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社会的構造が絶望と希望を生む B287『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』(山岸 俊男)

山岸 俊男 (著)
PHP研究所 (2000/6/21)

以前から社会の空気のようなものがどのように生まれ、どのように影響を与えるかに興味があり、その関連で著者の本を読んでみようと思い買ったもの。
比較的新しいもので、自分の関心に近そうなものを探したところ本書に行き着いたのだけども、それでも2000年の発行なので20年以上も前のものである。
(最近の本で良いものがあれば紹介して欲しい)

社会的ジレンマとは

社会的ジレンマとは次のような構造を持つ問題のことである。

①一人一人の人間が、協力行動か非協力行動のどちらかを取ります。
②そして、一人一人の人間にとっては、協力行動よりも非協力行動を取る方が、望ましい結果を得ることができます。
③しかし、全員が自分にとって個人的に有利な非協力行動を取ると、全員が協力行動をとった場合よりも、誰にとっても望ましくない結果が生まれてしまいます。逆に言えば、全員が自分個人にとっては不利な協力行動を取れば、全員が協力行動を取っている場合よりも、誰にとっても望ましい結果が生まれます。(p.17)

要するに、こうすれば皆が良い結果を得られると分かっていても、自分だけがその行動をとっただけでは自分が損をみるのでやれない、という問題で、現在の環境問題が典型的な例だろう。

本書での一番の結論は、

しかし、次のことだけはわかっています。それは、私たちは私たちが作り出している社会をコントロールするために十分なかしこさを、まだ持ち合わせていないということです。(p.10)

という言葉に集約されるかも知れない。

わかっちゃいるけどやめられない。それは個人の意志だけの問題ではなく、社会的な構造によるものであり、それをコントロールできるほど人間はかしこくない。
まずは、その認識を持つことが必要なのかもしれない。

何が可能か

それでは、自分たちには何が可能だろうか。人類がかしこさを持ち合わせていないことを嘆くしかないのだろうか。

例えば、政府などによる、アメとムチの監視と統制は、一定の効果が出る可能性はあるが、二次的ジレンマの発生や内発的動機づけの破壊など、さまざまな問題も多いし、それに期待するだけではいけないことも実感として感じている。

そんな中で、各個人が「個人としてできること」のイメージを持つことは可能なのだろうか。
もし、そのイメージが持てないならば、そのことが諦めを生み、人々に非協力行動をとらせてしまうだろう。
社会的ジレンマの構造を考えると、「個人としてできること」のイメージの発明はとても重要なことのように思える。

このことについて少し考えてみる。

このイメージを考える上でのヒントは社会的ジレンマが社会的な構造をもっていることそのものの中にありはしないだろうか。

例えば本書では、限界質量という概念が紹介されている。
ある集団の中には、様々な度合いで協力的な人、非協力的な人が分布している。
ある人は、10%の人が協力しているなら自分も協力するという人で、ある人は90%の人が協力していないと自分も協力しない。そういう度合いの分布があるとすると、これらの人の行動が積分のように連鎖してある割合に収束すると考えられる。
この考えの面白いところは、同じ分布の集団が、初期値によってことなる地点に収束する場合がある、ということだ。
あるケースでは、行動の連鎖の結果、協力者の割合の初期値がある値(例えば40%の人が協力している状態。ここを限界質量と呼ぶそう)より少ない場合は10%に収束し、多い場合は87%で収束するという。
(▲本書p.199 例えば50%の協力者からスタートすると、協力者は58%に増え、と連鎖し87%に収束する)
この社会的な構造を人々の行動が連鎖する複雑系のような関数としてイメージしてみる。
ある関数では、初期値によって結果が大きく変わる。あるいは、個々の人々の特性(関数の勾配のようなものをイメージしてみる)がほんの僅かに変わるだけで、結果が大きく変わることもある。
それは、僅かな人の行動が変わるだけで結果を大きく変える可能性があること、あるいは、ほんの僅か他の人々の特性に影響を与えることができれば局面が大きく変わる可能性があることを示しているといえる。

多くの人が持っている、自分だけが変わっても何も変わらない、というのはおそらくこの関数を足し算のようにイメージしている。
しかし、この関数を複雑系のようにある小さな値の変化が結果を大きく変える可能性のあるものと捉えられれば、自分の変化が結果に揺らぎを与えるかもしれない、というイメージに少しだけ寄せられるかもしれない。

むろん、一人がイメージを変えたところであまり結果は変わらないかもしれないが、多くの人がこのイメージを持つことができれば、つまり、社会的関数の入れ子のように(例えばある環境問題の関数の中の勾配を決める関数として、この「社会問題の関数は足し算ではなく、複雑系だと考える人の割合」の関数として考える)捉えて、関数間の連鎖が起きることを考えれば結果が変わることがあるかもしれない。(ちょっと何を書いているか分からなくなってきた)

要するに、ある社会的ジレンマを持つ問題の全体を個人が0から1に変えることは難しいけれども、入れ子のような関数を考えて、より小さな関数を少しだけ変えるということはできるのではないか、ということだ。
社会的ジレンマを持つ問題に対して、自分の不利になる行動をいきなり変えることは難しいかもしれないけれども、まずは「社会問題の関数は足し算ではなく、複雑系だと捉えてみる」だけならそれほど不利益を被ることもなく変化の敷居は低くなる。
自分の行動が人の行動をいきなり変えることはないかもしれないけれども、その人の行動の指針をほんの少し狂わすことはできるかもしれない。そういうイメージを持つことができれば、自分の行動を正当化できる人も増えるのではないだろうか。(そして、これは入れ子状にさらに小さな関数へと微分していくことができるだろう)

うーん、何が言いたいかますます混乱してきたけれども、大きな変化をいきなり見ずに、小さな変化を可能性としてみることができれば、堂々とやりたいことをやれるのではないだろうか。明るく堂々としているだけでも小さな変化へのきっかけにはなる。

これは、自分への言い訳探しでもあり、重い問題に明るさを見つけるための試論でもある。

この小さな変化を可能性としてみる、というのは次の読書記録への導入として続きは後日考えたい。




環境とは何かを問い続ける B286『環境建築私論 近代建築の先へ』(小泉雅生)

小泉雅生 (著)
建築技術 (2021/4/16)

以前読んだ本の中で気になる言葉に著者のものが多かったので読んでみた。

内部構造から外部環境へ

著者は、現代主流になりつつある環境建築の多くが、建築という箱をどうつくるかという外部と分断した内部の論理・近代的思考に囚われたままであること、また、実証のための理論であった環境工学が目的にすり替わってしまっていることに警笛を鳴らしつつ、〇〇から〇〇へというように発想の転換をはかるような思考を試みている。

それは、本書の目次によく表れている。

01 プロローグ
02 内部構造から外部環境へ
03 精密機械からルーズソックスへ―機能主義とフィット感
04 ハイエネルギーからローエネルギーへ―均質空間とローカリティ
05 シャープエッジから滲んだ境界へ―サステナビリティと耐久性
06 メガからコンパクトへ
07 パッシブからレスポンシブへ
08 隔離・断絶からオーバーレイへ
09 細分化からインテグレーションへ
10 ウイルスからワクチンへ
11 エピローグ

これらは、エピローグで「矛盾に満ちた、建築家の私論として、理解いただければと思う。」と書いているように、建築家に内在する矛盾に対する抵抗の記録と読める。

この抵抗は、私がここ2年ほど考えようとしてきたことの動機とも重なりおおいに共感するところではあるが、その矛盾とは何だったのだろうか。

環境とは何か

それは、環境とは何か、という問いに集約されるように思う。

環境あるいは環境工学について、『最新建築環境工学』の最初にこうある。

環境とは、人間または生物個体を取り巻き、相互作用を及ぼしあう、すべての外界を意味するもので、大きく自然環境と社会環境に分けられる。われわれがここで取り扱うのは、主として前者の自然環境と人間の関係である。(p.13)

この快適な室内環境を最小のエネルギー利用で達成するのが、環境工学の重要な使命である。ただ、それは建築全体からみれば、あくまでも結果であって目的ではないことを忘れてはならない。(p.18)

ここではっきりと書かれているように、環境工学の扱う分野は建築の部分に過ぎない。
しかし、それが目的化・矮小化されてしまっているところが建築家の内に矛盾を生んでしまっている。
建築家もしくは設計者には、環境という言葉を狭い意味から開放し、総合化-インテグレートする役割があるはずだが、ややもすると「建築家はすぐに言い訳をして、環境問題から目を逸らし続けている」と言われかねないし、この矛盾の解消は簡単ではなくなってきている。

だからこそ、建築家は自らの信念を見つめ、環境に対する新しいイメージと可能性、実現のための技術を磨きながら、環境とは何かを問い続けなければいけないのだろう。
その点で、本書はやはり一人の建築家による抵抗の記録である。

私もようやく、その抵抗の糸口が掴めてきたような気がするが、実践に関してはこれからだ。楽しんでやっていけたらと思う。




環境実験型オフィス office chavelo

2023年5月 事務所改装
床面積:約85.33㎡(約25.81坪)
施工:自主施工(一部 N.3建設)




スケール横断的な想像力を獲得する B283『光・熱・気流 環境シミュレーションを活かした建築デザイン手法』(脇坂圭一 他)

脇坂圭一 中川純 谷口景一朗 盧炫佑 小泉雅生 冨樫英介 重村珠穂 秋元孝之 川島範久 清野新(著)
建築技術; B5版 (2022/5/25)

前回同様、昨年春に出版された建築環境本の一つ。

「静岡建築茶会2018│建築環境デザインを科学する!」として開催されたシンポジウムの登壇者による講演内容と対談および作品を紹介したもので、環境シミュレーションにまつわる思想的な背景や具体例を知るのにバランスのとれた良書。

「快適」性に対するスタンスをどうするか

環境について考える際に、快適性をどのように捉えるか、というのは根本的な問題で、どういうものをつくるのかを大きく左右する。
冨樫氏は「快適」の2文字のうち、「適」は温熱環境が一定の範囲に収まっていることを言い、それに対して「快」は不適な状態から適な状態へ移行する際のギャップから生まれるものだという。いわば静と動である。
また、中川氏は「快適」とは「快」い状態に「適」する行動を伴った概念とし、微細な環境の差異から導かれた「動的な熱的快適性」を考える必要がある。という。

「快」は意匠分野が好む傾向があり、「適」は環境分野が好む傾向があるようだが、おそらくそれのどちらが正解という話ではないだろう。
基本性能としての「適」はもちろん重要だが、人間のふるまいや感情というファクターを考えると動的な「快」にも役割があるはずだ。(例えば自然の風の心地よさに1/fゆらぎが隠れているように、適と快の揺らぎがあるようなイメージ。それらの揺らぎを含めて快適となるのではないだろうか。)


上図は中川氏が紹介していた建築における美学と技術の2つを楕円の焦点にあてはめた楕円モデルであるが、楕円状の点Pである建築と2つの焦点との距離はどちらもゼロになることはない。そして、総合という視点において美学や技術に対する偏愛が必要だという。
このことは、先の「適」と「快」にも当てはまるように思うが、楕円のどこに建築を置くかというスタンスがその後の方向性を決めるし、「最適化」というものはこのスタンスの表明でしかないように思われる。

また、ここにおいて、シミュレーションの役割は絶対値の提供にあるわけではないだろう。
結果はどのようなモデルを設定しどのようなパラメーターを扱うかで大きく変わるし、モデル化そのものに先のスタンスや思想が表れる。
重要なのは、相対的な比較によって方向性を定めることだと思うし、そのためにはモデル化の手法、結果から読み取る目、そしてそれを活かすための反射神経が重要である。
自ら環境と関わる意志と経験値が必要だし、環境工学的な基礎を学ぶことによって見えてくるものも変わってくる。また、今はまだ理解していないがコミッショニングという分野も人と環境との関わりを考える上で様々な学びがありそうだ。

スケール横断的な想像力を獲得する

では、自分はどのようなスタンスをとるか。

それはこれまで考えてきた大きなテーマであるが、ここで川島氏の一文を引いてみたい。

このコミッショニングの目的はこれまで主に「省エネルギー」でしたが、「自然とのエコロジカルな関係性」をデザインすることにも活用できる。むしろ、そのような目的にこそ活用されるべき、と東日本大震災以降、特に考えるようになりました。(中略)だからこそ、地球との繋がりを実感できる建築が求められるのではないか。太陽をはじめとする自然の変化を美しく感じることができること。その歓びを通して、身の回りと惑星規模のスケールを横断する想像力を獲得し、自らの価値観やふるまいを見直しつづけていくことができるような建築が求められているのではないか。(p.68)

これまで何度か書いたように、環境問題は「省エネ」といった技術の問題というよりは、「自然とのエコロジカルな関係性」を築けるかどうかの想像力の問題なのだと思うし、シミュレーションはそれを補佐する役割があるといえる。
「適」か「快」か、「閉鎖系モデル」か「開放系モデル」か、あるいは「欠点対応型技術」か「良さ発見型技術」かと言ったとき、それを想像力の問題として捉えた場合、どちらを重要視すべきかは明らかだろう。(もちろん、先の楕円モデルを前提として。)

『カタルタ』の開発者である福元氏は高校時代からの友人なのだが、彼によると、若い頃私はよく「地球上のあらゆる問題は想像力の問題だ」と言っていたらしい。

その発言はあまり覚えていないけれども、確かに、私は建築を想像力の問題として捉えることからスタートしている。

このように、想像力は私たちの世界を広げてくれます。そして、それは私たちのアイデンティティの問題とも深くかかわっています。 「私のいる空間が私である」。だからこそ空間に心地よさを感じられるのかもしれません。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 私と空間と想像力)

「私のいる空間が私である」というのは好きな言葉の一つなのだが、この言葉は子供時代を過ごした奈良や屋久島での記憶へとつながっている。
その言葉と現代社会とのギャップから、建築を想像力の問題と考えるようになったように思うが、ここにきてまたこの言葉に戻ってきた。

環境やエコロジーという言葉に対していかなる思想や言葉を持つことが可能か。
ここ数年は、このテーマのもと読書を続けてきたけれども、ようやく抱いていた違和感を解消しつつ自分の言葉へと消化できそうな気がしてきた。

関係する読書は続けるとしても、集中的に読むのはここで一区切りとし、また次のテーマに取り組みたいと思う。




答えをあらかじめ用意しない B282『開放系の建築環境デザイン: 自然を受け入れる設計手法』(末光弘和+末光陽子/SUEP.)

