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新しい経験を開くー意識の自由さよりも行為としての自在さを B181 『システムの思想―オートポイエーシス・プラス』

河本 英夫 (著)
東京書籍 (2002/7/1)

十年以上も前の本であるが気になったので読んでみた。
オートポイエーシスの第一人者である著者と様々な分野の第一人者との対談集であるが、まずは著者の知識の広さと深さに驚かされる。(対談中、著者が対談者にかわって他分野の詳細に対する解説や意見を長々とする場面が何度もある。)

一部前記事と重複するけど、とりあえず断片的なメモをもとに感じたことをいくつか書いておきたい。

今日のシステムを特徴づけるのは、自在さの感覚である。(中略)自在さは、自由とは異なる。自由は、主体が外的な強制力に従うわけではないこと、さらには主体が自分で自分のことを決定できること、を二つの柱にしている。(中略)自由とはどこまでも意識の自由だが、自在さは何よりも行為にかかわり、行為の現実に関わる。意識の自由を確保することと、行為の自在さを獲得することは、およそ別の課題である。この自在さを備えたのが今日のシステムである。

自由な建築と自在な建築と言った場合、同じように意識と行為にかかわるのであれば、自由な建築を目指すといった時に逆説的に不自由さを背負い込んでしまうのではないか
その不自由さの中からあえて自由さを突き抜けるという建築の可能性ももちろんあるだろう。
しかし、設計を行為だと捉え、そこでの自在さを獲得する自在な建築といったものの方にこそ可能性は開かれている気もする。

例えば僕がアフォーダンスやオートポイエーシスのようなものをなぜ読むのか。
何か方法論のようなものを身につけたいという気持ちがあったのは確かだが、それよりもむしろこのような(自由であるか自在であるか、世界をどのように捉えそれに応えるかと言った)態度のようなもののイメージを獲得する方が重要かもしれない、とだんだん思うようになってきた。

オートポイエーシスもさんざん道具・理論として扱われることが多かったが、著者はそれを否定する。

一般理論というのは、しょせんは一種の知的遊びに終わってしまう場合が多い。そうではなく、オートポイエーシスがある新しい認識の世界を開くのではないかということに私は期待しているんです。(中略)記述のための道具として使おうというのは、これを道具として使って、何かを主張したい場合です。主張することが問題なのではなく、経験を動かしていって何かを新たに作り出すことが問われている。だから第三世代システム論ではなく、第三世代システムと言い続けている。そのためのオートポイエーシスが何をやっているかというと、結局、ある種の経験の層をもう一度つかみあげてみようということです。そして、それが行為に関わっています。そこが論ではなく、行為なのです。

他にも「新しい経験を開いていく」というような言葉が何度も出てくるが、これができるようになるのはなかなか大変そうである。
藤村さんの方法論を自分なりに取り入れようとして、なかなかうまく設計に結びつかないのは、方法論に囚われすぎて、経験を開く、というようなことができていないからではないか。方法論を否定しているわけではなく、むしろ現状と方法論がマッチしていないため方法に入り込んで経験を開くというところまで行けてないからではないだろうか。
なんだか、怪しい話のようになりそうだけれども、もう少し経験を開くというような「状態」に意識を持って行って、そのために補助的に方法論を見つけていく、というような流れがいい気がする。

また、「ハーバーマス・ルーマン論争」に関するあたり

対してルーマンは、問題を脱規範化すべきだという考えです。問題をもっとちゃんと抽象化して、脱モラル化することで、社会のメカニズムというものを理論的に解明することが必要だという立場だと思うんです。つまり理論的に解明することによって、問題に実践的に対応できる。(西垣)

このくだりでなんとなくだけど藤村さんが頭に浮かんだ。ハーバーマスが現状を説明しているだけじゃないかと言い規範を持ち出すことに対して、時間的に経験や社会が変わることに対してより実践的なのは規範→行為ではなく行為→規範の方だという感じが、動物化せよというのとなんとなく重なって。
もしかしたら経験を開く「状態」のイメージに時間軸・速度のようなものを加えたほうが良いかもしれない。

展覧会の関連企画での対談があり、その中での鋭い考察が印象に残った。

作品の経験においても同様のことが言えます。意味の方法的な分析の中に解消され得ない作品には、その経験の中に必ず「剰余」の部分が出てきます。その「剰余」というのは、作品に触れている時にずっと動いてしまっている身体や近くの記憶として残っていきます。つかりテクニカルな工夫・操作だけが表面に表れている場合には、既存の意味の枠を延長しているだけですので、そのプラスアルファの「剰余」がない。しかもこの剰余を意味の延長上に意味的な分からなさとして作り出すと、途端に見え透いてしまう。この剰余を作り出すには、身体の動きを活用するのが有効です。内化してしまっている身体の動きを同時に使うと、意味の延長からの想起とか逸脱とは全く違う、作品の経験に触れることができます。

この辺の領域をふんだんに活用したのがゴッホでした。かれは通常の人間の色彩感覚を超えた人です。ゴッホの黄は非常に収まりが悪い。ゴッホの絵を五分くらい見ていただくと分かりますが、どうもこの黄を見るために目の神経を形成しているところがあります。こういう絵によって形成運動が起こってしまうのです。すると、気づくと気づかないにかかわらず確実に強い記憶になります。(中略)つまり、作品に触れることがその経験を形成するところにかかわってしまっている。

大した経験が何一つないのに、テクニカルに人と違うものを作ろうとすれば、すべて意図は見え透きます。したがって、やはり経験が形成される回路を何とかして自分で踏み出してみるということが重要だろうと思います。そこの踏み込み方と、その継続の仕方を機構として表しているのがオートポイエーシスという構想です。この構想は前に進みながら、同時に自分自身を作り上げていくというところを機構化しているわけです。

佐々木正人氏がアート等を語るのも面白かったが、これらの言葉もすごい。前に書いた「既知の中の未知」とも重なりそうな気がする。

僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

おそらく新しい経験を開くというようなことと共に新しい空間が生まれるのであろう

あと、著者について調べていて下の動画を見つけた。
音源をスマホに入れて移動中に何度か聞いたけど、かなりぶっ飛んでいて面白い。意味は少ししか分からないけど。

1:57:40あたりから経験を開くというような話が出てきます。




脆さの中に運動性を見出す B284『生きられたニュータウン -未来空間の哲学-』(篠原雅武)

篠原雅武 (著)
青土社 (2015/12/18)

ここ最近の読書によって、環境という言葉に対し自分なりの言葉を持つことができた気がする。
それは、”生活スケールを超えた想像力の獲得”を指標の一つとすることで、様々な価値判断を可能とするものであり、それまで漠然と感じていた環境やエコロジーという言葉の周囲に絡みつく違和感を解きほぐすものであった。

ただ、環境について考えることの第一の目的が、”エネルギーの消費を抑えて持続可能な地球を目指す”ことにあったわけではない。
もちろん、それは大切なことに違いないが、環境について考えようと思った根っこは別のところにあった。

その根っことは、幼少期に感じていた”ニュータウン的な環境に対する違和感”に対し、建築に関わるものとしてどう向き合えば良いか、ということであり、ひいては、人が人らしく生きられる環境とはどういうものか、というものである。(その違和感は私が学生の頃に起こった神戸連続児童殺傷事件を契機として意識に浮上してきたものである)

今までこのサイトで考えてきたことは全て、この疑問に対する考察であったし、最近の環境に対する取り組みも、この疑問との接点を探ることがはじまりであった。(そして、ようやくそれが見つかった)

本書は5年前に購入したもので今まで何度か挑戦してみたものの、うまく読めなかったのだが、先日ぱらぱらとめくってみたところ、すんなり頭に入ってきそうな感じがした。今が読むタイミングなのだろう。
最近環境の問題に寄り過ぎたきらいもあるので、原点に帰る意味でも再挑戦してみたところ最後まで読むことができた。

うまく整理できそうにはないが、そこで感じたことをいくつか書いておきたい。

停止した世界と定形概念

著者はニュータウンに特有な感覚を「平穏で透明で無摩擦の停止した世界で個々人が現実感を失っていくことである」とひとまず述べる。

”ひとまず”というのは、著者にはニュータウンを完全に否定するのではなく、そこから未来を考えようという意識があるからである。

ニュータウンの現実感の無さには、定型となった概念枠がある、という。
それは本書の言葉を集めると、地域性・場所性・自然・血縁・伝統・人とのつながり・住むことの意義・本来的な生活といったものの欠如であり、根無し草化・均質化・非人間的・無機質といったものである。
ニュータウンは、これらが欠落しているために現実感のない停止した世界なのだ、というフレームで語られることが多い。

しかし、著者はそういったフレームとは異なる視点を提供する。

客体的な世界と運動性の不在

機械状の主体性の生産における豊かさは、外的現実と対峙する内面性の豊かさ、強靭さ、深化といったことではなく、人間存在の柔軟性、可変性、絶え間なく連結し、接続し、編成され、刷新され拡張し続けていることの運動性の豊かさを意味する。(p.189)

では、その現実感の無さは、内面的豊かさの不在によるのでなければ、何によるのか。

(私の理解では)それは、運動性の不在によるものである。これまで使ってきた言葉でいうとはたらきの不在によると言い換えられるかもしれない。

著者は、”世界”を、ただ物質的・現実的なものとして捉えるのでも、ただ心的・空想的なものとして捉えるのでもなく、実体としては捉えられないが確かに存在する、人間の内面性とは独立した客体的なものとして捉える。

その世界は、雰囲気・空間の質感をもち、人のふるまいによって絶えず生成・変化するものである。
人々は、その世界(雰囲気・質感)の中でそれを感じる存在でありつつ、その世界をかたちづくりもする。

ニュータウンではその世界をかたちづくるための運動性が欠如しており、それがニュータウンを現実感のない停止した世界としている。そして、その停止した世界は、雰囲気・空間の質感として確かにそこにある。

ルフェーブルは空間をオートポイエーシス的なはたらきとして捉え、理論化や実践の可能性を空間と探索的に関わる行為の中に見出しているように思います。 「相互行為に満たされた公共空間」を(これもオートポイエーシス的に)維持するためには、どうすれば空間の中心性が全体化へと変容するのを阻止し新たな隙間を産出し続けられるか、を見出し続けるような視点が必要なのかもしれません。 それには、空間をはたらきの中の一地点としてイメージできるような視点と想像力、そして、そのはたらきに対して探索的に関わることができるような自在さを持つことが有効な気がします。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武))

ここで、豊かさのようなものを人間の内面性及びそれに関わる環境ではなく、運動性とそれが生成する空間性にみる、ということが本書の独自性であり重要な点だと思われる。
それが、ニュータウンを定形的なフレームから救い出す足がかりとなる。

「生きられた家」が人とどのような関係であるかという構造の問題ではなく、どのように立ち上がるかというシステム(はたらき)の問題として考えてみたときに何が見えてくるか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二))

本書のタイトルは多木浩二の『生きられた家』をもじったものだと思うが、本書で述べられているように多木浩二は生きられる空間を古民家の豊穣さそのものにみていたわけではなく、むしろ本書と同様に空気の質感のようなものを多木なりに手繰り寄せようとしたのだと思う。

ニュータウンが豊穣さではなく運動性と空間性に救いをみいだすのであれば、豊穣とは言えないかもしれない現代の家も同様に運動性と空間性に救いの足がかりを見いだせるのかもしれない。

停止した世界と閉鎖モデル

「適」か「快」か、「閉鎖系モデル」か「開放系モデル」か、あるいは「欠点対応型技術」か「良さ発見型技術」かと言ったとき、それを想像力の問題として捉えた場合、どちらを重要視すべきかは明らかだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » スケール横断的な想像力を獲得する B283『光・熱・気流 環境シミュレーションを活かした建築デザイン手法』(脇坂圭一 他))

ここで少し脱線。

ニュータウン的なものに対する違和感と、省エネを目指した閉鎖系モデルに対する違和感には似たところがあると感じていたが、それはこの運動性の不在によるものかもしれない。

周囲の環境から分断させ、完結させるという思考による運動性の不在。そして停止した世界。
確かに完結した内部ではある種の豊かさは満たされるかもしれないが、運動性の欠如による質感の無さ、空間性の貧困化に違和感を感じ、無意識のうちにニュータウン的なものと重ねていたように思う。(ここで環境の問題と個人的関心とが一本の糸で完全につながった)

その境界は外に閉じるだけでなく、内なる異物を排除し、均質状態を排除しようと作動し続ける。そこで排除されるのは、外部に現存する何かではなく、内なる恐怖によるよく分からない危険な何かである。危険の排除はは予防的にあらゆるものとの関わりを放棄する。 ここで放棄されるのは未来なのである。(未来は現在と不変の状態として描かれ、出来事の永続化が目的化される。そこにあるのは計画化された空間である。) この不可避的な力に対して著者は、抵抗や再要求ではなく、それを変化を促す生成の過程として捉えた上でそこに身をさらして思考することを促す。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武))

閉鎖系モデルによって境界を閉じ、最適化を目指す。
この最適化とは、快適性を最大化すると同時に、運動性・公共性・空間性を、あるいは未来を放棄し、世界を停止させることでもある、と言っては言いすぎだろうか。
多くの人にとってどうでも良いことかもしれないが、私にとっては無関心ではいられない問題である。

表現の貧困化

生活様式の悪化とは、どのようなことか。ガタリがいうには、それは過去の美徳の喪失ではなく、生活形式の構築の過程がうまく作動しないことのために生じている。ガタリはそれを、行動様式の画一化、形骸化、表現の貧しさにかかわる問題として把握する。(中略)ガタリの議論が独特なのは、表現の貧困化を、人間主体に対し外的なものとの関わりにおいて考えようとするからである。「社会、動物、植物、宇宙的なものといった外的なものと主体との関係が、危うくなっている」とガタリはいうのだが、そのうえで、ここで生じていることを、「個性があらゆる凹凸を失っていく」事態と捉える。個性が凹凸を失うとは、外的な世界が平坦になることを意味している。ガタリはその例として観光に言及する。そこでイメージや行動は騒々しさとともに増殖するが、その内実は空虚である。(p.182)

ここでは運動性を欠き、空間の質感を失うことを表現の貧困化として捉えているが、これまで思考停止と感じていたことの多くは、もしかしたら表現の貧困化だったのかもしれない、とふと思った。
そうすると、思考停止とは内面的な問題というより外的な世界の問題、あるいは空間性の問題といえそうである。

技術やふるまいが失われることで思考形式も失われ、一気に思考停止に陥る。 現代社会においては、思考停止はもはや一種の快楽にさえなってしまっているのでは、という気がするが、それをこのまま次世代に引き継ぐのが良いことだとは思い難い。 これからの技術は、おそらく思考停止も織り込んだ上で、技術・ふるまい・思考をセットで届けるようなものであるべきなのかも知れない。 そういう意味でも、弱い力を見出し、引き出し、活用する良さ発見型の技術を、遊びのように建築に取り込むことに可能性はないだろうか。 技術・ふるまい・思考を遊びとしてパッケージする。 そこで重要なのははたらきと循環の思想である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 弱い力と次世代へと引き継ぐべき技術 B280『住まいから寒さ・暑さを取り除く―採暖から「暖房」、冷暴から「冷忘」へ』(荒谷 登))

上記の文でも、思考停止に対抗するのは運動性(外的なものとの関わりと人のふるまい)の強化であり、表現を豊かにすることにある。

やはり、ふるまい、はたらき、循環といった言葉が重要になってきそうだ。

ニュータウンの2つの時間

さて、著者にはニュータウンを完全に否定するのではなく、そこから未来を考えようという意識があると書いたが、何が突破口となりうるだろうか。

ニュータウンという空間には、二つの時間が流れている。一つは、完成された状態において停止した時間である。もう一つは、完成された状態にある空間の荒廃の進行である。(p.218)

時間が停止したように感じられる世界においても、実際にはゆっくりと荒廃が進行している。普段の生活の喧騒のなかでは停止したように感じられる空間の中で、ふとした静謐な瞬間に綻びとして表れる進行している時間。

この2つの時間のギャップがニュータウンに違和感や奇妙さを与えているのかもしれないが、著者はひっそりと進行している時間のなかに潜む脆さにニュータウンからの脱出口あるいは未来を見ている。

完成された存在としてつくられたニュータウンが長い時間をかけてつくりあげた僅かな綻び。そこに停止した時間を再び動かす運動性の契機がある。

これを描き出そうという著者の姿勢に誠実さと良心を感じるのだが、計画者や消費者の中にある豊かさの概念を書き換えない限り、多く場合はこの綻びをあっさりと消し去ってしまうのだろう。

ただし、この場が維持されるためには、それを作り出し、維持することにかかわる、専門知の担い手がいなくてはならない。(p.231)

この専門知とは、これまでは見捨てられてきたもの、そこにある”小さく脆いもの”の存在とはたらきを見出し活かすための知性と言えるだろうか。
こういう知性は最近注目されつつあるように思うが、計画者の一人としてもきちんと考えてみる必要がありそうだ。




