま・あいだ・あわい・はざまといった読みのそれぞれには異なるニュアンスがあり、間に対する感覚の豊かさが表れている。
また、間合いとは相互に間を変化させられる、合わせる能力も持った者同士にしか当てはめられないものであるが、本書では能や剣道における間合いのあり方を引き合いに出しながらそれを生態学的に捉えようとする。

では、どのように間合いを捉えるか。

間合いは、人の心を含めたあらゆるものを流体として捉え、自己と環境が関わりをその流体の中の渦のカップリングとして捉えようとする中に見出されるが、そこにはリズムがある。

このリズムは、休息の間に蓄えられた音楽を持続させる強度を保持するものであり、機会的な反復である拍子とは異なり、常に新しい始点を生みだすような、新しさの希求としての繰り返しである。そこに生命や創造性が内在している。

ここにおいて、アフォーダンスは、環境に存在する渦であるとともに、全体の流れ・リズムを支える型として捉えなおされる。
アフォーダンスに含まれる意味は渦であり、アフォーダンスへの応答を、自分の渦動を使ってひとつの潮流を形成していくような自己産出的運動と捉える。

本書では、このような感じで、環境と自己との関係を気象学や潮流の海洋物理学といった分野からアプローチするようなイメージが提出される。(ここまでの記述では意味が分からないと思うので関心のある方は本書を読んでみてください。)

残念ながら、それぞれの学問分野によって具体的にどのように記述可能か、という肝心の部分はほとんど触れられていないが、まずは、このイメージの提出によって何かを拡張させることが目論まれているはずである。

それは、動物の視点からみた環境との関わり合いを個別瞬間的に捉え、記述するようなイメージが強いアフォーダンスに、流体のイメージを重ねることによって、空間的および時間的に俯瞰・継続しながらアフォーダンスを捉えるイメージを付加しようとするものではないかと思う。(といっても、アフォーダンスが個別瞬間的な範囲に限定された概念であった、と言うことではない)

あるいは、本書では特別言及されてはいないけれども、オートポイエーシスのようなシステム論的な思考への接続が目指されているように思う。
本書でも、カップリングや産出、構成素といったシステム論における用語が(特段の説明がないまま)使用されており、オートポイエーシス・システムのようなものが前提とされていると思われるが、それによって、アフォーダンスを空間的・時間的に拡張するイメージを組み立てることが可能になっているように感じた。

昔から、アフォーダンスとオートポイエーシスは近い場面を描こうとしているのに、なぜダイナミックに組み合わされないのだろうかと疑問に思っている。
同じ場面を描くとしても、アフォーダンスは知覚者と環境及び環境の意味と価値について構造的なことの記述に向いているし、オートポイエーシスは知覚や環境の変化を含めたはたらき・システムの記述に向いているように思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 世界と新たな仕方で出会うために B227『保育実践へのエコロジカル・アプローチ ─アフォーダンス理論で世界と出会う─』(山本 一成))

このブログでアフォーダンスやオートポイエーシスに触れるたびに、両者の相補的な性質・相性の良さを感じながら、あまり交わったものをみないことを不思議に感じていたし、自分でも両者を交えた形で書くことを試してはいただけに、両者の接続は個人的には好ましい傾向であり今後の転回が楽しみでもある。

環境における無心としての主体

また、間合いやリズムを通じて、デカルト的な心身二元論ではない主体の概念を再提出することも、本書の狙いであろう。

アフォーダンスの概念を分かりづらく、誤解を招きやすいものにしているのは、動物の視点から環境を捉えることを徹底しながらデカルト的な見方を捨てることを要求する、この主体の概念である。
それを能や剣道の例をもとに描き出していく。

能においては地謡が語ることで場を用意し、ワキが二人称として存在することで初めてシテが主体(一人称)として現れる、というように、関係性の中に生まれる主体という世界観がある。
この、シテの演者が、無心になり、ワキや地謡、観客の視線といった環境の中で受動的に自分が運ばれる、というような境地に至ることで、こわばりや不自然さが克服される。
しかし、この状態はただ受け身であるのではなく、「離見の見」と呼ばれるようなメタ的な視点によって、自ら改変した環境の中ではじめて無心であれる、というような受け身である。
それは遊びの世界とも呼べる超越的な世界であるが、自分がつくりだした環境によって相手にトリガーを引かせ、そのトリガーによって自らが無心に運ばれるという、いわば高等技術である。

また、剣道における「後の先」という間合い(相手を攻撃するように仕向けて(トリガーを引かせて)無心に反撃する)というのも同様のありかたである。

そして、意図や行為を主体の心が生みだすものと捉えるのではなく、環境との関わりの中で形成されていくものと捉え、環境および環境との関わりを、渦・潮流とその整流と捉えるというのが本書の提出するイメージである。


ここまでは、私なりに捉えた本書の概要であるが、ここからは、建築を考える上でそれらはどのように展開が可能か、のとっかかりをメモ的に書いておきたい。

建築との間に間合いはあるか ~出会いの作法とつくること

最初に、間合いとは相互に間を変化させられる、合わせる能力も持った者同士にしか当てはめられないもの、と書いたが、そうだとすると、意志を持たない建築との間に間合いというものはあり得るだろうか。

本書でも日本庭園を例に出した上、そこに表現されているものを間合いと呼びたくなる、と書かれており、その理由は、日本庭園が移動し、身体で経験するものであり、差異化が常に待機状態であるから、とされている。しかし、それだけでは間合いがある、とは言い難い。
また、最終的には「しかし、それよりも根源的な音楽性、すなわち「新しさの希求」は、このような対人的・二人称的なやり取りの中でしか経験できない(p191)」と結論付けられている。

では、やはり建築との間に間合いというものはあり得ないのだろうか。

それに対しては確信はないけれども、2つの可能性を書いておきたい。

その可能性の一つは、技術・出会いの作法として以前書いたものである。
さまざまな渦の間に間合いが生まれるとすれば、対する渦が多様な現れをし、こちらの間に応じて異なる間を返してくれることが必要だろう。

技術とは、環境から新しく意味や価値を発見したり、変換したりする技術、言い換えると、新しい仕方で環境と関わりあう技術である。言い換えると、技術とは新鮮な出会いの方法である。(オノケン│太田則宏建築事務所 »  二-八 技術―出会いの方法)

上記引用元では、重ね合わせ・保留・ずらしの3つを挙げたが、日本庭園のように間の変化を前提とし、変化の契機を内在した、出会いの作法とも呼べる技術には間合いが生まれる可能性が残されていないだろうか。

可能性のもう一つは、つくること、である。

先の引用のように、今、住まうことの本質の一部しか生きられなくなっていると言えそうですが、どうすれば住まうことの中に建てることを取り戻すことができるのでしょうか。 それには、3つのアプローチがあるように思います。(オノケン│太田則宏建築事務所 » つくる楽しみをデザインする(3つのアプローチ))

つくることを届けるということは、つくる人を届けると言い換えても良いだろう。
上記引用元では、直接的に作る(施主)、職人さんの「つくる技術」を届ける(施工)、設計によって「つくること」を埋め込む(設計)の3つを挙げたが、それが届けられたとすれば、それをつくった過去の自分、職人、設計者と対峙し、そこに間合いが生まれる余地はないだろうか。

これらが、間合いに応じて異なる表情を出してくれるとすれば、そこに生命や創造性が内在したリズムが生まれはしないだろうか。
それが実現されたとすれば、それはおそらく建築の奥行きと呼べるものであり、案外皆が追い求めているものなのかもしれない。

オノマトペ 小さな矢印の群れ ハイパーサイクル

また、世界を流体・渦として捉えるイメージを前にした時、3つの書物が頭に浮かんだ。

オノマトペ

うまく掴めているかは分からないけれども、氏の「物質は経験的なもの」という言葉にヒントがあるような気がする。 モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾))

下図は、この本を読んだときにオノマトペの印象から書いた人と物質との関係の漫画だけれども、世界を流体・渦と捉えるイメージと驚くほど重なる。(隈氏のイメージの元にアフォーダンスがあるので当然かもしれないが)
onomatope

小さな矢印の群れ

同様に、例えば<収束モード>と<発散モード>を緩やかなグラデーションで理解するというよりは、それを知覚する人との関係性を通じてその都度発見される(ドゥルーズ的な)自在さをもった<小さな矢印の群れ>として捉えた方が豊かな空間のイメージにつながるのではないでしょうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » その都度発見される「探索モードの場」 B177 『小さな矢印の群れ』)

この時も小さな矢印をその都度発見される自在さをもったものと捉えようとしているけれども、これも流体・渦の世界にかなり近い。
この矢印に量子力学的な、もしくはネットワーク理論的なイメージを重ねることで、より豊かな場をイメージすることが可能にならないだろうか。

ハイパーサイクル

つまり、「感触」によってカップリングとして他のシステムに関与すると同時に、他のシステムからも手がかりを得ながら、サイクルを継続的に回し続ける。 このサイクルによって複合システム自体が再組織化され、新しい能力が獲得される。ここで、新たなものが出現してくるのが創発、既存のものが組み換えられるのが再編である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 実践的な知としてのオートポイエーシス B225『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本 英夫))

複数のシステムのカップリングによる創発のようなものの記述は河本英夫氏の方に一日の長がある気がするが、これに空間的なレイアウトのイメージを重ねたのが流体・渦の世界観かもしれない。

新しさに開いておく ~モートンのリズム

最後に、本書においてキー概念であるリズム。
新しさを希求し続けることによって、生命や創造性が内在しているのがリズムであったが、これが、モートンを読んだときに曖昧だったイメージを補完してくれたように思う。

モートンの思想の基本には、人間が生きているこの場には「リズムにもとづくものとしての雰囲気(atmosphere as a function of rhythm)がある。(中略)そして、彼が環境危機という時、それは人間とこの雰囲気との関係にかかわるものとしての危機である。人間は、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きているのであって、このリズム感にこそ、人間性の条件が、つまりは喜びや愛の条件があるというのが、モートンの基本主張である。(『複数製のエコロジー』p.44)

に書いたように、本書は一貫して距離の問題を扱っているが、そこでみえてくるのはとどまることの大切さである。 自然という土台がない、という土台からはじめる必要がある。それは、とどまりながら、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きていることを敏感に感じ取り、反応していくということなのだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

モートンは、ものごととのあいだに固定的な距離が生まれることを注意深く避けるために、独特のリズムを生きることを重要視しており、『自然なきエコロジー』は距離との格闘の書とも言える。

その際、固定化を避けるリズムを立ち上げ続けるような作法が重要だと理解しつつ、リズムに関しては曖昧なイメージしか掴めていなかったのだが、間合いとはまさに固定化しない距離の作法のことであろう。本書によってモートンのリズムが少しイメージできるようになった気がする。




父から子に贈るエコロジー B248 『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(森田真生)

森田真生 (著)
集英社 (2021/9/24)

前に読んだ2冊『数学する身体』『計算する生命』が面白かったので、数学者(と括ってよいかはわからないけど)がこのタイトルで何を語るのだろうか、と気になったので読んでみた。

パンデミックが起きた2020年の春からの生活と思考を、日記とエッセイを組み合わせたような形式で順に辿るような内容。

エコロジーについて

エコロジカルな自覚とは、錯綜する関係の網(メッシュ)の中に、自己を感覚し続けることだからである。網には、すべてを見晴らす「てっぺん」などない。(p.39)

強い主体として自己を屹立させるのではなく、むしろ弱い主体として、他のあらゆるものと同じ地平に降り立っていくこと。自己を中心にして、すべての客体(オブジェクト)を見晴らそうとするのではなく、大小様々なスケールにはみ出していくエコロジカルな網に編み込まれた一人として、自己を再発見していくこと。強い主体から弱い主体へ。このような認識の抜本的な転回(turn)は、僕たちの心が壊れないために、避けられないものだと思う。パンデミックの到来とともに歩んできたこの一年の日々は、僕自身にとってもまた、言葉と思考のレベルから「エコロジカルな転回」を遂げようとする、試行錯誤の日々だった。(p.173)

エコロジーという言葉を聞いた時、2つの意味が頭に浮かぶ。

一つは日本でもよく用いられる、「自然・環境にやさしい」というような意味でのエコロジー。

もう一つは学問分野の一つとしてのエコロジー(生態学)で、個人的には、これまで関心を持ってきた、ギブソンの生態学的心理学もしくはアフォーダンス理論が真っ先に頭に浮かぶ。

(タイトルの「エコロジカルな転回」という言葉は、前者に近い形での後者の意味で使われていて、ギブソンとの接点はあまりないのかな、と思っていたけれども、『知の生態学的転回』シリーズの熊谷晋一郎のところが取り上げられていた。このタイトルを意識している部分もあったのかもしれない。)

これらの2つのエコロジーを、異なる意味・用法だと思いこんでしまっていたけれども、本書を読んでいるうちに、本当は同じことなんじゃないかという気がしてきた。

「自然・環境にやさしい」エコロジーは、自己・人間と環境との関係を問い直すことだ、と突き詰めていくと、自己と環境とを切り離して考える思考の枠組みや態度のようなものを疑うことにつながっていく。
それは、まさにギブソンが目指したことであろうし、モートンが丁寧に解き放とうとしている世界なのではないか。

エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。 それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武))

おそらく、認識や思考の枠組みを改めることがエコロジーのスタートラインなのだ。
その時、「自己を感覚し続け」、「弱い主体として、他のあらゆるものと同じ地平に降り立っていく」ような、自分の感性を開いていくことが大切になってくるのだろう。

この記事で一番のポイントになる部分だと思うけれども、「それ以外の世界」を生活世界と分断し外部として扱う近代的な世界観が、人類の影響力を地質学的なレベルまで押し上げてきた原動力であったことは間違いない。 果たして、その世界観を書き換えないまま、この人新世を生きていって良いのだろうか。 本書はそういう問題を提起しているように思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武))

生活と言葉と思考

それでも、僕たちは、自分の、そして自分でないものたちの存在をもっと素直にappreciateしながら、単に現実を「耐え忍ぶ」のではなく、いきいきと生きていくための新しい道を探し続けていくことができるはずだ。(p.55)

だが、僕がここで考えたいのは、これ以前の問題だ。すなわち、都市化の進展とともに急速に顧みられなくなっていった、人間以外のものと接触する時間の喪失である。(p.86)

「遊び」とは既知の意味に回帰することではなく、まだ見ぬ意味を手探りしながら、未知の現実と付き合ってみることである。それは、みずから意味の主宰者であり続けようとする強さを捨てて、まだ意味のない空間に投げ出された主体としての弱さを引き受けることである。意味の全貌を見晴らせないなかで、それでも現実と付き合い続けようとする行為は、自然と「遊び」のモードに近づいていく。
(中略)
モートンは、子どもたちどころか、あらゆるモノが、精緻に見れば、すでに遊び心を体現していると語る。
『モノがモノであるとは、遊戯的(プレイフル)であるということなのだと思う。だから、そのように生きることのほうが、「精緻(accurate)」なのだ』(p.176-178)

自分の感性を開いていくような態度を思った時、数学者である著者がなぜこの本を書いたのか、がなんとなくわかった気がした。

著者は、パンデミック以降、それまであまり触れてこなかった、生き物・人間ではないものと触れることを生活のなかに取り込んでいく。
そうした中で、これからの生き方、思考の向く先を模索していく。
数学と身体を同時に語ったように、生活の変化させることと言葉と思考の変化を同時に押し進めていく。

そうした実際に行動に移していく力は、最初は意外であったけれども、思考を頭の中だけに閉じ込めないことの意味を体感してきて、それを信じられる著者だからこそだと思うと、腑に落ちた。

言葉と思考の転回は、おそらく頭の中”だけ”では起こせない。

転回へつながる変化を、回転させるかのように駆動させていく様子が、エッセイとして綴られていくが、それを頭のなかでなぞるだけでは本当の転回は起きないのだろう。

自分の生活のなかで、何かを変化させなければいけない。
そんな気がしてきた。
それは、直接的に環境にやさしくするために、ではない。遊ぶように生きていくためのエコロジカルな言葉と思考を手に入れるために、である。

父から子に贈るエコロジー

彼の環境哲学をめぐる著作全般に通じることだが、この本もまた、深刻な主題を扱っているにもかかわらず、読んでいて暗い気持ちにさせられることがない。地球温暖化という不気味な現実を直視しながら、それでもなお、どうすれば人は喜びを感じて生きていけるか。ただ「生きのびる(survive)」だけでなく、どうすれば人はもっと「いきいき(alive)」と生きることができるのか。モートンは一貫して、この問いを追求しているのだ。(p.41)

大学に入るためでも、希望の就職先に入社するためでもなく、自分が何に依存して生きているかを正確に知るために学ぶ。周囲から切り離された個体としての自分のためにではなく、周囲に開かれた自己を、豊かな地球生命圏の複雑な関係性の網のなかに、丁寧に位置づけ直していくためにこそ学ぶ。
僕はこれは決して、非現実的な妄想だとは思わない。なぜなら、自分が何に依存しているかを正確に把握していくことは、人間と人間以外を切り分けてきたこれまでの思考の機能不全を乗り越え、地球という家を営んでいくための、避けてはとおれないプロセスだからだ。(p.95)