末光弘和+末光陽子/SUEP. (著), 九州大学大学院末光研究室 (著)
学芸出版社 (2022/6/10)

昨年、春頃に『環境シミュレーション建築デザイン実践ガイドブック』、『光・熱・気流環境シミュレーションを活かした建築デザイン手法』、そして本書及び『SUEP. 10 Stories of Architecture on Earth』と立て続けに環境系の本が出版されたのでまとめて購入していたもののうちの一つ。

開放系モデルの意義

現在の多くの建築環境は、高気密・高断熱と機械制御による空間が主流となっており、これは、建物を外界から遮断することで、室内環境を整え、発電所でつくられたエネルギーをいかに使わずに暮らすのかという思想に基づいている。これを仮に閉鎖系モデルと名付けてみる。地球温暖化防止のため、高い環境性能が求められる時代において、寒冷地を中心にこの閉鎖系モデルの有効性を疑う余地はないが、生活や住文化を重要視してきた建築家として、性能の追求が数値ゲームとなっていることに対する懸念や、何かが欠落している違和感を持っている人は少なくないだろう。そして、世界は広く、画一的な考え方でものを見ることのに対して疑問も浮かんでくる。(中略)ここで問題提起したいのは、果たしてこの閉鎖系モデルだけで本当に地球環境の問題は解決できるのだろうか、ということである。この問題に対して示唆的なのが、南日本や東南アジアの国々で古くから存在する通風や日射遮蔽を重視した建築である。それらは外部に開き、自然エネルギーを受け入れることで以下に豊かに暮らすかという思想に基づいている。これを開放系モデルと名付けてみる。(p.2)

これは、「はじめに」の一文であるが、大きく共感する。

ここで外皮性能の強化を否定するつもりは全くないけれども、人の想像力を阻害し、「人間の生活世界と、それ以外の世界を分断するような世界観」に対する反省を伴わない思考は根本的な問題への対処になりえない、というのが今の私の考えである。また、そういう思考には個人的にワクワクしない。いわば、思考のプロセスの問題である。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 風を考える上での2つの言葉 B279『通風トレーニング: 南雄三のパッシブ講座』(南雄三))

何度も書くように、閉鎖系モデルの技術そのものを否定するものではない。しかし、それがあまりにも当たり前になってしまうことで、結果的に思考停止に陥り、分断の思考形式を温存することになってしまうことには問題があるように思われる。

結果的に閉鎖系モデルに行き着くとしても、一旦はそういう思考形式を離れて開放の可能性を考えてみる。そうすると、最近の私がそうであったようにいやがおうにも自己と環境との関係性を考えざるを得なくなる。「良さ発見型の技術」はそのことをよく表している言葉であった。(そして、この言葉は北海道で生まれている)

答えをあらかじめ用意しない

本書各章のタイトルを列記すると以下の通り。

  • 01 半屋外をデザインする
  • 02 太陽エネルギーを取り込む
  • 03 地中のエネルギーを利用する
  • 04 風を受け入れる
  • 05 自然光を取り込む
  • 06 半地下をデザインする
  • 07 樹木と共存する
  • 08 生態系をネットワークする
  • 09 都市を冷やす
  • 10 水の循環と接続する
  • 11 森林資源循環をデザインする
  • 12 エネルギーをつくる

私とほぼ同世代でこれだけの質と量の実践をされていることに驚愕するが、何がこれほど幅広い実践を可能としているのだろうか。

これは推測に過ぎないけれども、その鍵は答えをあらかじめ用意しないことにあるのではないだろうか。

外部環境も規模や用途もクライアントの意向も異なる中で、模範的な答えをあらかじめ決めてしまわないことで多様な解が現れる。
それこそが建築設計の醍醐味でもある。
それは、ある意味では設計者の自己満足かもしれないが、それでも、多様な解が現れることそのものに、人間もしくは生物に必要なより広い意味での開放性が潜んでいるように思う。

本書の中の対談で

半屋外空間について、早稲田大学の研究があり、それは駅やアトリウムなどあまり空調されていない空間でなぜ人間はそこまで不満に思わないかという研究なのですが(中略)僕はそれを読んで、「自然の中に近い」という感覚を持つと、人間の許容度は大きくなるというふうに解釈しました。(小堀哲夫)(p.74)

というのがあった。(論文はこれとかこれあたりかと。テンダーさんも以前にたような推測をされてた。)

数値ゲームも重要だけども、それだけに囚われないことによってたどり着くことのできる解は無数に存在するはずであるし、そのための方法を追求してみたい。




工学的な知識を何に対してどう使うのか B277『最新建築環境工学 改訂4版』(田中 俊六他)

田中 俊六 (著), 岩田 利枝 (著), 土屋 喬雄 (著), 秋元 孝之 (著), 寺尾 道仁 (著), 武田 仁 (著)
井上書院; 改訂4版 (2014/2/18)

教科書としての名著

環境工学の教科書である。

最近、基本的なことを学び直す必要性を感じて本屋で探したところ、教科書系には珍しく似たような本が7,8種類は置いてあった。

30分以上迷いに迷った挙げ句、一番教科書っぽくて基本的な数式の載っているものにした。以前なら図解の多いわかりやすいものを選んでいたかもしれない。

(後日、もしやと思い以前見たことのある動画を確認したところ、名著として紹介されているものだった。学生の頃に手に取っていた可能性があるけれども、環境工学に関しては教科書も授業内容もまったく記憶にない・・・)

雰囲気で仕様を決めるのが嫌で、シミュレーションをして定量的な判断ができるようにと環境を構築してみたものの、根本的なところの理解がないと、結局雰囲気で決めることに変わりはないな、と最近の実験等で痛感した。
そういうこともあって本書を購入してざっと一通り読んでみたのだけど、教科書だけあって、知りたかった情報にかなり出会うことができたし、理解も進んだ。

もちろん、一読するだけで内容を自在に使いこなせるようにはならないので、今後必要に応じて実践的な視点から再読する必要がある。
また、現時点ではいろいろな情報が入りすぎて少々混乱してしまっているところもある。

工学的な知識を何に対してどう使うのか

混乱しているのは知識だけではない。
工学的な知識を何に対してどう使うのか、というのも知れば知るほど混乱しつつあるため今は保留にしている。

工学的な知識から、一つのあるべき最適解が導きだせるかというと、そんなことはない。
環境工学的な視点のみから何を満たすべきかという基準がはっきりしていれば、あるいは最適な解というものが存在しうるのかもしれないが、建築は、例えば環境工学的な正しさのみのために存在するのではないし、複雑に絡み合ったそれ以外の大量の要素を無視してはそもそも実現不可能である。

建築が何のために存在するのか、もしくは建築とは何なのか。それによって正しさはいかようにも揺らぐ。
だからといって、今さら<建築>のためにエネルギーを垂れ流すのはいた仕方ない、と言い訳を探したい訳でもない。
それでいて、環境工学的な正しさのために<建築>なんて不要だ、という気もない。
環境工学的な正しさは<建築>の一要素に過ぎない。

今、自分に必要なのは、工学的な知識を何に対してどう使うのか、という自分なりの基準である。

「何に対して」は、これまで大切にしてきたことがある。
それと、「どう使うのか」をつなぐための哲学と言葉、そして知識と技術を探し出す必要がある。

後少しの間は我慢してインプットを進めるつもりだけど、年内には何とかつなぐためのシンプルな言葉だけでも探し出したいと思っている。




はたらきのデザインに足りなかったパーツ B274『エクセルギーと環境の理論: 流れ・循環のデザインとは何か』(宿谷 昌則)

宿谷 昌則 (著)
井上書院; 改訂版 (2010/9/25)

別のエコハウス関連の書籍で本書に掲載されている表が載っていたので気になって購入。

エクセルギーとは

エクセルギーは聞き慣れない言葉である。

例えば、「エネルギー消費」「省エネ」「創エネ」などと言ったりするが、厳密にはエネルギーは増えたり減ったり、創ったり、消費したりしない。ありかたを変えるのみである。これは熱力学第一法則「エネルギー保存の法則」であり、この世界の大原則だ。
では、先程の言い回しがどうなるかと言うと、実は消費されたり、生成されるのはエネルギーではなく、エクセルギーである。

エクセルギーは「拡散という現象を引き起こす能力」を表す。
例えば熱が高い方から低い方に伝わって安定したり、濃い液体が薄い液体に混じり合って安定したり、あらゆる現象は基本的に拡散していない状態からより拡散した状態へしか進行しない。この、移行しようとする能力が一般に言うエネルギーの正体であり、エクセルギーと呼ばれるものである。
これは、熱力学第二法則「エントロピー増大の法則」であるが、エクセルギーとエントロピー、そしてエネルギーは切っても切れない関係にある。

エクセルギーは資源性をあらわし、エントロピーは廃棄されるべきゴミである。

また、20℃の物体は、30℃の空気中では空気を冷やす能力を持つ(冷エクセルギー)が、同じ物体が、0℃の空気中では空気を温める能力を持つ。(温エクセルギー)、というようにエクセルギーは環境によってその能力が変わる。

エネルギーの全体量は変わらずとも、そこに偏りがあれば、資源性を持つ。それがエクセルギーである。

エクセルギーは今までのイメージを塗り替える

そのエクセルギーには実際どんな意味があるか。

まず、エクセルギー・エントロピーの概念を導入すれば、例えば何℃のお湯が冷めるまでどれくらいの時間をかけてどういう経過を経るか、というような、さまざまな現象を数値として扱い計算によって導き、その資源性を数字として把握したり比較することが可能となる。また、様々な形態をとる資源としてのエネルギーがどう循環しているか、というのを並列に捉えることが容易くなる。

例えば、「体感温度≒(室温+周壁の表面温度)÷2」みたいなことが言われたりするけれども、もっと厳密に、室温と周壁の表面温度その他の条件によって、人体が消費するエクセルギー、言い換えると人体に対する負荷/心地よさがどう変化するか、といったことを根拠をもって理解することができる。
▲p.79 この図を他の本で見かけて本書を購入した。
それは、熱力学の成果であるが、ある現象に対する今までのイメージをひっくり返したり、新たなイメージを得る、というような経験を与えてくれる。
これは今、環境について考えようとした場合に必須の経験かもしれない。

▲p.25
例えばこの図。20℃ 20Lの水を40度に温めたものと、20℃ 5Lの水を100度に温めたものでは資源性が異なる、と言われてピンと来るだろうか。
私は、同じエネルギー量なのに、そんなわけはない、と思ったが、実際にエクセルギーを計算するとこうなるし、平衡状態へ至るのに要する時間が大きく異なる。