21世紀の民家 B272『生きられた家 ー経験と象徴』(多木浩二)

多木浩二 (著)
青土社 (2012/10/10)

本書は1975年に書かれた長編エッセイをもとに書籍化、幾度かの改訂がなされてきたもので、私が生きてきたのと同じ時間を経てきたものである。

これまで何度も引用されているのを目にしていながら未読だったのだが、今読むタイミングな気がしたのと、ペーパーバック版が入手できそうだったので購入することにした。

本書を現代の建築や哲学の成果をもとに再解釈する、ということも可能に思うが、私はそこまで読み込めておらず、またその力量もないため、個人的関心をベースに読んでみて考えたことの断片を書くに留めたいと思う。

「生きられた家」とは何か。

それらの人びとにとっては、建築とは自分たちのアイデンティティを確かめたり、それがなければ漠然としている世界を感知するたまたまの媒介物であるというだけで十分なのである。おそらく「象徴」という側面から建築を語ろうとすれば、特殊な建築芸術の論理においてではなく、まずこのような経験の領域を問題にしないわけにはいかないのである。建築の象徴的経験とは、人びとを建築それ自体の論理へ回送しないで、建築が指示している「世界」へ人びとを開くのである。そのように考えれば、建築家が固有の論理からうみだす形象が、すでに人びとのひそかな欲望や象徴的思考に包まれているという可能性は十分にあるわけである。(p.143)

問題はいかに潜在している生命に出口をあたえ、それを凝固した社会に放出することができるかということである。(p.145)

「生きられた家」とは何か。

著者が示しているものは、まだ何度か時をまたいで読んでみないと掴めそうにないけれども、サブタイトルにある「経験と象徴」がガイドになりそうである。
それらは、計画の概念とは距離があるが、おそらく現代の多くの建築家が何とか近づきたいと思っているものでもあるだろう。

また、本書には、計画という行為からこぼれおちてしまうものをすくい上げる中に、なお建築を捉えようという意志が垣間見える。
その脱ぎ去り難い矛盾のようなものから何かを見出そうとする姿勢の中には、前々回の読書記録で見たような、現象学が開いた道から芽生え出ようとしている何かに対する期待も見え隠れする。(例えば下記)

ボルノウのような哲学者は、家を手がかりに確かな世界(つまり人間)を再建できるように考えすぎてはいないだろうか。あるいはそれをうけて建築の理論家クリスチャン・ノルヴェルク=シュルツが実存の段階と空有感のスケールを対応させ、地霊に結びつく中心的な家から次第に大きな環境にいたるまでの同心円的構造を描くのは、それ自体、私自身も十分に評価している貴重な試みではあるが、そこに保存されているのは古典的な形而上学的統一をもった人間の概念であるような気がしてならない。文化はそのように全体化して、とういつのあるものではないし、また、コスモロジーは性的な構造として捉えるべきではない。神話、儀礼、あるいは象徴的身体の多様性などには、生成と変化の、混沌と質所の相互性の流動的で偶発的な過程も含まれている、むしろ現象学が提起した問題の核心は形而上学の否定に合ったのではないか。(p.18)

しかしわれわれの歴史において主体と呼べるものがはたして確立されているのだろうかという疑問には答えていないのである。われわれは渦巻く多様な問いの中に立っているのである。(p.229)

ヴァレラもしくはメルロ・ポンティは主体を世界との関わりの中から生成するはたらきの中に見たが、経験はその関わり、象徴はそのプロセスの中から生成するものだとすると、そのような躍動的な生命の中に「生きられた家」があると言えるかもしれない。

しかし、問題は、われわれは如何にしてそれをつくりうるか、である。

「生きられた家」が人とどのような関係であるかという構造の問題ではなく、どのように立ち上がるかというシステム(はたらき)の問題として考えてみたときに何が見えてくるか。

設計という概念は一旦保留もしくは拡張、あるいは初心に帰る必要があるように思うが、「生きられた家」が立ち上がるにあたって(前々回書いたように)言葉や技術が媒介となることが考えられないだろうか。

つまり、心のあり方を直接書き換えるのではなく、心を形成するプロセスの環境である、言葉と振る舞い、もしくは身体と(世界とつながる)技術を書き換える、という道筋である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 不安の源から生命の躍動へ B270『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』(下西 風澄))

身体や技術を通して主体(心)が経験や象徴とともに生成することによって、建物が「生きられた家」となるストーリー。
例えば、藤森照信の建物がどこか懐かしさを感じさせるのも、もしかしたら氏が技術というものを媒介として扱っているからかもしれない。

21世紀の民家

古い民家がまだわれわれにやすらぎを与えるとすれば、それはかつての自然の環境の中で、人間が住みついた「家」がかいまみられるからである。自然的な環境とは「自然」をさすのではない。近代的な技術が介入する以前の人間の環境である。「家」とそれが現実化する文脈との均衡した構造を、限定された条件の中で発見できるからである。(p.15)

古い民家のひとつの読み方がここに示されている。民家から何をひきだすべきか。住むことと建てることが同一化される構造があったことを見出すこと。この構造の意味を知ること。それ以上ではない。この一致がわれわれに欠けており、その欠落(故郷喪失)こそ現代に生きているわれわれの本質だと考えることが必要だと、ハイデッガーは述べているわけである。(p.18)

民家とは、何だろうか。
wikipediaには民家は「庶民の住まい(住宅)。歴史的な庶民の住まいをさすことが多い。」とあるが、そのとおり。古い家は古民家というけれども、新しい家を民家とはあまり言わない。

これは、単に住宅という言葉に置き換わったというだけでなく、かつて民家と呼ばれた特性を現代の住宅が失っていることを示してもいるだろう。

ここで、先の引用文をもとに、「「家」とそれが現実化する文脈との均衡した構造」「住むことと建てることが同一化される構造」を持つものが民家である、と仮に定義してみる。

その場合、現代のわれわれにとっての民家、21世紀の民家とはいかなるものだろうか。そして、それは「生きられた家」とよべるものになりうるだろうか。

しかし、商品化された社会の中で現実に適応している人々にとっては、おそらく実行不可能であろう。(中略)だから、レヴィ=ストロースが主張するような具体性=象徴性は、不可能という垣根のとりはらわれる夢の中でしか生じない。(p.134)

「「家」が現実化する文脈」は、(古)民家が成立した時代とは異なり、ほとんどが商品化されたものの配列に過ぎなくなっているし、家が買うものになった現代では住む人に「建てること」はほとんど届かず、「生きられた家」へと連なるはたらきは限定的にしか成立しない。

では、(古)民家が成立した時代の文脈とはどのようなものであったか。
身近な生活する範囲から多くの材料が調達できたであろうし、住む人が建てることに関わることも多かったであろう。そこには建てることのプロセスがブラックボックスの中に隠れているのではなく、確かなリアリティとともにあったと思われる。

現代において「21世紀の民家」を考えるとすれば、「家」が現実化する文脈を書き換えることが必要だと思うが、それは昔のやりかたをそのまま踏襲する、ということではないだろう。(それが現代の文脈・環境とズレてしまったから問題なのだ)

商品を扱うことに慣れすぎて、環境に存在する文脈を発見する目がほとんど退化してしまったから見逃してしまっていることが、現代の社会にもたくさんあるはずだし、そこから新しい文脈を紡いでいくこともできるはずだ。また、昔の技術の中にも今に活かせるものがたくさん隠れているはずである。

二拠点生活をして強く感じるのは、地方と都市部では、自然・時間・空間(広さ)の3つに関してはいかんともしがたい大きな差があり、それが「建てること」の可能性に大きな差を生む、という実感であるが、それを受け入れつつ、文脈を発見する目を養う必要があることは間違いない。(例えば、Amazonやホームセンターは新しい文脈の一端になりうるはずだ。また、そういう意味では都市部で逞しく生きる生き物たちには勇気づけられる。)

また、商品化は目だけではなく、手も退化させた。
「「家」が現実化する文脈」を書き換えることを考えた時、目だけではなく、手を養うことも必須であると思う。
目と手は別々にあるわけではなく、手を養うことでものを見る解像度が上がり、目も養われるし、目が養われることで、可能性に気づき手も養われる。おそらく、どちらかだけでは新しい文脈にはたどり着けない。

これはまさに、これまで考えてきた知覚・技術・環境のダイナミックな関係性とサイクルである。

それを、実践的に探ろうというのが自分にとっての二拠点居住の根本的な意味かもしれないし、「21世紀の民家」について真剣に考えてみる必要があるのではないか。
最近、そんな風に考えることが増えてきた。

越境者と演劇性

「生きられた家」は概念的な知に訴えるべきものでも、感覚的にのみ把握できるものでもない。それらの網目から洩れていく気がかりなざわめきが絶えず問題だったのである。コスモロジーという言葉に、どうしても積極的な意味を与えるとすれば、このざわめきの多義的世界をさすと考えるべきではないだろうか。(p.213)

さまざまな領域を定められ、分離され、その中で秘儀をこらし、あるいはそこに抑圧されているあらゆる領域を裏切り、自在な結合と新たなざわめきをよびさますことができるのは、エブレイノツ流に理解した演劇的本能だといえるだろう。(p.214)

本書ではターンブルの著作から、森に住むピグミーの生活が紹介されている。
ピグミーは森の生活とは別に、村に下り、バントゥ族の傍らで暮らすこともあるそうだが、そこではバントゥ族のしきたりをすっかり受け入れるようなフリをし、森に帰ると本来の森の生活に戻るという。
著者はそこに演劇性をみるが、私も自信と重ね合わせるところがあった。

もともと地方(田舎)への事務所移転にあたりテーマとして考えていたことに、遊びについて何かを掴むことと、越境者になることの2つがあったのだが、越境者になる、というときのイメージは、片足は都市部にあって、もう一方の足を地方に伸ばす感じだった。といっても、都市部に肩入れしてるわけではなく、地方に足を伸ばしつつ、片足を都市部に残させてもらう、というイメージである。

地方の方たちは、初心者の私からしたら、(たくさんのものを失いつつあるとしても)生きる技能を持った先生のようなもので、そこにアプローチする意識はあまりなく、どちらかというと断絶が進みすぎた都市においてささやかでも世界とつながる感覚・きっかけを(特に子どもたちに)つくりたい、という気持ちが大きい。

都市から見た遠い世界としての地方に入るのではなく、そこを越境することで、都市における新しい当たり前の何かを生み出したいと思うのだが、そのためにも、自分の中で新しい当たり前に出会わないといけない。そんな感じのことが当初の動機ではなかっただろうかと思う。(といっても、部外者でいるつもりはなく、積極的にアプローチはせずとも当事者の一人ではいたい。)

こんな風に越境者ということについて考えていたときに、本書を読み、演劇性というキーワードに可能性を感じたのだ。

演劇性とは、ある種の嘘ではないか、と感じてしまいそうになるが、ある限定された状況、あるいは分断された状況を考えたときに、演劇性は、その中で塞ぎ込まずに可能性に対して明るく開きつづけることを可能とするのではないか。それは、嘘ではなく、態度をずらした一つの確かなあり方ではないか。

資本の物語も科学の物語も、無数にある物語の一つでしかなく、たまたま現在はそれが主流になっているにすぎない、もしくはたまたまそれを物語の位置に置いているにすぎない、と一旦距離をとってみる。 その上で、資本や科学の物語が必要であれば召喚すればよいが、そうではないレイヤーの物語も手札の中に持っておく。そういうポストモダンの作法によって強力な物語から少しは自由になれはしないだろうか。 物語は縛られるものではなく、自在に操るものである方がおそらく生きやすい。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫))

一つの物語に閉じることが不自由さを生むのであれば、様々な物語を自由に渡り歩く方がいい。そんな自在さを演劇性という言葉の中に感じたし、その先に「21世紀の民家」を見つけられはしないだろうか。

道具と装置

それは、ハイデッガーの現象学的空間の生成を意味するのであるが、むしろ我々の場合には、個々の道具のあらわれとともに住み道具としての部屋があらわれると言い換えたほうが良かろう。(p.48)

だが家をこれらの行為に還元することは、家を道具に還元することである。道具的機能の集積だけで捉えられてしまう空間に還元することになる。これは具体的などころか、反対に形而上学を受け入れることなのである。(p.98)

おおかた書きたいことは書いたけれども、最後に少しだけ。

昔、師匠にあたる方に「お前の考える建築は、装置だ。面白くない。」と言われたことがある。
今も覚えているくらいなので、結構響いたと思うのだけれども、装置ではないようにする、ということがいまいち分からなかった。
ハイデッガーの道具という概念もいまいち分かっていない。

しかし、ここに何か大事なものがあるような気もしている。

例えば、装置と道具について考えたときに、装置は、自動化されたもの、もしくは操作するもの、という身体とは切り離されたイメージがあり、道具は自ら扱うもの、身体性を伴うもの、というイメージがある。
そう考えると、「21世紀の民家」は装置であるよりは道具であるべきだ。

しかし、やはり家は道具ではない。「21世紀の民家」は道具であるよりはやはり家そのものであるべきだ。

それが、どのようなものかは今は見えていないし、大きな遠回りになるかもしれない。
けれども、しばらくのあいだ考えてみる価値はあるような気がしている。




世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也)

河野 哲也 (著)
東京大学出版会 (2022/3/14)

2013年に刊行された『知の生態学転回』三巻本の続編とも言える新しい九巻シリーズのうちの一つ。
一気に全巻は難しいと思い、まずはそのうちの一冊を買ってみた。
(前回のシリーズも購入前はきっと読むのに苦戦するだろう、と思っていたけれども読み始めると面白くてどんどん読み進められたので、今回のシリーズも期待している。)

間合いとリズム・流れ

間(ま・あいだ・あわい・はざま)とは、引きつけると同時に引き離し、分けると同時につなげ、連続すると同時に非連続とし、始まると同時に終わるような、拮抗する力が動的に均衡している様子である。日本語における、ま・あいだ・あわい・はざまといった読みのそれぞれには異なるニュアンスがあり、間に対する感覚の豊かさが表れている。
また、間合いとは相互に間を変化させられる、合わせる能力も持った者同士にしか当てはめられないものであるが、本書では能や剣道における間合いのあり方を引き合いに出しながらそれを生態学的に捉えようとする。

では、どのように間合いを捉えるか。

間合いは、人の心を含めたあらゆるものを流体として捉え、自己と環境が関わりをその流体の中の渦のカップリングとして捉えようとする中に見出されるが、そこにはリズムがある。

このリズムは、休息の間に蓄えられた音楽を持続させる強度を保持するものであり、機会的な反復である拍子とは異なり、常に新しい始点を生みだすような、新しさの希求としての繰り返しである。そこに生命や創造性が内在している。

ここにおいて、アフォーダンスは、環境に存在する渦であるとともに、全体の流れ・リズムを支える型として捉えなおされる。
アフォーダンスに含まれる意味は渦であり、アフォーダンスへの応答を、自分の渦動を使ってひとつの潮流を形成していくような自己産出的運動と捉える。

本書では、このような感じで、環境と自己との関係を気象学や潮流の海洋物理学といった分野からアプローチするようなイメージが提出される。(ここまでの記述では意味が分からないと思うので関心のある方は本書を読んでみてください。)

残念ながら、それぞれの学問分野によって具体的にどのように記述可能か、という肝心の部分はほとんど触れられていないが、まずは、このイメージの提出によって何かを拡張させることが目論まれているはずである。

それは、動物の視点からみた環境との関わり合いを個別瞬間的に捉え、記述するようなイメージが強いアフォーダンスに、流体のイメージを重ねることによって、空間的および時間的に俯瞰・継続しながらアフォーダンスを捉えるイメージを付加しようとするものではないかと思う。(といっても、アフォーダンスが個別瞬間的な範囲に限定された概念であった、と言うことではない)

あるいは、本書では特別言及されてはいないけれども、オートポイエーシスのようなシステム論的な思考への接続が目指されているように思う。
本書でも、カップリングや産出、構成素といったシステム論における用語が(特段の説明がないまま)使用されており、オートポイエーシス・システムのようなものが前提とされていると思われるが、それによって、アフォーダンスを空間的・時間的に拡張するイメージを組み立てることが可能になっているように感じた。

昔から、アフォーダンスとオートポイエーシスは近い場面を描こうとしているのに、なぜダイナミックに組み合わされないのだろうかと疑問に思っている。
同じ場面を描くとしても、アフォーダンスは知覚者と環境及び環境の意味と価値について構造的なことの記述に向いているし、オートポイエーシスは知覚や環境の変化を含めたはたらき・システムの記述に向いているように思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 世界と新たな仕方で出会うために B227『保育実践へのエコロジカル・アプローチ ─アフォーダンス理論で世界と出会う─』(山本 一成))

このブログでアフォーダンスやオートポイエーシスに触れるたびに、両者の相補的な性質・相性の良さを感じながら、あまり交わったものをみないことを不思議に感じていたし、自分でも両者を交えた形で書くことを試してはいただけに、両者の接続は個人的には好ましい傾向であり今後の転回が楽しみでもある。