未来からこんなに奪っていると、自分や、子どもたちに教えるより前に、いまこんなにもあたえられていると知るために知恵と技術を生かしていくことはできないだろうか。(p.163)

この本を読んでいて、著者の父としての目線を幾度となく感じた。

自分の子どもへの目線、というのももちろんあると思うけれども、連綿と続く数学の世界でバトンがつながれていくように、何かをつないでいく、という感覚が当然のようにあるのかもしれない、と思った。

自己と環境をつなぐための知恵や言葉、思考の枠組みの多くは、近代化の過程で失われてしまったかもしれないけれども、そういうものを再び紡ぎ出すことが今、求められているのだろう。

自分は子どもたちに、これからをいきいきと生き抜くための何かをつないであげられているだろうか。

『明らかに自己破壊に夢中なこの世界について説明を求められたとき、父は息子に何を語ることができるだろうか。』
僕はこの問いを、自分自身の問いだと感じる。
できることならこんな問いかけを、子どもたちにしなくてもいいような世界にしたい。だが、もし彼らがいつか、ただひたすら「自己破壊に夢中」な世界を前に、どう生きたらいいかを見失うときが来たら、僕は彼らに、言葉を贈りたい。心を閉ざして感じることをやめるのではなく、感じ続けていてもなお心が壊れないような、そういう思考の可能性を探り続けたい。(p.195)

本書は、父から子に贈るエコロジー・環境とともに生きるヒントの序章なのだと思う。




知覚のよろこびと、場所への信頼 B247 『あらゆるところに同時にいる:アフォーダンスの幾何学』(佐々木正人)

佐々木 正人 (著)
学芸みらい社 (2020/3/24)

ここのところ、移動時間などに何冊も読みためていたのだけど、忙しすぎてなかなかこちらに書く余裕がなかった。
ようやく、少し落ち着いてきたので順番に書いていきたいと思う。

あらゆるところに同時にいる

久々に佐々木正人の著作を読んだ。

本書のタイトル「あらゆるところに同時にいる」(To be everywhere at once,Being everywhere at once)は、ジェームズ・ギブソンが最後にまとめた著書『視知覚へのエコロジカル・アプローチ』の後半に二度書いたフレーズである。
何を意味しているかわからなくて、気になり、この本を繰り返し読んだ。かなりして、この一文は、彼がたどり着いた思想を、いっきょに示していることが分かった。 (p.6)

著者はこのフレーズが示しているであろうことを、本書を通じてじっくりと浮かび上がらせようとする。

この「二度書いた」とはおそらく下記の2つのことであろう。(『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る(THE ECOLOGICAL APPROACH TO VISUAL PERCEPTION)』より)

十分に広がった経路群で十分に長い時間にわたって、移動する観察点で外界を見ることによって初めて、あらゆる場所に同時にいられるかのように、すべての観察点で外界を知覚していることになる。(生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』p.211)

個体は環境に定位する。それは、地形の鳥瞰図をもつというよりも、むしろあらゆる場所に同時にいるということである。(生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』p.214)

この部分は私も気になり、以前、考えをまとめる際に引用している。

また、探索的移動によって動物は環境に定位できるという。それは、地形の鳥瞰図を意識の中に獲得するというよりは、環境内の不変項の抽出を通じて「あらゆる場所に同時にいる」ような知覚を得ることである。(その中で、現時点で見えるものは自己を特定する。)(おいしい移動 ~あらゆる場所に同時にいる|オノケン(太田則宏)|note)

人は見渡す、歩きまわる、見つめるなどの探索的な移動(ここでは身体を動かさずに環境を探索するような行為や想像力も含む)によって、あらゆる場所に同時にいる、もしくはあらゆる場所にいることが可能、というような感じを得る事が出来る。それは、「私のいる空間が私である(ノエルアルノー)」というような感覚かもしれない。 この「私である」と感じるような領域は、想像力も含めた探索的な移動によって大きく広げることができる。(オノケン│太田則宏建築事務所 »  二-五 移動―私のいる空間が私である)

「あらゆるところに同時にいる」

これは、ギブソンの思想を表すとともに、自分が建築を考える上での原点とも言えそうである。

自分が20代の頃に書いたメモのようなものを見ると、「私のいる空間が私である」「廻遊性」「敷地」「想像力」など、「あらゆるところに同時にいる」ような感覚に対する意識が強かったことが分かる。

知覚のよろこびと、場所への信頼

あらゆるところに同時にいること、言い換えると環境への定位には、知覚することのよろこびと、場所に対する信頼がある。

このことと、私がスキップフロアを多用することや、私自身が極度の方向音痴であることとはおそらく関係がある。

思えば私の建築への入口は、知覚することのよろこびや場所に対する信頼が伴わない建物の作られ方に対する違和感から始まっている。

その違和感から抜け出そうとした先で、ギブソンの「あらゆるところに同時にいる」ことを示す理論に偶然出会ったのだ。

知覚はタイムレス

この本の中で一つ、ピンとこないところがあった。

視覚は、一つの種類の持続ではない。見ることは、見ることがある限り、見ているあいだ続いている。視覚には時間がない。タイムレスである。(p.34)

ここでいうタイムレスとはどういうことだろうか。

古典的な視覚論は、目で捉えた光の刺激を脳が一つの像として処理する、というもので、一瞬の像の連続と考える。そこには過去・現在・未来と流れる時間がある。

しかし、定位の感覚はこの一瞬の像のみによってその都度生まれるものではなく、移動を伴う絶え間ない探索と並走する形で生じる。
目の前に過去・現在・未来と流れる時間のうちから切り取られた一瞬の像があるというよりは、時間を超え、場所・空間そのものと結びついた感覚として環境への定位があるのではないだろうか。

そして、時間を超え、場所・空間そのものと結びついている、まさにそのことによって、場所に対する信頼と、それをベースとした知覚することのよろこびが生まれるのではないか。

そうだとすると、「知覚することのよろこびや場所に対する信頼が伴わない建物の作られ方に対する違和感」から抜け出すためのヒントは、「あらゆるところに同時にいる」こと、すなわち環境への定位にある。

そして、そのために、環境の一つである建築を意味や価値との出会い、アフォーダンスに満ちた場にしよう、言い換えると定位するためのとっかかりとなる情報に満ちた場にしようというのは、私の建築への入口から考えると、たどり着くべくしてたどり着いたように思う。それは簡単に言うと、近代化・工業化を目指す社会がそういうとっかかりを、やっきになって消し去ろうとしてきたことへの反省もしくは抵抗なのである。




内外の行き来を支えるつながりの場 B239 『つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく』(綾屋 紗月, 熊谷 晋一郎)

綾屋 紗月, 熊谷 晋一郎 (著)
NHK出版 (2010/12/8)

以前読んだ、著者のお二方の話がとても面白くて、だいぶ前に購入していたもの。気が向いたので読んでみた。

この章は脳性まひを抱え車いす生活を送る著者によるもので、自らの体験や歴史的な背景も踏まえながら自立とは何かをまさに生態学的転回のような形で描き出している。 建築設計そのものとは直接関連があるわけではないけれども、その捉え方の転回は見事で示唆に富むものだったのでまずは概略をまとめてみたい。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

また、第6章では自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の当事者でもある著者が自身の自らの知覚特性とのつきあい方を発見していく体験が描かれている。 それは、それまで規範や常識によって押えられていた知覚に素直に従ってアフォーダンスを発見・再配置していく過程とも言えると思うし、それによって俯瞰できる自己感が生まれ他者とつながり始めたという事実は、アフォーダンスの発見と配置が自己のリアリティと社会性に関わることを示しているのではないだろうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » B186 『知の生態学的転回3 倫理: 人類のアフォーダンス』)

人それぞれの困難さ

今、3人の息子の子育て中なのだけど、面白いくらい3人とも性格が違う。
彼らはそれぞれ彼らなりの壁にぶつかっている・ぶつかっていくのだろうけれども、その彼らなりの困難さを理解することの難しさを日々感じている。
「自分だったらこうするのに」「こうすればもっと楽に生きられるのに」と思ってしまうけれども、その「こうすれば」が彼らの困難さを和らげるものなのかどうかは自分には分からない。
自分とは違う人間だから、と、これまで生きていた自分の哲学(とまではいえないような自分なりのやり方)に反するような方法で手を差し伸べてみたら、かえって困難さを深めてしまった、というようなこともあった。

そんな中、どこで見たかは忘れてしまったけれども、ADHDの人が自分のことを描いたある漫画を見て、こういう視点もあるのか、と思ったのだけど、本書の内容はその時感じたことにとても近かった。

研究の論理

そしてこの「構成的体制と日常的実践の相互循環」の重要性を前提としたとき、病気や障害を「治すべきもの」として捉える「治療の論理」でもなく、また「変わるべきは病気や障害を持った私たちよりも、それを受け入れる土壌を持たない社会のほうである。」として社会の変革のために闘おうとする「運動の論理」でもない、べてるの家での実践のような「研究の論理」を、当事者コミュニティの中に持ち込むことの意義が見えてくる。(p.124)

先の漫画を見て感じたのはまさにこういうことだった。
ADHDというある種の困難を抱えた人が必要としているのは、(その困難さがゆえに)本人ができること、というよりは、治療や援助のように外部から手を差し伸べることのほうだろう。と漠然とイメージしていた。
だけど、その漫画の主人公(著者)は自分の特性を把握し、それをできるだけコントロールしようと試行錯誤しながら、その人なりのやりかたで、困難さを和らげようとしていて、そこの大きな可能性のようなものが見えた気がした。
もちろん、うまくいくこともいかないこともあるんだろうけれども、自分を知るということが大きな力になりうるんだな、と感じた。

それは、いろいろな試行錯誤を繰り返し、自分の外(自分のいる社会や環境がどういうところか)と自分の内(自分はどういうひとか)の輪郭と接点を描き出しながら、自分自身のマニュアルをつくっていくようなことかもしれない。
(自分も何となく自分自身のマニュアルをつくりながら生きてきた、という実感がある。)

適度なつながり

また、その試行錯誤を繰り返すには、差異を認め合いつつ何かを共有し会えるような適度なつながり、もしくは、つながれる場が必要なんだろう。(たぶん、それは直接的な人とのつながりに限らず、社会やモノとのつながりも含むと思う。)

適度なつながりの場がなくては自分の外に出たり、内に入ったりといったことは難しくなる。そして、外に投げ出されたままでも、内にこもったままでも、試行錯誤のサイクルは回らないし、自身のマニュアルはなかなか更新されない。

子どもたちのことを考えると「自分とは違う彼らの困難さを理解すること」はやはり難しい。それでも、自分ができることは何かを問うとき、残るのは「外に出たり、内に入ったり」を支えるつながりの場の一つになることくらいしかないのかもしれないな。

(「自分のマニュアルをつくってみるといいよ」と言ったら、「それ、あんたのマニュアルにのってんの?」って聞き返されそう。
 うーん、のってないな。マニュアルつくろうと思いながら生きてきた訳でもないからちょっと違うかもしれない。試行錯誤が楽しいものだといいけどね。)




世界と新たな仕方で出会うために B227『保育実践へのエコロジカル・アプローチ ─アフォーダンス理論で世界と出会う─』(山本 一成)

山本 一成 (著)
九州大学出版会 (2019/4/9)

本書と「出会う建築」論

本書はリードによる生態学的経験科学を環境を記述するための理論と捉え、保育実践及び保育実践研究を更新していくための実践的な知として位置づけようとするものである。

私も以前、建築の設計行為を同じくリードの生態心理学とベースとした建築論としてまとめようとしたことがある
「おいしい知覚/出会う建築 Deliciousness / Encounters」
そのため本書は大変興味深いものであったが、結論から言うと、それは「出会う建築」において、今までなかなか埋めることの出来なかった重要なパーツ(何かに「出会わせよう」とすることが逆に出会いの可能性を奪ってしまうというジレンマをどう扱うか)を埋める一つの道筋を示してくれるものであった。

また、それだけでなく、保育実践に関わる本論の多くが建築設計の場面に置き換えて読むことで、その理解を深めることができるようなものであった。
(長くなったので前提の議論をすっとばすならここから。)

一回性の出会いとどう向き合うか

デューイにとって環境とは単なる教授の手段ではなく、教師と子どもがともに経験し、自己を再構成し続けるメディアである。そのメディアは、教育的状況において常に同じ教育的効果を発揮するといったものではない。メディアとしての環境は教育的状況の中でその都度出会うものであり、多様な仕方で生活を更新する。そして、教師が教育的状況において、子どもの成長についての問いをめぐらし、その環境との一回性の出会いをどのように理解するのかという課題を背負うとき、そこには人間と教育についての根本的な問いが含まれることになるのである。(p.59)

環境との出会いは一回性のものであるから、実践の場における決断のための論理にはなれない。もしくは、環境概念は意図を実現するための手段・固定的な道具である。
環境についての議論はこんな風に捉えられてしまいがちで、それによって本来の豊かさを失ってしまうという課題を抱える。そのことは、そのまま「環境を通した保育」を実践する上での現代の保育環境研究における課題へと連続する。

それは現在、環境を捉える際にも支配的な、主観と客観の二元論に基づいた客観主義心理学的な認識論が抱える問題点でもあるのだが、ここから抜け出すために、著者は保育者-環境-子供の系において生きられた環境を記述するための方法論が必要である、とする。また、それが本書の趣旨であるように思う。

同様に、環境との出会いという概念を建築の設計やデザインの分野に持ち込もうとした場合、「アフォーダンス」という言葉の多くが環境を扱うための硬直化した「手段」として捉えられていることが多いように、近代的な計画学的思考に囚われている我々も、そこからな抜け出すのはなかなか難しい

しかし、実際の設計行為に目を移すと、それは偶発的な出会いに満たされており、その中で日々決断を迫られながら、環境との出会いとどう向き合うかを問われ続けている。引用文をパラフレーズするならば「設計者が設計の場面において、建築と人間の生活についての問いをめぐらし、その環境との一回性の出会いをどのように理解するのかという課題を背負うとき、そこには人間と建築についての根本的な問いが含まれることになるのである。」とでもなるであろうか。

手段的・計画的な思考とは異なるやりかたで、この一回性の出会いと向き合うことができるかどうか。それによって、環境との出会いに含まれる豊かさを、建築へ引き寄せることができるかどうかが決まるのである。
その際、設計行為を設計者が建築を育てるような行為だと捉えるとするならば、設計者-環境-建築の系において生きられた環境を記述するための方法論が必要である、と言えそうである。

意味付与と意味作用

「環境との出会い」を記述しようとしても、客観主義心理学的に環境のみを記述するだけでは十分に捉えることが出来ない。そのような問題に対して「出会い」を捉える実践的な論理として先行していたのが現象学である。
ただし、教育学においては具体的な教育実践に向き合う必要があったことから、現象学は、現象の基礎づけへと向かうフッサール的な超越論的考察を留保し、教育現象の「記述」の方法に限定されたかたちで導入されてきたのであるが、これによって保育学にも生きられた事実を明らかにしようとする、記述のメタ理論がもたらされた。

しかし、現象学では主観による意味付与というかたちで環境を記述し考察する。このとき解明される保育環境は、空間経験の主観的側面に限定され、文化や環境そのもの特性は背景化されるという限界がある

これに対し、レヴィナスは「意味付与」に先立ち現前する「意味作用」としての他者というものから経験を捉えようとしたが、本書ではそのレヴィナスの批判を引き受けつつ、現象学の限界を補完するものとして生態心理学の思想をもう一つのメタ理論に位置付けようとする

それは、

本研究は経験についての形而上学を行おうとするものではなく、形而上学的に考察された「経験」や「主観性」、「記述」といったことの意味を、現実の保育実践研究のメタ理論として捉えなおし、保育環境について問いなおそうとするものである。(p.109)

この文章の保育という言葉を設計に置き換えると、そのままこの記事で書こうとしていること、もしくは「出会う建築」で書こうとしたことに重なる。
設計行為という実践の場でふるまうための方法論が欲しいのだが、本書ではそれを環境を記述するためのメタ理論に求めているのだ。そのことについてもう少し追ってみたい。

メタ・メタ理論としてのプラグマティズムと対話的実践研究もしくは独り言

本書では現象学を否定し、代わりに生態心理学を位置づけようとするものではなく、両者を相補的なものと捉えている。両者を両輪に据えるためのメタ理論としているのがプラグマティズムである。

ジェームズによれば、プラグマティックな方法とは、「これなくしてはいつはてるとも知れないであろう形而上学上の論争を解決する一つの方法」であり、それは論争の各立場が主張する観念のそれぞれがもたらす「実際的な結果」を辿りつめてみることによって、各観念を解釈しようと試みるものである。(p.125)

要するに、ジレンマを抱える2つの考えの美味しいとこ取りをしよう、ということのように思うが、そうやって現象学と生態学的経験科学を扱おうというのが本書の意図である。(著者自身はそのうち生態学的経験科学の方に軸足を置いている)

現象学は主観による意味付与の省察によって表象的世界の記述を行う(生きられた世界の現象学的還元)。
生態学的経験科学は環境の意味作用の省察によって生きられた環境の記述を行う(環境のリアリティの探求)。