エネルギーの持つ資源性を考えるには、そこにエクセルギーという概念のイメージを新たに付け加える必要がある。

地球という閉鎖環境と流れ・循環

本書の内容はヘビーな大学の講義2コマ分はゆうにありそうなので、すべてを説明はできないが、本書では、日照から、光、温度、人体、植物、有機物、熱機関といった多岐にわたる物事の流れと循環がエクセルギーという概念で説明されている。

そこには著者の通底する思想がある。

地球は、太陽から受け取った日射エクセルギーによって、上記のようなざまざまなシステムの流れと循環が生み出され、そこで生成されたエントロピーを宇宙へと排出することによって平衡を保っている、という「エクセルギー・エントロピー過程」を含んだ閉鎖系である。

▲p.50

その閉鎖環境の中で、これまで営まれてきた流れ・循環を、強引な操作によって乱れさせているのが環境問題であるとするなば、その流れ・循環を整え直すための理論を提示することが著者の思いかもしれない。

例えば、照明計画に関しては、

昼光照明とは、日射エクセルギーが消費され尽くすまでの道筋(過程)を照明という目的に合うように「流れ」を変えることだといえよう。昼光照明は「流れのデザイン」の一つなのである。(p.74)

と〆られている。
注意して見渡せば、「資源性」は至る所に発見することができるだろう。
その資源性が生み出す流れ・循環を無理せず途切れさせないように少しだけ道筋を変えることで、目的を達成すること。
それこそが、今考えるべきことであり、例えば「21世紀の民家」に必要なものだろう。

はたらきのデザイン

今まで、例えばアフォーダンスやオートポイエーシスといった、世界の見え方を変えてくれるものに出会ってきたけれども、この本は、極稀に訪れるそんな出会いになる可能性を感じた。

「流れ」と「循環」は、ものやものの集まりではなく、それらの働きである。働きとは機能である。機能に対置する熟語は構造だ。もののかたちづくる構造の振る舞いが機能だからである。構造は<かたち>、機能は<かた>と言ってもよい。構造は写真に撮れる。機能は写真に撮れない。だから、構造は見て取れるが、機能は読み取らなくてはならない。(中略)「デザイン」といえば<かたち>――そう連想するのが常識だろう。<かたち>がデザインの一側面であることは間違いないが、「デザイン」にはもう一つの側面<かた>があることを見落とし(読み落とし)てはならないと思う、本書の副題を「流れ・循環のデザインとは何か」とした所以である。(p.339)

奇しくも、アフォーダンスもオートポイエーシスも構造ではなく、機能・はたらきへの目を開かせてくれた。
しかし、建築として<かたち>にするには、何かパーツが足りていない気がしていた。

本書を読んで、その足りていない<パーツ>の一つは、「流れ」と「循環」のイメージ、及びそれに対する解像度の高さだったのかもしれない、という気がした。

その解像度を高めつつ、それが素直にあらわれた<かたち>を考える。そして、あわよくば、そこにはたらきが持つ生命の躍動感が宿りはしないか。
そんなことに今、可能性を感じつつある。

メモ

・太陽の日射エネルギーの約半分が地表に吸収されるが、そのうち半分ほど(47%)は水の蒸発によって運び去られる。残りは対流によってが14%、放射が39%で、この収支が成り立つことで地表の平均温度が保たれる。水の循環による役割は大きい。と考えると気化熱を利用するのは自然の仕組みにかなっていそうな気がする。
・日射に対してエネルギー、エントロピー、エクセルギーがどのように割り振られるかの計算をエクセルで再現したところ、コントロール可能なパラメーターは入射角・吸収率・断熱性が考えられる。断熱性能を上げても、伝熱にかかる時間が長くなるだけで、トータルの室内に入るエネルギーは変わらないイメージだったけど、比較してみると外に逃げたり消費されたりする割合が変わり、断熱性を高めると室内へ向かうエネルギー及びエクセルギーもそれなりに減少する。また、吸収率の影響はかなり大きい。
・物体が電磁波によって放出するエネルギーは物体の絶対温度の4乗に比例。
・地球には日射を動力源、水を冷媒とした巨大なヒートポンプと呼べる循環がある。また、地球は植物の光合成を起点とした養分循環による熱化学機関とも言える。
・これからはパッシブシステムをよりよく働かせるようなアクティブシステム・アクティブ型技術・それに伴う哲学や思想、科学が必要。
・空間に放たれた光は最終的にはすべて熱に形態変化する。
・人体の温冷感覚は、人体を貫いてエネルギーや物質がどのように拡散していくか、身体エクセルギーの消費の仕方や大きさで決まる。
・冷房病は人体エクセルギーが過度に消費され続けて「だるさ」を感じさせることかもしれない。
・ある条件で、人体エクセルギー消費量が最も小さくなるのは、冬で室内空気温18℃・周壁平均温25℃の場合(2.5W/m2)、夏で室内空気温30℃・周壁平均温28℃・気流速0.2m/s程度の場合(2.0W/m2)となる。人体が快適と感じる状態を生み出すためには、室内空気温そのものよりも、室内空気温に対して周壁平均温を冬は上げ、夏は下げる方が効果が高いケースがある。
・湿度にも同様に資源性がある。
・冷暖房時には外皮から出入りするわずかな熱エネルギーの差が重要。何かの目的を達成するために発電所に投入されるエクセルギーはその20倍以上となることが多い。
・暖房において建築外皮の断熱性・気密性向上は、ボイラー効率の向上よりも、エクセルギー消費を減らすのにはるかに効果がある。
・冷房時には日射に起因する室内での発熱量を屋外日除け等によって減らし、照明等の発熱を抑えることが重要。
・夏季に、蒸発冷却や夜間放射冷却を利用し、対流によって涼しさを得るのを「彩涼」、放射によるものを「彩冷」という。その際躯体蓄冷が有効。
・植物は光合成によってグルコースを生産し酸素を廃棄するとともに、蒸散によって冷エクセルギーを生み出す。それが最も大きくなるのは日射量50W/m2,風速0.5-2.0m/s程度のときであり、蒸散による冷エクセルギーの生成には程よい日射遮蔽が必要。
・建物の長寿命化とは、生産過程の大量なエクセルギー消費と引き換えに、建材中に固定したエクセルギーを、工夫によってできるだけゆっくり消費が進むようにすること。
・エクセルギー消費量は当然住まい手の行動意識に大きく左右される。パッシブ型の冷暖房が十分に機能し「快」の知覚が得られるようにすることで、住まい手の行動を変えていくことも重要。
・実行(冷)放射エクセルギー(放射冷却)は、外気相対湿度が低いほど、外気温が低いほど大きくなる。外気温0℃湿度40%のとき5.5W/m2、外気温32℃湿度60%のとき1W/m2となり、夏に比べて冬のほうがかなり大きい。
・夏の1W/m2も人が涼しさを得るには必ずしも小さくはないが、地物の温度が高いと温エクセルギーになることもある。
・蓄熱は(外気側)断熱によってエクセルギーの蓄積量・定常状態までの時間がかなり大きくなる。
・物質は濃度の高い方から低い方へ拡散するため、ひしめきあって存在する液体水は、大気が水蒸気で飽和していなければ、温度の高低にかかわらず水蒸気になろうとする。
・いわゆる冷房病は人体が対流によって冷エクセルギーを受け取るような場合に起きる。
・大きな温エクセルギーを人体に与えることが暖房ではなく、大きな冷エクセルギーを人体に与えることが冷房でもない。冷暖房は、人体から周囲空間へのエントロピー排出がうまく行えるように、人体からほどよい温エクセルギーが出力されるようにすることである。




新しい景色がみたい B264 『環境シミュレーション建築デザイン実践ガイドブック』(川島 範久)

川島 範久
彰国社 (2022/5/24)

一定期間ごと何かしらテーマを決めて自分を少しづつアップデートするように心がけているのですが、昨年末ぐらいからのテーマは「環境」でした。
近年、環境の問題と向き合うことは必須になったと思うのですが、自分の中でぼんやりとしている分野でもあったためまず前半は思想的な部分を重点的に取り組むことに。(ここで書いた読書記録では下記あたりが該当するかと思います。)

  • リズム=関係性を立ち上げ続けるために思考する B263 『未来のコミューン──家、家族、共存のかたち』(中谷礼仁)
  • 世界を渦とリズムとして捉えてみる B262 『間合い: 生態学的現象学の探究 (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 2) 』(河野 哲也)
  • 里山なき生態系 B260『さとやま――生物多様性と生態系模様』( 鷲谷 いづみ )B261『里山という物語: 環境人文学の対話』(結城 正美 , 黒田 智他)
  • 近代化によって事物から失われたリアリティを再発見する B259『能作文徳 野生のエディフィス』(能作 文徳)
  • ノンモダニズムの作法 「すべてはデザイン」から「すべてはアクター」へ B258『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明教)
  • 都市の中での解像度を高め余白を設計する B257『都市で進化する生物たち: ❝ダーウィン❞が街にやってくる』(メノ スヒルトハウゼン)
  • 2羽のスワンによる世界の変化の序章 B256『資源の世界地図』(飛田 雅則)
  • 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン)
  • 自然とともに生きることの覚悟を違う角度から言う必要がある B251『常世の舟を漕ぎて 熟成版』(緒方 正人 辻 信一)
  • 父から子に贈るエコロジー B248 『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(森田真生)
  • 本質的なところへ遡っていく感性を取り戻す B251 『絶望の林業』(田中 淳夫)
  • 宝の山をただの絵にしないためには B246 『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』(藻谷 浩介,NHK広島取材班)
  • 物語を渡り歩く B245 『自然の哲学(じねんのてつがく)――おカネに支配された心を解放する里山の物語』(高野 雅夫)
  • 進むも退くも、どちらも茨の道 B244 『レアメタルの地政学:資源ナショナリズムのゆくえ』(ギヨーム・ピトロン)
  • システムに飼いならされるのはシャクだ、というのは個人的なモチベーションとしてありうる B243 『人新世の「資本論」』(斎藤 幸平)
  • 高断熱化・SDGsへの違和感の正体 B242 『「人間以後」の哲学 人新世を生きる』(篠原 雅武)
  • 後半は実践的な問題として環境とどう向き合うか、というテーマで本をいくつも買い漁ってたのですが、奇しくも今年の春頃に環境シミュレーションに関する本が立て続けに出版されました。
    本書は、その中の一冊になります。

    環境シミュレーションというターニングポイント

    このブログでは実務的な書籍をとりあげることは殆どなかったのですが、この本は私にとっての一つのターニングポイントになりそうなので書いてみることに。

    本書は、建築の設計に環境シミュレーションを取り入れるためのガイドブックとして、実際の住宅事例をもとに、どのようなタイミングで、どのソフトでどのようなシミュレーションを行ったか、そのプロセスや結果の解釈、その理論的背景に至るまで、コンパクトかつ丁寧にまとめられています。


    上記は建築情報学会Meet Upの環境の回ですが、著者がどのような視点で本書をまとめられたのかが語られていますので是非見てみてください。

    いざ、環境に対して実践的に取り組もうとした時に、いろいろなアプローチが可能だと思いますが、自分にとっては環境シミュレーションというアプローチは合っていたように思います。
    例えば断熱仕様であったり、建物の形状であったり、設備の仕様であったり、これまでは、これまでの経験や、その場所の環境や予算、いろいろな資料などをもとに、ある程度の当たりをつけて、最後はいってしまえば「何となく」で、このあたりが落としどころだろうと決めていました。
    もちろん、できるだけ勉強して考えはするものの、今回のプロジェクトにとって最適な選択だったか、という最後のところはどうにもすっきりしない感じがしていました。

    昔からこの「何となく」「感覚で」という判断がものすごく苦手で、環境に対しても苦手意識があったのですが、環境シミュレーションを取り入れることで、その苦手意識はだいぶ薄れてくれそうな気がします。
    (もちろん、シミュレーションを行ってもモデル化の方法や条件設定によって結果が異なるため、現実とぴったり一致するということはないのですが、いくつかの可能性を比較することで、こうすればこれに比べてこの程度の効果がある、という相対的な判断ができるようになります。)

    実際にやってみることの重要性

    とは言え、この本を読んだからといって、環境シミュレーションのことが分かるようになるかというと、それだけでは難しいように思います。

    私も、ざっとは読んではみたものの、こんなことができるのか、という何となくのイメージを掴めただけで、実際に環境シミュレーションを実践に取り入れるのは知識と技術と環境を備えた人に限られるのでは、という印象でした。いずれチャレンジはしたいものの、そう簡単にはいかないだろうな、と。
    (実際、よく取り上げられているCFD解析ソフトの価格を問い合わせたところ、個人事務所では手が出しづらい金額でした。)