環境における無心としての主体

また、間合いやリズムを通じて、デカルト的な心身二元論ではない主体の概念を再提出することも、本書の狙いであろう。

アフォーダンスの概念を分かりづらく、誤解を招きやすいものにしているのは、動物の視点から環境を捉えることを徹底しながらデカルト的な見方を捨てることを要求する、この主体の概念である。
それを能や剣道の例をもとに描き出していく。

能においては地謡が語ることで場を用意し、ワキが二人称として存在することで初めてシテが主体(一人称)として現れる、というように、関係性の中に生まれる主体という世界観がある。
この、シテの演者が、無心になり、ワキや地謡、観客の視線といった環境の中で受動的に自分が運ばれる、というような境地に至ることで、こわばりや不自然さが克服される。
しかし、この状態はただ受け身であるのではなく、「離見の見」と呼ばれるようなメタ的な視点によって、自ら改変した環境の中ではじめて無心であれる、というような受け身である。
それは遊びの世界とも呼べる超越的な世界であるが、自分がつくりだした環境によって相手にトリガーを引かせ、そのトリガーによって自らが無心に運ばれるという、いわば高等技術である。

また、剣道における「後の先」という間合い(相手を攻撃するように仕向けて(トリガーを引かせて)無心に反撃する)というのも同様のありかたである。

そして、意図や行為を主体の心が生みだすものと捉えるのではなく、環境との関わりの中で形成されていくものと捉え、環境および環境との関わりを、渦・潮流とその整流と捉えるというのが本書の提出するイメージである。


ここまでは、私なりに捉えた本書の概要であるが、ここからは、建築を考える上でそれらはどのように展開が可能か、のとっかかりをメモ的に書いておきたい。

建築との間に間合いはあるか ~出会いの作法とつくること

最初に、間合いとは相互に間を変化させられる、合わせる能力も持った者同士にしか当てはめられないもの、と書いたが、そうだとすると、意志を持たない建築との間に間合いというものはあり得るだろうか。

本書でも日本庭園を例に出した上、そこに表現されているものを間合いと呼びたくなる、と書かれており、その理由は、日本庭園が移動し、身体で経験するものであり、差異化が常に待機状態であるから、とされている。しかし、それだけでは間合いがある、とは言い難い。
また、最終的には「しかし、それよりも根源的な音楽性、すなわち「新しさの希求」は、このような対人的・二人称的なやり取りの中でしか経験できない(p191)」と結論付けられている。

では、やはり建築との間に間合いというものはあり得ないのだろうか。

それに対しては確信はないけれども、2つの可能性を書いておきたい。

その可能性の一つは、技術・出会いの作法として以前書いたものである。
さまざまな渦の間に間合いが生まれるとすれば、対する渦が多様な現れをし、こちらの間に応じて異なる間を返してくれることが必要だろう。

技術とは、環境から新しく意味や価値を発見したり、変換したりする技術、言い換えると、新しい仕方で環境と関わりあう技術である。言い換えると、技術とは新鮮な出会いの方法である。(オノケン│太田則宏建築事務所 »  二-八 技術―出会いの方法)

上記引用元では、重ね合わせ・保留・ずらしの3つを挙げたが、日本庭園のように間の変化を前提とし、変化の契機を内在した、出会いの作法とも呼べる技術には間合いが生まれる可能性が残されていないだろうか。

可能性のもう一つは、つくること、である。

先の引用のように、今、住まうことの本質の一部しか生きられなくなっていると言えそうですが、どうすれば住まうことの中に建てることを取り戻すことができるのでしょうか。 それには、3つのアプローチがあるように思います。(オノケン│太田則宏建築事務所 » つくる楽しみをデザインする(3つのアプローチ))

つくることを届けるということは、つくる人を届けると言い換えても良いだろう。
上記引用元では、直接的に作る(施主)、職人さんの「つくる技術」を届ける(施工)、設計によって「つくること」を埋め込む(設計)の3つを挙げたが、それが届けられたとすれば、それをつくった過去の自分、職人、設計者と対峙し、そこに間合いが生まれる余地はないだろうか。

これらが、間合いに応じて異なる表情を出してくれるとすれば、そこに生命や創造性が内在したリズムが生まれはしないだろうか。
それが実現されたとすれば、それはおそらく建築の奥行きと呼べるものであり、案外皆が追い求めているものなのかもしれない。

オノマトペ 小さな矢印の群れ ハイパーサイクル

また、世界を流体・渦として捉えるイメージを前にした時、3つの書物が頭に浮かんだ。

オノマトペ

うまく掴めているかは分からないけれども、氏の「物質は経験的なもの」という言葉にヒントがあるような気がする。 モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾))

下図は、この本を読んだときにオノマトペの印象から書いた人と物質との関係の漫画だけれども、世界を流体・渦と捉えるイメージと驚くほど重なる。(隈氏のイメージの元にアフォーダンスがあるので当然かもしれないが)
onomatope

小さな矢印の群れ

同様に、例えば<収束モード>と<発散モード>を緩やかなグラデーションで理解するというよりは、それを知覚する人との関係性を通じてその都度発見される(ドゥルーズ的な)自在さをもった<小さな矢印の群れ>として捉えた方が豊かな空間のイメージにつながるのではないでしょうか。(オノケン│太田則宏建築事務所 » その都度発見される「探索モードの場」 B177 『小さな矢印の群れ』)

この時も小さな矢印をその都度発見される自在さをもったものと捉えようとしているけれども、これも流体・渦の世界にかなり近い。
この矢印に量子力学的な、もしくはネットワーク理論的なイメージを重ねることで、より豊かな場をイメージすることが可能にならないだろうか。

ハイパーサイクル

つまり、「感触」によってカップリングとして他のシステムに関与すると同時に、他のシステムからも手がかりを得ながら、サイクルを継続的に回し続ける。 このサイクルによって複合システム自体が再組織化され、新しい能力が獲得される。ここで、新たなものが出現してくるのが創発、既存のものが組み換えられるのが再編である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 実践的な知としてのオートポイエーシス B225『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本 英夫))

複数のシステムのカップリングによる創発のようなものの記述は河本英夫氏の方に一日の長がある気がするが、これに空間的なレイアウトのイメージを重ねたのが流体・渦の世界観かもしれない。

新しさに開いておく ~モートンのリズム

最後に、本書においてキー概念であるリズム。
新しさを希求し続けることによって、生命や創造性が内在しているのがリズムであったが、これが、モートンを読んだときに曖昧だったイメージを補完してくれたように思う。

モートンの思想の基本には、人間が生きているこの場には「リズムにもとづくものとしての雰囲気(atmosphere as a function of rhythm)がある。(中略)そして、彼が環境危機という時、それは人間とこの雰囲気との関係にかかわるものとしての危機である。人間は、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きているのであって、このリズム感にこそ、人間性の条件が、つまりは喜びや愛の条件があるというのが、モートンの基本主張である。(『複数製のエコロジー』p.44)

に書いたように、本書は一貫して距離の問題を扱っているが、そこでみえてくるのはとどまることの大切さである。 自然という土台がない、という土台からはじめる必要がある。それは、とどまりながら、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きていることを敏感に感じ取り、反応していくということなのだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

モートンは、ものごととのあいだに固定的な距離が生まれることを注意深く避けるために、独特のリズムを生きることを重要視しており、『自然なきエコロジー』は距離との格闘の書とも言える。

その際、固定化を避けるリズムを立ち上げ続けるような作法が重要だと理解しつつ、リズムに関しては曖昧なイメージしか掴めていなかったのだが、間合いとはまさに固定化しない距離の作法のことであろう。本書によってモートンのリズムが少しイメージできるようになった気がする。




三 出会いと設計

「何か?」から「どう?」へ

これまで、建築における出会いとは何か、何とどう出会うのか、ということを書いてきたけれども、それらは建築の専門家であるかどうかに関わらず、自らの体験として捉えることが可能なものだったのではないか思う。

しかし、設計者の立場としては、そのような建築がどのようにつくられるのか、どのようにすれば設計可能なのか、という点に興味がある。

そこで、ここからはどうやってつくるのか、について出会いとはたらきの点から考えてみたい。

はたらきとしての設計

出会う建築と言った場合、同様に出会う設計というものがあるように思う。
それは、環境を能動的に探索しながら情報をピックアップし、何かに出会うことによって調整する、というこのと循環による自律的なはたらきとしての設計である。

ここで、設計をはたらきとして捉えることが決定的に重要であるように思われる。

概念のところで書いたように、思考とは自己と自己との言語を介した出会いの循環、そこで生成された言葉と出会うことで、次の言葉を生成し、またその言葉と出会うというサイクルである。
同様に設計も、自己と環境との、出会いと行為のサイクルだと捉えられるが、そこにはそのサイクルが動き続けるとというはたらきがある。

それは、設計行為に関わるはたらきが環境の中で回転し続けることで、建築がその形や境界を調整しながら形成されていく、といったような動的なイメージであり、そのはたらきを豊かに維持し続けることが設計の密度へとつながり、ひいてはつくられた建築での出会いを豊かなものにするように思う。

遊びと分散

設計のはたらきにおいてさまざまな予期せぬものに出会う。ここでいう予期せぬものは物理的なものに限らず、要望や社会・文化・歴史的環境、さらには、その時点の図面や模型、パースなどのように設計者によって投入される事柄も含む。

その予期せぬものは、主観的な設計意志に対する制約(痛み)ではなく、遊びの文脈に乗った探索可能な出会いの可能性であり、設計行為を出会いと行為のダイナミックなはたらきへと導くものである。

また、それらの予期せぬものは、多様であればあるほど出会いの可能性を高めるが、あまりに突出した要素は他の要素の探索を阻害し、循環によるはたらきを弱めてしまうため、適度に分散されていることが望ましい。

そうやって、出会いを多様に分散することは、設計による調整行為にある種の自在さのようなものを与えるように思うし、その自在さが、出会いと行為のはたらきを持続可能なものにするように思う。

出会いの投入

ところで、建築の設計過程で、オノマトペのような言葉や思考により生み出された概念、その他これまで考えて来たようなものとの出会いが発見されたとすると、それれは設計のはたらきにどのように関わりうるだろうか。

先の遊びと分散で書いたことを思い出すと、設計の過程で発見されたこれらの出会いは、設計の原理というように強いものではなく、可能性としての予期せぬものとして、再び設計環境に投入されることが好ましいように思われる。

そうすることで、設計のサイクルにおける出会いの可能性をより多様なものできるはずだ。

少年のモード

また、設計の問題は「どのようなはたらきの中に身を置くか」というように置き換えられる。それはシステムの問題であるが、設計のはたらきを豊かに作動させ続けるためには、経験を開くような態度が必要である。

経験を閉じて、一定の範囲の価値基準や手法の中で設計を行うのでは、そこに出会いは生まれないしはたらきは維持できない。絶えず目の前の予期せぬものを、遊びの文脈で可能性としてキャッチするような態度こそが求められるように思う。

それを河本英夫氏は経験に対する少年のモードと呼んだ。

それは自分の経験と建築とを前に進めるための態度であり、「どのようなはたらきの中に身を置くか」を実践するためのものである。その先には、手法に焦点を当てるのではなく、態度へと焦点を当てた設計論がある。

つまり、出会う設計とは、理論的手法から実践的態度への転回のことなのである。




 二-六 流れ―レイアウトと法則

流れのレイアウト

「私(私たち)である」と感じる領域の中には、その場所ごとの出会いの質とそのレイアウトによって、流れのようなものが生まれる。

その場所の出会いが、例えば見回す、歩き回る、見つめる、立ち止まる、座る、触る、食べる、などの行為に関わるものであるとすれば、それによって流れの方向が生まれる。そして、その流れのレイアウトが、「私(私たち)である」と感じる領域の中に流れの場を作り出す。

その場は例えば(探索的な)移動を促し出会いを活性化するような質のものもあるだろうし、そこにじっと立ち止まり、直接的な出会いの質を静かに高めていくことを促すような質のものもあるだろう。そのレイアウトはある程度の部分が建築によって生み出されるものだと思うが、決して固定的なものではなく、「私(私たち)」によってその都度経験的に発見される自在さをもったものであり、そういった自在さを含めて、その場に特有の流れというものがあるように思う。

流れのスケール

また、エイドリアン・ペジャンによると、あらゆる流れが、より良く(より早く、より容易に、より安く)流れるように進化し、それは、最も多くの流れをより早くより遠くまで動かす流れと、もっと少ない流れをもっとゆっくりもっと短い距離だけ動かす流れの2つで構成され、それらの流れに要する時間は等しくなる。また、このの構成は階層的・入れ子的に多くのスケールの構造となり、それぞれのスケールにふさわしいデザインとなる、という。

これを建築の出会いと流れに当てはめて考えてみると、流れはその場のスケールにふさわしい大きさと速さとデザインとなる。例えば、都市のスケールではその場はより大規模に早く流れ、建築のスケールでより小規模にゆっくりと、よりヒューマンな体験として流れる。それらは分断されたものではなく、一連の流れであり、それぞれのスケールに対してふさわしいかたちをとる。例えば高速道路の脇に、普通の住宅が普通の配置デザインで建っていたとしたら、おそらく異様な光景だろうし、きっとその流れの速度に相応しい住宅のデザインがあると考えるはずだ。同様に、身の周りの建物のデザインを見てみると、その場の流れに相応しいもの、流れとは全く無関係に見えるもの、いろいろとあることに気づくかもしれない。

このように考えてみると、都市と建築の関連と役割がぼんやりとではあるがイメージできる。その場のスケールに相応しい流れの場と出会うことによって、例えば都市と建築、さらに小さなスケールが一つの流れとしてつながることができる。

人は建築で、場の流れと出会う。また、その流れはスケールに対してふさわしいかたちをとる。




脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武)

篠原 雅武 (著)
出版社: 人文書院 (2007/8/1)

だいぶ前に『アトリエ・ワン コモナリティーズ ふるまいの生産』で紹介されていた本から数冊購入したのですが、これはそのうちの一冊。

本書で考えてみたいのは、共通世界としての公共空間とは何かということであり、また同時に、これがなくなりつつあるのではないか、そうであるならどうしたら良いのかということである。(p.4)

帯には「公共空間の成立条件とは何か?」「アーレント、ルフェーブルの思想をたどり、公共性への問いを「空間」から捉え返す、現代都市論・社会理論の刺激的試み。」とあります。

公共空間が失われつつあるのではないか、という問いかけ自体は目新しいものではないと思いますが、「空間」から捉え返すとはどういうことか、アーレントからどう展開されるか、また、古びた問いをどう展開するのか、にも興味がありました。

一度目は細切れでしか読めず、ぼんやりとしか掴めなかったので、二度目を読みながら並行して、自分なりにまとめていきたいと思います。

序章

まずは序章から。
 
 
 
序章では、公共空間を考えるためのいくつかの視点・問いが提示されます。

公共空間とは何か。

公共空間とは何か。

ここではアーレントの公共空間に関する議論とジンメルの空間の捉え方を参照しているのですが、公共空間とは、空虚でしかなかった空間が、隣人との相互行為によって「あいだ」が満たされることで意味ある何かとして現れた空間のことである、と言えそうです。

この相互行為によって「あいだ」満たされた状態をどうしたら維持できるのか、を考えることが公共空間を問うこと、すなわちこの本の中心的な問いかけだと思います。

公共空間と私的空間の境界

また、公共空間は私的空間との関係でも語られ、その2つの関係が適切に維持されるような境界のあり方が問われます。

この境界の区別する働きが強くなると、私的空間は分断され、相互行為によってみたされる「あいだ」、すなわち公共空間が失われます。この状態の私的空間をアーレントは「真に人間的な生活にとって本質的な事柄が奪われる事を意味する。」と言います。

逆に、連結する働きが優勢になり、公共空間と私的空間との差異が消え去ると、資産化された私的空間が、いまだ資産化されていない空間を公私問わず併合しながら膨張し、やがて公共空間を食いつぶすことになります。

公共空間と私的空間の境界の区別する働きと連結する働きのバランスが、どちらに崩れても公共空間は維持できなくなるので、この境界をどうバランスよく維持できるか、が問われることになります。

疎遠化と一体化、開けた閉域へ

アーレントの問いかけをもとに論が進むわけですが、アーレントの時代と現在(2007年)とでは公共空間は異なる問題に直面していると言います。

平等の名のもと、管理行政機構によって画一化が進められた時代では、それによって自然発生的な相互行為が排除されることが問題とされ、画一化に抵抗するのが公共空間維持への実践とみなされました。
そこでは平等から自由への価値の転換が求められ、多様性・差異・民主主義と言ったことが唱われることになります。
しかし、この民主主義を求めた「自由」は、やがて資本主義的・経済的な「自由」を求めるネオリベラリズムへと横滑りし、公的なもの、すなわち国家や民主主義的な公共空間の解体を求めるようになります。