保育実践研究をひとつのコミュニケーションとして捉えると、そこには送る側と送られる側双方に経験の変容が生じることで、相互の理解が深まり、実践の理解の在り方が変化していく。保育実践研究の発展はこのようなプロセスの中に見いだされるものなのである。(p.129)

ここで、設計行為の設計者-環境-建築の系で考えた場合、保育実践研究と保育実践は批評と設計行為にあたる。ひとつの案件で建築を育てていく場面では、この批評の部分をどうプロセスの中に置くことができるかが重要なポイントになる。とくに私のようなぼっち事務所の場合、この両者のコミュニケーションは単なる独り言になってしまいうまくサイクルがまわらなくなりがちである。その時にこれらの記述のためのメタ理論が、もう一人の自分に批評者としての視点(イメージとしては人格)を与え、対話的サイクルを生むための助けとなるような気がする。

「共通の実在/リアリティ(commonreality)」の探求

アフォーダンスは直接経験可能な実在であるが、ノエマ(付与された意味)として主体の内部に回収されるものではない。それは環境に存在し、他者と共有することが可能な実在である。(p.163)

リードは環境を共有可能なものとして捉えた。「おいしい知覚/出会う建築 Deliciousness / Encounters」でも環境の共有可能性・公共性を重要な視点の一つとして位置付けたが、本書ではその公共性をリアリティを共同的に探求していくための根拠として位置づける

共通の実在(reality)は、その価値が実現(realize)していく中で、確証されていくのである。(p.173)

以上のように、保育を「そこにあるもの」のリアリティの共有へ向けた探求として考えてみるとき、その探求を駆動しているのは、私たちが「そこにあるもの」の意味や価値を汲みつくすことができないという事実である。(中略)しかし、「そこにあるもの」は、私たちが自由にそれに意味を付与することができる対象なのではない。経験は、その条件としての環境のアフォーダンスに支えられている。(p.175)

保育は環境の中に潜在している意味と価値、そこに含まれているリアリティをリアライズしていく過程そのものと言える。
同様に建築の設計行為もその環境の中に潜在している意味と価値、リアリティをリアライズしていく過程だと言えよう。

それを支えているのは「そこにあるもの」の意味や価値を汲みつくせないという事実であるが、これは容易に見失われてしまうものでもある。

私は建築が設計者や利用者の意識に回収されないような、自立した存在であって欲しいと思っているが、設計行為はややもすると、施主や設計者の願望をかたちに置き換えただけのものになってしまうし、どちらかと言えば「そこにあるもの」の意味や価値をできるだけ汲みつくせるものにすることを目指しがちである。そしてそのような場面では、容易に汲みつくせないような意味や価値は、ないものとされがちである。
そのプロセスには、そしてそうやってできた建築物には、もはや新しい出会いで満たされる余地は残っていないし、むしろそのような余地自体が敬遠されているようにも思う。

充たされざる意味

第Ⅲ部では、具体的なエピソードを交えながら保育という実践の中で環境の「充たされざる意味」が充たされていく過程とその意味が描かれる。

実際の保育の現場では、刻々と変わる状況の中、例えば「教育的意図を実現するか、子どもの主体性を尊重するか」というような、さまざまな二項対立的な葛藤の中で、保育者として瞬時に何らかの決断を下さなければならない、ということがよくある。

リードは、自分と異なる価値観をもつ他者、自分と異なる行動のパターンを持つ他者を理解する上で、環境の「充たされざる意味」を充たしていく過程が重要であると主張する。(中略)「充たされざる意味」とは、私たちの周囲を取り巻いているが、いまだその可能性が知覚されていない情報のことを指している。(p.187-188)

他者が環境と関わる仕方を目の当たりにした際、そこで「何か」が起こっていると感じ取ることによって、理解への道が開かれる。時に保育者は、理解できない子どもの行為に直面したり、子どもの行為の意味の解釈について葛藤を抱えることがある。(中略)それは葛藤やゆきづまりという状況に踏みとどまり、その状況を探索することで「充たされざる意味」を、共に充たし発見していくという相互理解の在り方なのだといえよう(p.189)

例えば、設計者の意図と施主の意見、家族同士の意見の相違、機能性と機能性以外の価値、など、建築の設計行為の中でそういった「どちらをとるか」というような場面はよくある。そして、保育での場面と同じように何らかの決断を下さなければならない。また、保育の場がリードの「行為促進場」としての在り方を問われるように、設計行為の継続のためには設計行為の行われる場の在り方も問われるだろう。そういった場面ではどういったことが考えられるだろうか

本書では、それに対して、「充たされざる意味」を共に充たしていく過程、もしくは保育者の実践的行為を保育-環境-子どもの系の調整として捉えることによって二項対立を克服するような関わりの在りようが示される。

そこに明確な回答が存在するわけではないが、そこで第三の道が見いだされるような場面には保育者の「感触」を見逃さないような姿勢があるように思う

エコロジカル・アプローチの役割

さて、ここで、設計を、建築における環境との出会いの一回性と向き合い、環境の中に潜在している意味と価値、リアリティをリアライズしていく過程として捉え、それを実践するためにプラグマティズムのメタ・メタ理論のもと、環境との出会いを記述する理論として、現象学と生態学的経験科学を位置づける。そのうち、環境のリアリティを探求するために生態学的な記述によって考察するのがエコロジカル・アプローチである。とした時、エコロジカル・アプローチとはどのようなもので、実践的な役割はどんなものだろうか。

その前に、こんがらがってしまったので、先に一度整理しておきたい。
建築において「環境との出会い」を考えるとき、次の2つの系があると想像していた

設計者-環境-建築の系 設計行為の実践の中で、現場状況や法的規制、施主の要望等も環境として捉え、建築を育てていこうとするような場面。保育の場面では、保育者-環境-子どもの系で保育者として実践する場面に相当すると思われる。

環境-人の系 完成後の建築を人の環境として捉え、建築そのものが人にどう出会われるかを考えるような場面。保育では保育環境を子どもとの関係を考えながらどう考えるか、という場面に相当すると思われる。

しかし、前者は実際は建築が直接環境と出会うというのはいい難い。ここは、設計者-環境(建築)-人(与件)の系なのではないか、そう考えると道筋ができそうな気がしてきた。(建築を育てていこうというイメージで設計者-環境-建築と考えるのは環境を手段とするような見方が入り込んでしまっていたように思う。)

設計行為の実践の中では、人を含めた与件・設計条件の中で、建築という環境を発見的に調整していく(環境の中に潜在している意味と価値、リアリティをリアライズしていく)というプロセスを繰り返すことで、建築の中に自然と意味と価値が埋め込まれていく(埋め込んでいくのではない)。設計者はその中で自ら「充たされざる意味」を(共に)充たし、リアリティに出会おうとすればよい

そうして出来上がった環境としての建築は、設計者が関わりを終えた後でも、共有可能な出会いに満ちたものになっているはずである。そこでの出会いのプロセスは別物なので、人が何にどう出会うかは分からないし、設計者がなにかに出会わせることはできない。しかし、それによって建築はおそらく豊かなものになるだろうし、設計者にそれ以上の事はできない。

そう考えるとすっきりしたし、この後で考えようとしていた、出会いのジレンマ(冒頭で書いた、何かに「出会わせよう」とすることが逆に出会いの可能性を奪ってしまうジレンマ)をどう扱えば良いか、という問いにも、意図せず応えられそうである。

完成後の建築に出会わせようとするのではなく、設計行為の中で出会おうとすればそれでよいのだ。私自身が、環境を手段とみなす視点からなかなか抜け出せなかったので、得られたのは個人的に大きい。
そして、その出会いを探求するための理論がエコロジカル・アプローチなのである。

であるとするならば、実践の中で、もしくは過去の実践を振り返りながら、「環境との出会い」を記述する方法を身につけていくことが設計の精度をより高めていくことにつながるだろう。

本書は最後こう締めくくられる。

繰り返すが、保育者は潜在する環境の「意味」や「価値」に出会わなければいけないのではない。ただ、「そこにあるもの」が発する可能性に耳を澄ませることが、子どもとともに生きるなかで、世界と新たな仕方で出会う力になるのである。(p.247-248)

そう、設計者は潜在する環境の「意味」や「価値」に出会わなければいけないのではない。ただ、「そこにあるもの」が発する可能性に耳を澄ませることが、設計を行うなかで、世界と新たな仕方で出会う力になるのである。

まとめ

重複もあるが、本書の中から要点をいくつか抜き出して箇条書きでまとめてみる。

・アフォーダンスを知覚することは「そこにあるもの(things out there)」のリアリティが一つのしかたで現実化(realize)すること。(p.181)
・共通の実在(reality)は、その価値が実現(realize)していく中で確証されていく。(p.173)
・環境は、確かにそこに在るが、それは同時に汲みつくすことの出来ないものとして存在している。そのことによって環境は、子どもの経験世界と保育者の経験世界をつなぐメディアとなっている。(p.176)
・複雑な保育実践の「場」を捉えていくには、環境を独立して扱わず、系の全体性を損なわない形で人間と環境のトランザクションを記述する理論が求められる。(p.184)
・自分と異なる価値観をもつ他者、自分と異なる行動のパターンを持つ他者を理解する上で、環境の「充たされざる意味」を充たしていく過程が重要。(p.187)
・環境は、保育者が子どもの育ちへの願いを込めるメディアでありつつ、常にその意図を超越した出会いをもたらすメディアでもある。(p.202)
・「充たされざる意味」を充たすことは、環境に新たな仕方で出会い、環境の理解を更新する営み。(p.205)
・「意味」と「価値」を環境に潜在するものとして捉えることで生じるのは、保育者が「環境の未知なる側面」に注意を向けていく動きである。(p.209)
・環境の「充たされざる意味」という概念は、「意味ある何かが進行している」という状況と、コミュニケーションを通してその「何か」が確定していくプロセスを記述することを可能にする。(p.213)
・エコロジカル・アプローチにおいては、記述される経験についての省察は、主観の意味付与の過程に内生的に向かうのではなく、主体に先立つ、経験を可能にした条件としての環境の実在に向けられる。(p.227)
・エコロジカル・アプローチは二項関係ではなく、「生きられた環境」の系のなかで出会うアフォーダンスを探求しようとする。その際、保育者と子どもとが知覚しているアフォーダンスの差異が探求の手がかりになる。(p.228-229
)
・環境は記述しつくせない。「そこにあるもの」は、常に私の意味付与の権限の及ばない<他なるもの>として到来する可能性をもって潜在している。(p.230)
・エコロジカル・アプローチは再現可能性に基づく科学ではなく、公共的な議論の場を開いていく保育実践の科学。(p.230)
・出会いの条件となる環境を記述するが、「出会わせる」ことのできる環境は記述できない。環境は生成体験のメディア。(p.230)
・日常の環境は、新たな出会いを可能にする重要な資源(p.231)
・環境は探求されるものであると同時に、その出会いは実践のなかで偶然性を伴って到来する。(p.231)
・日常生活における「ありふれたもの」は生成体験のメディアになることによって、「有用性」のエコノミーに回収されることのない保育実践を生じさせる。保育者と子どもが接する環境が、「そこにある」と同時に、「出会われていない」という自体は、生活のなかで日常を超え出ていく可能性を担保し続ける。(p.235)
・「有用性」基づく思考様式に回収される日常を脱しない限り、保育実践もまた「発達」の論理に回収されることとなる。しかし、生活のなかには、日常のエコノミーを超え出ていく通路を見出すことができるはずであり、保育学にはその道を照らし出す責任がある。(p.237)
・記述した環境を対象化し、手段化することは出会いという生成体験を日常性のエコノミーへと引き戻してしまう危険を常に抱えている。子どもをしてなにかに「出会わせよう」とすることは、逆に子ども自身の出会いを妨げることになりかねない。(p.241)
・より良い保育実践の探究は、身の回りに「出会われていない環境」が存在し、「そこにあるもの」が、今自分が見ているものとは異なる「意味」や「価値」をもって経験される可能性があり得るということを「気に留める姿勢」を持つことによって可能になる。(p.244)
・メディアがメディアとして立ち現れるとき、その第1の条件となっているのは、手段としての環境への関心ではなく、そのときの保育における子どもへの関心である。そして第2の条件となるのが環境の探求である。(p.245)
・環境の可能性を気に留めておくことは、環境の意図の実現の手段にするのでもなく、環境を通した保育に無関心でいるのでもない、環境に異なる「意味」や「価値」を見出す予感を備えて実践に臨むことを示している(p.245)

追:オートポイエーシス的システム論との重なりと相補性

余談になるが、本書を読んで先日読んだ『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』と重なること、同じことを言ってるんじゃないか、と感じることが多かった。例えば次のような部分である。

「臨床の知」は、外部からの観察によるのではなく、身体を備えた主体としての自分を含めた全体を見通す洞察によってもたらされる、探求によって力動的に変化する「知」なのである。(p.83)

ギブソンが知覚を行為として捉え、それが「流れ」であり「終わらない」ものであると捉えている点に注意を向けるとき、(中略)ギブソンは知覚を、単なる意識でなく、「気づくこと」であると述べる。(p.171)

-意味ある何かが進行している-ということの知覚こそがほとんどの場合、そうした状況内に見出される記号的あるいは社会化された意味を確かめようとするいかなる試みにも先立って起こる。(p.188)

それ以外にも運動・動き・更新・生成・~し続けるといったはたらきを示す言葉や、「なにか」「感じ」「予感」といった触覚的な言葉も頻発する。加えて、手段や目的といった客観主義心理学的な思考を回避しようとすることにもオートポイエーシスとの重なりを感じるし、かなり近い現象を捉えようとしていることは間違いないと思う。

著者は、記述の問題を、保育実践研究というはたらきのなかに位置付けているし、個々の保育者が身につける臨床的な技術のイメージは河本氏の著書の臨床のイメージとかなり近いように思う。

なので、保育実践研究や、保育実践及び設計行為のはたらきの部分はオートポイエーシス・システム論によって記述しても面白そうである。

先の設計行為に当てはめるとすれば、設計の完成形を先にイメージするのではなく、設計目標のイメージを一旦括弧入れした上で、設計者-環境(建築)-人(与件)の系の中で、環境探索と批評及び環境調整のエコロジカル・アプローチ的なサイクルを「その結果として「目標」がおのずと達成される。」ように繰り返す。このエコロジカル・アプローチ的サイクルはまさしくオートポイエーシスの第5領域における「感触」「気づき」「踏み出し」といい変えられそうである。

おそらくこれらの2つを組み合わせることでよりいきいきとしたものが記述できるようになり、さらに実践的なイメージが湧くのではと思ってしまう。

昔から、アフォーダンスとオートポイエーシスは近い場面を描こうとしているのに、なぜダイナミックに組み合わされないのだろうかと疑問に思っている。
同じ場面を描くとしても、アフォーダンスは知覚者と環境及び環境の意味と価値について構造的なことの記述に向いているし、オートポイエーシスは知覚や環境の変化を含めたはたらき・システムの記述に向いているように思う。

それぞれ得意分野を活かしながらなぜ合流しないのか、不思議に思う。もしかしたら両者の間に埋められないような根本的な溝があるのかも知れないが、それこそプラグマティズムのもとに合流しても良いような気がする。

もし、著者が保育実践研究について、オートポイエーシス的な視点を加えたものを書くとするなら、読んでみたい気がするし、河本氏の著書にどういった感想を持つか聞いてみたい気がする。




動きすぎないための3つの”と” B224『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉 雅也)

千葉 雅也 (著)
河出書房新社 (2017/9/6)

『勉強の哲学』を読んで、著者の書いた別のものが読みたかったのと、テーマが自分の関心と関連しそうな気がしたので購入。

哲学の分野を体系的に学んだことがない自分にとっては、難解すぎた(前提となる議論に無知すぎた)ため、最後まで読み切ることは難しく感じたけれども、これまで考えてきたこととの接点があるように感じてからは、分からないなりにも読み進められるようになり、(新幹線で長時間没入できたこともあって)なんとか読み終えた。

ただ、通して読んでいるうちは、なんとなく理解できていたつもりだったが、マーキングした部分をざっと読み返してみると、もはや断片だけでは何が書かれていたのか思い出せない箇所が多い。
これを理解するためには何度も読み直したり、関連書籍を当たったりして思考に馴染む必要がありそうだけども、それをする時間は今はとれそうにないので、なんとなく頭に浮かんだことの断片だけでもメモしておきたい。

”と”の哲学 ふたつのあいだ

本書を読んだ印象では、ドゥルーズの哲学は”と”の哲学である。

接続的/切断的、ベルクソン/ヒューム、全体/部分、潜在性/現動性、イロニー/ユーモア、表面/真相、生気論・宇宙/構造主義・欠如、マゾ/サド

著者は、意図的にこれらを対照的に描きながらスラッシュを”と”に置き換え、それらの間の第三の道を探そうとする

《である》を思考する代わりに、《である》のために思考する代わりに、《と》と共に思考すること。経験論には、それ以外の秘密はなかったのだ。『ディアローグ』

それは学生の頃から考えている空間の収束と発散に関する問いとも関連するように思うし、このブログでも何度も考えてきた。

例えば国民国家的空間を収束の空間、帝国的空間を発散の空間とした場合、どちらの空間を目指すか、という葛藤は絶えずある。しかし、それを単純な操作で同時に表現できるとすれば、それは大きな可能性を持っているのではないか。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B216 『ゲンロン0 観光客の哲学』)