    そんな時、古巣の事務所からとあるプロポーザルに参加しないか、とお誘いがあり、要項を見てみると、環境をテーマとするのがよさそうでした。
    提出まで1ヶ月程度しか時間がなく、忙しい時期とも重なっていたため、かなり迷ったのですが、次にプロポーザルに出すとすれば、環境シミュレーションを取り入れることが必須だと思っていたこともあり、勝てるかどうかは分からないけれども、やれるだけやってみようと参加することにしました。

    その時にいろいろ調べたところ、Rhino+grasshopperのプラグインとして公開されているLadybugシリーズを使えば、ある程度のことが(rhinoの購入費用を除けば)無料でできそうだと言うことが分かり、rhinoはもともと興味があったこともあって導入することに。

    (そのあたりのことはnoteにまとめているところですのでこちらを見てください。)

    Vectorworksでモデリングを行い、簡単にrhinoにデータを渡して解析できるようにする、というのが目標だったのですが、ある程度のところまではできるようになりました。
    子供のころからプログラムになじんでいたり、ここ数年、自分に合わせたVectorworksのツールをつくるためにマリオネットやpythonを勉強していたのも幸運だったと思います。

    grasshopperと本書の間を何度も行き来しながらgrasshopperのコンポーネントを組んでいったのですが、本書がなければおそらくここまではできなかったと思います。
    また、完成されたソフトを使うのではなく、コンポーネントを組んでいく必要があったため、入力するデータとコンポーネントが行う処理をある程度理解する必要があったおかげで本書の理解がかなり進んだと思います。

    最初はできるかどうか自信がなかったのですが、必要に迫られ実際に手を動かしてみると、分からなかったことの意味が一つ一つ理解できるようになり、とにかくやってみることの重要性をこの年になって再確認した次第です。

    設計が変わるのか

    環境シミュレーションを取り入れることによって、果たして設計は変わるのか、という問いに関しては、確実に変わるように思います。
    建築の形態や仕様によって、光や風や熱がどのように変わるのかが視覚化できるようになったことで当然プロセスが変わりますし、曖昧なまま決めていたストレスも解消されます。というか楽しいです。

    数年前にBIMを取り入れてみて、もう以前のような作業には戻れないと感じているのですが、おそらく、環境シミュレーションも同じように取り入れる前には戻れなくなる気がします。

    もしかしたら手法が変わることによって取りこぼすような要素、見えづらくなるような要素もあるかもしれませんが、それはどういう変化に対してもあることで、その要素を意識的に取り上げるような方法を工夫するしていけば良いと思います。

    高断熱・高気密といった具体策だけを盲目的にみてしまうと、かえって環境と断絶させてしまうのでは、という不安を持っていましたが、シミュレーションという手駒を手に入れたことで、著者のいう「自然とつながる建築」に近づけそうな予感がします。

    最近、ようやくぷち二拠点生活を始めることができました。まだ、バタバタとしていて何もできていませんが、生活に変化を与えたことと、新たな手駒を手に入れたことで、新しい景色が見えてくるのではと、ワクワクしています。(ニッポンガンバレ)




    里山なき生態系 B260『さとやま――生物多様性と生態系模様』( 鷲谷 いづみ )B261『里山という物語: 環境人文学の対話』(結城 正美 , 黒田 智他)

    鷲谷 いづみ (著)
    岩波書店 (2011/6/22)

    結城 正美 (編集), 黒田 智 (編集)
    勉誠出版 (2017/6/30)

    今、ぷち2拠点居住を実現すべく、山里の土地を探しているところだけどなかなか進展がない状況。
    そんな中、自分の琴線に触れる場所とそうでもない場所の違いがどこにあるんだろう、というのがいまいち言葉にできなくて、里山という言葉にヒントが無いだろうかと読んでみた。

    生態学的な里山

    最初に読んだのが、鷲谷いづみ著の『さとやま――生物多様性と生態系模様』。
    単純に生態系としての里山とはどういうものだろうという関心から読んでみた。

    本書では里山におけるヒトと自然の関係性の歴史などに触れられるが、より大きな視点として、ヒトの活動も生態系における「撹乱」の一つと見ている。
    河川の氾濫原では、しばしば起こる氾濫が、競争力の大きい種の独占状態を一時的に破壊し、撹乱を好機とする生物種を栄えさせ、かえって生物種の多様性を高める。
    同様に、さとやまと呼ばれるような場所では、ヒトの生活が「撹乱」のひとつとして作用し、生物多様性を支えてきた。

    しかし、「撹乱」が単なる破壊となったり、その作用自体を失うことで、生物多様性が急速に失われつつある。
    本書の後半では、「人間中心世(今で言う人新世)」における問題や、再生への取り組みなどが紹介されている。

    人文学的な里山

    次に読んでみたのが結城 正美 , 黒田 智他編著の『里山という物語: 環境人文学の対話』。
    『都市で進化する生物たち』の訳者あとがきで日本の「(里山)に閉じこもる閉鎖性に危機感を深めて」いるとの記述があり、里山という言葉に対する批判的な視点のものも読んでみたいと手にとってみたものである。

    本書では、生態学的な実態としての里山とは別に、イメージあるいは幻想としての里山がどのように形成され、どのような問題を孕んでいるのかということが語られる。

    里山を「二次的自然」として考える時、人の手が入ることで管理された自然、という意味で捉えることが一般的かと思うが、ハルオ・シラネ氏は、里山を言葉によって文化的に構築されたものだと捉え、そういう視点から里山を「二次的自然」としているそうだ。本書では後者のような視点から里山を考えていく。

    もともと、里山という言葉は生態学などの分野で、純粋にある状態を示すための言葉として稀に使われたもので、特定の価値観や情景を含んだものではなかったようだが、1992年に写真家の今森光彦が雑誌『マザー・ネイチャーズ』に里山にフォーカスしたフォトエッセイの連載を開始する。
    その時に連載開始に合わせて作った定義が「里山とは日本古来の農業環境を中心とする生物と人とが共存する場所を言う」というものだったそうだが、今にしてみると、日本の原風景としての里山はこの時発明されたのかもしれない。
    (その後1993年(1995年?)に「里山物語」として発表されたが、本書のタイトル「里山という物語」はこれを意識したものである。)
    このフォトエッセイの反響はとても大きかったそうだが、その後、里山という語がひとり歩きを始め、幾度かの里山ブームを経て、今ではある程度共通のイメージや価値観、政治的メッセージなどが染み付いた言葉になっている。

    その時、例えば、

    ・里山の英訳がSatoyama landscapeであるように、里山のビジュアル、景観のイメージのみが理想像として独り歩きしていて、そこで暮らす人々の実際の生活の大変さや困難さが置き去りにされていないか。
    ・里山は環境問題に対して、理想形のように語られることがあるが、実際に日本の中でそのような理想的な状態は空間的にも時間的にも稀だったのではないか。むしろ、その時その時生きていくための行為に過ぎず、人の同様の営みが、歴史的には破壊的な開発行為としてあらわれたことの方が多かったのではないか。
    ・日本人の原風景・ふるさと的なイメージも教育現場における唱歌などを通じてつくられたものではないか。

    などと言った問題が提起されるが、実態と幻想が区別されないまま使われることによって、目の前の現実を現実のまま捉える目を曇らせることが一番の問題であろう。

    里山なき生態系

    ここで頭をよぎったのはやはりモートンである。

    「自然なきエコロジー」は、「自然的なるもの概念なきエコロジー」を意味している。思考はそれがイデオロギー的になるとき概念へと固着することになるが、それにより、思考にとって「自然な」ことをすること、つまりは形をなしてしまったものであるならなんであれ解体するということがおろそかになる。固定化されることがなく、対象を特定のやり方で概念化して終えてしまうのではない、エコロジカルな思考は、したがって「自然なき」ものである。(p.47)(オノケン│太田則宏建築事務所 » 距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン))

    里山という言葉に絡みついている様々なイメージは、目の前の現実との間に距離を生み出し、固定化してしまう。

    そうであるなら、里山という概念を手放し、目の前の現実を受け止め、赦し、溝を認めた上で向き合ってみることが必要かもしれない。
    そうやって初めて、今現在、目の前の環境における望ましい生態系のあり方が見えてくるかもしれないし、そこに新たな里山が発見される可能性も生まれるように思う。

    さて、「自分の琴線に触れる場所とそうでもない場所の違いがどこにあるんだろう」というはじめの問いに対しては何か言えるだろうか。
    周囲の環境も含め多様な生態系に触れられる場所というのは一つあるかもしれない。(そういう意味では多様な林地、草地、湿地の環境が複雑に入り交じってモザイク状になっている里山というのは当てはまりそうだけれども、広々とした現代的な水田が拡がっているだけの場所は違うかもしれない。)
    また、そういう多様性も含めた生態系サービスの享受できる環境、というのもあるかもしれないが、享受するというよりは、そこに自分がどのように関与可能か、という可能性の幅に魅力を感じている。
    しかし、その可能性は、その場所その場所に向き合い、想像力を働かせることによってしか判断できないのだろう。

    都市部の与えられた土地に建築を計画するのとは異なる難しさ、面白さがあるな。




    距離においてとどまりリズムを立ち上げる B255『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(ティモシー・モートン)

    ティモシー・モートン (著), 篠原 雅武 (翻訳)
    ‎ 以文社 (2018/11/20)

    エコロジーという言葉の使われ方に漠然とした違和感を感じる機会が増えてきている気がする。
    そんななか、エコロジーという言葉に対していかなる思想を持つことが可能か。
    もはや避けがたいこの疑問に対し、これはモートンを一度は読んでみないといけない、と手にとってみた。

    何度も読んでみたけれども、実際のところ、どれだけ理解できたかは自信がない。
    自信はないのだが、現時点で感じたことを残すために、キーワードをもとに書いておきたい。
    (内容の解釈に対しては、ある程度断定的に書くけれども、おそらく誤解が含まれていると思う。その際はご指摘いただけるとありがたい。)

    美的なものと距離の問題

    美的なものは距離の産物でもある(p.48)

    本書で頻出する「美的なもの」とは何か。それを正確に掴むためにはアドルノを読む必要がありそうだけども、とりあえずは「美的なものとは距離の問題である」ということが重要なポイントのようだ。
    いや、むしろ本書は一貫して距離の問題を取り扱っていると言ってもよい。

    例えば「これは美的である」と言った時、その対象と主体とのあいだに一定の距離が出現する。自分は「ここ」にいて、美的であるものを自分とは少し離れた「あそこ」に置くことで対象化する。
    その際、この距離が固定されてしまうこと、ものや概念や思想が、ある位置で凝り固まってしまって身動きができない状態にあることによって、多くのものを覆い隠してしまうことが問題となる。
    この距離というものは曲者で、距離を取り払ったかと思うと、まさにその事によって新たに距離が再出現してしまう。
    それに対して何ができるか。本書ではその距離との格闘が描かれる。

    著者は、仮想現実と同様にエコロジカルな緊急事態は、これまでこの立場を保持したことがない、という。そこでは距離はまるであてにはならないが、安全網としての距離が仮定され、そのことが美的なものを、固着したイデオロギーを産出する。
    このような事態のなか、どのようにその距離と付き合うことができるか、が課題となる。

    自然なきエコロジー

    「自然なきエコロジー」は、「自然的なるもの概念なきエコロジー」を意味している。思考はそれがイデオロギー的になるとき概念へと固着することになるが、それにより、思考にとって「自然な」ことをすること、つまりは形をなしてしまったものであるならなんであれ解体するということがおろそかになる。固定化されることがなく、対象を特定のやり方で概念化して終えてしまうのではない、エコロジカルな思考は、したがって「自然なき」ものである。(p.47)

    著者は自然の観念に対し、「文化や哲学や政治や芸術が厳密にエコロジカルな形態にふさわしくなるのを妨げ」、「地球との適切な関係」だけでなく「諸々の生命形態との適切な関係」をも妨げるという。
    そして「いかにして自然が超越論的な原則となってしまったか」を示し、自然の概念を「本当にやめてしまえ」という。

    「自然」という概念は、距離を設定し、美的なものとなり、特定のイデオロギーを固着しようとする「中心点」である。この固定化してしまう性質、概念化して「終えてしまう」ことが本当にエコロジカルとなることを阻害する。この固着を作動しないようにするのが、本書の目論見である。

    本書ではその固定化する性質を「美しき魂症候群」と呼んでいるが、著者が本書でもっとも重要な観念の一つという「美しき魂」に関しては、ヘーゲルの議論を引く必要がありそうなので、それについては後述したい。

    消費主義

    オーガニックな食材を買うことが本当に惑星を救うのか。ロマン主義の消費主義は、選択についての考え方を、広げると同時に狭めた。私たちには『選択肢」があるという気分は、ユートピア的な欲望を高めていくが、可能性だけではなく社会的な隘路の徴候でもある。(p.226)