公共空間を取り戻すために平等からの転換を目指した自由が、いつしか公共空間を脅かす自由へ変容し、こうして、公共空間は新たな危機に直面することになったのです。

ネオリベラリズムもしくはグローバリズムにおいては自由は求めるものではなく、課されるものになり、公共空間を奪われた開かれた世界では、互いの間に生じた摩擦を緩和することが出来なくなります。
そして、人々は無摩擦空間をどこまでも求め、互いに疎遠になっていく(疎遠化)と同時に、身近な他者に一致状態を求めるようになります(一体化)。

また、テレビやインターネットなどのメディアは、公共空間が存在するならばそれを補完する武器になりえます。しかし、公共空間を欠いた状態では、気分や感情といった水準の公共的情動とも呼べるものによって、疎遠化と一体化を増幅するように作用します。
そこでの一体化は、単なる閉域においてではなく、メディアによって生まれた開けた閉域とでも呼べる領域において進行するのです。

こうして、資本主義が要請する自由が、政治的な討議を行なう公共空間を奪い、人々は代りに出来た閉域へと引きこもるのです。

現代のポピュリズム(極右的な排外主義、スポーツ選手やテレビタレントへの熱狂)、ないしは偏狭なナショナリズムの勃興は、この公共的情動を土台とする。その限りでは、全盛期の総動員型全体主義の土台となった世論の規格化=思想統制と区別しておく必要がある。拘束の内部において画一化し、逸脱を許さないのが全体主義だが、現代の情動の一致状態は、むしろ、画一性とは対極の、差異性、多様性が、どういうわけか不和のない均質的な一なるものへと収斂していく過程にあるものと考えられるのではないか。そしてこの一体化にともなって公共空間が解体していくのではないか。
疎遠化と一体化。公共空間の解体を論じる際には、相反する二つの過程の同時進行を問題化せねばならない。(p.34-35)

序章を読んで

以上、自分なりに序章の概要をまとめてみましたが、そこで頭に浮かんだことも記しておきます。

相互行為に満たされた空間をイメージ出来るかどうかが一つの肝になるように思いますが、この「あいだ」を満たすものはリアリティや密度感・充足感というようなイメージでしょうか。

これは、私が建築・空間に求めるイメージとも近い気がします。
建築に対しては、相互行為の相手は人でもモノでもよく、文化や歴史といった無形のものも含めて考えています。その相互行為のことを出会うという言葉に変えてまとめたのが出会う建築です。(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » Deliciousness / Encounters

ギブソンの生態学に相互行為を適用することで人間を取り巻く特殊な環境まで拡張したのがリードの生態心理学だと理解しているのですが、ここでの公共空間の議論と生態心理学とは重なる部分が多いかも知れません。(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » B187 『アフォーダンスの心理学―生態心理学への道』
そう考えると、相互行為に満たされるというのは、生態学的な知覚の欲求、生きていくための欲求が満たされることで、リアリティや密度感・充足感と結びつくのは自然なことのように思われます。

また、境界のバランスの問題も建築の自立性(建築がそれを体験する人と一体化せずに関係を結べること)との重なりを感じました。(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » 建築の自立について

こういう重なりは、この本での議論が一般的な「何かが失われつつあるのではないか」という関心とは別に、建築に対する視点も拡げてくれるのではないか、という期待を抱かせてくれます。

また、公共的情動に関しては炎上や社会的リンチ、新国立競技場のザハ外し事件や豊洲市場の茶番等々、思い当たるものはいくらでも挙げられそうですが、この本が書かれたのが2007年8月、twitterの日本語版スタートが2008年4月なので、この本が書かれた後にメディア、特にSNSによって公共空間のあり方がさらに変容している可能性は考えておいた方が良いかも知れません。

個人的な感覚としては、twitterでは個人が複数のクラスタ・分人的に振る舞えた時期があり、公共空間として相互行為に満たされた瞬間があったように感じますが、Facebookでは分人的振る舞いが再び個人に統合されたため、疎遠化と一体化の力が働き、公共空間としての機能は弱まっているように思います。なので、どうすればFacebookの公共空間的機能を強められるか、と言った問いの立て方はあり得るかと思います。

さて、まだ序章。問いかけがあっただけなので、これからどう展開されるのか。


第一章 境界と分離

序章では「公共空間とは何か。」「公共空間と私的空間の境界」「疎遠化と一体化、開けた閉域へ」という視点の投げかけがありました。

そこから第一章では「境界と分離」について。

ジンメルからセネット、個人から共同体へ

ジンメルは都市における分離の問題に対し、個が個を保ちながら孤立に陥ることなく生活するには、個人と群衆との間に距離を設けること(もしくは投げやり)が必要とした。
一方、セネットは都市の問題を、構成要素である共同体の問題とし、共同体の間に交渉のための場が必要とした。

セネットにおいて、都市の問題が、個人の距離の問題ではなく、共同体の空間の問題だと捉えられるが、それらの境界が、共同体が純化(境界からの撤退。疎遠化と一体化。拒絶と否定)に向かう傾向に対抗するような公共空間となるには、どの様な条件があるか、が問われる。

アレグザンダーとルフェーブル、分断と隙間

公共空間になりうる分離された空間のあいだの捉え方には二つの見方がある。
一つはあいだを、部分相互の関係を分断するもの、と捉える見方で、これが公共空間となるには、部分相互の交渉のために空間となる必要がある、と見る(分断)
もう一つはあいだを、取り残された余地、と捉える見方で、これが公共空間となるには、内部ならざる空間を開くための余白となる必要がある、と見る(隙間)

ここで、アレグザンダーとルフェーブルが比較される。

アレグザンダーはあいだを有限な集合の中の部分の分断として捉える(静態的)。そこで、あいだが部分相互の交渉のために空間となるには、重合(オーバーラップ)、共通項を重ね合わせることが有効とする。

それに対し、ルフェーブルは、分離した集合の間には、交流欠如の問題だけではなく、政治的な問題があるとする。集団がそもそも他の集団と分離することによって成立しているとすれば重合の有効性は限られる。
分離は政治経済的な作用の帰結であり、心的なものというより資本主義体制下での生活空間に特有の客観的性質である。
資本主義のもと、空間の商品化(工業化された空間論理、交換の論理、商品世界の論理)が進み、等価交換の領域に包括されることによる特殊性・地域性の消去すなわち「場所の均等化」の作用と、空間を剰余価値の源泉とみなし富や階級、民族や宗教の違いに応じた序列を生み出す「階層序列化=不均等化」の作用という、相反する二つの作用によって分離が生み出されるのである。(例えば、郊外は、同質性を求めて集まるところというよりは、集まりと出会いの空間から引き離し、参加の機会を奪っておくために作り出された隔離のための居住地と言える。)
さらには、分断は交流を不平等なものにし、参加者を限定していく

ここで、分離に対して重合の施策は、有効性が限られるばかりでなくこの構造を隠蔽してしまうために適切ではない。これに対し、ルフェーブルは分離の形態ではなくプロセス・はたらきを問題視すべきであり、計画化された秩序の裂け目こそが、支配的な空間秩序に変わる空間形成の拠点と成り得るとする。
限定ではなく途上、静態的ではなく現動態的・潜勢的である空間、「他なる空間」がさまざまな事物や人を集め出会わせていく力の中心的なものと成り得る。

境界は、重なり合いのための余白ではなく、それ自体で集め、出会わせていく作用を備えた空間が生成していくための隙間である。分離は現に支配的な形態でもあるかもしれないが、これに対抗していくためには、隙間としての境界的な空間が、中心性としての空間へと生成していくことを要するだろう。それもただ一つだけでなく、無数の隙間が。(p.79)

この生成の過程は支配的な秩序に対し劣勢であるが、ルフェーブルは分離とは別の空間の出現拠点はここ以外ないと確信する。その確信がどこから来るのかは次章以降で。

第一章を読んで

ようやく第一章。(一度読んだにもかかわらず、全く先が読めない(笑)
ここまで読んで、前回書いた「分人的振る舞いが再び個人に統合されたため、疎遠化と一体化の力が働」いている状況が再度頭に浮かびました
SNS等によってやんわりと可視化される境界と分離の構造。
それに対して個人としてはどういうスタンスをとるべきか

実践を通じて、分離の構造の裂け目を動かしはじめている方、さらに、そこで新しく生まれた空間が結局分離の構造へと回収される、ということを避けるための振る舞いを編み出し始めている方、の顔も何人か頭に浮かびます。

ぽこぽこシステムじゃないけど、動いているということ、はたらきそのものが重要なのは間違いなさそうな気がします。


第二章 政治空間論ー均質化と差異化

前章の内容と重なりながら、ルフェーブルの政治空間論について掘り下げられます。

均質空間と差異空間 中心性と運動性

ルフェーブルは政治について、権力などの外在的なものではなく、空間そのものがどのように政治的であるか、を問う。

空間は、差異的なもの及びそのための隙間が除去されて均質的になることによって政治的になるが、それらの空間は固定的な枠ではなく、流動的で運動性を有するものとして捉えられる。

この均質化に対する実践は現実の空間が分離され、均質化されていく過程に即しながら、その中の隙間を捉えることで可能となる。その実践は新たな差異空間の生産へと繋がりうるものである。

差異空間と均質空間の間の運動と同じく、中心性の概念も変容する。中心性はさまざまな要素を集積し出会わせていく作用から、異物を除去し全体化する作用へと変容していくが、またその空間の中から集まりと出会いの作用へと中心性を変容するような隙間が見出される、というように揺れ動く。

この中心性のあり方こそが空間の質を決定する。ゆえに、均質化に対抗するには中心性の全体化作用に対抗する必要があるが、それらは現実の空間の変容過程に即してみいだされるものである。(ルフェーブルはその実践のアイデアとして脱中心化と転用を挙げている。)(逆に空間の質が中心性のあり方に関与するというような相互関係でもあるように思う。)

空間の均質化が中心性が全体化へと変容した結果だとすると、均質化に対する実践はその変容にあらがい、差異空間を現させるような集まりと出会いの中心性へと導くことで可能となる

第二章を読んで

めちゃめちゃざっくりまとめましたが、前回

ぽこぽこシステムじゃないけど、動いているということ、はたらきそのものが重要なのは間違いなさそうな気がします。

と書いたように、ルフェーブルは空間をオートポイエーシス的なはたらきとして捉え、理論化や実践の可能性を空間と探索的に関わる行為の中に見出しているように思います。

「相互行為に満たされた公共空間」を(これもオートポイエーシス的に)維持するためには、どうすれば空間の中心性が全体化へと変容するのを阻止し新たな隙間を産出し続けられるか、を見出し続けるような視点が必要なのかもしれません。
それには、空間をはたらきの中の一地点としてイメージできるような視点と想像力、そして、そのはたらきに対して探索的に関わることができるような自在さを持つことが有効な気がします。

僕自身は、まだこの本における「政治」とは何を指すのか、をうまくイメージできていないように思います。自分なりのまとめを最後まで書いて繰り返し読み返すことでイメージできるようになればいいけど。


第三章 公共空間の政治

公共空間は脆弱な空間であるから、その喪失の過程に即した現状認識と実践が必要である。

公共空間の境界

アーレントの帝国主義時代と現代のグローバリゼーションの時代は異なるが、多くの示唆を与えてくれる。

 ・現れの空間…人々がともに集まるところには潜在的に存在し、相互行為によって形成され、それが途絶えると消えてしまうもの。
 ・境界の開放と制限
 ・共通世界…相互行為の土台となる具体的な場所。
 ・世界疎外…手の届く身近なところへの関与、および気遣いのすべてから離れたところへ退避すること。
公共空間が過度に拡張すれば、共通世界を失い、世界疎外がもたらされる。

「全体主義の起源」…国民国家が資本主義経済システムの要請に応じて外部と関わる際に、帝国主義的な膨張政策を採用した。
その膨張の暴力はやがて本国の政治体をも解体し境界を消去していく。アーレントはこの暴力の拡張を制御し、破壊から公共空間を守るために、公共空間に境界を要請した
また、国民国家は膨張の暴力に無力で不完全な排除の政治体であるが、同時に行為者に相互行為の条件・人権を与える。
例えば、難民や亡命者のように属する政治的共同体を喪失した者には、抽象的な人権ではなく具体的な政治体を必要とする

公共空間はあらゆる人間に、政治的行為を営む余地を与えるために開かれていなければならない。が、同時に、相互行為のための共通世界を確保するための制限、また、膨張の暴力から公共空間を守るための境界を必要とする。

境界の消去と排除壁

公共空間は観念ではなく、実質的な帰属を許容し、行為を意味あるものにする空間的な領域である。
それを暴力から守るのに必要なのが囲いとしての境界であるが、帝国主義は<帝国>へと変容し(Hardt&Negri)、内外の区別及び境界は消去されていく
境界の消去の過程にあることを一旦受け入れた上でそれでもなお、公共空間の存立する余地は考えられるか、が問われる。

<帝国>体制下では二項対立が終焉に向かい、支配のやり方が変化し、公的なものの領域を、私有化していくと同時に、政府による監視とコントロールへと開いていく。
さらに、公共空間を確保する境界が消去された後、私有化された空間を保護するための排除壁としての境界が新たに構築されていく。

危険の排除と未来の放棄

ゲーテッドコミュニティなどの私有化された空間は、異物を除去したいという動機のもとで排除壁としての境界を具現化していくように見えるが、実のところは逆に、境界によって外から切り離されることによって恐怖と排除の動機が生み出されていく
その境界は外に閉じるだけでなく、内なる異物を排除し、均質状態を排除しようと作動し続ける。そこで排除されるのは、外部に現存する何かではなく、内なる恐怖によるよく分からない危険な何かである。危険の排除はは予防的にあらゆるものとの関わりを放棄する
ここで放棄されるのは未来なのである。(未来は現在と不変の状態として描かれ、出来事の永続化が目的化される。そこにあるのは計画化された空間である。)

この不可避的な力に対して著者は、抵抗や再要求ではなく、それを変化を促す生成の過程として捉えた上でそこに身をさらして思考することを促す。

脆弱性(ヴァルネラビリティ)の政治

バトラーは「不確かな生」で脆弱性の縮減、すなわち安全によって失われるものの意味を考える。
脆弱性は他者との関わりが不確かで解体しかねない状態、および関わる個々人が互いに傷つけられかねない状態であることだが、実はそれは我々の生を構成する条件であり、それが安全によって失われると言う。
相互扶助と傷つけ合う可能性の両義性を共有しながら他者との関わりに置いて脆弱性を生きることが生にとって必要なのであり、そのようにして生きていかざるを得ないということこそが、脆弱性の要請する政治なのである。

バトラー「全ての他の人間への配慮と引き換えに自分自身を安全にしようとすることは、我々が自分たちの位置を定め、道をみいだしていくための重要な財産を抹消することである。

現れの不可視化と隙間

予期不可能なものを期待できることが、アーレントの公共空間における行為が行為であるための条件であり、安全という概念と引き換えに未来を放棄した私有空間はこの条件に反する。

さらに、この私有空間では危険が除去されているだけでなく、脆弱性を示しそうな現れが不可視化されコントロールされているそこで阻止されているのは、耐え難い何かを知覚し判断していくための空間である。
現代の政治的活動は私有化された空間の外部に真実の公共空間を新たに創出するというよりは、支配的である現れ方の秩序に働きかけその変容を促すこと。身近なところにある、均質化の過程とそれが及ばないところの隙間に気付き、立ち止まって考えることである。

第三章を読んで

ここでもいくつかのことが頭に浮かびました。

自由を求める社会が逆に管理社会を要請する。 管理と言っても、大きな権力が大衆をコントロールするような「統制管理社会」ではなくもっと巧妙な「自由管理社会」と呼ばれるものだそう。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B065 『ポストモダンの思想的根拠 -9・11と管理社会』)

見てみるとだいぶ前の本ですが、『公共空間の政治理論』の2年前でしたね。捉えどころのない時代をどう生きるか。時代による共通の問題意識が合ったのかもしれません。(今はもっと露骨な形に姿を変えているように思いますが。)

予測誤差を、痛みとか、焦りとか、ネガテイブな意味を付与する意味関連の中に配置するのか、それとも、それに対してある種の遊びの契機、あるいは、快楽を伴う創造性の契機としての意味を付与するのかによって、可塑的変化の方向性は変わると思うのだ。(鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』)

熊谷氏の予測誤差を遊びの文脈で捉えることで可能性に変えていこうという姿勢は、本書での「この不可避的な力に対して、抵抗や再要求ではなく、それを変化を促す生成の過程として捉えた上でそこに身をさらして思考することを促す」姿勢に重なります。

そのようにして現実の中から何かをみいだしていこうというのが、本書の結論でもあったように思います。
個人的には脆弱性をどう生きるか、というのが今の課題のように思いました。
歳を重ねるにつけて、脆弱であることよりも安全である方を選ぶ傾向が強くなってきているように感じるのですが、それは、自分の生と未来を少しづつ手放してしまっているのかもしれません