対象的なふたつのあいだを行きつ戻りつ(すなわち動きすぎずに)どちらでもあるような態度のイメージ。そこに空間のイメージのヒントも隠れているような気がする。

”と”の哲学とオートポイエーシス

他方、「動きすぎない」での生成変化とは、すべてではない事物「と」の諸関係を変えることである。(p.66)

この”と”は、対照的な概念の関係を示すだけでなく、事物の関係性を示す語でもある。

ドゥルーズは変化する関係性そのものを捉えようとしている

それは、オートポイエーシスのはたらきと重なるのではないか。そう感じてからは、イメージの取っ掛かりが掴め、なんとか本書を読むことができるようになった
おそらく、オートポイエーシスのはたらきを捉えようとする感覚(これがなかなか芯で掴みづらい)がなければ、全く歯が立たなかったと思う。

ここでは、オートポイエーシスとの関連を感じた部分を抜き出しておきたい。

ドゥルーズ&ガタリにとって実在的なのは、多様な分身としての微粒子群における諸関係である。(p.89)

関係束の組み変わり(アジャンスマン)、これが、生成変化の原理である(p.101)

・・・すなわち、関係は、関係づけられる微粒子(項)の本質に還元不可能である。(p.106)

それは、世界の全体性を認めない一方で、様々な連合のそれぞれが、ひとつの連合として成立している=ひとつの全体である、と認めることに当たるだろう。世界の全体性に包摂されない、別々の連合=関係束それぞれの全体性-すなわち、個体性である。(p.233)

欲望する諸機械においては、すべてが同時に作動する。しかし、それは、亀裂や断絶、故障や不調、中断や短絡、くいちがいや分断が同時多発するただなかにおいて、それぞれの部分を決してひとつの全体に統合することがない総和のなかにおいて作動するのである。なぜなら、ここでは、切断が生産的であり、この切断それ自体が統合であるからである(p.234)

そして、本章の議論は、〈微視的な差異の哲学〉と〈変態する個体化の哲学〉の兼ねそなえこそが、ドゥルーズ(&ガタリ)において革新的であった、という結論に至るのである。(p.243)

対して、本稿の場合では、事物の、そのつど有限な関係束のみに実在性を認め、それらは、可能無限的に更新されうるが、しかし、更新が止まる場合もありうる=「余り」なしになることもある、と考えるからだ。(p.290)

こうして「何?」の抽象性と「誰?」の個体性のあいだで、ドゥルーズの潜在的な差異の哲学は、個体化の哲学へと向かうのである。(p.302)

対して、後半でのドゥルーズは、すべてをヒューム的に再開する。退行的に。すなわち、言葉に溢れた表面の下の、つまり深層の、断片的な事物が飛散しているばかりの状況から、一枚の=つながった表面はどのようになされてくるのか-主体の「システム化」-を、問うことになる。これが、深層からの「動的発生genese dynamique」論と呼ばれる(p.329)

「部分なき有機体」は、部分は持たないにしても、断片を素材にしている。この有機体は、意味的な部分は持たないが、非意味的な断片を素材にしている。(p.340)

出来事の子音的な断片が乱打される荒野から、やくそくなしに、個体的な区域、まとまり、器官なき身体が、生じてくる。これが主体化=個体化である。(p.341)

オートポイエーシスの定義等は省略するが、これらの文章はオートポイエーシスシステムについて述べられている、と言われれば、そのように思えなくもない。
(本書でも一度だけオートポイエーシスについて触れられているが、入出力の不在をもとにベルクソンについて述べているもので、ドゥルーズとの関連を述べているものではない。)

ドゥルーズ(0925-1995)とマトゥラーナ(1928)やヴァレラ(1946-2001)、年代的にどの程度影響しあっていたのか分からないが、共通性に着目している人がきっといるはず、と検索するとこの論文がヒットし、稲垣諭という方に辿りついた。
氏の『壊れながら立ち上がり続ける ―個の変容の哲学―』はドゥルーズの生成変化とオートポイエーシスのどちらにも関連が深そうなので早速読んでみたいと思う。

”と”の哲学とアフォーダンス

行動学としての倫理とは、外在性の平面に乗って、というのは、自分の傾向性を不問にされて-自分=項の本質を知らないことにしておき-、様々な事物「と」の接続/切断の具合いを試すことである。(p.422)

本書ではダニの生態をもとに動物について、及び動物への生成変化についての考察がなされる。

ダニは「三つの情動」つまり、「光」「哺乳類の臭い」「哺乳類の体温」に器官によって関連付けられ反応することで生き延びている。
ドゥルーズはダニを動物の中の動物として注目するのである。
それは、知覚する側からの視点で世界を捉えることを徹底したギブソン的な態度と重なる部分がある。
待ち伏せするものとしてのダニは一見受動的な存在のように思えるがおそらくそうではない。そうではなく、徹底的に環境「と」の接続/切断の具合いを試しつづける能動的な存在としての象徴なのである。

そうなると、ドゥルーズの求めた動物的な存在とは、生態学的な態度で世界と関わろうとする、オートポイエーシス的な個体のことと言えないだろうか。(と書きつつ、それがどんなものかはぼんやりとしたイメージでしか無いけれども)

ここでもドゥルーズとアフォーダンス(生態学)との関連を感じた部分を抜き出しておく。

逆に、ヒュームと共にドゥルーズは、関係を事物の本性に依存させないために、事物を〈主体にとって総合された現象=表象〉ではなくさせる。総合性をそなえた主体の側から、あらゆる関係を開放する-私たち=主体の事情ではなく、事物の現前から哲学を再開するのである。(p.110)

動物行動学、いや、一般に「行動学」としての倫理を採用することは、何をなしうるかの制限である道徳を放棄して、自分の力動の未開拓なバリエーションを、異なる環境条件において、発現させようとすることである。(p.421)

私の身体は、他者たちへの無意識の諸関係にほかならない-これは、関係主義の一種である。しかしながら、この「動物的モナドロジー」は、モナドたちの孤独な夜への傾きにおいて再評価されなければならず、昼への傾きを誇張的に弱め、無くしてしまうのでなければならない。(p.434)

ダニへの生成変化、それは、ごくわずかな力能の発明から再出発することである。動きすぎないで、身体の余裕をしだいに拡げていく。(中略)私たちは、特異なしかたで暗号のいくつかを切りとり、特異なしかたで分析しなければならない。非意味的に、特異なしかたで。(p.436)

ドゥルーズは『ABC』において、動物が「世界をもっている」のに対し、「ありふれたみんなの生活を生きている多くの人間は、世界をもっていないのだ」と嘆く。この文脈は、あえて有限な環世界をもつことを肯定するというテーマを確かに示唆している。(p.437)

最後に引用した文は、建築における出会いについて考えるヒントになりそうな気がする。

まとめ

あまり理解できたとは言えないし多少強引なところもあるが、本書の中のドゥルーズに、3つの”と”を見つけることができた。
1つ目は、相反するようなものと同時に満たすような、両義性を備えた”と”
2つ目は、個体化する環境束、すなわち変化し続ける関係性としての”と”
3つ目は、様々な事物に対し能動的に待ち続ける、知覚する態度としての”と”

相反するもののあいだを行き来しながら、環境を探索しつつ、自らを生成変化し続けるような自在な存在。これまでブログで書いてきたこととつなげるとこういう感じになるだろうか。

ホーリスティックな発想における本来的かつ未来的な共同性への志向は、様々なエゴイズムで分断された世界から私たちを、いや、世界それ自体を解放せんとする一種の統制的理念であり、これは今日においても有効性を失ったわけではない。しかしながら、インターネットとグローバル経済が地球を覆い尽くしていき(接続過剰)、同時に、異なる信条が多方向に対立している(切断過剰)二一世紀の段階において、関係主義の世界観は、私たちを息苦しくもさせるものである。哲学的に再検討されるべきは、接続/切断の範囲を調整するリアリズムであり、異なる有限性のあいだのネゴシエーションである。(p.288)

そのような哲学から生まれる・生まれている建築、もしくはそのような哲学を肯定する建築とはどのようなものだろうか。




仕掛けは選択肢の一つとしてさりげなく B222『仕掛学―人を動かすアイデアのつくり方』(松村 真宏)

松村 真宏 (著)
東洋経済新報社 (2016/9/22)

知人に紹介してもらって買った本。
まだ考えがうまくまとまっていないけれども、メモ的につらつらと書きながら考えてみたい。

仕掛け

著者は仕掛を定義する要件として次の3つを挙げている。
公平性(Fairness):誰も不利益を被らない。
誘引性(Attractiveness):行動が誘われる。
目的の二重性(Duality of Purpose):仕掛ける側と仕掛られる側の目的が異なる。
仕掛けを面白く感じるのは目的の二重性によって異なるものが不意に結びつくことにあるように思う。

ここを読んで、事務所のキックオフイベントとして行った模型展を思い出した。
投票によって人型を並べてもらったのは、投票行為であるのと同時に、町並みに見立てた会場の賑わいを生み出すことでもあったし、模型を持ち上げないと展示の一部が見えないようにしたのは、模型に手を触れることを遠慮することを避けることでもあった。
うまくいったと感じた仕掛けは確かにこの定義を満たしていたように思う。

また、便宜的に仕掛けの原理を分類体系としてまとめられていたが、これは原理を理解する手助けになる。
仕掛学研究会ホームページ論文より引用

心理的トリガは物理的トリガによって引き起こされ、互いが自然に結びつく関係にあるとき、その仕掛けはうまく機能する。

建築と仕掛け

さて、建築と仕掛けについて。
東京での修行時代、その時の所長に「お前は建築を装置として考えすぎている。」と指摘を受けたことがある。
そこでなされる行為や、そこから受け取る印象・感情等と建築とを直接的に結びつけすぎているということだと思う。これには言われて確かにそうかもしれない、と思ったのを覚えているが、その時はだからどうすれば良いというのはよく分からなかった。

仕掛けは定義にある通り、目的を予め想定するものである。
建築が人の行為を規定してしまうことの不自由さの是非を問うような議論は昔からあるが、果たして、仕掛けの目的性は建築にふさわしいものなのだろうか
鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B014 『原っぱと遊園地 -建築にとってその場の質とは何か』

はっきりいって設計するということは、残念ながら本来的に人に不自由を与えることなのだと僕は思う。どんな設計も人を何らかのかたちで拘束する。だから、僕はそのことを前提にして、それでも住むことの自由を、矛盾を承知のうえで設計において考えたいと思っている。それが、つまり、「いたれりつくせり」からできるかぎり遠ざかった質、ということの意味である。もともとそこにあった場所やものが気に入ったから、それを住まいとして使いこなしていく。そんな空気を感じさせるように出来たらと思う。

それに対して本書では「仕掛けは行動の選択肢を増やすもの」としている。

仕掛けの良いところは、あくまで行動の選択肢を増やすだけで行動を強要しないところにある。もともと何もなかったところに新たな行動の選択肢を追加しているだけなので、最初の期待から下がることはない。どの行動を選んでも自ら選んだ行動なので、騙されたと思って不快に思うこともない。(Amazonページより)

行動を誘引はするけれども強要はしない。

ギブソンはアフォーダンスという概念で、知覚する側からの視点で世界を捉えることを徹底したが、そういう視点で仕掛けを見た時、仕掛けはあくまで選択肢の一つとして立ち現れるもので、能動性は担保されうるように思えなくもない。
そして、その能動性が先の3つの要件、公平性・誘引性・目的の二重性によって守られるのだと考えると、この定義の重要性も見えてくる
うまくすれば仕掛けも出会いの一つ足りうるのかもしれないな。(ただし、その効果はこの本でも書かれているように減衰するものであって、減衰後のあり方にも配慮が必要だろう。)

うーん、やっぱり油断すると建築を(出会いのための)装置として考えてしまいそうになる。
そこから距離を取るためにギブソン的な視点の転回を必要としてるんだけど、忙しさにかまけてしばらく思考をサボるとその辺の感覚を見失ってしまうし、その視点と設計という行為とのジレンマに負けそうになってしまう。

結局、修行時代に受けた指摘に応えるためにまだ藻掻いてる感じで、修行はいつまでも続きそうだな。




保育環境を包み込む建築空間はどうあるべきか B203『学びを支える保育環境づくり: 幼稚園・保育園・認定こども園の環境構成 (教育単行本)』(高山 静子)

高山 静子 (著)
小学館 (2017/5/17)

環境構成をよりわかりやすくまとめた一冊

『環境構成の理論と実践ー保育の専門性に基づいて』と同じ著者による環境構成の本です。

『環境構成の理論と実践』が環境構成の理論を体系的にまとめることを試みたものだとすると、本著はその理論を豊富な事例・写真をもとにビジュアル的にも整理して、より読みやすく多くの人に伝わりやすいように再編されたもの、と言えるかもしれません。
保育関係の本は一冊のノートに簡潔にまとめて、いつでも読み返せるようにしようと思っているのですが、ここまで密度が高いとそのまま机の脇に置いておいた方が良いかも知れません。付箋を付けるのも途中でやめて、使い勝手を良くするためにインデックスを貼ることに作業を切り替えました。

子どもを『子どもは、環境から刺激を与えられて、知識を吸収する。(古い子ども感)』から『自ら環境を探求し、体験の中から意味と内容を構築する有能な存在。(新しい子ども感)』と捉え直すことからスタートするのは、まさしくアフォーダンスの話です。
保育関係者には是非とも一読をお薦めしたい本ですが、もしかしたらアフォーダンスに興味がある方にとっても、その実践のイメージを掴むためには良書かも知れません。

保育環境を包み込む建築空間

さて、分野に限らず、本を読む時に常に頭にあるのは、”建築空間はどうあるべきか?”という問いです。

この本には保育環境の一つとして建築空間を構成するための直接的ヒントに溢れていますが、それは主に保育者の視点からのもので、あえて言えば(心地よさや美しさといったことも含めた)機能的要求としての要件として捉えられるものだと言えます。
ですが設計者としては、ただそれに応えるだけではまだ不十分で、さらに建築の設計者の視点から見た、子ども・保育者・保護者その他関係者やまちや社会にとって”建築空間はどうあるべきか?”に応える必要があるように思います。(とは言え、著者は例えば「秩序と混沌のバランス」「空間の構造化と自由度のバランス」といった、設計者が持つような視点にまで言及しています。)

環境構成の技術は、個々の子どもの遊び・学びを支えることを第一義として行われるものだと思いますが、建築はそれをより大きな視点から、子どもや保育者を包み込むような存在であるべきもののように思います。
そのような場であればこそ、環境構成の技術がより自在に発揮され、子どもや保育者が安心して活き活きと遊び学ぶことができると思うのです。
最後は言葉ではなく、その空間に包まれた時に単純に「あっ、ここで遊びたい。」と思えるような、そして、そこでさまざまなものに出会えるような、実際の建築物として応える必要があると思うのです。

例えるなら、園長先生が、保育の知識と環境構成の技術に優れているだけ、では園長先生足り得ず、やっぱりそこに何かしら人間としての魅力が見えて初めて、園長先生が園長先生となり、その園がその園となるようなものです。
建築空間も、保育の知識と環境構成の技術に応えているだけ、では建築足り得ず、そこが建築的・空間的魅力で溢れて初めて、その園がその園となるような建築足り得るのだと思うのです。

そのために、建築のプロとして、経験と知識、想像力と設計技術を総動員する必要があると思いますし、それらを日々磨き続ける必要があると思います。




保育の現場で「どうしてそうするのか」の原則を共有するために B199 『環境構成の理論と実践ー保育の専門性に基づいて』(高山静子)

高山静子 (著)
エイデル研究所; B5版 (2014/5/30)

環境構成という専門技術

この本では、さまざまな園の異なる実践に共通した原則を説明することを試みました。原則は、実践の骨組みとなる理論です。原則ですから、理想の園や理想の環境を想定して、それに近づくことを求めるものではありません。人が太い背骨を持つことでより自由な動きができるように、それぞれの保育者が、環境構成の原則を持つことによって、より自由で柔軟な実践ができればと願っています。

保育園、幼稚園、認定こども園などの保育施設での保育に関する理論を何かしら知っておきたい、ということで手に取ったのですが、めちゃめちゃ参考になりました。

例えば、学童期以降の子どもは、机に座り教科書を使って抽象的な概念を学ぶ、ということができます。
しかし、乳幼児はまだそれができないので、自ら直接環境に働きかけ、体験を繰り返すことで、さまざまなものを学んでいきます
直接教えるのではなく「環境を通して」教育を行うのが原則で、保育者はそのために、子ども自らが学べる環境を構成していく、というのが幼児教育の一番の特徴・独自性のようで、とても腑に落ちました。