    消費主義についてはあまり理解できているとは言えないが、例えば、SDGsという言葉が安易に消費されていく現状が頭に浮かぶ。

    消費そのものではなく消費主義。人は、(実際に消費をせずとも拒否という形で)特定の種類の消費者として現れ、消費主義者となる。
    消費主義者は再帰的に消費することを消費する。自然という概念を消費する。
    ロマン主義時代以来の資本主義が、逆説的に自由に選択された自己愛を売りつける。
    そこでは、距離が、美的なものが産出される。

    そして、ロマン主義の消費主義が生産した主観的状態は、美しき魂となる。

    良心、美しき魂、悪とその赦免

    「美しき魂」とは、自分の良心の正しさを確信し、他をみることをしない状態のことで、極度に固定化されたものと言って良いかもしれない。
    (主には、ディープエコロジーなどの環境主義に対して使っていると思われる。)
    この「美しき魂」はヘーゲルの『精神現象学』から引いているけれども、私はよく分かっていなかったので、大学の講義録(音声付き)を見つけ、それを何度か視聴した。
    高村是懿哲学講座 ヘーゲル「精神現象学」に学ぶ/12講

    ヘーゲルはカントの道徳論に含まれる多くの矛盾を乗り越えるために、一旦自己に帰り、自己の信念・良心をベースとした道徳を考える。それは、自己の内に確信を持ち、外部を消し去った純粋な姿の「美しい魂」であるが、主観と客観の相互作用である「意識」からすると最も貧しい形態であるとされる。
    そこに欠けているのは外化の力であるが、それは純粋な姿が崩れるのをおそれて現実との触れ合いから逃れ内面にとどまる、行動する力を持たない良心である。
    しかし、良心は行動してこそであるから、行動を起こそうとする、
    その際、一般的意識として考えられる善に対して、自己の良心は特殊な個別的意識としての悪であることを突き付けられる。
    そこで、自己が悪であること、さらには相手(現実では一般的意識も多数の個別的意識として現れる)が悪であることを認め、赦すことができた時、初めて相互承認が生まれ自己を一般者とすることができる。
    そして、それによって自己疎外的精神から回復することができる。

    というのがその概要である。

    以上を前提として、それに対して著者はどのような態度が可能だと考えているかをみてみたい。

    美しき魂は、その「美しき自然」についての説話とともに、集団に向けて説教する。(中略)だがそれをどうやって乗り越えるのか。私たちは慎重に、非暴力的に動かねばならない。この章の最初のあたりの節は、自然についての数多くの考えが、機械と資本主義の時代につくりだされた無力なイデオロギー的な構築物であると結論した。それから私たちは、エコロジカルな主体の位置はいかにして消費主義と同一になるかを見てきた。そして、それから、この外皮を引き裂こうとするいかなる試みも現存の条件を再生産することにしかならないことを見てきた。「鏡の国のアリス」でのように、とりわけ脱出しようとするとき私たちは途方にくれている。途方にくれた状態で、より賢くなることができるのかどうか考えてみよう。(p.268)

    美しき魂の説教を、距離の問題を、非暴力的なかたちでどのように乗り越えることができるだろうか。

    美しき魂をはげしく非難したところで、うまくはいかない。じつのところ、美しき魂は、同じコインの両面でしかない選択肢のところで頑張っている。「そこでただ座るだけでなく、なんかしよう」という呼びかけは、「ただ何かするだけでなく、そこに座ろう」という呼び掛けをひっくり返したものでしかない。美しき魂を虜にしているまさにそのこの(暴力、非暴力、行動、瞑想)についてさらに徹底的に探究することの準備はできている。(p.266)

    アンビエンスとリズム

    アンビエンスは、周囲のもの、とりまくもの、世界の感覚を意味している。それは、なんとなく触れることのできないものでありながら、あたかも空間そのものに物質的な側面があるかのごとく-こう考えるのは、アインシュタインのあとには奇妙なものと思われるはずがない-、物質的であり物理的でもある。(p.66)

    著者は、世界の感触のようなものをアンビエンス、とりまくものと呼び、自然もとりまくものの一つとして捉えようとする。
    「アンビエンスの言葉を選ぶのは、一つには、環境の観念をよくわからないものにするためである(p.67)」というように、この言葉によって、環境や自然が美的なものとなることを回避しようと試みる。

    第2章では、ロマン主義が環境を扱うものとして、世界、国家、システム、場、身体、有機体と全体論といった観念を分析するが、これらは美的なものの観念に巻き込まれてるため、「いずれもが、十分ではない」と結論する。

    訳者は別の書で、

    モートンの思想の基本には、人間が生きているこの場には「リズムにもとづくものとしての雰囲気(atmosphere as a function of rhythm)がある。(中略)そして、彼が環境危機という時、それは人間とこの雰囲気との関係にかかわるものとしての危機である。人間は、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きているのであって、このリズム感にこそ、人間性の条件が、つまりは喜びや愛の条件があるというのが、モートンの基本主張である。(『複数製のエコロジー』p.44)

    というが、美的なものとなることを注意深く回避しながら、このリズムを感じ取れる感性を開いておくための観念がアンビエンス、とりまくものなのかもしれない。

    アンビエント詩学 距離を揺さぶる振動と減速

    これが、私たちが雰囲気もしくは環境としての媒質-背景もしくは「場」-と物質的な事物としての媒質-前景にあるなにものか-とのあいだに私たちが設ける通常の区別を掘り崩す。一般的にいうと、アンビエント詩学は、背景と全景のあいだの通常の区別を掘り崩す。(p.75)

    アンビエント詩学は、内と外の差異を実際のところ解体しない。たとえ全力でそうしているという幻想を生じさせようとしたところで、そうなのである。再-刻印は、その区別を完全になくすか、もしくはその区別をつくりだす。(p.100)

    第1章では、エコロジカルな詩などを分析するための理論としてアンビエント詩学の概要が示される。それは、とりまくものと距離を扱うものである。
    その主要な要素として演出、中間、音質、風音、トーン、再-刻印が取り上げられる。詳細は本書に譲るとして、それらについての簡単なメモを書いておく。

    ・演出・・・【結果】感触を伝える直接性。美学的な警戒心を一時的休止するように促し、その距離を砕く。
    ・中間的なもの・・・【効果】交話的。知覚され、コミュニケーションが起こる次元。美的な目的である知覚の過程を長引かせる。
    ・音質・・・【効果】記号ではなく物として発せられている音。極めて中間的・環境的で、媒質を前景化する。
    ・風音・・・【効果】はっきりとした源がなく、主体無しで続く過程の感覚を定着させる。共感覚的。気散じへと導く。不安を喚起。
    ・トーン・・・【装飾】緊張と緩和、振動の質感。「雰囲気」を物のようなものとして説明する。量・振れ幅、崇高と静止。
    ・再-刻印・・・【装置】背景と前景、空間と場所を分離する裂け目を産出する。量子力学的な一回限りの賭け。

    アンビエント詩学は主に、美的なものの距離を砕こうとするが、同時に再-刻印によってそれを生み出しもする。
    背景と前景とのあいだの関係を揺さぶり続けるもの、固着を逃れ続ける振動・リズムのようなものかもしれない。

    私たちは演出の観念に戻ってきたが、それがなにかをいっそう理解している。演出は美的な次元を解体するように思われるが、なぜならそれは再-刻印とのかならずや有限である戯れに基づくからだ。(p.99)

    アンビエントの修辞が素晴らしいのは、連れ去る一瞬のあいだ、何かがあいだにあるかのように見せるからである。(p.97)

    おそらく、美的なものを完全に砕くことはできない。距離を消し去ることができないときに取れる戦略の一つが振動であり、もう一つが減速である。

    事物の一覧をひとくくりにしてそれを「自然」と呼称するのではなく、減速しそして一覧をバラバラにして、一覧を作成するという考え方そのものを疑問に付すのが目標である。『自然なきエコロジー』は、本当に理論的な反省が可能になるのは思考が遅くなる時だけであるという考えを真面目に受け取る。(p.24)

    それゆえに、アンビエント詩学にある、不気味で前未来的で事後的な-さらに憂鬱な-質感は、皮肉にも的確である。それは、事物が生起するやり方にある、必然的な遅延を迫っていく。(p.150)

    振動し続けること、もしくは遅くなること。この、固着を逃れようとする姿勢は、(私の理解力の問題でなければ)本書全体にも通底する。
    アンビエンス、アンビエント詩学、エコミメーシス、エコクリティシズム、ロマン主義、アイロニー…さまざまな言葉がなんども現れるが、結局のところ、著者がこれらを肯定しているのか否定しているのか、はっきりしたことがなかなか見えてこない。
    一気に距離を詰めることを避け、ゆっくりと観察・分析し、考えるのみである。
    このことが本書を掴みづらいものにしているが、同時にその姿勢を示してもいる。

    ダークエコロジー 赦し 溝を認める

    美しき魂症候群を抜け出ることについては、思考の豊かな水脈がある。「赦し」が手がかりになる。(中略)それは、観念と記号のあいだの溝を、さらには異なる自己のあいだの溝を認めることにかかわるし、美しき魂と「美しき自然」の溝を認めることにかかわる。エコロジーは二元論から一元論へと行きたいのだが、早まらなくていい。何らかの虚偽の一なるものを探し求めるよりはむしろ、溝を認めるほうが、逆説的にも諸々のものにいっそう忠実になることができるようになる。私たちは後者を、ダークエコロジーの名目のもとで探究することになるだろう。
    ありのままの実践かもしくは純粋な観念の観点で考えることは、美しき魂の牢獄の中に留まることである。(p.274)

    第3章では、ヘーゲルにならい、「ダークエコロジー」の名のもと赦しにおいて美しき魂を抜け出そうとしていく。

    アンビエンス、とりまくものには開放的な潜在力があるが、一方で内部と外部というような区分に関する思考に取り込まれやすくもある。もし、「アンビエンスが定まった場所になり、美的な次元の改良版になるのだとしたら、それは開放の潜在能力を捨て去ってしまう(p.275)」ことになる。
    このアンビエンスの問題を解決する方法にはどのようなものがあるか。
    それについても簡単にまとめておきたい。

    並列 内容と枠

    再-刻印は量子的な出来事である。背景と前景のあいだにはなにもない。そして枠と内容のあいだにもなにもない。徹底的な並置が枠と内容にかかわるのは、二元論(それらの絶対的な差異)と一元論(それらの絶対的な同一性)の両方に挑むようにしてである。(p.280)

    内容と枠とを、書くこととイデオロギーの格子とを、全景的な展望と特定化された展望とを並置する。それらの溝は保たれたままだが、問いに付されることで、「全体論的でないエコロジカルな旅へと連れて行く」。

    内容を枠の内に入れずに並置することで、美的な次元を開いたままにしておく。特殊と一般との並置は、特殊な個別的意識としての悪を赦すことで一般者となり疎外から回復する、とするヘーゲルの議論にも似ている。
    特殊と一般を差異と同一性の宙吊りな状態を保つことで、固着化を免れる。

    また、並置は、複雑なリズムを立ち上げ、振動としての雰囲気を導き出す。このリズムによって人間性の条件を保つ。

    キッチュ(低俗なもの) とぬるぬるしたもの

    馬鹿げたものは古臭い美的商品を「アイロニカル」に(距離をおいて)領有したものを意味するのに対し、低俗的なものは「高尚な」意味では普通に美的と考えられていない対象を心の底から楽しむことを意味している。(p.293)

    美的なものは、低俗なものをただ否認し、事物を距離を隔てたところに置いておくにすぎない。逆に言えば、低俗なものは美的なものに絡め取られ難い、エコロジカルなものと言えるかもしれない。
    著者は「低俗なものを徹底的に掘り下げさらにはそこに同一化するという、逆説的な方法」を試してみるべきという。

    船乗りは「生きているものはなんであろうと一緒に生きているものとして関わることを受け入れる」。「なんであろうと」というのが重要である。自然なきエコロジーはこの「なんであろうと」にある開放性を必要とするが、それはおそらくは、カリフォルニアの高校生にある、気を散らしているがアイロニカルな気安さにおいて明瞭になっている。(p.306)

    エコロジカルな芸術は、ぬるぬるしたものを、視野の内にとどめておくことを義務としている。このことは、自然のかわいらしい像、もしくは崇高な像を描きだそうとするのではなく、むしろ、エコミメーシスの裏面を、つまりはアンビエント詩学の振動的で推移する特質を呼び覚ますことを意味している。徹底的に低俗的なものは、二元論をなくしてしまうのではなく、「私」と「ぬるぬるしたもの」のあいだの差異を活用する。(中略)ニュー・エイジやディープエコロジーの考えでは自然は不可思議な調和であるのに対し、低俗なもののエコロジーは実存にかかわる生活の実質を確立している。(p.309)