(著者の最近のものも一度読んでみよう。)


結論

最後にメモ的に終章から。

公共空間の存立条件

・必要なのは公共空間の存立条件が何であるかを示すこと、それも現実の只中において示すこと。
・現実には主要な実践とは異なる潜在している対抗実践との抗争状態であること。
・支配的な実践は人間にとって不可欠の条件を拒否して存続しようとしているが、その条件は抹消できないものであること。
・それゆえ、目的に無理があり永続は困難である。公共空間を実在のものとしていく実践はあながち無理ではない

公共空間はどのようなものか

・ネオリベラリズムの均質空間と抗争的な関係にあるもの。
・耐え難いものの現れとしての行為とそれが隙間に創出するやりとりの空間をどれだけささいで脆弱的なものであっても支えていこうとすることが必要。来るべき公共空間の創出の試みはこれらのささいな空間の根底にある共有のものをみいだそうとするところからはじまる。




子どもも保育者も自在であれるように B204『子どもと親が行きたくなる園 (あんしん子育てすこやか保育ライブラリー 3)』(寺田 信太郎 他)

寺田信太郎 (著),‎ 深野静子 (著),‎ 塩川寿平 (著),‎ 塩川寿一 (著),‎ 落合秀子 (著),‎ 山口学世 (著),‎ 佐々木正美 (監修)
すばる舎 (2010/10/14)

川和保育園、さくらんぼ保育園、大中里保育園/野中保育園、東大駒場地区保育所、大津保育園、それぞれの園長先生のお話。

子どもと親が行きたくなる園=子どもと親が育っていける園

園長先生の話の中で、共通しているように感じたのは、

・子どもの自発性、自ら遊び学ぶ力を信じ尊重していること。
・子どもの発達段階にあった保育、(特に自然の中での自由な)遊びを中心とした保育を大切にし、早期教育のような考え方には概ね否定的であること。
・信念を持ってそのための環境づくりを行っていること。
・保護者との関係を大切にし、子どもだけでなく、親と一緒に園も育っていくような関係を築いていること。

などです。
青木淳さんの『原っぱと遊園地』という本がありますが、子どもが行きたくなる園、というのは、遊園地のようにいたれりつくせりで子どもの気を惹くような園ではなく、原っぱのように、自発的に関わることができ、そこで自由に遊びながら自ら学ぶ楽しさを実感できる園なのかもしれません。

長男と次男がお世話になり、こんどの4月から三男もお世話になる保育園(今は認定こども園)は、「見守る保育」を実践していますが、「教えてもらう」ことを期待している保護者の理解を得ることの難しさと大切さは、一保護者として強く感じました。

保護者は園・保育者の支援を受けるだけでなく、園の理念を出来る限り理解し、保育者を支援する側に立とうとすることが大切で、そのことが子どもが質の良い保育を受け成長することに繋がるはずだ、と考えているのですが、いろいろな考え方の人がいますからなかなか難しい面もあると思います。そこを乗り越えて良い関係を築きながら、保護者も子どもの育ちについて学び共に育っていけるような園が、親が行きたくなる園なのかもしれません。

父親の役割

余談ですが、子どもがお世話になった園では年に一日父親保育の日がありました。父親たちはチームを組んで、その日に向けて準備をし、本格的なお化け屋敷や音楽ライブ、その他さまざまな形で、遊びの場を作りながら一日子どもたちを預かるのですが、むしろ父親自身が本気で遊ぶ感じです。
日常の主体的な遊びによる学びとは少し異なるかも知れませんが、非日常として父親が本気で遊ぶ姿を見るのも良い経験だと思いますし、父親が園と関わる良い機会になったと思います。
母親と父親の関わる割合が同程度になれば、園と保護者との関わり方もだいぶ変わってくるように思いますし、父親として関わることの意味や役割もあるように思いました。

出会いに意識的であることと自在であること

川和保育園の園長先生が20数年前に出会った文章を引用し、それについて書いていたことが印象的でした。

―ともすると、私達は、大切な意味と価値を内包する出来事に気付かず、あるいは気付いても深く考えないで放っていることが多くあります。現実の保育の場には、こうした偶然のもたらす予測しがたい出来事がいくらでも生じます。その時、教師が自分の(考えや保育案の)絶対性や権威性を思わず、自分の善意への信念などに固執せず、高い価値を内包すると思われる偶然に鋭く気付いて、その意味を測り、保育過程の中に「必然」として取り入れるという、敏感でしなやかな感性の持ち主であったなら、この幼い年齢においても、人生の、あるいは、人間性の本質的なものに触れるような深い教育さえ可能と思います。―(『幼児の教育』日本幼稚園協会)

この文章が素晴らしいのは、たまたま出会ったものを「偶然」としてそのままにするのではなく、その素晴らしさに気づき、その意味を考えて「必然」とするところまで突き詰めていくことの大切さを問いているからです。
保育者は出会うものに無自覚であってはならない。出会いの意味を考えて、自分たちの保育にどう活かしていくかということについて、常に考える事の大切さを、僕はこの文章から学びました。(川和保育園園長 寺田信太郎)

保育者は出会いを捕らえ、その意味と価値に意識的でなければならない。ここには、私が建築において出会いを重要視していることとの共通点が見えます。
また、元の引用文では常に経験を開き、自在であることの大切さも読み取れます。これはオートポイエーシスの第一人者である河本英夫が常々言っていることで、私も設計者として自在でありたいと思っています。
ここにも、保育と設計の共通点が見えますが、それは、両者がともに、人間が生きる環境の原点に迫ることを求めるからかもしれません。

デザイナーは「形」の専門家ではなく、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。(佐々木正人)(オノケン【太田則宏建築事務所@鹿児島】 » B047 『アフォーダンス-新しい認知の理論』)

今日のシステムを特徴づけるのは、自在さの感覚である。(中略)自在さは、自由とは異なる。自由は、主体が外的な強制力に従うわけではないこと、さらには主体が自分で自分のことを決定できること、を二つの柱にしている。(中略)自由とはどこまでも意識の自由だが、自在さは何よりも行為にかかわり、行為の現実に関わる。意識の自由を確保することと、行為の自在さを獲得することは、およそ別の課題である。この自在さを備えたのが今日のシステムである。(河本英夫)(オノケン【太田則宏建築事務所@鹿児島】 » B181 『システムの思想―オートポイエーシス・プラス』)




構法論的想像力を身につけたい B193『内田祥哉 窓と建築ゼミナール』(内田 祥哉 他)

内田 祥哉 (著),‎ 門脇 耕三 (編集),‎ 藤原 徹平 (編集),‎ 戸田 穣 (編集),‎ 窓研究所 (編集)
鹿島出版会 (2017/10/5)

本著は建築構法学・ビルディングエレメント論(BE論)を唱えた内田祥哉による講座及び聴講者との座談会の記録である。

個人的にはまだ応えることが出来ていない大きな問題を再び投げかけられたように思う。

構法論的想像力

小さく乾いたものの集合として建築を考える、というのが、内田先生から教わったことだと隈はしばしば言っているが、これはBE論の隈独自の咀嚼なのではないかと私は理解している。(中略)普段は頼りになる機能論は、そもそも内田イズムでは最初から否定されている。それゆえに、建築を小さいものの集合としてつくっていくためには、新しい集合の論理自体を創造してくことが重要になる。(p.59 藤原徹平)

建築に対する想像力(解像度もしくは密度と言っても良い)にはさまざま段階もしくは位相があるように思う。

例えば、プランニングに対する機能論的想像力、立体的な場に対する空間論的想像力、まとまりの関係性に対する構成論的想像力、そして、建築の組立に対する構法論的想像力などを挙げられそうだ。

他人の図面や建物をみれば、どの位相の想像力がどの程度発揮されているか、(例えば、機能論的想像力は逞しいが空間論的想像力にはあまり力を入れてないな、とか)その密度感は容易に伝わってくるけれども、それらを実際に行使し具体的な建築に落とし込むことはなかなか難しい。

自分を振り返って見てみると、先に上げたものの内、構法論的想像力はまだまだ発揮できているとは言いがたい。

では、その他の想像力になくて構法論的想像力にあるもの、すなわち今の自分に不足しているものはなんだろうか

おそらく、それは建築をつくる、という人間の意志の現れのようなもので、これまでの言葉でいえば、「つくることとの出会い」のようなものだろう。
場や空間は多少つくることができるようになりつつあると思うけれども、建築そのものが「つくることとの出会い」を語るようなところにはまだまだ届いていない
これは、数年前から頭にあることだけども、構法論的想像力を鍛えることが自分の課題の一つだと思う。

和構法の自在さ

和小屋は日本の大工なら誰でもつくれる簡単な構法だという話がありました。誰でもつくれるほど簡単なことと、建築家がやらなきゃいけないことの境界がどこなのか、現在の状況の中で考えてみたいと思いました。(p.87 辻琢磨)

内田先生が、和構法は町家のフレキシビリティだとおっしゃったことがすごく大事なんでしょうね。決して書院や数寄屋や城のための構法ではない。庶民の構法です。(p.88 門脇耕三)

建築もサスティナブルが重要であるという以上は、フレキシブルでありつつ、変化の途上でもって、生活がうまくイカなくてはならない。そういう意味では、日本の町家は非常に素晴らしかった。現代の視点からすれば、町家は耐火や耐震の問題を抱えていますが、それでも僕が考える理想の建築に近かったんじゃないかと思っています。(p.188 内田)

おそらく皆さんは、そういう方向に向かって生きている時代に生きているはずで、皆さんは将来フレキシビリティを備えながら地震にも耐えられる新しい建築をつくるようになるのかもしれない。皆さんそれぞれが自由な建築を考えていくうちに、やがてひとつのスタンダードができ上がるはずだと、僕は思っています。(p.197 内田)

架空の水平面の上に束を立てていく和小屋・和構法とその自在さは容易に理解できるし、水平構面をきちんとつくって、その間を鉛直荷重を支える柱と水平力を負担する緩い壁が自由に配置されるというビジョンも分かりやすい。そして、それは構法論的想像力とも相性が良いように思う。

翻って、自分がこれまでつくってきたものを考えると、今のところ新築はすべて木造在来軸組工法で、構法的な新しさはない。
また、複雑な空間に連動して木造の軸組自体が一定以上の密度感を持つことを志向していたので、上に挙げた和構法のような一種のルーズさはどちらかと言うと削ぎ落としていくような方向だと思うし、そうして出来た抑制の効いたプロポーションにもある種の密度感が生まれるのではという気持ちがあったので、和小屋が持つフトコロのようなものはできれば小さくしようと考えてきた。(そこを攻めすぎるのもまた窮屈な気もするので、どちらかと言えば、という話だけれども)

そこには和構法の持つ構法的な自在さを目指す、という意識はなかったと思うのだけれども、果たしてそれで良いのか。

和構法的構成には現実的なフレキシビリティだけでなく、表現としてのある種の開放感が備わっているように思う。
それを、建築の規模、予算や技術の制約の中で自分なりにどう消化するか、というのが(構法論的想像力を鍛えることも含めて)今の自分の課題なのだろう。

そして隈は、このような建築=芸術という癒着を切り離し、建築を芸術、工学、科学の正しい三角関係に置き直すことに成功したのが内田祥哉であり、それゆえに日本の近代建築は救われたという。(p.57 藤原徹平)

構法論的想像力を、機能や空間や構成と言ったものとは独立したものとして一旦切り離してみる訓練をした方がいいのかもしれない。

もしかしたら構法論的なあり方は、建築という概念の中では親のような存在で、機能や空間や構成その他はその子どものようなものなのではないだろうか。
そんなことを考えさせられた。




スケトレメモ おいしい自然

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モデュロールと自在さ

スケッチ載せるのやめとけば良かったと若干後悔しつつ、スケトレなのでこのまま続けます。続けてるうちにうまくなるかもしれないし。

「おいしい自然」は自然に含まれる意味をどう知覚させるか、と自然の中にある情報・不変項をどう抽出し再構成するか、ということが課題となる。

担当したクセナキスが波動ガラス面と名付けたラ・トゥーレットの回廊のガラス面は、モデュロールを利用したものだが、モデュロールも自然の中の不変項を抽出したものと言えるように思う。

コルビュジェは基準線(レギュラトゥール)による構成から、寸法(モデュロール)による関係性の構築へと移行したことにより、より自由に振る舞えるようになったが、そこにはより自然に近い秩序が生まれており、そこにより大きな知覚の悦びが発生しているように思う。

実績より

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ここでは建物の最上部にトップライトと東向きの窓を設けるとともに、間仕切り上部をガラスで構成することによって、太陽の進行に沿って室内に光が回り込むことを考えた。

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これは、雑木林に囲まれた生活、というコンセプトの敷地に対して、シンプルにいろいろな方向に緑が見えるようにすることで応えた住宅である。(撮影時はまだ植栽が完了していなかったので緑はあまり見えていないが)

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ここでは限られた予算の中で、宿泊施設にどのような象徴性を与えるかを考えた。モッチョム岳を背後に控える宿泊棟は垂直性をベースにした構成に、海側の母屋は軒を抑えた控えめな表現とした。
屋久島という自然のなかの構成に何かしら反応するものにしたかった。

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ここでは、途中壁を白にしたいという要望もあったが、海に向かった時に建物は背後に退くようなものにしないとその場所の特性を活かせないと考え、海に向かう時に目に入る壁面を黒に、反対側を白にし、屋根と床が水平に外へと伸びていくような構成とした。

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これまでは、自然をどう知覚させるか、ということが主題であったが、自然の不変項をどう取り込めるかを考えるための実験として、CADのスクリプトでランダムと擬似1/fゆらぎによるものの比較をしてみた。

ランダムなものは当然規則性はなく、それぞれの要素に重みや固有性は生まれないが、それにゆらぎを与えることでそれぞれの重みに変化が生まれ、固有性もしくは意味の萌芽のようなものが見られる気がする。
自然界のものは、全くランダムというものは考えにくく、その環境の違いによるゆらぎはどこかに現れているはずだ。

コストや手間を考えると、住宅などでどこまで出来るかは分からないけれども、寸法の扱いの中にそういうゆらぎやリズムを与えることはできるはずで、そういったことにもっと意識的に設計を行ってみたい。




tweet 11/23-05/16

久しぶりにツイートまとめ。これまでのブログとの重複も多いけど。


オートポイエーシス~男女脳~方法論~状況のレイアウト

2014年12月11日 システムの思想

河本英夫の対談集「システムの思想(2002)」を読み始めたので随時メモ。

氏は今日のシステムを特徴づけるのは自在さの感覚とし、自在さは自由さと違うと言う。自由とはあくまで意識の自由だが、自在さは何よりも行為にかかわり、行為の現実にかかわる。

自由な建築と自在な建築と言った場合、同じように意識と行為にかかわるのであれば、自由な建築を目指すといった時に逆説的に不自由さを背負い込んでしまうのではないか。

(酔ってて細部が思い出せないのだが)先日のケンペケの2次会で哲学分野の人から突っ込まれた建築の不自由さのようなものは、このあたりとも関わるのではないか。

僕はどこまでいってもデザインする行為があるだけで、意味のようなものは探そうとする態度は困難なのでは、というようなことを言おうとしたのだけども今もってうまく言えない。

だけど、設計を行為だと捉え、そこに自在があるのであれば、自在な建築をつくりたい、ということが言えないだろうか。意味のようなものがどこかにある、と言うよりは自在な行為の中から発見的に生まれるものなのでは。

ある本でオートポイエシスは観察・予測・コントロールができないというように書いていたような気がするけど、最近ほんの少しだけ接点のイメージが出来てきた気がする。だけどぼんやりしすぎて全然捉えられてない。

あと、「ハーバーマス・ルーマン論争」に関するあたりで何か掴めそうでやっぱり掴めない。
『対してルーマンは、問題を脱規範化すべきだという考えです。問題をもっとちゃんと抽象化して、脱モラル化することで、社会のメカニズムというものを理論的に解明することが必要だという立場だと思うんです。つまり理論的に解明することによって、問題に実践的に対応できる。(西垣)』

このくだりでなんとなくだけど藤村さんが頭に浮かんだ。ハーバーマスが現状を説明しているだけじゃないかと言い規範を持ち出すことに対して、時間的に経験や社会が変わることに対してより実践的なのは規範→行為ではなく行為→規範の方だという感じが、動物化せよというのとなんとなく重なって。

理解を深めるヒントがありそうな気がするんだけど整理できず。意識・自由・規範と行為・自在・脱規範の違いってbe動詞と動詞の違いに似てる。(こういう感じのこともどこかに書いてたけど思い出せず)

まだ読み始めたばかりなので時間を見つけて少しずつでも読み進めよう。多分表現のための方法論ではなくて、行為のためのイメージを自分の中に持っておきたいんだと思う。

ケンペケについては動画が出たら見直しながらメモとして残しておこう。その場ですぐに言葉としてリアクション出来ない感じでもやもやっとしてるので。

方法としてのオートポイエーシス https://m.youtube.com/watch?v=CwexPv90vY… と言うのがあったのでスマホに落として移動中に聴いてる。やっぱりよく分からないけど面白い。