そのために、保育者には、高い専門性に基づいた広く深い知識と環境構成の技術が求められるのですが、それは「園と家庭や地域とのバランス、安全と挑戦などのさまざまな矛盾の中でのバランスを踏まえた上で、その時々の個々の子どもの状態に合わせた環境の構成・更新を繰り返す」という非常に高度なものです。

そのような実践のための理論を体系的にまとめたのが本書ですが、保育に求められることの専門性と理論の大枠がイメージできたというのは大きな収穫でした。
また、僕はこれまで、子どもが育つ上での建築をどうつくればいいか、というのを一番のテーマとして考え続けていて、「「おいしい知覚 – 出会う建築」」というところに辿り着きました。
そこで辿り着いた考え方と、保育の分野での考え方と重なる部分が多いように思ったのですが、それがあまりにもぴったり重なるのにびっくりしました。(もともとの問題意識の設定からすると当たり前といえば当たり前なのかも知れませんが、もう、保育施設を設計するためにこれまでがあったんじゃないか、くらいに感じます。)

理論の必要性と展開

では、そのような理論をなぜ知っておきたい、と思ったのか。

例えば、保育のための空間を設計するという場面を考えた時に、個人的な体験や好みで決められることも多いような印象があります。それがスタートでも良いと思うのですが、保育の現場では特に「どうしてそうするのか。そうしたのか。」が説明できた方が良いと思いますし、そのために「太い背骨」となるような理論があることは非常に有効だと思うのです。

「どうしてそうするのか。そうしたのか。」ということは、建物の設計や建設の段階では、多くの関係者が同じ方向を見て良いものをつくっていくために必要なものです。
また、建物ができた後の実際の保育の現場でも、保育者や保護者等の関係者が、同じ方向を見て良い保育を実践していくために必要なものだと思います。そして、それが子どもたちのよい体験へとつながります。

園の目指すもの・思想といった大きな枠・物語は園長先生等トップが描くことが多いと思いますが、保育者や設計者がそれをプロフェショナルとして実践のレベルでさまざまな要素に落とし込んでいくには、専門的な理論の枠組みを掴んでおくことは非常に大切です
その点でこの本に書かれているものは、まさに!という内容でした。

この本で学んだ背骨としての理論を実践として展開できるように、さまざまな事例や理論の研究を進められたらと思います。
同じ著者の実例よりの本も買っているのでとても楽しみです。)

建築に求められるもの

ところで、環境構成は状況に応じて臨機応変に行われるべきものです。そんな中、建築空間には何が求められるでしょうか。

園が子どもも興奮させ一時的に楽しませる場所であれば、できるだけにぎやかな飾り付けが良いでしょう。しかし園は、子どもの教育とケアの場です。そこでは、レジャーランドやショッピングセンターの遊び場とは一線を画した環境が求められます。子どもたちが、イメージを膨らませて遊んだり、何かの活動に集中するためには、むしろ派手な飾りがない落ち着いた環境が望ましいと考えられます。

著者は、基本的には子どもが個々の活動に集中できるように一歩引いた存在であるべきという前提です。
例えば、空間を構成する技術として「子どもの自己活動を充足させることが出来る空間」「安心しくつろいだ気持ちになれる空間」「子どもが主体的に生活できる空間」「個が確保される空間」「恒常的な空間」「変化のある空間」など挙げ、それらのバランスをとりながら空間を構成する、と書いています。

その他、さまざまな事が環境構成の技術・理論としてまとめられていますが、保育者のための理論という意味合いが大きいので、重点は個々の場面での環境構成という短いタイムスパンに区切ったものが多かったように思います。

それに対して、建築は、子どもにとっては建築は在園中の長い期間接するものですし、個々の場面だけではなく建築全体としても子どもの環境になりうるものです。また、それは街からみると、もっと大きなスパンで存在するものですし、風景としての要素も小さくはありません。

ですので、個々の発達段階の空間構成に寄与できる空間をつくるとともに、建築全体としても園の思想を表していること、まちの風景であること、子どもにとっての原風景となれるような建築体験ができるものであること、などが建築には求められるのではないでしょうか

特に子どもにとっては、住宅を除いて初めての長期的な建築体験の場になることが多いと思います。建築でしか出来ないような体験、出会いを作り出すことも設計者の大きな役割だと思いますし、そのための術を磨いていきたいですし、それは住宅も同じだと思います。




生態学的な能動的態度に優れた人々 B190 『アトリエ・ワン コモナリティーズ ふるまいの生産』(アトリエ・ワン)

アトリエ・ワン (著)
LIXIL出版 (2014/4/25)

コモナリティの意図するところ

出版された当時はまだピンと来ずに購入を見合わせていたが、「おいしい知覚/出会いの建築」(以下[知覚])をまとめる過程で関心を持った知覚の公共性と関連があるように思ったので購入した。
序盤で本書の意図について書かれているが、これ以上要約のしようがないほど密度の高い文章なので、途中省略しながらそのまま引用したい。

20世紀後半の日本の奇跡的なGDPの伸びを駆り立てたものとして、さまざまな領域での産業化があった。だがこの過程によって思わぬ副産物が生まれた。それは、自分が生きる自然とどんな折り合いをつければよいか、自分の街にどんな家を建てたらよいか、パブリック・スペースを自分たちでどう実践したらよいか、といったことを知らない人々である。知らないと言うことは、連帯することができないということである。すると人々は「個」へとばらばらにされ、「公」やマーケットが認めるシステムに依存することになる。人々が自分で判断して自律的にふるまう余地と機会が、徐々に奪われてきたのである。[・・・]でも残念なことに、それでは個が個であることを越えることができない。そんな個は貧しい。この風景に欠けているのは、世代の違いを越えて受け継がれ、主体の違いを越えてその場所で共有される建築の形式や人々のふるまいであり、それが反復されることにより成立するいきいきとした街並みや卓越した都市空間である。そうしたものの成立のためには、私たちは優れた建築を設計する偉大な個人にだけでなく、時代や主体の違いを越えた偉大な人々にならなければならない。偉大な人々の一部であると感じることができれば、自信と誇りが湧いてくるだろう。それがないから「幸せかどうかわからない」のではないだろうか。[・・・]その仕組みは人びとというまとまりを、純粋な「個」と純粋な「公」に分離生成していく傾向をもっている。[・・・]「個」と「公」に重きを置きすぎた20世紀の建築が「共」を取りこぼしてきたのなら、「共」に軸足をシフトした建築実践の冒険を始めよう。
そして、そこに広がる「共」の領域を、建築のコモナリティと呼ぼうというのが本書の意図するところである。(強調引用者)

アトリエ・ワンはコモナリティを軸にし、個体の違いを越えて共通するタイポロジーや、「公」が求める「空っぽの身体」に対する「スキルをもった身体」といったことを手掛かりに、「住宅の系譜学」「窓のふるまい学」「マイクロパブリックスペース」「広場・公園の設計」の4つの領域でデザインを展開している。
本書ではそれらをベースに理論や観察、実践例等幅広い視点を横断しながら「コモナリティ」という言葉を描き出している。

コモナリティの生態学的解釈

塚本氏はおそらく生態学を理論のベースとしていると思われるが、本書では(おそらく意図的に)生態学には触れていない
ここで自分の言葉に引き寄せるために[知覚]で書いたこととの関連をまとめておきたい。
[知覚]では知覚の性質の一つとして知覚の公共性を挙げたが、コモナリティでは「公」と「共」を明確に分けており「共有性」という言葉を用いている。その違いはなんだろうか。
[知覚]で公共性という言葉を用いたのは、人間の集合的存在としてのあり方をより良く表していると判断したからであるが、個々の知覚・ふるまいの場面においては共有性という言葉の方がより直接的で相応しいようにも思う。これについては「公」「共」「個」とは何か、「公共性」とは何か、を含めて今後考えていきたい。

ここから、先の引用文を[知覚]の言葉で捉えなおしてみる。

ふるまい方を知らない人々は、「公」やマーケットが認めるシステムに依存して、生態学的な能動的態度を忘れてしまった人々であり、そこに内在する悦びを忘れた人々と言えるだろう。
ここで「公」とは制度として人々のふるまいの能動性を奪うもの(本書でいうところのフーコーの「生権力」)、[知覚]でいえば、囲い込むことで受動的態度に人々のふるまいをとどめるものである。ここでは「はたらき」は有効に作動せず、「予定的自己決定」から出ることはできない。そこには遊びの余地はなく、予測誤差は痛みとしてのみ現れる

知覚の公共性によって初めて、個人や時間、空間などを越える、言い換えると(私、今、ここ)を越えることが出来るようになるが、それが制限されることによって、同時に、皆とともにいること、そこに住んでいること、歴史の中にいること、文化を共有していること、といったいわば人間が人間であることを奪われるように思う。

本書でいう偉大な人々というのは、そういう人間の集団的存在としてのあり方に能動的に参加しうる人々と言えるだろう。
また、タイポロジーは集団的存在としての人間の文化・技術・歴史に内在する不変項であり、「スキルをもった身体」とは生態学的な能動的態度に優れており、個人として相互行為にか関わる技術(アフォーダンスの探索・利用スキル)を持った人々である。また、そういったスキルの発動可能性を多様に担保することが生態学的な倫理であり、それに対して建築は大きな責任を負っているように思う。
このようにコモナリティは知覚の公共性に重なる概念であるといえる。

これまで建築と都市や社会との関係性がいまひとつ捉えられないでいたが、ようやくぼんやりとではあるがイメージできるようになってきた。
この本でも多くの書籍が紹介されているが、それらも参考にしながら、そのイメージの解像度を上げ、建築の実践につなげられるようにしていきたいと思う。




経験には喜びや希望、生きることのリアリティが内在している B188『経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ』(エドワード・S. リード)

エドワード・S. リード (著)
新曜社 (2010/3/31)

前回と同じ著者で、生態心理学の流れで倫理的な視点に対して信頼を持てるようになることを期待して手にとったもの。

原題は『The Necessity of Experience(情報の必要性)』だが、最終章のタイトルよりとった『経験のための戦い』が邦題である。
最初に感想を述べると、哲学的な枠組みからか、教育や労働環境等とその背景となる哲学や心理学に対する批判が8割以上を占めている感じで少し読むのが辛かった。
主旨から考えると、『経験のための戦い』として批判にページを割くのではなく、『経験の悦び』や『経験の希望』というような内容に力を入れて欲しかった、というのが率直な感想である。

哲学的枠組みに乗って現在あるものを否定することで正当性を求めるのは、本書で批判している枠組みそのものをなぞり、経験的な意味を損なうことになると思うし、その枠組では結局のところどういう立場からものをいうかの観念的問題でしかなくなるような気がする。それよりは経験に内在するという悦びや希望、可能性を丹念に描き出すことに力を注いで欲しかった。(そういう意味では前回の本は面白く読めた。)

とは言え、その批判的な部分は現在のものづくりにもそのまま当てはまるし、デューイの哲学はこれまで見てきた生態学的な倫理の基盤とも言えるものであった。

確かに現在のものづくりは不確実性に対する恐怖が支配的で機械的になものになっているし、一時的経験が剥奪されたものの集合体である都市は技術や経験の蓄積としての集合的記憶を見失いつつある

それに対し設計に関わることでできることは、不確実性に対する恐怖に贖い生きられた経験を取り戻すべく努力することと、設計を新たな集合的記憶への道を示すような”技術”として捉え直し風景へと埋め込むような可能性を模索することだろう。

では、知覚・経験がもつ根源的な意味については何が言えるだろうか。

確信を得るためのものが見つかったとは言えないが関連しそうな部分を抜き出しておきたい。(強調は引用者による)

(行動の動機となるような)行動に付随しておこる積極的あるいは消極的な感じは、孤立した内的状態ではなく世界を経験することの一部なのである。

日常経験にかかわるエロスつまり生きられた経験の喜びは、端的にいって生活への愛、[事物や他者との]出会いや効用の快感である。エロスは対象や情況とのわれわれの出会いに内在している

ごく普通に何かをすること-料理、庭いじり、裁縫、建築、音楽、スポーツ(中略)これらの活動は(フロイトによる)妨げられた性交などではなくて、環境と触れ合うありふれた方法であり、そのままで楽しみなのである。

彼(モリス)がゴシック様式を愛好したのは、石工その他肉体労働者が建物を設計したという事実に拠っていた。かれらは建築家の設計図をただ実行に移しただけではなかったのだ。(中略)モリスにとって有用な仕事は、とりわけ誇りと希望を人に植え付ける仕事だった。ここで、誇りとは自己と生産物に対する誇りであり、希望とは自己改善と十分な「休息」に対する希望である。

すべての人間の経験には、ごく単純なそぞろ歩きから複雑極まりない技術的熟練に至るまで、限りない可能性がある。したがって経験のもっとも重要な面である希望は、主観的感情ではなく、世界とわれわれの出会いの客観的特性なのだ。

希望は主観的でも私的でもない。希望は公共的な経験と行動の一面なのである。希望に必要なのは、個人が行為の主体として自らの成功と能力の両方を知覚することであり、目標への進路が「開かれている」(すなわち、自分のエージェンシーにとって実現可能である)ことである。

われわれの生活の意味は、自分でそれを捜す努力を払うときにのみ見いだされるだろう。

この本でも経験が喜びや希望とつながる、と言えるような確実な根拠はなかったように思う。(それを求めるのも不確実性に対する恐怖に囚われているのかもしれないが。)
それでも、経験(知覚と行為)が意味と価値を内包し、生物が生きていく上で不可欠なものであるのであれば、そこに喜びや希望、生きることのリアリティが内在しているとしても不思議ではないし、特に子供の頃を思い返せば実感としては納得できる気がする。

いや、もしかしたら、そこに確実性を求めるのではなく、リアリティとつながる体験とは何か、を考える実践的努力とそれを信じる勇気こそが必要なのかもしれない。
これまで見てきた佐々木正人他さまざまな人たちがそれを体現してくれているように思う。

(”少年のモード”と”つくることとつかうこと”がそのヒントになるだろうか。)




ギブソンの理論を人間の社会性へと拡張する B187『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』(エドワード・S. リード)

エドワード・S. リード (著)
新曜社 (2000/11)

これまで読んだ本でも何度も引用されており、生態学を社会性のようなもとつなげられそうな予感がして読んでみた。

世界/環境との切り結び

進化・行動・価値や意味・社会や文化・言語や思考といった動物・ヒトが生きることに関する問題が次々に描かれる。そこには一貫して<個体と世界/環境との切り結び>という考えが中心ににありブレない。いや、ブレずにそれらを描ききり科学的な基盤となり得ることを示すことこそが本書の目的であった

まず、重要と思われるいくつかの用語を挙げながら”自分なりに”まとめておきたい。

<環境との切り結び>・・・環境の情報/アフォーダンスをピックアップし利用したり改変したりすること。生態学のベースとなる考えで能動的に行われる。受動的に刺激を受け取り反応するといった考えとは反する。この能動性がおそらく決定的で、「環境から」入力があるのではなく「環境を」探索する。入力されたものを組織化するために脳があるのではなく、切り結びを協調させるための一つの機能として脳が進化したと考えられる。司令主義的原理ではなく選択主義的原理

<情報>・・・個体をその環境と一体に結びつけることを助けるもの。外部特定的な情報自己特定的な情報がある。アフォーダンスとほぼ同義であると思われる。それは行為の調整を通じて環境から価値を得るための<資源>となり、また行動や進化の選択圧ともなる。このような選択圧は行動の時間のスケールから、個体発生の時間スケール、系統発生の時間のスケールまであらゆるスケールで生じ、一つの行動の選択から進化にまで関わる。

<行動/行為>・・・アフォーダンスを利用するために環境と特定の関係を結ぶこと。行動は能動的で<調整>するものであって機械的・受動的に<構成>されるのではない。また、遂行的活動探索的活動がある。<行動>は自己と周囲との関係を変える動物個体の能力と定義されている。

<行為システム群>・・・多種多様な環境があるためそれを利用する多様な行為システム群が分化するような選択圧がかかる。大きくは「基礎定位システム」「知覚システム(探索的)」「行為システム(遂行的・非動物的環境)」「相互行為システム(遂行的・動物的環境)」に分けることができる。その中にさらに「移動システム」「欲求システム」「操作システム」「有性生殖システム」「養育・グルーミングシステム」「表出システム」「意味システム」「遊びシステム」などが挙げられている。

<意識>・・・生態学的な<知覚>とほぼ同義。動物は自己の周囲のアフォーダンス群をその場で利用するかしないかにかかわらず意識する。情報のピックアップ・探索的活動そのものが能動的な行動であり、意識はその成果であると言えるかもしれない。それは自覚的であったり信念を持つといった機械論的神経機構による反応のことではない。

<心理学/動機づけ>・・・<心理学>は心身二元論における刺激-反応過程の心を探る研究ではなく、<運動するもの>の研究、すなわち動物がいかに周囲と切り結び、その切り結びをいかに調整するかについての研究だと定義される。そこには行為と意識の両方が分離されずに含まれる。同様に<動機付け>は正の心的状態を求める快楽主義ではなく、動物がその生息環境のアフォーダンス群とそれぞれ独自の道において関係するように進化してきた選択圧への調整の過程だと考えられる。感情との結合が仮に生じたとしても副次的なことでしかない。