    このあたりをどう解釈してよいかあまり分かっていないが、ここでも、キッチュであり、ぬるぬるとしたもの(おぞましいもの)を受け入れることが、リズムの雰囲気を立ち上げ、人間性を保持することの条件となるのではないだろうか。

    ダークエコロジーはもしそれが実践されていたとしたら、レプリカントを潜在的に完全な主体としてではなくレプリカントとして愛するよう私たちに命ずることになっただろう。私たちのうちにおいてもっとも客体化されているものとしての「無数のどろどろした事物」の価値を正しく認める、ということである。これが本当にエコロジカルな倫理的行為である。(p.378)

    ダークエコロジーは、他者を自己へと転じることによってではなく、倒錯的にも、事物がそれがあるがままに放置することで、美しき魂のジレンマを乗り越える。そのものであるために、赦しにおいては、カエルにキスするやいなやそれが王子に転じることなどとは期待されない。かくして赦すことは、根本的にエコロジカルな好意である。それは、エコロジカルなものにかんして確立された概念の全てを超えたところでエコロジーを再定義する行為であり、他者と徹底的に一緒にいようとする行為である。(p.378)

    「フランケンシュタイン」の怪物を愛することもまた、「エコロジカルなものについての私たちの視野を、たえまなくそして容赦なく再設定(p.377)」させられることを受け入れ、リズムを立ち上げるために保持すべきものである。
    ここでいう赦しとは、その存在を許すことではなく、そのものであることを受け入れ、固着的な美的な判断を棄て去ることである。

    気散じ アウラの開放と振動

    気散じは、対象との距離を解除し、かくしてそれの美学化を解除する。つまり、美学化と自然支配の双方が立脚する、主体と客体の二元論を崩壊させる。(p.315)

    したがって、アウラを解消することは、エコミメーシスが生じさせてくる雰囲気を徹底的に問うことである。(p.324)

    著者は美学と雰囲気に関連するものとして、ベンヤミンからアウラと気散じの2つの概念を取り出す。

    アウラはそれが浸る崇高と価値の雰囲気であり、遠さが一回的に現れているものである。アウラを解消することはそのものから美的な距離を取り除くことになるが、著者は、アウラをあまりにも早急に取り除くのではなく、ゆくっり近づくことを考える。
    ゆっくりと近づくことができれば、そこに枠と内容の並置によるリズムと雰囲気が残る。また、それによって「私」としての主体性が揺さぶられ、「一度揺さぶられた「私」がみずからの限界と有限性を把握し、他なるもののを思考することの決定的な可能性(p.326)」を開くという。またそこでは同時に「私」の脆さが現れる。

    気散じは無造作な身体的没入の共感覚的な混合であるが、美学的な距離を崩壊させることで、美しき魂を開放する。
    「気散じは、現代の資本主義的な生産と技術の様式であるが」、自然を「あちら側」ではなく「まさにここ」に没入的に感覚させる点において、著者は可能性をみる。そこにはロマン主義的な視点にとらわれずに現在の姿を受け入れようとする著者の姿勢が透けて見える気がする。

    とどまることの環境哲学

    私は徹底的に環境に優しくなろうとする考えに反対して書いてきたのではない。皮肉にも、徹底的に環境にやさしい思想について徹底的に考えることは、自然の概念を手放すことである。すなわち、私たちと彼ら、私たちとそれ、私たちと「彼方にあるもの」のあいだの美的な距離を維持するものとしての自然の観念を手放すことである。(中略)私たちは距離そのものの観念を問題にしなくてはならない。もしも、人間ならざるものと一緒になろうとあせるあまり距離を早急に棄て去ろうとするならば、距離についての私たちの偏見、観念に、つまりは「彼ら」についての観念にとらわれて終わることになるだろう。おそらくは、距離においてとどまるのは、人間ならざるものへとかかわるもっともたしかなやり方である。
    虹の切れる端に二元論的でない宝物を設定するのではなく、二元論的であると感じられるものにおいてとどまることができる。ここに留まるのは、いっそう二元論的でない方法である。(中略)到来することになる、絶対的に未知のことへと心をひらいておくこと、これが究極の合理性である。(p.396)

    前に書いたように、本書は一貫して距離の問題を扱っているが、そこでみえてくるのはとどまることの大切さである。
    自然という土台がない、という土台からはじめる必要がある。それは、とどまりながら、人間が身をおくところにおいて生じている独特のリズムとともに生きていることを敏感に感じ取り、反応していくということなのだろう。

    おわりに

    著者の思想には、環境との関わり方という点でアフォーダンスとの共通点や、道元の「山是山(山は山ではない、山である)といった言葉に通じるものを感じた。

    リズム、アンビエント詩学、並列、キッチュ、気散じといったものは、建築-距離という問題に取り組む建築-の指針とすることも可能だろう。
    それによって可能となる建築があるはずであるが、以前感じた

    とすると、門脇邸の試みはモートンの思想に通ずるような気がするけれどもどうなんだろう。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武))

    という感覚はおそらくそれほど外れていない気がする。

    また、最近、生活の何かを変えないといけないと感じていて、プチ・二拠点居住をすべく山間の土地を探している。
    それは、「自然」というものを賛美するため、というよりは、自然をよりフラットな状態で感じるためであり、もしかしたら、そのために二拠点であることが重要になってくるかもしれない。
    そこから何が見えてくるかは今は分からないけれども、越境者であることに近づくことで見えてくるものがあるのではないだろうか。

    その先に「エコロジーという言葉に対していかなる思想を持つことが可能か」という最初の問いへの答えがあるような気がしている。




    あらゆるものが、ただそこにあってよい B212『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(篠原 雅武)

    篠原 雅武 (著)
    以文社 (2016/12/12)

    『公共空間の政治理論』を読んでから気になっている著者が気になっているというティモシー・モートンの思想を紹介するような内容。たぶん、自分も何かしら感じるものがあるだろうと思い読んでみた。

    あらゆるものが、ただそこにあってよい

    増田信吾は、私とのやり取りの中で、「空間自体の直接的創造ではなく、近代で無視されてきた、排除された雑味たちによって、空間の質や意味が激変する可能性がある」と述べてくれた。つまり、精神性の具現化としての空間への信念は、増田にはないと思われる。「空間」への信念を基礎とするモダニズムのもとでは無視されてきた「塀」や「窓」のような客体のほうが放つ、私達が生きているところへの目に見えない力を発見し、それを極力解放することのほうに、新しい建築の可能性があると増田は考えていると私は思う。(p.212)

    この本を読みながら、最近SNSでよく見かける門脇邸のことが絶えず頭に浮かんでいた
    と言っても、門脇邸を実際に体験したわけでもなく、SNS等でいくつかの感想や写真を目にした程度である。
    どうやら、様々なエレメントがそれぞれがそれぞれとして振る舞い、そこにいても良いと感じさせる何かを生じさせている。らしい。

    モートンの思想が理解できたわけではないが、彼の言うエコロジーは自然礼賛的な環境保護思想とは全く異なるもののようだ。
    モートンはモダニティ、自然や世界、環境と言った概念のフレームや構造的な思考自体が失効し、その次のエコロジカルな時代が始まっていると言う。
    エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。

    それは、近代の概念的なフレームによって見えなくなっていたものを新たに感じ取り、あらゆるものの存在をフラットに受け止め直すような姿勢である。と同時に、それはあらゆるもの存在が認められたような空間でもある

    あらゆるものが概念とは関係なくただただ、そこにある。そこにあってよい。

    著者はそういう姿勢や空間に自分の居場所の感覚を重ね合わせているように感じたけれども、そこで生じた見逃しそうな小さな感覚を、しつこく、丁寧に言葉にしていこうという姿勢にはとても共感する。

    また、建築という概念がフレームになるとすればそれ自体がブラインドになってしまうのだろう。そうならずに建築を追い求めるというのはどうすれば可能になるのだろう
    この問いは、エコロジーという概念とモートンが目指すエコロジーとの関係にも重なる気がする。

    とすると、門脇邸の試みはモートンの思想に通ずるような気がするけれどもどうなんだろう。




    新しいバカを携えて環境に飛び込もう B211『勉強の哲学 来たるべきバカのために』(千葉 雅也)

    千葉 雅也 (著)
    文藝春秋 (2017/4/11)

    この本は前から気になってはいたのだけど、結構売れてる感じだったので少し距離をとったまま読まずにいました。
    この本の流れで言えば、一般層に売れてるということは新しい言語との出会いは少ない(言語の不透明性が低い)だろうというカンが働いたのだと思います。(そして、それは想定の範囲内で当たっていたと思います。)

    ですが、あるきっかけがあって買ってみました。

    (以後、ごくごく個人的な内容になりそうです。)

    なぜこの本を手にとったか ノることと勉強することについて

    先日、中学時代の同級生の忘年会があり、そこに当時の先生も参加されてたのですが、先生に「太田はこういうノリの場所はあんまり好きそうじゃないのに毎回顔をだすのが偉いな」というようなことを言われました。
    自分としては楽しくて参加してるので少し意外でしたが、確かにノリを求められるような空気は苦手です。
    (ノリが良くて、かつそれを眺めながら自分のテンションで参加を許されるような場所はむしろ好きです。)

    自分がノリの悪い人間だとは思わないけれども、周りのノリに合わせるは苦手なのは確かです。

    そんな中、世の中の流れ、というか表れとして、ノリと勢いでいろいろなことを進めたほうがうまくいくんじゃないか、と感じる場面が増えてきました。
    一方、ノリに合わせるのが苦手ということや、個人事務所としての限られたリソースの配分問題もあって、自由に使える時間を読書等に当てることが多いのですが、その時、新しい何かを掴みたい、という欲求と、こんなことをしていて良いのか。机上論ばかりになるのでは、という後ろめたさとの2つの感情がぶつかりあうことが多いです。

    プロフェッショナルとしてもっと勉強してもっと自分を深めていきたい、という感情と、正論とノリと勢いを見方にした方が経験含めてもっと遠くに行けるんじゃないかというような感情(「早く行きたいなら、一人で行きなさい。遠くへ行きたいなら、みんなで行きなさい」みたいなのがありますよね。)がぶつかり合う感じで、自分の中の優先順位や姿勢の問題としてうまく整理できないでいたのです。

    ノることと勉強すること。あまり横並びになることはなさそうな言葉だと思うのですが、そこへたまたま紹介されたこの本がまさにノリと勉強との関係を説いているのを知って読んでみた次第

    新しい言語環境へ飛び込む

    この本で書かれている、異なる言語の新しい環境に引っ越すような感覚は経験としてもよく分かります。

    建築を学び始めた頃はまったく言葉が入ってこなかったけれども、分からないなりに100冊位読んだ頃から徐々に読めると同時に考えられるようになったし、若い頃に出会ったアフォーダンスとオートポイエーシスの概念からは20年位付き合った結果新しい世界の見方、新しい言語環境にノれる様になってきました。
    振り返ると新しい言語環境へ飛び込むことで得られたものはかけがえのないものだったと思います。

    今は、街や都市、公共空間や大衆や空気といった社会的な目線での新しい環境・言語にノれるようになりたいと思っているのですが、その根本を眺めてみると建築やアフォーダンスなどの言葉を求めたのと同じ様な問題意識もしくは享楽的こだわりがある気がします。

    ノることと勉強することの問題にどう折り合いをつけるか

    本書を読むに当たっての問題意識は「ノることと勉強することに対して、優先順位や姿勢を自分の中で整理したい」というものでした。

    それに対してどう答えることが可能か、考えてみたい。

    まずは勉強に対して、勉強を続けるべきか否か。
    結論としては続けるべき。仮固定として中断は良いが決断的にやめてしまうのは根拠をなくし他者へ絶対服従することにつながります。それは避けたい。
    また、勉強するにあたって信頼すべき他者は勉強を続けている他者、すなわち仮固定を更新し続けている他者ですが、自分はできるなら信頼すべき存在でありたい。
    さらに固定してしまわずに自分を変化させ続けること、動き続けられる状態を維持することが今の社会を生きていく上で必要なことだと思いますし、変化を拒むことはやがて社会的な分断へともつながります。いつでも動けるような状態は維持しておきたい。
    そのために勉強し続けるという姿勢が必要なのです。

    SNS等によってやんわりと可視化される境界と分離の構造。 それに対して個人としてはどういうスタンスをとるべきか。(オノケン » B207 『公共空間の政治理論』)より関連のありそうな部分