2014年12月25日 建てない建築家

建てるにせよ建てないにせよ、何に対して責任を負ってそれを果たすかが重要なのでは。どちらにせよそれを果たせれば良いし果たせなければ無駄と言われても仕方がない。

その「何に」対しての部分は発注者によるところが大きいのでそこに切り込んでいるのが藤村さんだと捉えている。

建てる建てないを全面に出すのは手段を目的と取り違えているように感じてあまりいい感じがしない。建てるにせよ建てないにせよ自分の果たすべき責任をきちんと果たせば良いし、そこが曖昧であれば明確にするように振る舞えばいい。

建てる建てないは何をの部分から個別的に導き出される、ということではいけないのだろうか。

2015年01月04日) 建築は知っている

ニュータウン的なものへの信頼が根っこにあったのは完全に誤解してたなー。僕は外からみた装った郊外への違和感が根っこにあっていつまでも消化できないでいるのでそこは羨ましくもあり。まー違う経験と違う側面だけど共感できることには変わりないけど。

なんか若干沈み気味だったけど、真っ直ぐに向き合いたいとかなりあがった。時間をおいてもう一回見よう。

2015年02月16日 村上春樹BOT

パターンとは真実よりもむしろ美しい仮説を提供するもの 。

でも誰かが書かなくてはならない。で、僕が書いてるんです。ランダムと同じです。文化的ランダム

受話器が氷河のように冷たくなった。「なぜ知ってるんだ?」と相棒が言った。
とにかく、そのようにしてクライアントをめぐる冒険が始まった。

人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地良いお話なんだ。だからこそ狭小住宅が成立する

[onokennote]
村上春樹風tweet Maker https://chanz.sakura.ne.jp/haruki

2015年03月18日 キレる女懲りない男

最近プライベート的必要に駆られて男と女の脳科学な本を読んだ。生物学的な役割から脳の機能が異なるのは理解できるし、普段はこの手の本は毛嫌いしてるんだけど、まーわりと面白かった。

男性脳は右脳と左脳をつなぐ脳梁が細くなってしまってるので理論化しないと感覚と言葉を結び付けられないし、目の前のことに疎い。でもその分、遠くが見える。

女性脳は脳梁が太く感覚と言葉が直結してて、ややこしいことは考えずにひたすらおしゃべりを繰り返して感覚をキーとしたデータベースを強化し続けてる。それは子育てという観察をベースとした瞬間的な判断を絶えず強いられるから。

もともと機能・特性が違うのでお互いになかなか理解できない。それを前提とすれば、理解できないお互いの言動も愛で合うことができるのでは。みたいな話。早速、実践してみるべ、と思ってもまー簡単じゃないよね。

で、身の周りでも女性脳的なおしゃべり=価値観共有的なものがリアリティや動かす力を持ちだしてる気がするし、その脇で建築が変わってきた、むしろ建築みたいな概念邪魔じゃね。みたいな流れもある気がする。

そのベースに女性脳的な直感がある気がするんだけど、そこからは「僕(われわれ)のリアリティ(byM氏)」から遠くへはなかなか行けない。行けないというかそもそもそこを目指していない。(遠くへ行くヒントは満載かもしれないけど。)

でも、時間的・空間的・概念的に遠くへ行くことこそが建築という言葉に込められていたのだと思うし、建築の役割・可能性であったと思う。そうであるなら、そこへの意志のないものは建築ではなく建物でいいんじゃね。と思う。否定的な意味でなく。

何か建築が変わった、建築は変わらねばならない、みたいなのがあるけど、それって、建築が変わってきた、のではなく、どっちかというと建物の概念の方が変わってきたのでは。そう考えたほうがしっくりくる。

建築と比較して足りないものとしての「建物」ではなくて、もっと豊かな建築と補いあうような「建物」に変わってきてるのでは。だから、建築であり、(愛のある)建物でもある、というような認め合う夫婦のようなあり方を考えた方が建設的で豊かじゃないかな。

最近の建築ってどーよ?な感じは、なんとなく理解し合えない男性脳と女性脳がお互いを貶みながら暮らしてる夫婦だったり、男性が女性化する感じだったりと重なってそんなことを考えた。

(建築がどーこーの前にまず自分ち)

@s_tomokazu なんかまだうまく言えてない。もやっとしてる感じが晴れそうな予感があるんだけど・・・。ってか夫婦喧嘩が足りていないのでは?

残ったちょっとしたモヤモヤが何か分からない。けど夫婦もモヤモヤをずっと抱え続けるんだろうから。

2015年04月23日 あることの自然性と喜び

この本やっぱり面白いと思う。思う、というのはまだ掴めないから。この感覚まで行くのは難しい気がするけど、目標にはなりそう。というか目標にできるほど掴まえられるだろうか。

今日<建てること><住まうこと>みたいなのがちょっと話題になったんだけど、それらをひっくるめて「あることの自然性と喜び」に達するような場を建築に写しとることは可能だろうか。

「あることの自然性と喜び」というと宗教ぽい感じもするけど、それを実現させるためのプロセスを体現できるプロとしてあれるかという話。なんだかやっぱりうまく言えない。今のつくり方との距離はかなりあるように思う。

コストと時間をかければそれなりにできると思うけれども、それらが制限された状態で何ができるか。やっぱりDIY的なものになってしまうんだろうか。

DIY的なやりかたである程度可能かもしれないけれども、それを抜きにした設計者としての現実の抽出の仕方だってあるはずだ。(その感覚までにもやっぱり距離がある。)

画家とか舞踏家は直接的に表現できるけれども、建築の設計は図面というのが間に入るのでなかなかそうはいかない。しかし、その図面の可能性を諦めないということにも可能性が潜んでいると思う。その点では寸法というもののの持つ力をもっと感じないといけないんだろうな。

(いや、寸法でそれを実現できている人はたくさんいるんだろうな)

(この小ささ、みたいなのももしかしたらきっかけになるのかしらん)

2015年04月26日 本も終盤

合間で読んでいる河本英夫の本も終盤。ここは前見た動画の内容と重なっている。動画の書き起こしが欲しいと思っていたのでありがたい。

だけど、やはり終盤のテキストは論のような感じのまとめなのでどうしても理解?応用のサイクルに落ち込みそうになる。

その点ではそれまでのつらつらと書かれた寺田寅彦、マティス、坂口安吾の章が「原型」として作用しそう。やはりこれがやりたかったんだろうし意欲作であることに間違いない。

宣言と方法論と作品群のフォーマットは自分を客観的に見るためにもトライして見る価値はあるんだろうな。(方法論に関してはずっと言いながら其の意味すらうまく掴めていない)

それは世に問うて闘うと言う程大それた事を思ってるのではなく、あくまで自分の事として。

2015年04月27日 方法論

その辺の規模感というか自分のやってることの位置付けを間違うと何かがズレてしまう感じがする。責任の問題というかシステムとして起動できる半径の問題というか。

方法論というと何か具体的なもので自動的に建築に近づけられるもの、というイメージがあったがなかなかしっくり来るようになれなかった。

そういう具体性をむしろ際どいところで回避するような方法論というのもあり得るのではないか。

そして、それは言ってしまえば「当たり前の事」のようなものになるのではないか。その当たり前さがむしろ可能性と奥行きを持ちうるのではないか。

なんかもやもやしてる事が少し晴れそうな予感はあるな。よりいっそう引きこもりっぽくなりそうだけどコミュニケーションの感度はむしろ高まりそうな気がする。

(多分Facebookをたまにやる位にした事による開放感のようなものと無縁ではない。コミュニケーションの感度にもFacebook的な質とTwitter的な質の2つがあるとしたらその辺のスタンスを明確にすることと似ていそう)

方法論を「どのような働きの中に身を置くか」と言い換えると掴まえやすくならないだろうか。

要望を聞き条件を整理し形を探る。当たり前だけどその中から具体性が浮かび上がってくるだろうし、その場合方法は事前にあるのではなく、事後的に発見されるものだろう。

だとすれば方法に焦点を当てようと思った時点でズレていて、やるべきは感度高く働きの中に身を置くことだろう。

(もしそうなら学生がズレ続けてもある意味仕方がない。用意された働きの場の質の問題かもしれないから。)

あと数ページだけど、今日はここまで。結局当たり前のことを当たり前に思えるようになるのが一番難しいんだろうな。

@yamaguchiakito その本質がなかなか見つけられない感じです。方法論の多くは結局のところ本人だけのものでは無いかという疑いも若干持っていて、それでいいのではという気もしています。

@yamaguchiakito 河本氏的に言うと理解応用しようとしても直ちに限界に突き当たり本人の体験は一歩も前に進んでいないとなるのではないか。むしろ経験の弾力をどのように残すがというのが大切ではないか。

@yamaguchiakito 一方で本質的な方法論は経験の弾力を奪うものではないという気がしててうまく掴めないでいるところです。

2015年04月29日 〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門

ブログ更新: B182 『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』 – https://tinyurl.com/k6o7d7y

寺田寅彦の章はうまく書ける気がしなかったけど、藤本さんの個展とそれに関する藤村さんとのやりとりのおかげで少しとっかかりが見えた。山口さんに頂いたコメントに関しても少しは近づけた気がする。

40代突入を前に若干の心の整理はできたのではないか。

建築少年とはよく言ったもので、建築は少年の経験モードを誘発するような何かがあるのかもしれない。

よく建築学科を出た後他分野で活躍する人を指して、建築的思考が役に立ってる、みたいなことを言ったりするけど、たった数年の学生の間で他分野を出し抜くほどの建築的思考が身につくもんだろうか、と思っていた。

もしかしたら建築的思考というよりは少年の経験モードのようなものを醸成する土壌が建築教育にはあって、それが他分野に言った時に珍しく感じられるのかもしれない。まー、本人の気質の割合のほうが大きいんだろうけど。

(仮にそうだとすれば、他分野の教育にそういうモードを消すような何らかの欠陥があるようにも思うけど・・・)

この本タイトルは他にもあったんじゃないかという気がする。ストレートすぎるというか硬すぎて中身にそぐわない気が。ちょっともったいない。

この本の文脈で言えばアナロジー・原型的直感は現実を捉えるための手掛かりにすぎないのだけど、藤本さんが誤解を受ける危険性はアナロジー・原型的直感そのものが答えのように映ることにある気がする。(展覧会行ってないので憶測だけど)

2015年05月02日 パスルを解いただけ感

パズルを解いただけ感からなかなか抜け出せないのだけど、その原因ってなんだろう。

乾久美子の小さな風景からの学びの写真を眺めていると、ある状況があって、そこに新たな状況が派生しているような写真が多い。ここの言葉を使うとあるサービスから新たなサービスが派生して、それらがうまく混ざった状況が魅力的に見える気がする。

仮に前者を「前状況」、後者を「後状況」と呼ぶとする(何かいい感じの言葉じゃないけど)。割と具体的な要望からパズルを説いただけだとほとんどを「前状況」として用意してしまってる感じがする。それが奥行きのない「パズルを解いただけ感」になってるのではないか。

そう捉えると、島田陽さんの家具の扱いは「前状況」に属していた要素を「後状況」的なものに置き換えることで、「前状況」と「後状況」の混合状態をつくりだしていると言えないだろうか。(昔、家具は建築かみたいな論争があった気がする。なに論争だっけ?)

「前状況」と「後状況」(もしくはそれ以上多数のレイヤー)のどこに属させるかを意識的に操作することで、「小さな風景」のような魅力に近づけられないだろうか。

植栽なんかは「後状況」的なものを備える分かりやすい方法なんだろうな。あとリノベも比較的簡単に混合状態になる。

あんまり間接照明は使わないんだけど、もしかしたら「前状況」的になってしまう(混合状態が弱まる)感じがするからかな。照明は光らせる道具的に使うことが多い。

2015年05月16日 状況のレイアウト

頭が重くならないうちに前書いたことの続きを書いてみる。

「前状況」「後状況」というのはある時点だけを取り出せばそうかもしれないけれども、実際にはもっと複層的なものだと思うので「状況の重ねあわせ」がある景色をつくるのに有効だと仮定してみる。

そうすると、使用開始後も含めた「状況のレイアウト」のようなものが景色として現れていると言えそう。

それをレイアウトと言った場合、分節やリズム、ジャンプ率や版面率のようなセオリーの準用による見方も出来そう。

その際「状況」とはどういった要素で捉えられるかを考えるのは有効と思われる。思いつくのは時間軸(いつのものか)、関与軸(モノの側か人の側か、自然の側か。またそれにどう関与したか、又は関与の可能性やイメージがもてるか)、動静軸(静的なものか動的なものか)など。

そういった視点で風景や建築をみればいい訓練になりそうだけど。(やってない)




四十にして惑わず、少年のモードに突入す B182 『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』

河本 英夫 (著)
KADOKAWA/角川学芸出版 (2014/5/23)

前回の記事で紹介した動画の音源をスマホに落として繰り返し聴いたのだが、まだ上手く飲み込めないでいた。
その動画の中で「理解・応用しようとしても本人の経験は一歩も前に進まない。経験を開かないとダメ」というようなことが言われていて、それがどういうことなのか自分なりに掴んでおきたかった。
また、動画の内容を文字起こししたものが欲しいと思っていたところ、どうもそういう内容の本がありそうだということで買ってみた。

オートポイエーシスの経験 少年のモード

あとがきに

オートポイエーシスの入門版を、オートポイエーシスに関連するキータームをほとんど用いないでやってみている。そこではオートポイエーシスの構想を知るのではなく、オートポイエーシスという経験を感じ取ってもらうための数々の工夫を組み込んだつもりである。

とあるように、第一章から第三章までは寺田寅彦・マティス・坂口安吾といった具体的な人物を取り上げ、経験を開くというようなことがどのように実現されているかが示される。
ここまでほとんどオートポイエーシスという語は現れず、ようやく終章でオートポイエーシスについて語られる。この終章はかなりの部分が動画の後半と重なっており、まさしく期待していたような内容だった。

しかし、やはり終章は論のまとめのような感じなのでどうしても理解・応用のサイクルに落ち込みそうになる。
その点ではそれまでのつらつらと書かれた寺田寅彦、マティス、坂口安吾の章の方が自らの経験を開くための「原型」として作用しそうな予感が持てた。なのでそこで感じたことを書き留めておきたい。

さて、はじめにの部分で「少年老い易く学成り難し・・・・」を引用し、「少年」とは時間区分ではなく経験のモードだと捉える。
少年の時期が過ぎ去ってしまうから学成り難しではなく、少年のような柔軟な経験のモードがまたたくまに老いてしまうので学成り難しなのである。

その柔軟な少年の経験モードを維持し続けられたとして取り上げられたのが先の三人であるが、私もあと一月を待たずして40代に突入する。この時期に来て「少年老いやすく」ということを急に強く感じるようになった。
少年だと思っていたモードがなんだか急激に老いてきているのでないか。
やっぱり瑞々しい気持ちで仕事でも何でもやり続けたい。そういう分かれ目という意味でわりと重要な一年な気がしているので何とかヒントだけでも掴んでおきたい。

まずは、寺田寅彦、マティス、坂口安吾、それぞれの章について簡単に(現時点で感じた範囲で)まとめておきたい。

不思議さのさなかを生きる 寺田寅彦

寺田寅彦の科学的思考の中には、データから概念や理論に進むのではなく、問いを宙吊りにしたまま、アナロジーで考えていく基本的な推論のモードがある。また、それを支えていく、分散的な注意力がある。それは詩人や俳人が、見慣れたもののなかに新たな現実の局面や断面を見出すような、緊迫しているが、力の抜けた注意の働き方である。ここには個々の事実を普遍論理の配置で分かったことにしないという「理解の留保」がある。理解を通じて現実を要約するのではなく、現実の新たな局面が見えてくるように、アナロジーを接続していくのである。

寺田寅彦が「不思議のさなかを生きる」少年のモードを維持することの肝は、説明し分かったことにしない、「多様な現象を見る眼」にあるようだ。
寺田寅彦の思考法として、「問いの宙吊り」「アナロジー 原型的直感」「像的思考」を挙げている。

焦点化しない注意を活用するには、どうすればよいのか。意識に力を込めず、感覚を目一杯開いて、感じられるものを宙吊りにしたり謎のまま維持してみる。「何が起きているのだろうか」という感触を維持するのである。

アナロジーは、なにか類似したものを手掛かりに思考していくやり方であり、最終的なものを求めず、また行く先が決まっているものでもない。言語的に見れば、比喩能力に近い。(中略)アナロジーはそうした経験の試行錯誤の場所なのである。

寺田寅彦の科学的思考は、現象を原理に帰着して分かったことにするのではなく、むしろ隣接するアナロジーをずらしながら考察するようなものであった。またそのことを活用して、多くの現象を見る眼を形成したのである。