<意味/価値>・・・<意味><価値>は環境内にある外的なものであって心の中の内的なものではない。<意味>はアフォーダンスを特定する情報であり、その探索的活動・知覚の動機となる。<価値>とは情報によって利用可能となった<意味>を実際に利用した結果として得られるもので、遂行的活動・行動の動機となる。動物はアフォーダンスを意識し行為するために<意味>と<価値>を求めるのである。また、ヒトなどの社会的動物はその意味と価値を共有することが可能となり、集団で意味と価値を求める。そうした動機づけの集団化は文化技術と言える。それらもまた新しい選択圧を受け洗練されうる。

ここで書いたことは全て<個体と世界/環境との切り結び>の考え方と整合する。すなわち、この視点から総合的な心理学を研究する道を切り開いたと言えるが、建築を考える上でこれらはどういう意味を持つだろうか。
建築が環境の一部であることを考えると、この事によって建築が生態学的に<生きること>に対して大きく関連していることに対する信頼を得られる、という点で意味があるように思う。言い換えると、建築を考える際に<個体と世界/環境との切り結び>の視点、すなわち建築がどのような知覚と行為の可能性を担保できるかという視点を持つことによって様々なことにアプローチする可能性が開かれたと言っても良いかもしれない。
当然この考え方が100%正しいという保証はどこにもなく、将来には全く違った視点に書き換えられるかもしれない。しかし、生態学的な視点が建築に対しても新たな視点を提供しており、それは私がそれとは知らずこれまで考え・感じてきたことにかなりの部分で重なっていることは確かである。(だからこそ興味を持ったわけだが。)今の時代を生き、建築に関わっている一人としては信頼してみる価値はあるように思う。

人間への拡張

この本の価値は、ギブソンの理論を人間を取り巻く特殊な環境まで拡張するアイデアを提出したことにあると思う。

人間の際立った特徴は社会性を持つことによって、集団的に生きるための意味と価値を求めることが可能となった(文化と技術)ことと、さらに環境を改変することによって、それらを場所や道具、言語や観念、習慣等によって定着・保存しつつ環境に合わせて調整し続けられるようになったことにあるだろう。また、それらの意味や価値を適切なフレーム(相互行為フレーム:アフォーダンスを限定する「窓」)や場(促進行為場:子供が利用できるようにアフォーダンスを適切に調整した場。保育園や学校、家庭など)を設けることで引き継いでいくようなシステムも生み出されている。(これらは人間に限ってはいないが際立っている。)

人間の発達過程をもとにその流れを思考の獲得にいたるまで切り結びの一つ、相互行為を中心にまとめてみたい。

[自分]→[相手] [自分]←[相手]・・・静的な対面的フレームの中での二項的な相互行為。単純な反応や真似など。(これは声や行為を挟んだ三項的な相互行為とも考えられそう)。自己と他者を理解し始める。表現や簡単なゲームもできるようなる。

[自分]→→[モノ]←[相手] [自分]→[モノ]←←[相手] ・・・動的な社会的フレームの中での三項的な相互行為。同じ物を挟んでの相互行為で環境のアフォーダンスを共有できるようになる。物を交互に動かしあったり他者と遊びや活動を共有できるようになる。文化のなかに入り始める。

[自分]→→[認識]←[相手] [自分]→[認識]←←[相手] ・・・集団の中に入ることで薪を集めたり食べ物を探したりと言った具体的課題に含まれる一連の活動の方略とその適正さについて考えられるようになる。すなわち<認識>を共有できるようになる。<認識>は人-物-人の三項関係の物の部分に認識を当てはめた相互行為とも考えられる。生きたプロセスであり、自己と周囲との接触を維持する(持続性を獲得する)能力でもある。また、その課題に含まれるアフォーダンス群のまとまりをまとまりとして知覚できるようになる。さらに、その技能を時刻や場所と関連づけた日常のルーチンとしても認識できる。また、人間は<満たされざる意味>、意味への予感のようなものを動機として先立って行為に携わる傾向性があるという。分からないけれどもやってみるというのが認識の発達をリードする。

[自分]→→[言語]←[相手] [自分]→[言語]←←[相手] ・・・<言語>は人-物-人の三項関係の物の部分に言語を当てはめた相互行為とも考えられる。言事は、観念あるいは表象の手段ではなく、情報を他者に利用可能にするための手段であり、それによって自身および集団の活動調整に寄与するものである。また、言語がこれほど強力な調整者である理由の一つは、人々に現在の環境状態だけでなく、過去や未来の環境状態を意識させるからであり、これは変容され集団化された一種の予期的制御である。このことはひょっとするとヒトのもっとも根本的な変化であるかもしれない。また、言語はあるものを共有するために選択する「指し言葉」から、指し示すだけでなくコメントする「語り言葉」へと発達する。

[自分]→→[言語]←[自分] [自分]→[言語]←←[自分] ・・・<思考>は上記の人-言語-人の三項関係の相手の部分に自分を当てはめた相互行為とも考えられる。すなわち自分が生成(行為)した言語を環境として受け取り自分で知覚し、さらに生成(行為)するサイクルが思考なのではないだろうか。実際の場面では三項関係の相手は自分・相手・書物などと入れ替わったり、環境から知覚の一種として言語を抽出するような行為もあるかもしれない。本書では思考は、世界の諸側面を自分自身に向けて表象する自律的能力と定義している。思考はより複雑な予期的制御を可能とするだろう。

三項関係への当てはめは個人的な解釈によるところもあるので誤解が含まれているかもしれないが、これらも全て<個体と世界/環境との切り結び>が基本にある。それは逆に、人間が世界/環境とよりうまく切り結ぶことを動機として進化してきたこととともに、それを自分達の環境の中にさまざまな形で埋め込むことで発達可能性を担保し続けてきた文化的・歴史的存在であることを示している。

これは建築が長期間に渡って切り結びを担保できる存在、すなわち文化的メディア(媒体)であることの可能性と責任をつきつけるものではないだろうか。そして、その可能性は<個体と世界/環境との切り結び>に対する信頼の先に開かれているように思う。

また、<思考>の三項関係の[言語]の部分に設計(案)を配置することでそのまま設計論になる。さらに、この設計プロセスや、意識-行為システム、思考システム、文化的発達保障システムなどはオートポイエーシスシステムとそのカップリングのイメージを重ねることでより働きとしてのダイナミズムと強度を持てるようになるように思う。
(アフォーダンスについて一番の疑問はなぜオートポイエーシスと融合したような理論が見当たらないか、である。私の知る限りではいくつかの対談で見ただけで融合はしなかった。何かそれを困難にする理論的壁が存在するのだろうか・・・)

400ページほどの文章を自分の関心に従って簡単にまとめたので、これを読んだだけでは良く分からないかも知れないが、個人的な記録としてはそれなりにまとめられたと思う。あと一冊同じリードの本を読んだ後、知覚をベースに建築に対する考えをまとめてみたいと思っているがうまくいくだろうか・・・。




建築の倫理とアフォーダンスの肯定的世界観 B186 『知の生態学的転回3 倫理: 人類のアフォーダンス』

河野 哲也 (編集)
東京大学出版会 (2013/8/26)

シリーズ最終巻のタイトルは倫理。
生態学と倫理がどう結びつくのだろうか。巻頭の「はじめに」にはこうある。

本巻の寄稿者たちは、それぞれの分野において、社会や文化の領域にエコロジカル・アプローチを適用することに関心を持ってきた。そこでは次のような問題意識が共有されている。すなわち、人間の相互行為を、アフォーダンスに満ちた環境を共同で形成してゆく行為として理解し、人同士、人と人工的システムとの相互作用の生成・発達過程を明らかにすること。コミュニケーションを、状況に埋め込まれた身体的な循環過程としてとらえ、規約的なコミュニケーション活動を、身体的相互作用から延長された新しいアフォーダンスの生成、あるいは、身体的アフォーダンスの再配置として理解しようとすること。本巻は、これまで萌芽的・散発的にとどまっていた社会的アフォーダンスに関する研究を総合し、生態学的アプローチに立った人間関係論、コミュニケーション論、記号論、社会学、文化論を構築しようとするものである

ここで前回の記事で使った社会的アフォーダンスという言葉が出てくる。この言葉にどこまで社会性を埋め込むことができるだろうか、というのが今の関心だが、まずは生態学的に捉えた倫理とはどういうものかまとめながら考えてみたい。

可能性としての倫理

序章で河野哲也氏は倫理学に基づく道徳的実践を他者に対しレジリエンス(回復力)を与える活動だとする。

河野氏はまず、世界を変転し続ける「ウェザー・ワールド」だと捉える。そのような世界では固定化した規範は人間を一般生の秩序の中に閉じ込めてしまい、うまく対応できなくなる。

次に、ケイパビリティという概念を持ちだす。ケイパビリティはある人にとって選択可能な「機能」の集合、言い換えると機能を可能にする潜在性であり、生き方の幅を意味する。(ここで言う機能とはその人が「どのようなことができるのか』「どのような人になれるのか」を意味する。)
ウェザー・ワールドにおいての道徳的行為とは、ケイパビリティを増大させるために、人を動的にして、創造的運動を促す実践である、とされる。

次に、レジリエンスという概念が持ちだされる。レジリエンスとは「錯乱を吸収し、基本的な機能と構造を保持し続けるシステムの能力」すなわち「回復力」を意味する。

ここでウェザー・ワールドにおける倫理的命題は、「本人が自己維持のためのレジリエンスを持ちうるような一群のケイパビリティを形成すること」である。これを生態学的に言い換えると、「環境にその人の生活の維持を可能にするさまざまなアフォーダンスを作り出し、その人がそれを知覚して、利用できるようにすること」となる。

ここでの自己維持は本人によって積極的・創造的に行われることであって、ここで生態学的な人と環境とのダイナミズムが生きてくる。

要するに、どうなるかわからない世界で本人が生きていくために、能動的に関われる可能性を多様に用意してあげることが倫理である、ということだろう。

社会的アフォーダンスと倫理

これは2巻でダイナミックに描かれた熊谷晋一郎氏の「依存先の分散としての自立」に通ずるものがある。
熊谷氏は主に個人の技術としての視点から可能性を描いており、河野氏は社会の道徳・倫理としての視点から可能性を描いているように思うが、両者の間にはアフォーダンスのダイナミズムが介在しており、それらは共にアフォーダンスの配置に関連している。(第2章では知覚を探索的活動(環境中の情報の抽出)と遂行的行為(環境の改変)に分けているが、これは後者のウェイトが大きい。)

つまり社会的かつ倫理的なアフォーダンスの配置というものがあるということだろう。
社会的アフォーダンスはパースやリードの言う三項関係を成立させ、(場合によっては世代を超えた)ある集団と社会的なコミュニケーションを媒介し、倫理的アフォーダンスは自己維持のためのケイパビリティを開発し、生きていくいくつもの道をつくる。そして、両者を満たすことが道徳的実践となる。
(河野氏は社会的アフォーダンスとして①対人(動物)関係的アフォーダンス②社会制度アフォーダンス③社会環境アフォーダンスの三種類に分けており、それぞれについてアプローチが可能である。)

また、社会的アフォーダンスの前提には「知覚の公共性」がある。

生態心理学に基づくコミュニケーション理論の骨格をなす概念として、「知覚の公共性」がある。これは、知覚対象を特定する情報(不変項)は環境の中に実在するものであり、個別の知覚者の頭の中にあるものではないため、任意の知覚者がこの情報を探索・検知できるということである。(中略)そこでは複数の知覚車の間で知覚経験の共有が成立する条件として、「知覚者が自身の状態に関して他の知覚者と有意な差が差がないと信じることができる」ということそを想定している。(本多啓)第3章 言語とアフォーダンス

巻末の対談でバリアフリーやユニバーサルデザインについて「知覚者の状態の差」が問題になったが、それに対しては多様な可能性を確保することで対応するしかないように思うが、場合によってはそれが状態の異なる知覚車の間の媒介となる可能性もあるだろう。

また、第6章では自閉症スペクトラム(アスペルガー症候群)の当事者でもある著者が自身の自らの知覚特性とのつきあい方を発見していく体験が描かれている。
それは、それまで規範や常識によって押えられていた知覚に素直に従ってアフォーダンスを発見・再配置していく過程とも言えると思うし、それによって俯瞰できる自己感が生まれ他者とつながり始めたという事実は、アフォーダンスの発見と配置が自己のリアリティと社会性に関わることを示しているのではないだろうか。

実践の鍵

これらは実践にどう活かすことができるだろうか。
一つは前回書いたように、そこに住んでいること、歴史の中にいること、文化を共有していること、などの中に存在する社会的アフォーダンスを抽出・再構成し、共有可能なものとして建築の中に埋め込むことができると思うし、より直接的に様々な人のケイパビリティを保証するような建築をテーマにすることもできると思う。
その鍵は建築をアフォーダンスを埋め込むことのできる器、メディアとして捉えることにあるのかもしれない。

もう一つは、まちづくりのようなものに”可能性としての倫理”にようなものが適用できる気がする。
一般的にまちづくりのようなものが要請されるのは、硬直化した(ウェザー・ワールドに対応できない)場所であると思うが、その中に新たに規範や常識を持ち込むよりも、”可能性としての倫理”のようなダイナミズムを持つものを導入した方がうまくいくケースもあるのではないだろうか。
社会的かつ倫理的なアフォーダンスの配置は所謂コミュニティの形成や個々のリアリティ(生きがい)獲得に繋がるかもしれない。(そのためには相互にケイパビリティを開発しあうのが良いとうような倫理観が形成され自走的しだすことが目標になるような気がする。)
それは大きな物語に乗るまちづくりではなく、主体的・創造的・動的な身の丈サイズのまちづくりになるのではないだろうか。
その鍵として何がメディアとなりうるかはいろいろな可能性がありそうだし、いろいろな課題や反論も考えられるが、まちづくりに関してはここまでとする。

快楽としての知覚とリアリティ、および建築の自立性

次に快楽としての知覚について書いておきたい。

ジェームズ・ギブソンが創始した生態心理学が、その理論的正当性を超えて多くの人に歓待されたことは、人や物質が自らの傾向性を現実化する様を見る快楽と無関係ではないと考えている。(柳沢田実)終章 可能性を尽くす楽しみ、可能性が広がる喜び

ギブソンは決して倫理や道徳について多くを語らなかったが、彼の描く肯定的世界観はそれ自体、特定の価値判断を前提としている意味で倫理的といえるだろう。だからこそ、このポジティブなギブソン的世界を「正しい」と認めることは、とりわけ科学者と同じ視点からその理論的妥当性を検証し得ない者にとって、実証的科学的判断というよりも、むしろ「そのように世界をみなすべし」という倫理的決断だとさえ言える。このように私たちが日常生活において無意識に前提としていた肯定的世界観に言葉を与え、環境のうちに意味を探索しながら行為を組織する喜びを鮮やかに描き出した点にこそ、ギブソンやエドワード・リードの著作が、自然科学の枠を超えた古典たりうる理由があるはずだ。(柳沢)終章

ここに、科学者ではない私が生態心理学に興味をもつ理由がある気がする。私にとってはあくまでより良き建築を考えることが重要であり、ギブソンの理論はそれに応えてくれる予感があったのだ。

そして、何度か書いているように快楽としての知覚は生きることのリアリティと言い換えても良いもののように思う。

筆者が提示する「行為の可能性の増大」はリードが言う意味での経験=学習となる。リードに従い「生きること」そのものを学習のプロセスとみなすならば、「行為可能性の拡大」を望ましいとする規範性は、まさに「生きる」ということそのものに内在しているといえるだろう。(柳沢)終章

柳沢氏は最後を「生活への愛」という言葉で締めているが、以前書いたように「生活」という言葉には何か意識を超えた豊かさにつながるイメージがある。生活とはまさに可能性と向き合い味わうことであろう。

さらに、建築を知覚の対象として考えるならば、建築の自立性というものが重要になるだろう。

彼(リード)が現代社会における間接経験の過剰を嘆いたのは、他社によって制限された情報をただ受け取る受動的な間接経験に慣らされることで、人は、能動的に情報を探索する習慣や能力を容易く失ってしまうからだ。以上の議論を、先ほどの倫理的行為の分析に応用するならば、単なる共感に終わる人と、実際に身体が動く人の差異は、行動への能動的な構えの有無による事になる。(柳沢)終章

私は不便であることは大変重要だと思います。一般に人間が巧みに行っていることについて、そこにはアフォーダンスの適切な発見ということが論じられていることが多いですが、実は不便であることや、うまくできないことのほうにこそ、いろいろな重要なモメントがあります。(池上高志)(中略)便利だということは、うまく道具や環境を使いこなし、極端に言えば、それらを自分の身体の延長のように取り込み、自分とモノとの境界線がなくなってしまうことです。不便さには、どこかで抵抗する外界があって、自分が抵抗を受けている感じがしていて、そこで自己の境界が生まれています。(河野)(座談会)エコロジカルターンへの/からの

知覚を導くために能動性が重要だとすると、知覚者と一定の距離を確保することが有効であり、その鍵は建築の自立性にある気がしている。(不便という言葉はデリケートな言葉だと思うが、中村隆司氏の発達保障理論が建設的で好感が持てる。)