    実践を通じて、分離の構造の裂け目を動かしはじめている方、さらに、そこで新しく生まれた空間が結局分離の構造へと回収される、ということを避けるための振る舞いを編み出し始めている方、の顔も何人か頭に浮かびます。

    ぽこぽこシステムじゃないけど、動いているということ、はたらきそのものが重要なのは間違いなさそうな気がします。

    個人的には脆弱性をどう生きるか、というのが今の課題のように思いました。
    歳を重ねるにつけて、脆弱であることよりも安全である方を選ぶ傾向が強くなってきているように感じるのですが、それは、自分の生と未来を少しづつ手放してしまっているのかもしれません。

    それではノることはどうか。必要があるのか、どうやったらノれるのか。
    この本の来たるべきバカとは、別の仕方でバカになり直すものであり、環境に対してメタになりつつ環境の中で特異的な存在として行為するものです。
    勉強によって異なる環境・言語・コードと結びついたバカ(享楽的こだわり)でもって環境の中へ戻る。
    ここでは、「ふたたび環境の中へ、行為の方へ向かう―それが筋トレの比喩で言えば、勉強におけるキモさの「減量期」なのです。」とだけ書いてあり、再び環境の中へ帰れとは書いていない。
    しかし、そもそも勉強は環境のノリから自由になるためのものであったし、最初に書いたような個人的葛藤はバカと来たるべきバカの間の増量期であるから必然的に陥っているものである。であるなら、キモさの減量期に入ってもよいのではないだろうか。
    来たるべきバカは、環境のノリから自由になり、代わりに自己目的的な享楽的こだわり=新しいバカ=第2のノリを携えて環境の中へ帰るのだ。

    自分の勉強してきたこと、勉強していることの根底には共通して、享楽的こだわりがあることも分かってきた。結局はこだわりなのだ。

    ノリを求められるような空気は苦手。
     ↓
    勉強したい欲求が強い。
     ↓
    勉強によって享楽的こだわり=新しいバカ=第2のノリを洗練させる。
     ↓
    環境からのノリから自由になって、第2のノリを携えて環境の中へ、行為の方へ向かう。
     ↓
    最初は減量期でギクシャクもするだろうけど、減量に成功すれば新たなノリで馴染めるようになり楽しいはず。

    これで何とか筋が通った気がする。
    要するに自分はキモい時期(増量期)で、どうやら減量期に入らないといけないようだ。

    同級生の飲み会が楽しいのは、小さい頃からの付き合いで享楽的こだわりのノリが認められている(もしくは歓迎されている)からなんだな。
    大人になってからの付き合いを深くするにはおそらく減量期を意識的に組み込まないと難しいんだろう。
    (twitter同窓生もキャラ(享楽的こだわり)から付き合いが始まってるから昔からの友達みたいな懐かしさがあるんだな。)

    自分の享楽的こだわりについて、もう少し突っ込んで分析してみよう。(この本にもそのための方法が紹介されている)

    また、著者のより専門的な本も読んでみたくなりました。




    探索の精度を上げるための型/新しい仕方で環境と関わりあう技術 B209『日本語の文体・レトリック辞典』(中村 明)

    中村 明 (著)
    東京堂出版 (2007/9/1)

    10+1ウェブサイトの寄稿文、
    10+1 web site|建築の修辞学──装飾としてのレトリック|テンプラスワン・ウェブサイト
    を読んで気になったので勢いで購入。

    onokennote: 文体・レトリック辞典、勢いでポチっちゃったよね。工学部だった、というのもあるけれども、意匠に関わるこの手の話が大学教育で全く触れられなかったのは今でも不思議。当時は雲をつかむ様だった(今は違うのかもしれないし、大学生なら自分で学べ、ということだったようにも思う。) [2018/04/10]


    onokennote: 実感としては妹島さんくらいからレトリックによる微細な違いを競うことが主流になってる気がする。当たり前に、それこそが建築であるための入口、みたいな気になっているけれども、それが思考を限定していないか、という気もする。 [2018/04/10]


    onokennote: 一定の振れ幅の中に納まる予定調和的なものが建物で、それからはみ出して、何らかの意味・とっかかりを生み出し、人に働きかけるものが建築だとしたら、レトリックの違いに建築としての魅力を感じるのも当然なのかも知れない。(思考の順序が逆かもだけど) [2018/04/10]


    そして辞典が届く。

    onokennote: 辞典届いた。ほんとに辞典だった。体系に添って並んでいた方が分かりやすかった気がするけれども、このボリュームを順に読み通すのは先が長いので、50音順の方がランダムに気ままに読むくらいで良いのかも知れない。 [2018/04/16]


    味わいの型・探索の型としてのレトリック

    その際、建築家が設計において意識していた思想や手法、発言などは、ここで一度括弧に入れる必要がある。私たちが目を向けるべきなのは、建築の物としての側面である。なにより、レトリックはつねに事後的に発見されるからだ。(10+1 web site|建築の修辞学──装飾としてのレトリック|テンプラスワン・ウェブサイト)

     

    onokennote: レトリックが技法や技術でありながら「つねに事後的に発見される」というところはまだ理解できていないんだけど、仮に創作の技術ではなく、読解の技術として捉えた時に、それを創作にどう活かしうるだろうか、という問いが生まれる。 [2018/04/16]


    onokennote: 設計が探索的行為と遂行的行為(例えば与条件・図面・模型を観察することで発見する行為と、それを新たな与条件・図面・模型へと調整する行為)のサイクルだとすると、前者の精度を上げることにつながるように思う。 [2018/04/16]


    onokennote:
    最初からゴールが決まっていないものを、このサイクルによって密度をあげようとした場合、創作術と言うよりは読解術(探索し発見する技術)の方が重要になってくるのではないだろうか。 [2018/04/16]


    onokennote: ある方向で設計が上手い人って、やっぱり目の前のものから何かを発見する力に優れているんだと思う。一人事務所だと、目の前のもの(例えば図面)の多くが自分が関わったものだったりするから、新たに発見して設計サイクルを回すのが難しい。 [2018/04/16]


    onokennote: だから、技術・手法にすがりたくなっちゃうのかなー。僕は今の三倍くらいは同じ密度でサイクル回せないといけないんじゃないか、という気がしてる。(ということはワンサイクルあたりのスピードを上げないといけないし、密度を落とさないための発見する技術がいる。) [2018/04/16]


    レトリックを創作のための直接的な技術ではなく、探索の精度を上げるための型、だとした場合、サイクル型(超線形?)の設計態度において効力が発揮されるように思う。
    では、直接的な創作の技術としてはどうだろうか。

    おいしい技術

    レトリックを「新しい仕方で環境と関わりあう技術」とした場合、例えば次のようなことが考えられそうである。
    オノケン【太田則宏建築事務所】 » Deliciousness / Encounters

    ここでいう技術とは、環境から新しく意味や価値を発見したり、変換したりする技術、言い換えると、新しい仕方で環境と関わりあう技術である。(それが集団的・歴史的に蓄積されて共有される技術となる。)
    人間は環境との関わりの中から技術を獲得していく点で他の動物に比べて突出している。技術そのものが意味と価値の獲得であるから、おいしい技術というよりは技術はおいしい、と言ったほうが良いかもしれない。
    (中略)
    では、建築においておいしい技術の知覚はどのように考えられるだろうか。いくつか列挙したい。
    一つは意味や価値の重ねあわせである。例えば、一つのもの、要素にいくつもの意味や価値が重なりあって内在しているデザインに何とも言えない魅力を感じることがある。いくつもの可能性、環境との関わり方が埋め込まれており、自由さや不意に意味を発見する悦びとつながっている。
    あるいは保留。意味や価値がそのまま発見されるような環境を計画するのではなく、意味や価値を内包する環境が生まれる状況そのものをセッティングするという態度に留める。建築は全てを計画し切ることは難しいし、生活の中で不意に訪れる意味や価値の発見は、ある状況から無計画に発生した環境にあることが多い。
    例えば、ある状況のもと何らかの知覚と行為のサイクルが生まれ、その結果として、環境がさまざまな意味や価値を内包するに至ったとする。その環境に直面した時、何ともいえない魅力を感じる。これは、いわば積み重ねられた技術を知覚する悦びである。
    もう一つはずらし。意味や価値とその現れをずらしたり、曖昧さを残すことで、その意味や価値に焦点が絞られ固定化することを回避する。固定化してしまえば意味や価値との出会いの悦びは低減する。ずれや曖昧さはその悦びを継続的なものにしないだろうか。

    ここで言う重ね合わせ、保留、ずらしを303の修辞技法の一つで表すとすれば、重技法、沈黙法、換喩、であろうか。
    人間にとって、知覚そのものに意味や価値があるという立場をとった場合、レトリックはその意味や価値を際立たせる手法として有効に違いない
    これは、坂本一成がの「人間に活気をもたらす象徴を成立させること」と重なる気がする。

    現在の私たちにとって意味ある建築の行為は、いつも同じだが、人間に活気をもたらす象徴を成立させることであると言いたかった。そこで私たちは<生きている>ことを知り、確認することになるのであろう。そのことを建築というジャンルを通して社会に投象するのが、この水準での建築家の社会的役割と考えるのである。(『建築に内在する言葉』)

    おそらく、この象徴へ到達するには、それが浮かび上がってくるまで、探索・調整のサイクルを回すことが有効だと思うのだけれども、もっと直接的・演繹的な設計技術に連なる、建築の修辞学としての建築構成学というものもありそうだけれども、これについては次回改めて。

    自分もたまにこの辞典をぱらぱらとめくってレトリックと建築の間で空想してみたいと思うけれども、(先人がいるので)303の修辞技法を網羅するまでのモチベーションは持てそうにないし、そこまでの引出しはなさそう。

    立石氏が303をコンプリートした暁には、建築の修辞学として是非書籍化して頂きたいところです。
    (氏がキン肉マンを読んだことがあるのか。というのもちょっと気になる。)




    保育環境を包み込む建築空間はどうあるべきか B203『学びを支える保育環境づくり: 幼稚園・保育園・認定こども園の環境構成 (教育単行本)』(高山 静子)

    高山 静子 (著)
    小学館 (2017/5/17)

    環境構成をよりわかりやすくまとめた一冊

    『環境構成の理論と実践ー保育の専門性に基づいて』と同じ著者による環境構成の本です。

    『環境構成の理論と実践』が環境構成の理論を体系的にまとめることを試みたものだとすると、本著はその理論を豊富な事例・写真をもとにビジュアル的にも整理して、より読みやすく多くの人に伝わりやすいように再編されたもの、と言えるかもしれません。
    保育関係の本は一冊のノートに簡潔にまとめて、いつでも読み返せるようにしようと思っているのですが、ここまで密度が高いとそのまま机の脇に置いておいた方が良いかも知れません。付箋を付けるのも途中でやめて、使い勝手を良くするためにインデックスを貼ることに作業を切り替えました。

    子どもを『子どもは、環境から刺激を与えられて、知識を吸収する。(古い子ども感)』から『自ら環境を探求し、体験の中から意味と内容を構築する有能な存在。(新しい子ども感)』と捉え直すことからスタートするのは、まさしくアフォーダンスの話です。
    保育関係者には是非とも一読をお薦めしたい本ですが、もしかしたらアフォーダンスに興味がある方にとっても、その実践のイメージを掴むためには良書かも知れません。

    保育環境を包み込む建築空間

    さて、分野に限らず、本を読む時に常に頭にあるのは、”建築空間はどうあるべきか?”という問いです。

    この本には保育環境の一つとして建築空間を構成するための直接的ヒントに溢れていますが、それは主に保育者の視点からのもので、あえて言えば(心地よさや美しさといったことも含めた)機能的要求としての要件として捉えられるものだと言えます。
    ですが設計者としては、ただそれに応えるだけではまだ不十分で、さらに建築の設計者の視点から見た、子ども・保育者・保護者その他関係者やまちや社会にとって”建築空間はどうあるべきか?”に応える必要があるように思います。(とは言え、著者は例えば「秩序と混沌のバランス」「空間の構造化と自由度のバランス」といった、設計者が持つような視点にまで言及しています。)

    環境構成の技術は、個々の子どもの遊び・学びを支えることを第一義として行われるものだと思いますが、建築はそれをより大きな視点から、子どもや保育者を包み込むような存在であるべきもののように思います。
    そのような場であればこそ、環境構成の技術がより自在に発揮され、子どもや保育者が安心して活き活きと遊び学ぶことができると思うのです。
    最後は言葉ではなく、その空間に包まれた時に単純に「あっ、ここで遊びたい。」と思えるような、そして、そこでさまざまなものに出会えるような、実際の建築物として応える必要があると思うのです。