像的思考とは、直接現象を思い浮かべるような経験の仕方であり、像の連鎖で物事を考察するような経験の仕方である。語を学び、概念を学ぶと、どうしても意味や内容で、語を理解してしまいたい誘惑にかられ、またそれで分かったように考えてしまう。ところが像的思考は、くっきりと像になるものをベースに考えていくのである。

こうした態度の中から生まれたのがまさにオートポイエーシスであり、アフォーダンスだと思うし、ホンマタカシのブレッソン-ニューカラーの議論も頭に浮かんだ。(ニューカラーは問いを宙吊りにし開かれている感じがする)

また、建築の分野ですぐに頭に浮かんだのは谷尻誠の「初めて考えるときのように」と藤本壮介のちょうど今開催されている個展である。

「最近僕が見つけたやり方は、“名前をなくす”ことです。たとえば“コップ“は液体を入れて飲むことに使う道具ですが、それ以上のものではありません。でもその名前を取ってしまえば、花瓶やペン立てに使おうとか、金魚を飼おうとか、積み上げて建物を作っちゃおうとか、自由な発想が出てくる。すると結構いろんな使い方が想像できて面白いんですよ。レールが引かれている今の世の中ではすべてのものに名前が付いていて、それが使い方を規定しています。だから、いったん名前を外して『これって何をするものだろう?』と向き合うことにしたんです」(初めて考えるときのように | 谷尻誠 | TheFutureTimes)

「こっちですよ、と指し示されているものからどうやって逸脱するか。それを一生懸命に考えています。たとえば『カフェを作ってください』と注文されると、途端に“カフェ”という名前が僕を支配するんですよ。カフェは普段から知っている場所だし、ある程度のものは誰でも作れちゃうんですよね」

「名前がないと何をやっているかわからないし、どこへ行ったらいいかもわからないから、本当はすごく難しいんですよ。逆に、新しく名前を付けると『それになる』という面白さもあります。家ができあがってポストをどうしようかとなったときに、ただのワイン箱に『POST』と書いて置けば、きっと郵便物が入るはず。名前には、物事を変換できる強さもあるんです。“取ること”と“付けること”、どっちにも面白さはあるんじゃないでしょうか」

言葉をとることによって問いを宙吊りにし、言葉を付けることによってアナロジーをずらしながら新しい経験のモードへと導いていく。それは、直感的に編み出した少年を維持するための方法とも言えるだろう。

こうして批評してくれるのはありがたい。一方で、この展覧会は、あるいは、建築というものの総体は、このような分析的な記述では、重要な部分がするすると抜け落ちてしまうということに気付かされ、反語的に、建築の本質をあぶり出してくれた形だ。これも言語かされたゆえに見えてくるもの(Sou Fujimoto Twitter 11:29 – 2015年4月28日)

この展覧会を見たわけではないが、挙がってくる情報を見る限り、アナロジー・原型的直感の種となるようなものが大量に羅列されているようである。おそらくそこには寺田寅彦のような少年のモードを維持するための留保への意志が強く現れている。

これに対し、

藤本さんが何か発表するととりあえず何か書いて、「言葉にするとこぼれ落ちるものを追い求めたい」と返されて、というサイクルを10年くらい続けており、もはやパターンw 藤本さんの創作には役に立たなそうだけど、藤本さんの奔放さに惑わされそうになっている人(=自分)にはたぶん役に立つw(Ryuji Fujimura Twitter 13:12 – 2015年4月28日)

というような返しもあったが、そこには方法論に対するスタンスの違いがあるのかもしれない。
藤本氏はおそらく個人的な創造という行為に関わる経験のモードを直接的に方法論として提示しているように思う。それは、あくまで経験のモードの提示であって、安易にかたちだけを真似をしようとすれば個人の経験が開かれるどころか帰って狭い領域に閉じ込められる危険性をもつように思う。
一方、藤村氏は直接的に経験のモードを提示したり、強調することはしないが、具体的なプロセスを記述し、それをなぞることによって間接的に新しい経験のモードが開かれるような方法論となっているように思う。経験のモードを方法論に埋め込むことによって、真似による再現可能性が目指されているのかもしれない。このプロセスによって経験のモードが開かれる度合いはおそらく経験する側の感度や意識による部分が大きいように思われるが、そこに意識的になれずに小さな振り幅にとまり誤解を受ける、といった危険性もあるように思う。

両者は

方法論という言葉、難しいですよね。いまだにニュアンスつかめません。近くに方法論を語る友人が居て、彼は自分が考えやすくするためのものだ、というようなことを言います。僕は他人が実践できるものだと言います。平行線です。笑@onokennote(山口陽登 Twitter10:01 – 2015年4月28日)

とコメントいただいたようなスタンスの違いによるもので経験のモードを開くという一点では同じ方向を向いているように思う。ただし、藤村氏が後でつぶやいていたように、そのスタンスに意識的であるかどうかは重要な点であろう。

例えば、藤本さんが「立原道造」なら自分はやはり「丹下健三」を目指そうと考える。そんなことどうでもいい、という人もいるけれど、創作の方向に自覚的になると成果物の精度も変わって来るし、さらには依頼される仕事も変わって来る。創作の方向が曖昧だと、作るものも曖昧になる気がする。(Ryuji Fujimura Twitter 13:44 – 2015年4月28日)

身の丈を一歩超え続ける アンリ・マティス

マティスの画法は、つねに方法の一歩先にどのようにして届かせるかにある。そしてそのことが新たな快の感覚を生じさせるように、色の配置を組み立てていくことを課題にしている。(中略)経験の境界を拡げていく作業は、境界をぐるぐる回りながら、気がついた時には境界そのものが変容し、拡張しているということに近い。マティスは、繰り返しこうした課題に踏み込んだのである。

ここでは「想起 再組織化」「佇む」「快 装飾」「強度」「存在の現実性」「経験の拡張」といったものがキーワードになるように思われる。

個人的には創作の現場として具体的にイメージがしやすく最も入り込みやすい章であった。引用しておきたいヶ所は膨大になるがなるべく絞って引用しておきたい。

反復は、反復のさなかで過去を想起することであり、想起する経験の中で、過去を何度も再組織化することである。想起は、単なる呼び出しではなく、そのつど再組織化が働く。

そのため自分自身で新たな局面や新たな経験の仕方が見つかるまで、その場で「佇む」ことが必要となる。そしてそこから一歩踏み出せるまでの「こだわり」も必要となる。「こだわる」ことは、もちろん固執することではない。

つまり「影響」というのは、不適切なカテゴリーなのである。むしろ学んだものを、みずからの制作へと組織化し、そこに固有のプロセスが出現するように経験が進んでいくのだから、そうした自己組織化のプロセスこそ問われるべきものとなる。

身体そのものも、まさに存在することの喜びにあふれている。(中略)この喜びが見る者にとっての快につながるように作画することができる。こうした喜びにあふれた顔を描こうとすると、細かな技術による丁寧さが、むしろ邪魔になってしまう。あることの自然性に向かい、このおのずと自然性であることの喜びに到達するためには、落とすことのできるものはすべて徹底的に落としていくことが必要であり、さらには在ることの「強さ」に向かうことが必要である。(中略)こうした効果を、マティスは「装飾」と呼んだ。装飾とは、こうした存在の喜びにふさわしい色と色の配置を見出すことである。

こうした経験の形成される場所を見出してしまうと、絵画はもはや鑑賞の対象でもなければ、立場や観点の問題でもなく、技法の現実化という方法の問題でもない。経験の形成の場所という課題を見出したことによって、彼らはともかく前に進み続けたのである。このとき、作家はすでに少年であり続けることの条件を手にしたのである。

こうした場面での感性の品格にかかわるような解があるに違いない。マティスの作り出そうとした快は、この感性の品格に届かせるようなものだったのである。

触覚から出現する事象を、視覚的な場所に写し取ることこそ、マティスが終生企てたことであり、すでにして終わりのない少年を生きることになった。

一般に方法的に制御されなければ、作品は無作為が過剰となり、方法的に制御されるだけであれば、作品の現実は貧困になる。

キュビズムの圧倒的な広がりのなかで、マティスの行った選択が何であるかが今日少しずつはっきりしてきている。作品を作ることがかたちのヴァリエーションではなく、つねに一つの発見であるような、色とかたちの釣り合いを求め、幾何学的な比率と色彩の比率が釣り合う地点を、色の側から求め続けたのである。

飽きは、おのずと出現する選択のための積極的なチャンスである。ここでは無理に別のやり方に変えても、ただちに頭打ちになる。というのもその場合には、観点や視点で別のことをやろうとしているからである。このときいまだ経験が動いていない。次の回路が見えてくるまで、しばらくは宙吊りにされた時間や時期を過ごさなければならない。

何か刺激的で面白いと感じられたとき、それは多くの人にとってたんに刺激的である。そこから更に進めて、何か固有の経験の拡張がなければ、実はまだ何も見ていないことになる。

制作プロセスと作られた作品は、異なる次元にあり、二重の現実として成立している。制作行為で考えると、制作する行為と作品の間で、埋めることの出来ないギャップを含みながら、作品は固有の現実性として成立することになる。ここに制作行為での創発(出現)がある。ある意味で、作品は制作プロセスの副産物であり、このプロセスから手が届かなくなった時に、作品は出現する。あるいはある構想やアイディアを抱いた時、それを直接制作しようとするのではなく、ひとときそれらを括弧入れして、まったく別様のプロセスを進んでみる。そのプロセスの副産物が、当初の構想やアイディアの現実のかたちであるように、プロセスを進んでみるのである。

マティスが行ったのは、そのつどプロセスで経験が拡張するように進むことであった。そのプロセスの副産物が、出来上がった絵画である。ところがこうした制作プロセスのうち、変形のプロセスは、極めて特殊なものであることが分かる。つまり方法的制御のもとで、行く先はほぼ決まっており、作品が完結するのはテクニカルな改変の終了である。

多くの場合、課題を変形して、ただちに対応できるものにして、用済みにしてしまう。つまりさっさと終わったことにしてしまうのである。しかしこうした課題をペンディングにしたままにしておくと、何か最初に受け取ったこととはまったく別様のものが見えてくることがある。

マティスは一貫して、どのような技法に対しても、そこに含まれる可能性を拡張していけばさらにどのような経験の拡張が可能になるかを考えていた。

ピカソは、由来が不明になるほど変形をかけて、変形のプロセスが停止する場所を探すことの名人芸に達している。これに対して、マティスはそれぞれの技法に含まれる可能性を、最大限に発揮できる場所にまで進めていく名人芸に達している。その意味でピカソは終生子供であり、マティスは何度もみずからをリセットする少年であり続けたのである。

こうして挙げてみて、これらは二つに分けれられるように思った。
「快 装飾」「強度」「存在の現実性」などの部分はマティスが目指したもので直接経験のモードに関わらないもの、「想起 再組織化」「佇む」「経験の拡張」などの部分は少年の経験モードに直接関わるものである。
そして、この両者において非常に勇気づけられた。

前者は、個人的に建築を考える上で共感する部分が多く、それらはこのブログでしつこく何度も書こうとしてきたことと重なる。そういう意味では自分は少年であり続けるための条件を手にしているのかもしれない。それはとても幸運なことのように思う。

後者では、今まさに40を迎えようとする、若干の飽きと迷いの中にある自分に一つのあり方を示してもらえたような気がする。今の状態を決して悲観的に捉える必要はなく、次の回路が見えてくるチャンスとして捉えればよい。固執することなく経験のモードを開きながらこだわり佇んでよいのだと勇気がもらえた。重要なのは経験を拡張していくための構えのようなものであろう。

また、建築に関して思い浮かんだのはコルビュジェであった。
コルビュジェは方法に関していろいろと言ったり、古いものを見て(今的に言うと)つぶやいたりしている。しかし、そこでは常に経験の拡張のようなものが目指されていて、まさに「身の丈を一歩超え続ける」少年のようであったように思われる。

成熟しないシステム 坂口安吾

坂口安吾は、人間の自然性をある種の「どうしようもなさ」に置いた。そこから救われようとするのでもなく、またその状態を変えようとするのでもない。達観することも、宿命や運命に委ねることも、余分なことだと感じられるような場所がある。そこには引き受けたり、引き受けなかったりするような選択性が、一切効かない「どうしようもなさ」がある。それは生きていることの別名であるような、生の局面にかかわっている。(中略)そしてこの「どうしようもなさ」に見いだされる美観から日本文化の特質を取り出した。安吾はおよそ本人に面白いと感じられるものは、何でも実行したのである。

ここでは安吾の作品の資質として「無きに如かざる精神の逆転」「人為を限りなく超えた、さらに一歩先」「成熟もなく老いることもない」「あっけらかんとした情感」といったものを挙げている。
しかし、この章は創作そのものというより安吾の生き方そのものようなものを浮かび上がらせており、まだうまくつかめないでいる。

ところが成熟とは無縁で、熟練することが一つの後退であるかのように、経験の履歴を進み続ける者がいる。まるで老いることが他人ごとであるかのように、もはや老いることができなくなってしまった一生を当初より進み続ける者がいる。見かけ上は停止や堂々巡りに思える。だがそれでも延々と進み続けるのである。これは異なる経験の仕方であり、別様に経験の蓄積を生きることである。たんにその都度不連続に作品を作り続けるのではない。不連続に作品を作り続けても、対象の種類が拡がるだけで、いわば様々な領域で食いつぶしを行っているようなものである。
だがそれにもかかわらずなお前に進み続ける者がいる。(中略)それらを総称して「一生、束の間の少年」と呼んでおく。

坂口安吾は、多くの領域で延々と書き続けた作家である。だが作品の技術が向上している様子はない。場合によっては、下手になっていると感じられる場面もある。しかし安吾自身は、上達することをどこか嘘だと感じている。

作為の意匠や工夫をどこかよそよそしく感じ、そうしたものとは別様に出現する現実が、紛れも無い本物だと感じられる場所である。個々の意味の深さではなく、ある種の直接経験の強さが出現する場所こそが、こうした「ふるさと」になぞらえられる経験の局面である。それは安吾の経験の出現する場所であり、生きていることがそれとして別様になりようもない場所である。そしてそこでは意匠の美ではなく、経験の強さこそが問われる。ここでは、美とは一種の経験の強さの度合いのことである。

強さの度合いを感じ分けながら、そこに出現する自己を生きている存在が、安吾の「束の間の少年」である。

それは感性を拡張しようと目指すことではない。むしろおのずと拡張になるように、経験のモードを変えていくことである。

安吾の美観は「どこか違う」ということを感じ取る感性にあるように思われる。それは成熟に向かうことを拒むことによって経験の強度を維持しようとする意志のようにも思われた。

普通は生きていく上で、いろいろな余分な考えが浮かび、その誘惑によって行動してしまうことが多いように思う。個人的にも、例えば作ったものを同業者に良く思われたいと言ったその手の誘惑は多いし、それによる不自由さのようなことを考えることも多い。
そういった局面において「どこか違う」ということを感じ取る感性を発揮し経験の強度を維持できるかが分かれ目にもなるのだろうし、それは建築としても現れてくるものだと思う。

これに関して思い浮かんだのは内藤廣の有名になる前のエピソードであり、自分の感性を信じる強さのようなものであるが、この章に関してはもっと自己と感度良く向き合わなければ見えてこない部分も多いのかもしれない。

方法論について

今、私たちの世界に対する認識の方法はこれまでの歴史の中で形成されてきたものであり、可能性の一つとしてたまたまこうなった、という類のものだと思う。それが私たちのものの見方、経験の仕方を相当に狭めていることは間違いないだろう。
なぜ私がオートポイエーシスやアフォーダンスといったことに可能性を感じるかというと、通常世界を認識しているのとは少し違う(違う歴史を経ていればあたり前であったかもしれない)別の見方を垣間見せてくれるからで、それによって多少なりとも自由に振る舞えるようになると思えるからだ。(たとえば西欧文化にどっぷり浸かった人が東洋の文化にはじめて触れた時に感じる可能性と自由のようなものだろうか。)

その振る舞い方というのはおそらく設計の場面においても根幹の部分で強く影響があるように思う。
それに関連して、何か方法論のようなものを持ちたいとこのブログでも何度も書いている。

方法論とは何なのだろうか。
うまくつかめないでいるし、そのスタンスもいろいろなものがあるように思う。
その中で、自分にとっての方法論とはおそらくそれを世に問うといっただいそれたものではなく、自らの経験を前に進めより良い建築を生み出せるもの、といった範囲にあるものではないかと思う。

それは、世に問うことを否定しているのではなく、自分というシステムを起動し有効に働かせることのできる半径がおよそこれくらいという感覚からくるものである。その辺りの規模感というか自分のやってることの位置付けを間違うと何かがズレてしまうのではという感覚がある。