そうであるならば、建築が自立性を持つことやある種の不便さは生きることのリアリティを支えるような倫理的価値を持つと言えるだろう。この考えは建築を考える上での支えとなるし勇気をもらえる気がする。

最後に座談会終盤での染谷昌義の言葉を引用して終わりとしたい。

倫理については、「知覚と倫理」というテーマでかつて考えたことがあります。その時にイメージした倫理は、世界の中を動き周り探索することで知覚と行為が洗練され成長し、ギブソンの言葉を借りれば「あらゆるところに同時にいる」ように、今いる場所から行きたい場所に自由に行くことができ、そうした自在感を獲得して巧みに生きられるようになるという意味での成長の倫理でした。これは、何か原理に則して物事の正しさや善さを判定していくやり方ではなく、いかにうまく生きていけるようになるか、よく生きる技術をいかに身につけるかというところに焦点を当てる倫理です。もちろん、これだけで倫理的な問題や政治的問題が解決できるとは思っていません。けれども少なくとも倫理の根幹には、個体がそれぞれ自分の生の可能性を発揮できるように周囲を探索して生活し幸福を目指す営みがあるという点は、変わらないポイントかなと思っています。(染谷)座談会




社会的なものも含めたリアリティの密度への手がかり B185『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』(J.J.ギブソン)

J.J.ギブソン (著)
サイエンス社 (1986/03)

この本の原文は1979年、私が4歳の頃に出版されたものである。
このブログでもアフォーダンスについてはいろいろと書いてきているが、そのベースとなる本書は専門的すぎて難解なのでは、という思い込みをあってこれまで読んでいなかった。

しかし、そろそろきちんと自分の中に落とし込まなければと思い読むことにしたのであるが、想像よりずっと読みやすかったのでもっと早く読むべきだったと思う。

生態学転回と建築及び概念的なものとの関係

ギブソンはまず、動物における知覚と人間の観念・概念的なものを明確に分ける

これまでは哲学や物理学の影響から、物理学的空間観をベースに私と環境が二分された世界観の上に知覚が考えられていた。
しかし、ギブソンはプラグティズムの流れから、動物や人が生きていくための視線より徹底して環境を描き出していく。
そこから、導き出される環境は知覚するものと相互依存的な関係で互いに切り離せないもので、物理学的空間とは大きく異るものであった。

その根本的変化をある本では生態学転回と呼んでいる

そこで頭に浮かぶ問いは、

(1)そこから導かれる建築像はどのようなもので、それは望ましいものであるか。
(2)ギブソンの理論において概念的なものは一旦棄却されるが、それは建築においてどのように考えればよいか。
(3)設計の方法はどう変わるか。

の3つである。
(1)についてはこれまでに考えたことをもとに前回まとめてみたが、今回ギブソンを読んだことをもとに新たに考えてみたい。
また、(2)についてもいくつかヒントをつかめた気がするので考えをまとめてみたいと思う。
(3)に関してはこれまで何度か触れている。設計に対する態度のようなものの転回は多くの可能性を秘めていると思うし具体的に実践していく上で重要だと思うが、主眼を(1)(2)に置くために今回は省略する。

生態学的情報とリアリティ

先日、実家である屋久島に帰り、この本を読みながら時間を見てはあたりを歩きまわって知覚について考えていた。
そこでは都市部の風景に比べ明らかに環境の情報が多様で複層的であり、それはミクロなスケールからマクロなスケールに渡って密実なものであった。

情報量が多いということは一見煩わしいことに思える。
しかし屋久島で受けた印象ではそれは煩わしいどころかとても心地よく感じるものであった。
それはおそらく情報の質によるものだろう。

ギブソンは眼が刺激として受け取った入力情報が脳に送られ処理されることで知覚が生じるという一般的なイメージを明確に否定し、環境にある情報を直接的に抽出し知覚するという。
都市部における情報の多くは概念的産物であったり認識の必要な記号的なものが多く、知覚の情報のもととなるものは画一的で単純、貧しいものであるが、屋久島での散策時の情報はその殆どが直接知覚できる、いわば生態学的情報と言えるものであった。

情報の質が生きることのリアリティの質に何かしら関わっていることは間違いないと思う。

これは私の感覚的な推測でしかないが、屋久島で感じたような直接的に知覚できる情報が生きることのリアリティのある領域での密度を高め、逆に概念的情報はそれを阻害するノイズになると仮定できないだろうか
そうだとすると、直接的に知覚できる情報の質、この本で言われるところの不変項もしくはアフォーダンスの質は、私が建築に求めるものとしてこれまでイメージしてきたものの源泉の一つと言えるかも知れない。

不変更の表現者としての建築家

本書の終盤で絵画や映画と視覚的経験に関することが論じられているが、その中で、画家は目の前の景色だけでなくそれまでの自身の経験の中で抽出した不変更を用いて表現することができる、といったことが述べられていた。
同様に設計者が自らの経験の中で捉えた不変項(アフォーダンス)を再構成するというようなことが可能かもしれない。

建築は環境の多くの部分を占め(リアリティの質を担うと考えられる)直接的に知覚できる情報の多くを負っている。
しかし、現代の環境を見渡してみるとその多くは概念的なものに囚われ、便利さや安全性を満たしてはいても情報の質としては貧しい物がほとんどのように思う

ここで建築家の役割の一つを「その場所や状況から抽出したり、建築家自身の経験の中で捉えた不変更を用いることによって、生きることのリアリティの密度を高めるように環境を再構成すること」と定義できないだろうか
そうすることで、ギブソン的知覚論を建築に結びつけることが可能になると思うし、それは(少なくとも私の経験では)望ましいことのように思える。
また、再構成によってその質を「既知の中の未知との出会い」のように新鮮で豊穣さを持ったものに高めることができるかもしれない。

概念的なものの相対化

先ほど、概念的なものをノイズと表現したが、それは直接的知覚に限って考えた場合である。
しかし、人間は社会的な存在であり、例えば社会性や歴史、文化と言ったものも生きていく上で重要なものであると思う。(なので先程は「生きることのリアリティのある領域」という書き方をした。)

それは知覚の理論とは別の位相の問題だと考えられるが両者の間に接点はないのだろうか。

この本では「定位」「公共的認識」といった言葉が出てきた。その感覚もとい知覚は基本的には知覚者のものであるが、社会的に共有可能なものと言えないだろうか。
そうだとすると、そこに住んでいること、歴史の中にいること、文化を共有していること、などにおいてそれらの中に存在する不変項もしくはアフォーダンスを抽出・再構成することによって、それらを共有可能なものとして建築の中に埋め込むことができる気がする。

それは例えばフィールドワークによってなされるかもしれないし、「素材の流動」によってなされるかもしれない。
そこでは概念的な思考の手続きを踏むかもしれない。しかし、もしそのことが可能だとすると、直接的知覚経験から導かれた建築に、さらに建築的な遠投力のようなものを重ねることができるかもしれないし、「都市と接続する」といったことが可能になるかもしれない。

その際、純粋な知覚的アフォーダンスに、社会的アフォーダンスとでも呼べるものを加えて相対化することによって、それらを同列・同時に扱いながら建築を考えることができるようになると思う

それが出来た時、建築はおそらくさまざまな複層的なリアリティを同時にかつ”直接的に”知覚できるものになるように思う。
それはおそらく建築であるからこその可能性であろうし、建築の責任でもあると思う。




生態学転回によって設計にどのような転回が起こりうるか B184『知の生態学的転回1 身体: 環境とのエンカウンター』(佐々木 正人 他)

佐々木 正人 (編集)
東京大学出版会 (2013/6/29)

以前3回にわたって感想を書いた『知の生態学的転回』の第1巻。

先にこのシリーズ3巻の部構成を引用しておく。

1 身体:環境とのエンカウンター
序章 意図・空気・場所――身体の生態学的転回
第I部 発達と身体システム
第II部 生態学的情報の探求
第III部 生態心理学の哲学的源流と展開
終章 魂の科学としての身体論――身身問題のために

2 技術:身体を取り囲む人工環境
序章 知覚・技術・環境――技術論の生態学的転回
第I部 環境に住まう
第II部 アフォーダンスを設計する
第III部 21世紀の技術哲学
終章 技術の哲学と〈人間中心的〉デザイン

3 倫理:人類のアフォーダンス
序章 海洋・回復・倫理――ウェザー・ワールドでの道徳実践
第I部 生態学的コミュニケーション
第II部 人間のアフォーダンス
第III部 社会的アフォーダンス
終章 可能性を尽くす楽しみ,可能性が広がる喜び――倫理としての生態心理学
[座談会] エコロジカルターンへの/からの道

2の技術は人が環境との関わりの中から技術がどのようなあり方であるかが書かれていたように思うが、今回はその前段階として発達や進化、意識といった人と環境との関わり、認知や知覚について書かれていたように思う。そして、第3巻は複数の人によって構成される社会へと射程が拡がっていくようだ。

心身二元論と環境との境界を超えたイメージ

知覚について多くの人は、環境から刺激を受け取り、それを脳が処理し、その結果行為が行われる、また、発達などは予めプログラムされた結果である、というようなコンピューターや機械に似たイメージを持っていると思う。
この巻の「転回」はそのイメージからの脱却することにある

そのイメージをここで説明するのは難しいし専門ではないので正確に捉えられている自信はない。
それでも書いてみると、動物が能動的に環境に働きかけ探索しながら情報をピックアップしていく過程で、身体と環境、行為と知覚が同時に進みながら新たな行為と知覚が紡がれていくというようなイメージだ。その基盤は環境と身体に埋め込まれている。どのような行為に繋がるかは予め厳密に決められているというよりはその都度発見されていくような動的なシステムなのだと思う。

そこではデカルト以来の心身二元論と環境との境界が超えられている。(そして、もしそれがより可能性のある考え方だとすると、デカルト的心身二元論に基づいた今の教育は少し古臭い気もするし、固定的なイメージを植え付けているという点で罪悪ですらある気もする。)

子どもと生き物に関する番組をよく見るが、どうしてそのように振る舞えるのか不思議に思うことが多い。
例えば、アルコンゴマシジミの幼虫はアリの巣に潜り込みアリの幼虫になりすまして世話をしてもらい蛹となって羽化する。さらにエウメルスヒメバチはこのチョウの幼虫が忍び込んでいるアリの巣を感知しこのチョウの幼虫に卵を産み付け寄生する。
アリの巣でせっせと育てられたチョウの蛹が更に食い破られて中からハチの成虫が出てくるような、もう笑ってしまうような複雑な生態を見ると、本能ってなんだろう、あの小さな体にどこまで複雑なプログラムが埋め込まれているのだろうと想像してくらくらしてしまう。(ツチハンミョウの幼虫の生態も同様にクラクラする。)

しかし(この本で本能については書かれていなかったが)仮にそのような生態の基盤が環境と身体と欲求の中に埋め込まれていると考えると何かしっくり来た。例えば、アリに育てられているチョウの幼虫という環境が存在し、その幼虫を感知するような身体を備えたハチが、そこに卵を産みたいという欲求を持つとすると、本能によって緻密にプログラミングされていなくともこういった複雑な生態が成り立つような気がした。そのハチにとっての意味が環境自体に備わっていると言えるが、それは異なる生態にとっては異なる意味となる。さらに、身体に含まれる自由度が環境の変化によって異なる関わり方を生み出すこともあるだろうし、それが進化と繋がることもあるだろう。(選択交配とは異なる進化の可能性もこの本で触れられていた。)

少し脱線したが何が書きたかったかというと、知覚や行為において環境と身体の境界は曖昧でダイナミックな関係にあるということである。その「転回」の面白さはデカルト以降の科学感が染みこんだ頭ではすぐに見失ってしまうのだけども。

設計との関連

さて、これらの「転回」は設計とどのような関連があるだろうか。言い換えると設計にどのような「転回」が起こりうるだろうか。
大まかなイメージは掴めつつあるのだが具合的に設計に落としこむところまで行けていないのでもう少しイメージの精度を高めていく必要がありそうだ。

以前書いた技術に関することと一部重複するかもしれないが、整理するために今回の本に関連して思いつくことを列挙しておきたい。

・隈研吾のオノマトペ
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B183 『隈研吾 オノマトペ 建築』

プロセスにおいても現れにおいても、その足がかりとしているのがオノマトペのようだ。

この二面角の定義では、二つの面の配置が私たちにアフォードすることが述べられている。『生態学的知覚論』で挙げられた面の配置の用語は、そのリストアップと定義の方法が今ひとつ不明瞭であるものの、確かに言えるのは生態幾何学の用語が知覚-行為にとって意味のあるレベルで環境を記述する可能性を持っているということである。(本書p77)

一つはギブソンの生態幾何学的な環境の捉え方をそのまま建築の形態へと翻訳することで、隈さんのオノマトペはそれを実践したものであると言えそうだ。
また、スタッフにオノマトペの曖昧な言葉を投げかける設計手法は生態的な探索過程の実践的置き換えと言えるだろう。

ギブソンの『生態学的知覚論』は専門的な実験過程が詳細に書かれていて読むにはかなり大変だろうと予想していたため後回しにしていたけれども、思い切って購入してみると思っていたより遥かに読みやすそうなので一度じっくり見てみようかと思う。(こんなことならもっと早く読むべきだった。)
オノケン【太田則宏建築事務所】 » B177 『小さな矢印の群れ』

隈さんの本に佐々木正人との対談が載っていた。建築を環境としてみなすレベルで考えた時、建築を発散する空間と収束する空間で語れるとすると、同じように探索に対するモードでも語れるのではと思った。 例えば、探索モードを活性化するような空間、逆に沈静化するような空間、合わせ技的に一極集中的な探索モードを持続させるような空間、安定もしくは雑然としていて活性化も沈静化もしない空間。など。 隈さんの微分されたものが無数に繰り返される空間や日本の内外が複層的に重なりながらつながるようなものは一番目と言えるのかな。二番めや三番目も代表的なものがありそう。 四番目は多くの安易な建物で探索モードに影響を与えない、すなわち人と環境の関係性を導かないものと言えそう。この辺に建物が建築になる瞬間が潜んでいるのではないか。 実際はこれらが組み合わされて複雑な探索モードの場のようなものが生み出されているのかもしれない。建物の構成やマテリアルがどのような探索モードの場を生み出しているか、という視点で建築を見てみると面白そう。

直接的に探索モードの場、というイメージを空間に重ねることも生態幾何学的な環境の捉え方を建築の形態へと翻訳することに繋がるかもしれない

・地形のような建築

まず、(地形)は(私)と関係を結ぶことのできる独立した存在であり環境であると言えるかと思います。 (私)に吸収されてしまわずに一定の距離と強度、言い換えれば関係性を保てるものが(地形)の特質と言えそうです。 この場合その距離と強度が適度であればより関係性は強まると言えそうです。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » 「地形のような建築」考【メモ】)

だいぶ前に書いた地形のような建築は、(私)との関係性を保てることが一つの特徴だと考えていたのだが、これは言い換えると探索の余地、もしくは身体と環境、行為と知覚が動的な生態学的関係を結べる余地とでも言えるだろう。

・塚本由晴のふるまいと実践状態

その木を見ると、木というのは形ではなくて、常に葉っぱを太陽に当てよう、重力に負けずに枝を保とう、水を吸い上げよう、風が吹いたらバランスしよう、という実践状態にあることからなっているのだと気がついた。太陽、重力、水、風に対する、そうした実践がなければ生き続けることができない。それをある場所で持続したら、こんな形になってしまったということなのです。すべての部位が常に実践状態にあるなんて、すごく生き生きとしてるじゃないですか。それに対して人間は葉、茎、幹、枝、根と、木の部位に名前を与えて、言葉の世界に写像して、そうした実践の世界から木を切り離してしまう。でも詩というのは、葉とか茎とか、枝でもなんでもいいですけど、それをもう一回、実践状態に戻すものではないかと思うのです。(中略) 詩の中の言葉は何かとの応答関係に開かれていて生き生きとしている。そういう対比は建築にもあるのです。窓ひとつとっても、生き生きしている窓もあれば、そうでない窓もある。建築には本当に多くの部位がありますが、それらが各々の持ち場で頑張っているよ、という実践状態の中に身を置くと、その空間は生き生きとして楽しいのではないか。それが、建築における詩の必要性だと思っています。( 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』)(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』)

なぜふるまいなのか 20世紀という大量生産の時代は、製品の歩留まりをへらすために、設計条件を標準化し、製品の目標にとって邪魔なものは徹底して排除する論理をもっていた。しかし製品にとっては邪魔なものの中にも、人間が世界を感じ取るためには不可欠なものが多く含まれている。特に建築の部位の中でも最も工業製品かが進んだ窓のまわりには、もっとも多様なふるまいをもった要素が集中する。窓は本来、壁などに寄るエンクロージャー(囲い)に部分的な開きをつくり、内と外の交通を図るディスクロージャーとしての働きがある。しかし、生産の論理の中で窓がひとつの部品として認識されると、窓はそれ自体の輪郭の中に再び閉じ込められてしまうことになる。 (中略) 窓を様々な要素のふるまいの生態系の中心に据えることによって、モノとして閉じようとする生産の論理から、隣り合うことに価値を見出す経験の論理へと空間の論理をシフトさせ、近代建築の原理の中では低く見積もられてきた窓の価値を再発見できるのではないだろうか。(『WindowScape 窓のふるまい学』)(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B166 『WindowScape 窓のふるまい学』)

塚本さんのふるまいや実践状態という言葉にも生態学的関係への意志が見てとれるモノとヒトに対する眼差しの精度を高めることによって生態学的関係を開くようなモノのあり方へと導いていくことができるはずだ。島田陽さんの建築の部分を家具的に扱うこともこれに関連するように思う。

・ニューカラー的な建築

イメーシとしては、ブレッソン的な建築と言うのは、雑誌映え、写真映えする建築・ドラマティックなシーンをつくるような建築、くらいの意味で使ってます。一方ニューカラー的というのはアフォーダンスに関する流れも踏まえて、そこに身を置き関り合いを持つことで初めて建築として立ち現れるもの、くらいの意味で使ってます。 設計をしているとついついドラマティックなシーンを作りたくなってしまうのですが、それを抑えて、後者のイメージを持ちながら建築を作る方が、難易度は高まりそうですが密度の高い豊かな空間になるのでは、という期待のようなものもあります。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B175 『たのしい写真―よい子のための写真教室』)

関り合いによって初めて建築として立ち現われるものをイメージすることも生態学的関係を志向することなるように思う。それは隈さんのいう反オブジェクトとも重なるし、そのためにそのイメージを維持し続ける必要があるだろう。

・分かることへの距離感を保つ

他方で僕は、何かをわかりたいと同時に、わかってしまうことが怖いのだ。(中略)わかろうとすることと、わかってしまうことを畏れることは矛盾する。その矛盾を自ら抱え込むことが、わかることの質を高めてくれる気がする。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B173 『考えること、建築すること、生きること』)

寺田寅彦が「不思議のさなかを生きる」少年のモードを維持することの肝は、説明し分かったことにしない、「多様な現象を見る眼」にあるようだ。 寺田寅彦の思考法として、「問いの宙吊り」「アナロジー 原型的直感」「像的思考」を挙げている。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B182 『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』)

分かることへの距離感も保ち続けること、少年のモードを維持し自在な建築を目指すことはおそらく生態学的関係を開くことへと繋がるように思う。

・設計プロセスの工夫

なので、フォロアーの劣化版になることを怖れず、これを機会に自分なりにカスタマイズし消化することを試みてみたいと思う。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B180 『批判的工学主義の建築:ソーシャル・アーキテクチャをめざして』)

動的で生態学的関係を考える際には必ず藤村さんが頭に浮かぶのだが、そのプロセスにはそのような関係の発生が埋め込まれている。(そして、その部分で氏の「建築」に可能性を感じている。)
しかし、まだしっくりとした自分なりのプロセスの設計ができていないというのが現状である。
クライアントや環境、その他与件に対して探索と応答を繰り返す普通の設計を誠実にこなせばいいとも思うのだが、その精度を高める工夫は必要だろう。

・都市的な目線
現状、自分に最も不足しているのが都市的な視点であるように思う。これまで書いたことは主に建築の空間をイメージしているが、生態学的関係を都市へと開いていくようなことは可能だと思うしそれによってまちなみはより楽しく豊かなものになるだろう。
そのために長谷川豪さんの建築内部と都市を貫くような視点を持つことも必要だろうし、実践状態が街を行く人に感じられるような表出の仕方も考える必要があるだろう。

まとめ

まとめると、
生態幾何学的な環境の捉え方を建築の形態へと翻訳したり、モノへの眼差しの精度を高めながら生態学的関係を開くようなモノのあり方へと導きつつ、分かったことなったり建築がオブジェクトになることを避ける姿勢を維持しながらそれらを実現できるプロセスを考え、更にはその視線を都市へと拡張していく。
となるだろうか。

また、生態学的関係を開く上で関連があると思われるが、まだ明確な言葉にできていないことを課題という意味も含めて挙げておく。

・「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻す

建築の、というより生活のリアリティのようなものをどうすれば実現できるだろうか、ということをよく考えるのですが、それに関連して「建てること(つくること)」と「住まうこと(つかうこと)」の分断をどうやって乗り越えるか、と言うのが一つのテーマとしてあります。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » ケンペケ03「建築の領域」中田製作所)

「建てること(つくること)」の中にも生態学的関係への可能性があるように思う。

・既知の中の未知との出会いのセッティング

僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

創造に関して、「発見されたもの」すなわち結果そのものを作ろうとするのではなく、「発見される」状況をセッティングする、という視点を持ち込むこと。 それは発見する側の者が関われる余白を状況としてつくること、と言えるかもしれないが、このことがアフォーダンス的(身体的)リアリティの源泉となりうるのではないだろうか。 (ここで「発見」を「既知の中の未知との出会い」と置き換えても良いかもしれない。) そういった質の余白を「どうつくるのか」ということを創造の問題として設定することで、発見の問題と創造の問題をいくらかでも結びつけることができるような気がする。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B179 『小さな風景からの学び』)

既知の中の未知との出会いをセッティングすることは高度な手法であるかもしれないが、それゆえに精度高く生態学的関係を開くことができるように思う。

・内発的制約と熟達化

ストリートダンスの熟達化とは、このような内発的制約からの自由を獲得し、同時に多様で洗練された表現への自由を獲得することであるといえる。(本書p125)

リズムに合わせて膝をダウン又はアップさせる実験では、テンポを早くすると非熟練者はアップ課題においても意に反してダウン動作になってしまうそうだ。「熟達化とは、このような内発的制約からの自由を獲得」することであるという指摘は当たり前のように思える。しかし、それが力任せなものではなく、人と環境との関係の精度を高めることで冗長性と自由度を獲得するという点で新鮮に映った(イチローのバッティングが頭に浮かんだ。)。では、設計や空間における熟達化とはどのようなものだろうか。何が内発的制約となり、そこから自由になることでどう変わり得るだろうか。




物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾)

隈 研吾 (著)
エクスナレッジ (2015/9/19)

隈さんの本やアフォーダンスの本は時々読んでいる。
けれども、アフォーダンスで環境を読み込み設計を行うプロセスに関するものは何度か目にしているが、環境となる建築そのものの現れに関する具体的な事例はあまり見たことがないように思う。

足がかりとしてのオノマトペ

プロセスにおいても現れにおいても、その足がかりとしているのがオノマトペのようだ。
そこにアフォーダンス的な知覚、身体、体験といったものの感覚を載せることでモノと人との関係を調整しているように思われるが、その感覚を載せられる(体験を共有・拡張できる)という点にこそオノマトペの利点があるように感じた。

出来上がった作品や手法を見ると一見モダニズム以降の定番のもののようにも思えるが、そういった視点で眺めるとオブジェクト・形態を設計するのではなく体験を設計しているという点で根本的な違いがあるように思えてくる。
いや、モダニズムでも体験は重要な要素であったかもしれない。では、違いはどこにあるのだろうか

物質を経験的に扱う

うまく掴めているかは分からないけれども、氏の「物質は経験的なもの」という言葉にヒントがあるような気がする。
モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。

人と物質との関係を表す圧力

本書では圧力という言葉が何度も出てきているが、オブジェクトとそれぞれのオノマトペから受ける印象を、人と物質との関係(圧力)という視点で漫画にするとこんな感じだろうか。

onomatope

翻って、自分がよく直面する予算の厳しい小さな住宅ではこれをどのように活かせるだろうか
ここにある多くの手法は予算的に難しいように思うが、反面、身体的なスケールに近いため注意深くオブジェクトになることを避けることで関係性を築きやすいような気もする。
そのためには自分なりのスケールに適合したオノマトペのようなものを見つける必要があるのかもしれない。

心地よさと恐怖感

また、写真を眺めていると、建築が自然のような環境としてではなく、ガイア的な生命をまとっているもののように見えてくる瞬間があった。そこでは何か、野生の生存競争に投げ込まれたような恐怖を感じた。
それは、写真を見ただけで実際に体験していないからかもしれないし、建築をオブジェクトとして捉えることが染み付いているからかもしれないし、アフォーダンス的な何かが生存に関わるなまった感覚を刺激したからかもしれない。(見る時で感じる時とそうでない時があるので体調にもよるかもしれない)
大きなスケールの場合、もっと環境そのものと同化するような工夫がいるような気もするし、なまった感覚の方に問題があるような気もする。この辺のことはよく分からなくなってしまったので一度体験して見る必要がありそうだ。




「環境」についてのメモ

昨日運転中に山口陽登氏の講演の音声を聞いて自分なりに環境という言葉を整理したくなったのでメモ。

以前とあるシンポジウムで何人かのデザイナーの話を聞いた時に、その一人がアフォーダンスという言葉を使われていた。
それで懇親会の時に色々と聞いてみたのだけど、昔流行った言葉で、”椅子は座れる”のようなことを難しく言っているだけだよね、という感じだったのですごくもやっとした。

環境とは何かということとつながるように思うけれども、そういった機能と形態が一対一で固定化しているということとは全く違うのではないか。

環境そのものに情報が埋め込まれている、と言ってもそれは受け手との関係性の中から発見的に浮かび上がるものであって、その関係は無限にあるはずである。それを一対一で固定化するのでは、その通り機能主義を難しい言葉に言い換えただけで何の発展性もないだろう。

それでは一種の制度として振る舞ってしまうようになった機能主義に対して、新しい地平を開くチャンスを与えてくれる概念を再び制度の内に閉じ込めてしまうようなものだ。

先の講演の感想でも書いたように、固定化・陳腐化した環境という言葉を受け手の活き活きとした経験に開くことで再び実践状態に戻すことが重要であって、どうすれば関係性の鮮度を維持できるかがデザインの課題になるのだと思う。

そういう意味では「環境」とは常に開かれた可能性の海のようなものであるべきだと思う。

では、そのために具体的にどのような方法が考えられるだろうか。

一つは、機能と形態を一対一で対応させて考えるのではなく、状況をつくるという態度に留めることで機能が具体的な像を結ぶことを注意深く避ける事だろう。それによって、機能が単体でフォーカスされずにぼんやりとした全体の空間・時間の中に溶け込ませることができるかもしれない。(ホンマタカシ氏が言うブレッソン的なものではなくニューカラー的なもののように)

創造に関して、「発見されたもの」すなわち結果そのものを作ろうとするのではなく、「発見される」状況をセッティングする、という視点を持ち込むこと。 それは発見する側の者が関われる余白を状況としてつくること、と言えるかもしれないが、このことがアフォーダンス的(身体的)リアリティの源泉となりうるのではないだろうか。 (ここで「発見」を「既知の中の未知との出会い」と置き換えても良いかもしれない。) そういった質の余白を「どうつくるのか」ということを創造の問題として設定することで、発見の問題と創造の問題をいくらかでも結びつけることができるような気がする。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B179 『小さな風景からの学び』)

カルティエ=ブレッソン派(決定的瞬間を捉える・写真に意味をつける)とニューカラー 派(全てを等価値に撮る・意味を付けない)の対比 何かに焦点をあて、意味を作ってみせるのではなく、意味が付かないようにただ世界のありようを写し取る感じ。 おそらく前者には自己と被写体との間にはっきりとした認識上の分裂があるが、後者は逆に自己と環境との関わり合いのようなものを表現しているのでは。 建築にもブレッソン的な建築とニューカラー的な建築がある。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』)

もう一つは島田陽氏の建築と家具の扱いが思い浮かんだ。
建築の機能を引き剥がして家具的なものに置き換えることで「環境」や「機能」のあり方に変化を与えている。
この時、建築を家具に置き換えることは普通に考えると機能と形態が一対一でより強く結びつきそうな気がするがどうしてそうならないのだろうか。(一般的に家具は機能に対して補助的に与えられるもののように思う。)
よく見てみると、建築の機能を家具に置き換えると言っても、例えば階段が棚や箱になったり、トイレが収納になったりともともとの機能からずらして弱めることで一対一に固定化することを注意深く避けているように思う。
そこにはやはり環境との出会いが状況として用意されている。

このエッセンスを自分なりに展開したいところだが、すぐに思い浮かぶものでもないので実践の中で発見できればベストだと思う。

最後に、先ほどのシンポジウムで最後に話をされた某デザイナーが思い浮かんだ。
徹底した客目線を実践し、目立つデザインではないが繁盛店を次々と産み出しているという方なのだが、話の途中で突然マイクで話すのをやめ地声で語りかけるように話をされた。
なんともないことだけどこれは結構心に響いた。
こういうシンポジウムで話すときにはいい話をしようと思ってしまうものだと思うが、どういう人が集まっているか分からない小さなシンポジウムであってもきちんと伝える、ということに手を抜いていないのが伝わってきたし、いや、この人はお客さんにモテるだろう、と思わされた。
徹底した客目線で考えたものを何でもないデザインとしてまるでデザインされてないかのように施している。それは、おそらく受け手の経験に対して心地よく開かれているだろうし、そこには気づかぬうちに環境との出会いが生まれているだろう。
アフォーダンスのようなものを体験的・実践的に獲得しているように思ったのだが、その態度の現れとしての場を感じることができたのは非常に貴重な経験であった。(後日、著作を読んでみたけれども、テキストからでは感じ取れなかったので尚更貴重だったと思う。)

やっぱり、まずは態度のイメージからだな。そのイメージの鮮度を保ち続けるための技術もおそらくあるはず。




「発見される」状況をセッティングする B179 『小さな風景からの学び』

乾久美子+東京藝術大学 乾久美子研究室 (著)
TOTO出版 (2014/4/17)

前回の「デザインの生態学」の最後にも少し触れましたが、本屋でたまたま目にして購入したもの。

発見と創造をどうつなぐか

それらに魅力的な物が多い理由は、その場で提供される空間的サービスが、時間をかけて吟味され尽くしているからだと考えられる。その場で受け取ることのできる地理的、気候的、生態的、人為的サービスを何年にもわたって発見し享受する方法を見出し続けることで、その場における空間的サービスの最大化がなされたと考えれば、あのように包み込まれるような魅力や、あたかも世界の中心であるかのような密度感や充実感も納得できるのだ。

本書は「発見されたもの」を集積したものと言える。
(「発見されたもの」とは、著者により発見されたものであると同時に、その光景が生み出されれる過程において誰かに「発見されたもの」でもある。)
また、「どうつくるのか」という問題は本書では開かれたままになっている。

では、その「発見されたもの」と「どうつくるか」、発見と創造をどうすれば結びつけることができるだろうか。
ここでも「デザインの生態学」での深澤直人氏の発言が参考になりそうだ。

感動にはプロセスがあり、場があり、状況がある。(中略)デザインされたものやアートもそのもの単体ではなく状況の作りこみである。埋め尽くされたジクソーパズルの最後のピースがデザインの結果であるが、そのすべてのピースがその最後の穴を形成していることを忘れてはならない。

創造に関して、「発見されたもの」すなわち結果そのものを作ろうとするのではなく、「発見される」状況をセッティングする、という視点を持ち込むこと。

それは発見する側の者が関われる余白状況としてつくること、と言えるかもしれないが、このことがアフォーダンス的(身体的)リアリティの源泉となりうるのではないだろうか。
(ここで「発見」を「既知の中の未知との出会い」と置き換えても良いかもしれない。)

そういった質の余白を「どうつくるのか」ということを創造の問題として設定することで、発見の問題と創造の問題をいくらかでも結びつけることができるような気がする。

例えば佐藤可士和のセブンカフェのデザインはある文脈では批判もされたが、そういった視点で見ると発見(リアリティ)を創造と結びつける可能性の一端を指し示す事例のように思えるし、おそらくこうしたことをかなり意識してデザインされたもののように思う。(当然クライアントの目指す方向性を前提とした判断であるでしょうが)

本書の活かし方?

本書を活かすために、挙げられた膨大な写真を簡単にスケッチに写していってこういった光景を手に覚えさせようかと考えていたのだが、

・この光景がどのような状況のもと生まれたのかを想像する。
・この光景が生まれる前の「状況」のいくつかの段階を想像してスケッチし、並置してみる。
・この光景と状況の関係をセットとして捉えた上で記憶に留める。
・この光景が生まれた状況をどのようにすればつくることができるかを考える。

といったことを合わせて行えば、本書を使った「どうつくるのか」の良い訓練になるような気がする。
一度やってみよう。

その際、

観察結果を安易に「どうつくるか」の答えにしてしまうことは、おそらく押し付けられる刺激のようになりがちで、体験者から「探索する」「発見する」と言った能動的な態度、すなわちリアリティを奪いかねません。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

といったことは念頭に置いておいたほうがいいかもしれない。
結果そのものではなく、それが生まれた状況もしくは余白の質をとりだしてみること。

設計者が自ら発見して直接形に置き換えたもの(観察結果を安易に「どうつくるか」の答えにしたもの)はここで挙げられたような魅力を持ち得ないのか、という問いもありますが、そこでの状況とその形の関係性が必然性と発見に付随する感情の質のようなものを伴って体験者に体感されることが必須なのかもしれません。
この辺りはもう少し考えてみます。