その上で、方法論というと何か具体的なもので自動的に建築に近づけられるもの、というイメージがあったがなかなかしっくり来るようになれなかった。
むしろ、そういう具体性を際どいところで回避するような方法論というのもあり得るのではないか。そして、それは言ってしまえば「当たり前の事」のようなものになるのではないか。その当たり前さがむしろ可能性と奥行きを持ちうるのではないか。という気がしていてこの本を手にした。

例えば、方法論を「どのような働きの中に身を置くか」と言い換えてみる。

要望を聞き条件を整理し形を探る。それは当たり前のことだけどその中から具体性が浮かび上がってくるように思うし、その場合方法は事前にあるのではなく、事後的に発見されるものだろう。
だとすれば方法に焦点を当てようと思った時点でズレていて、やるべきは感度高く働きの中に身を置くことだろう。

そう考えると少し気持ちが楽になった。
今取り組んでいることに、当たり前に取り組んでいく。それは、当たり前のことを単に繰り返すのとは違い、少年のように試行錯誤を繰り返すことで経験が前に進んでいくようなものであるはずだ。

「四十にして惑わず」とある。これを河本氏的に解釈するとすれば、四十になって成熟の域に達し迷わなくなる、ということではないだろう。三十代までの紆余曲折を経て、取り組むべき課題に確信を持ったことで堂々と少年のモードに再び戻る準備ができたと言うことではないだろうか。そのための実践の場もこのころにはある程度準備ができているだろう。

自分も確信を持って四十の少年モードに突入していければと思う。

終章 オートポイエーシス少年

最後に終章で気になったところをいくつか抜き出してメモとして残しておく。

ドゥルーズの哲学とオートポイエーシスに共通の課題は、世界の現実的な多様性を出現させ、その多様性の出現が各人の経験の固有性の出現に連動するような仕組みを考案することである。

実際には、プロセスと産物を区分しておいた方が経験を拡げていくためにははるかに重要である。たとえば芸術的制作を行うさいには、プロセスの継続の副産物として作品が生み出されるのであって、作品に向かってそれを作ろうとした、という事態はほとんどの場合成立していない。

このおのずとシステムになるという感触がオートポイエーシスの構想にとってはとても大切なところである。

こうした自在さは、配慮や熟慮とはあまり関係がなく、ましてや視点や観点を切り替えることとはまったく関係がない。必要なのは経験の弾力であり、経験の動きである。このときこうした経験の弾力を備えた現実の姿を、具体的個物で表そうとすると、それが「少年」となる。少年は、発達の一段階ではなく、ある経験のモードの「原型」なのである。

どうしても踏み出せない場合には、こうした作業の手本となるものが存在している。だがそれを読んでしまうと言葉の迫力と現実感に圧倒されて、自分で前に進むことなどできなくなる。(中略)これらを真似ようとすると、間違いなく二番煎じ以下になる。そのため一度忘れて、その後それを思い起こすようにして、自分自身の言葉を作り出していく。想起とは、過去からの選択的な創作である。

ここに必要とされるのが経験の弾力である。というのもあらかじめ方法的にどうするのかが決まっているわけではなく、経験にとって最も有効な仕方を試行錯誤して探しださなければならないからである。

理解したから応用できると思って、やってみると何ひとつ前に進んでいない、ということが起きるのである。こうして気がつけば、理解から応用に進んでしまっている場合は、一度理解したものをすべて捨てたほうが良い。捨てることは、積極的な試みであり、捨てたものが再度経験の中から出現してきたとき、想起されたものはすでに選択され内化している。それがみずからオートポイエーシスを内面化することである。

持続的に息長く仕事をできている場合にも、多くのモードがある。それを真似て同じようなやり方をしても、二番煎じ以下になるが、それは作り出された表現のかたちを真似ようとするからである。むしろある経験の動かし方の特徴を取り出せれば、それを活用できる場面で選択することはできる。




ケンペケ01「建築のすすめ」山口陽登

kenpeke

12/6にケンペケカゴシマというイベントの一回目があるということで参加させていただきました。

ケンペケカゴシマ第1回目のイベントは「建築のすすめ」と題し、関西発の歴史あるレクチャーシリーズ-2010-2011年のアーキフォーラムでコーディネーターを務めた山口陽登さんをゲストに迎えて開催します。

アーキフォーラム https://www.archiforum.jp/archive.html

SDレビュー2014受賞作やこれまでの設計活動、入居者全員でリノベーションしながら仕事をするシェアオフィス-上町荘などの建築に関するお話はもちろん、立ち上がったばかりのケンペケカゴシマの将来像についてもコーディネーターとして経験豊かなゲストといっしょに探っていきたいと思います。

SDReview_2014 https://www.kajima-publishing.co.jp/sd2014/sd2014.html
上町荘 https://www.facebook.com/uemachisou

食事、お酒も飲みながらのリラックスした雰囲気のレクチャー+交流会です。
どうぞ、お気軽にご参加ください。
フェイスブックのイベントページより>

「環境」を面白がる

山口さんはとても親しみやすい方で分かりやすく話して下さり、レクチャーも楽しませていただきました。
レクチャーの中から私なりにピックアップすると

・(ケンペケを通じて)鹿児島ならではの建築のムーブメントができれば素晴らしい。
・環境はあたり前のもので、あたり前から建築をつくる。
・環境を考えることによってそれを建築化したい。
・環境は面白いし、いろいろなものを内在していて上手くつかうことで最短距離で面白いものをつくるのに使える。そういう強度がある。
・僕らの世代が「環境」という言葉の持つ息苦しさのようなものを突破して面白いものをつくりたい。そのために見方を変えたい。

と言う感じでしょうか。
「環境」という言葉はいろいろな使い方ができ、建築に近すぎる、あたり前過ぎるので逆に焦点を絞るのが難しいのではと思ったのですが(試しに自分のブログを環境というワードで検索をかけると100件近くの記事がヒットしました)、そこを突破するためのキーワードとして面白がる、というのが出てきたように思います。

「あたり前である環境を面白がることによって息苦しさを突破する」といった時に頭をよぎったのは塚本さんの「実践状態」という言葉と「顕在化によるリアリティ」というようなことでした。
以前書いた記事から抜き出すと

その木を見ると、木というのは形ではなくて、常に葉っぱを太陽に当てよう、重力に負けずに枝を保とう、水を吸い上げよう、風が吹いたらバランスしよう、という実践状態にあることからなっているのだと気がついた。太陽、重力、水、風に対する、そうした実践がなければ生き続けることができない。それをある場所で持続したら、こんな形になってしまったということなのです。すべての部位が常に実践状態にあるなんて、すごく生き生きとしてるじゃないですか。それに対して人間は葉、茎、幹、枝、根と、木の部位に名前を与えて、言葉の世界に写像して、そうした実践の世界から木を切り離してしまう。でも詩というのは、葉とか茎とか、枝でもなんでもいいですけど、それをもう一回、実践状態に戻すものではないかと思うのです。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』)

個人的な引用(メモ)は(後日)最後にまとめるとして、この中で個人的に印象に残ったのが次の箇所。 『 つまり、アフォーダンスは人間が知っているのに気づいていない、あるいは知っていたはずのことを知らなかったという事実を暴露したのだ。その未知の中の既知が見いだせるのがアーティストにとっての特権であったし、特殊な才能であった。(p.140 深澤)』 これだけだと、それほど印象に残らなかったかもしれませんが、ちょうどこの辺りを読んでいた時にtwitterで流れてきた松島潤平さんの「輪郭についてのノート」の最後の一文、 『この鳴き声が、僕にとっての紛うことなきアート。 出会っていたはずのものに、また新たに出会うことができるなんて。 』が重なって妙に印象に残りました。 僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

という部分です。
つまり、環境を面白がるということは、息苦しさを持ってしまった環境という言葉を再び実践状態に戻すことであり、また、よく知っているはずである環境という言葉に再び新たに出会うことであり、それによって活き活きとしたリアリティのようなものが浮かび上がるのではと言うのが私の解釈です。
これは(建築化というところまでなかなか結び付けられていませんが)最近興味を持っていることとも重なり、とても興味深く聞かせていただきました。

建築の不自由さ?

また、2次会では哲学(社会学?)分野の方も参戦して面白い議論を聞くことが出来ました。鹿児島では建築家と異分野の人の議論を聞く機会が殆ど無いので良い体験をさせていただいたと思います。
酔っていたのと、理解不足で正確な議論は思い出せないのですが「建築の不自由さ」や作家性・非作家性のようなことに対する哲学的視点からの議論だったと思います。

これについては議論の最後まで見届けたいところでしたがタイムオーバーで消化不良でしたので、その後考えてツイッターに書いたことをメモ的に貼り付けておきます。

onokennote:河本英夫の対談集「システムの思想(2002)」を読み始めたので随時メモ。
氏は今日のシステムを特徴づけるのは自在さの感覚とし、自在さは自由さと違うと言う。自由とはあくまで意識の自由だが、自在さは何よりも行為にかかわり、行為の現実にかかわる。
自由な建築と自在な建築と言った場合、同じように意識と行為にかかわるのであれば、自由な建築を目指すといった時に逆説的に不自由さを背負い込んでしまうのではないか。
(酔ってて細部が思い出せないのだが)先日のケンペケの2次会で哲学分野の人から突っ込まれた建築の不自由さのようなものは、このあたりとも関わるのではないか。
僕はどこまでいってもデザインする行為があるだけで、意味のようなものを探そうとする態度は困難なのでは、というようなことを言おうとしたのだけども今もってうまく言えない。
だけど、設計を行為だと捉え、そこに自在があるのであれば、自在な建築をつくりたい、ということが言えないだろうか。意味のようなものがどこかにある、と言うよりは自在な行為の中から発見的に生まれるものなのでは。
ある本でオートポイエシスは観察・予測・コントロールができないというように書いていたような気がするけど、最近ほんの少しだけ接点のイメージが出来てきた気がする。だけどぼんやりしすぎて全然捉えられてない。
あと、「ハーバーマス・ルーマン論争」に関するあたりで何か掴めそうでやっぱり掴めない。
『対してルーマンは、問題を脱規範化すべきだという考えです。問題をもっとちゃんと抽象化して、脱モラル化することで、社会のメカニズムというものを理論的に解明することが必要だという立場だと思うんです。つまり理論的に解明することによって、問題に実践的に対応できる。(西垣)』
このくだりでなんとなくだけど藤村さんが頭に浮かんだ。ハーバーマスが現状を説明しているだけじゃないかと言い規範を持ち出すことに対して、時間的に経験や社会が変わることに対してより実践的なのは規範→行為ではなく行為→規範の方だという感じが、動物化せよというのとなんとなく重なって。
理解を深めるヒントがありそうな気がするんだけど整理できず。意識・自由・規範と行為・自在・脱規範の違いってbe動詞と動詞の違いに似てる。(こういう感じのこともどこかに書いてたけど思い出せず)
まだ読み始めたばかりなので時間を見つけて少しずつでも読み進めよう。多分表現のための方法論ではなくて、行為のためのイメージを自分の中に持っておきたいんだと思う。

まだうまく言えないのですが、建築の不自由さはポストモダン的な振る舞いとしての行為、自在な建築(設計)というあたりから乗り越えられるのではという予感があります。
また、これらはおそらく環境を面白がるという行為・態度とおそらく地続きだろう、というのが今の時点でのぼんやりとした仮説のようなものです。

この辺は機会があればもう少し突き詰めてお聞きしたいところであります。

ケンペケに期待すること

鹿児島に建築の議論の場を。というのは私も願っていたところでケンペケにはおおいに期待していますし、私は場を作ることに関してはあまり得意でないのでこういう場を作る動きが若い世代から生まれてきたことは非常に喜ばしいです。

こういう場はこれまでも何度も生まれてきては文化として定着できなかったということがあったと思うのですが、この場が定着するまで続くことを願いますし、そのために自分ができることはサポートしたいと思っています。

とはいえ、まだまだよちよち歩きを始めたばかり。最初は簡単な事でもいいと思いますし、大人数でなくても良いと思います。なにはともあれ関心を維持しつつ歩み続けることが大切かと思います。そういう風に続けることで鹿児島での議論の場として少しずつ成長していって欲しいと思います。

そのために一つだけ期待することと言えば、出来るだけ多くの人が今回のイベントを面白かったで済ませずに、何らかの言葉で残すようになることです。はじめは稚拙でも良いし短い一文でもいいかと思います。ノートに書くでも良いし、人に話すでも良いし、もしろんSNSやブログに書いてオープンにするのでも良いかと思います。
私も学生の頃は本を読んでもさっぱり意味が分からなかったのですが、とにかく何か書く、恥ずかしくても書く、ということを続けているうちに少しづつですが理解できることの幅が広がってきたように思いますし、そういうことなしにはなかなか議論の場になっていけないんじゃないかと言う気がします。それに、どんなに稚拙であろうと自分の中から絞り出した言葉には書いた本人に限らず何らかの発見があるはずです。

とは言いつつ、それでもやっぱり歩み続けることが一番大事だと思うので楽しんでいきましょー。

なんだか、最後おじさんが書くような話になってしまいましたが、実際そろそろおじさんなんだなー・・・。まだまだ建築の入口を掴みかけたかどうかという感じなのですが。

最後に廣瀬さん含め運営の方々、良い可能性の場をありがとうございました。

あっ、レクチャーの動画貼っておきます。




その都度発見される「探索モードの場」 B177 『小さな矢印の群れ』

小嶋 一浩 (著)
TOTO出版 (2013/11/20)

onokennote:隈さんの本に佐々木正人との対談が載っていた。建築を環境としてみなすレベルで考えた時、建築を発散する空間と収束する空間で語れるとすると、同じように探索に対するモードでも語れるのではと思った。
例えば、探索モードを活性化するような空間、逆に沈静化するような空間、合わせ技的に一極集中的な探索モードを持続させるような空間、安定もしくは雑然としていて活性化も沈静化もしない空間。など。
隈さんの微分されたものが無数に繰り返される空間や日本の内外が複層的に重なりながらつながるようなものは一番目と言えるのかな。二番めや三番目も代表的なものがありそう。
四番目は多くの安易な建物で探索モードに影響を与えない、すなわち人と環境の関係性を導かないものと言えそう。この辺に建物が建築になる瞬間が潜んでいるのではないか。
実際はこれらが組み合わされて複雑な探索モードの場のようなものが生み出されているのかもしれない。建物の構成やマテリアルがどのような探索モードの場を生み出しているか、という視点で建築を見てみると面白そう。
また、これらの場がどのような居心地と関連しているか。例えば住宅などですべての場所で常に探索モードが活性化しているのはどうなのか。
国分の家では内部は活性化レベルをある程度抑え、外に向かっての探索モードをどうやってコントロールするかを考えていた気がする。
今やってる住宅も同じようなテーマが合いそうなので、探索モードの場、レイアウトのようなものをちょっと意識してみよう。風水の気の流れとみたいなのも似たようなことなのかなー。 [10/20]


他の本を読んでいて考えたことと、『小さな矢印の群れ』というタイトルがリンクしたので興味が出て買ったもの。

アフォーダンス的な事は前回のようなプロセスに関わるレベルと、今回考えたように知覚のあり方そのものに関わるレベルとでイメージを育てるのに有用だと思います。

著者が書いているように建築の最小目標をモノ(物質)の方に置くのではなく『<小さな矢印>が、自在に流れる場』の獲得、もしくはどのような「空気」の変化を生み出すか、に置いた場合、ツイートしたような「探索モードの場」のようなものも「小さな矢印の群れ」の一種足りえるのではないでしょうか。

僕が学生の頃に著者の<黒の空間>と<白の空間>という考え方に出会った気がしますが、この本の終盤で黒と白にはっきりと分けられない部分を<グレー>ではなく<白の濃淡>という呼び方をしています。それは、「空気」が流動性をもった活き活きとしたアクティビティを内包したものであってほしいという気持ちの現れなのかもしれません。
同様に、例えば<収束モード>と<発散モード>を緩やかなグラデーションで理解するというよりは、それを知覚する人との関係性を通じてその都度発見される(ドゥルーズ的な)自在さをもった<小さな矢印の群れ>として捉えた方が豊かな空間のイメージにつながるのではないでしょうか。

僕も昔、妹島と安藤との間で「収束」か「発散」かと悶々としていたのだが、藤森氏に言わせると妹島はやはり「開放の建築家」ということになるのだろうか? 藤森氏の好みは自閉のようだが、僕ははたしてどちらなのか。開放への憧れ、自閉への情愛、どちらもある。それはモダニズムへの憧れとネイティブなものへの情愛でもある。自閉と開放、僕なりに言い換えると収束と発散。さらにはそれらは”深み”と”拡がり”と言い換えられそうだ。 それはもしかしたら建築の普遍的なテーマなのかもしれないが、その問いは、どちらか?といものよりは、どう共存させるか?ということなのかもしれない。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B096 『藤森照信の原・現代住宅再見〈3〉』)

ここに来て、学生の頃から悶々と考えている<収束>と<発散>の問題に何らかの道筋が与えられそうな気がしています。