    例えるなら、園長先生が、保育の知識と環境構成の技術に優れているだけ、では園長先生足り得ず、やっぱりそこに何かしら人間としての魅力が見えて初めて、園長先生が園長先生となり、その園がその園となるようなものです。
    建築空間も、保育の知識と環境構成の技術に応えているだけ、では建築足り得ず、そこが建築的・空間的魅力で溢れて初めて、その園がその園となるような建築足り得るのだと思うのです。

    そのために、建築のプロとして、経験と知識、想像力と設計技術を総動員する必要があると思いますし、それらを日々磨き続ける必要があると思います。




    「環境を通して」保育を行う B202『平成29年告示 幼稚園教育要領 保育所保育指針 幼保連携型認定こども園教育・保育要領 原本』(内閣府 他)

    内閣府 (著),‎ 文部科学省 (著),‎ 文科省= (著),‎ 厚生労働省 (著),‎ 厚労省= (著)
    チャイルド本社 (2017/6/1)

    この辺の指針は初めて読みました。
    もっと、ぺらっとした内容かと思っていたのですが、乳幼児の保育・教育に関する考え方が(ある種の熱を帯びて)想像以上に凝縮されている印象を受けました。

    例えば

    イ 保育所は、その目的を達成するために、保育に関する専門性を有する職員が、家庭との緊密な連携の下に、子どもの状況や発達過程を踏まえ、保育所における環境を通して、養護及び教育を一体的に行うことを特性としている。(保育所保育指針 総則より)

    とあるように、「専門性を有する職員」が、「環境を通して」養護及び教育を一体的に行うことをその特性であると明確に記述しています。

    保育所保育指針は1965年(昭和40年)に制定され、その後何度か改訂されてきたようですが、「環境を通して」と言った視点が初めから獲得されていたのか、それともこれまでの歴史の中で徐々に獲得されてきたものなのか、その辺の変遷に興味が湧きました。機会を見て調べてみようかと思います。

    また、幼稚園と保育園と認定こども園、それぞれの指針・要領は内容が重なる部分も多く、共通化への意識が垣間見れますが、認定こども園の制度に伴って、指針・要領を一本化した上でそれぞれの特色のみ補足した方がわかりやすくなったのでは思いました。
    それができないところに日本の縦割り制度の突き抜けられなさがあるのかもしれません。




    環境構成技術の集大成 B201 『ふってもはれても: 川和保育園の日々と「113のつぶやき」』(川和保育園)

    川和保育園 (編集),‎ 寺田 信太郎 宮原 洋一
    新評論 (2014/10/20)

    重層的な遊具構成の園庭で有名な川和保育園を紹介した本です。
    遊具を中心とした園庭での生活の紹介、子どもたちのつぶやきの紹介、園長先生の考え方の紹介、の3章からなっていますが、ダイナミックな園での暮らしぶりがよく伝わってくる本でした。

    環境構成技術の集大成

    この園庭はかなり高いところがあったり、異年齢が混じっている中で夢中で遊んでいたりと、一見、危険で特別な園庭を使いこなしている特殊な例のように見えがちです。

    しかし、それは見方を変えると、長年の試行錯誤による積み重ねをベースとした環境構成という専門技術によって支えられているもの、と捉えることができます。
    そうすると、この園庭は保育の基本的な理念と技術の先に辿り着くべくして辿り着いた環境構成技術の集大成とでも言えるようなもののように思えます。

    いくら無鉄砲な子どもでも、こうしたことに挑戦するときには慎重になるものである。子どもを信じて挑戦させるということは、観念的なことではなく、まさにこのような環境設定による具体的な問題だと思う。(強調引用者・以後共通)

    こんなところにも、園庭の基本原理である「環境を設定するが、あとは子どもの自主性に任せる」という考え方が生きている。

    ここが、本当に大事なところである。つまり、何としても回したいという思いである。この思いこそ、意志の力の根源である。そして、この思いは、それぞれの発達年齢による生活グループに所属しながらも、0歳時から年長児までが一緒に暮らす園庭環境が生み出していると言っても過言ではない。このダイナミズムこそ、大いに着目したいところである。

    それらのでこぼこも含めて、園庭の隅々までの絵が私の頭のなかには入っている。無意識にやっているところはひとつもない。だから、見学に来た人に、「どうして、あそこは出っ張ったままにしているんですか?」と聞かれれば、その理由をすべて答えることができる。自分たちでつくるということは、すべてにおいて、どうすればより楽しく遊べるか、危険を回避するためにはどういう配慮が必要か、といったことを細部に至るまで考えるということである。

    いろいろなルートが確保されている立体構成。
    何かに挑戦した先に新たな楽しみがあるという構成的工夫。
    何かに挑戦するには、それに見合う能力が身についてなければ挑戦にまで至れないという構成的工夫。
    小さい頃から異年齢児とともに過ごすことで、自然と身につく、意欲や、配慮、怖れや危険を回避するふるまいなど。
    見守りという技術を身につけた保育者。

    などなど、どれも環境構成の技術として考えられるものです。
    ものとしての環境だけでなく、保育者はもちろん、園児それぞれが園としての文化の一員として環境構成の中で大きな役割を果たしていることも重要なポイントでしょう。

    もし、この園庭に、新しい園児、新しい保育者、新しい保護者が突然やってきて同じように活動を始めたとしたら、いきなり上手くは周らないだろうし、怪我も起きるかもしれないな、と思います。

    しかし、逆に言えば、「子どもたちのためにどんな環境が必要か」「そのためにはどうすればいいか」を考え共有することが出来さえすれば、できるところから少しづつはじめ、園庭を園の文化とともに一つひとつ積み重ねていくことで、川和保育園のような園庭にもたどり着き得るのだと思います。

    一度、そういう場作りに挑戦してみたいものです。




    保育の現場で「どうしてそうするのか」の原則を共有するために B199 『環境構成の理論と実践ー保育の専門性に基づいて』(高山静子)

    高山静子 (著)
    エイデル研究所; B5版 (2014/5/30)

    環境構成という専門技術

    この本では、さまざまな園の異なる実践に共通した原則を説明することを試みました。原則は、実践の骨組みとなる理論です。原則ですから、理想の園や理想の環境を想定して、それに近づくことを求めるものではありません。人が太い背骨を持つことでより自由な動きができるように、それぞれの保育者が、環境構成の原則を持つことによって、より自由で柔軟な実践ができればと願っています。

    保育園、幼稚園、認定こども園などの保育施設での保育に関する理論を何かしら知っておきたい、ということで手に取ったのですが、めちゃめちゃ参考になりました。

    例えば、学童期以降の子どもは、机に座り教科書を使って抽象的な概念を学ぶ、ということができます。
    しかし、乳幼児はまだそれができないので、自ら直接環境に働きかけ、体験を繰り返すことで、さまざまなものを学んでいきます
    直接教えるのではなく「環境を通して」教育を行うのが原則で、保育者はそのために、子ども自らが学べる環境を構成していく、というのが幼児教育の一番の特徴・独自性のようで、とても腑に落ちました。

    そのために、保育者には、高い専門性に基づいた広く深い知識と環境構成の技術が求められるのですが、それは「園と家庭や地域とのバランス、安全と挑戦などのさまざまな矛盾の中でのバランスを踏まえた上で、その時々の個々の子どもの状態に合わせた環境の構成・更新を繰り返す」という非常に高度なものです。

    そのような実践のための理論を体系的にまとめたのが本書ですが、保育に求められることの専門性と理論の大枠がイメージできたというのは大きな収穫でした。
    また、僕はこれまで、子どもが育つ上での建築をどうつくればいいか、というのを一番のテーマとして考え続けていて、「「おいしい知覚 – 出会う建築」」というところに辿り着きました。
    そこで辿り着いた考え方と、保育の分野での考え方と重なる部分が多いように思ったのですが、それがあまりにもぴったり重なるのにびっくりしました。(もともとの問題意識の設定からすると当たり前といえば当たり前なのかも知れませんが、もう、保育施設を設計するためにこれまでがあったんじゃないか、くらいに感じます。)

    理論の必要性と展開

    では、そのような理論をなぜ知っておきたい、と思ったのか。

    例えば、保育のための空間を設計するという場面を考えた時に、個人的な体験や好みで決められることも多いような印象があります。それがスタートでも良いと思うのですが、保育の現場では特に「どうしてそうするのか。そうしたのか。」が説明できた方が良いと思いますし、そのために「太い背骨」となるような理論があることは非常に有効だと思うのです。

    「どうしてそうするのか。そうしたのか。」ということは、建物の設計や建設の段階では、多くの関係者が同じ方向を見て良いものをつくっていくために必要なものです。
    また、建物ができた後の実際の保育の現場でも、保育者や保護者等の関係者が、同じ方向を見て良い保育を実践していくために必要なものだと思います。そして、それが子どもたちのよい体験へとつながります。

    園の目指すもの・思想といった大きな枠・物語は園長先生等トップが描くことが多いと思いますが、保育者や設計者がそれをプロフェショナルとして実践のレベルでさまざまな要素に落とし込んでいくには、専門的な理論の枠組みを掴んでおくことは非常に大切です
    その点でこの本に書かれているものは、まさに!という内容でした。

    この本で学んだ背骨としての理論を実践として展開できるように、さまざまな事例や理論の研究を進められたらと思います。
    同じ著者の実例よりの本も買っているのでとても楽しみです。)

    建築に求められるもの

    ところで、環境構成は状況に応じて臨機応変に行われるべきものです。そんな中、建築空間には何が求められるでしょうか。

    園が子どもも興奮させ一時的に楽しませる場所であれば、できるだけにぎやかな飾り付けが良いでしょう。しかし園は、子どもの教育とケアの場です。そこでは、レジャーランドやショッピングセンターの遊び場とは一線を画した環境が求められます。子どもたちが、イメージを膨らませて遊んだり、何かの活動に集中するためには、むしろ派手な飾りがない落ち着いた環境が望ましいと考えられます。

    著者は、基本的には子どもが個々の活動に集中できるように一歩引いた存在であるべきという前提です。
    例えば、空間を構成する技術として「子どもの自己活動を充足させることが出来る空間」「安心しくつろいだ気持ちになれる空間」「子どもが主体的に生活できる空間」「個が確保される空間」「恒常的な空間」「変化のある空間」など挙げ、それらのバランスをとりながら空間を構成する、と書いています。

    その他、さまざまな事が環境構成の技術・理論としてまとめられていますが、保育者のための理論という意味合いが大きいので、重点は個々の場面での環境構成という短いタイムスパンに区切ったものが多かったように思います。

    それに対して、建築は、子どもにとっては建築は在園中の長い期間接するものですし、個々の場面だけではなく建築全体としても子どもの環境になりうるものです。また、それは街からみると、もっと大きなスパンで存在するものですし、風景としての要素も小さくはありません。

    ですので、個々の発達段階の空間構成に寄与できる空間をつくるとともに、建築全体としても園の思想を表していること、まちの風景であること、子どもにとっての原風景となれるような建築体験ができるものであること、などが建築には求められるのではないでしょうか

    特に子どもにとっては、住宅を除いて初めての長期的な建築体験の場になることが多いと思います。建築でしか出来ないような体験、出会いを作り出すことも設計者の大きな役割だと思いますし、そのための術を磨いていきたいですし、それは住宅も同じだと思います。




    生態学転回によって設計にどのような転回が起こりうるか B184『知の生態学的転回1 身体: 環境とのエンカウンター』(佐々木 正人 他)

    佐々木 正人 (編集)
    東京大学出版会 (2013/6/29)

    以前3回にわたって感想を書いた『知の生態学的転回』の第1巻。

    先にこのシリーズ3巻の部構成を引用しておく。

    1 身体:環境とのエンカウンター
    序章 意図・空気・場所――身体の生態学的転回
    第I部 発達と身体システム
    第II部 生態学的情報の探求
    第III部 生態心理学の哲学的源流と展開
    終章 魂の科学としての身体論――身身問題のために

    2 技術:身体を取り囲む人工環境
    序章 知覚・技術・環境――技術論の生態学的転回
    第I部 環境に住まう
    第II部 アフォーダンスを設計する
    第III部 21世紀の技術哲学
    終章 技術の哲学と〈人間中心的〉デザイン

    3 倫理:人類のアフォーダンス
    序章 海洋・回復・倫理――ウェザー・ワールドでの道徳実践
    第I部 生態学的コミュニケーション
    第II部 人間のアフォーダンス
    第III部 社会的アフォーダンス
    終章 可能性を尽くす楽しみ,可能性が広がる喜び――倫理としての生態心理学
    [座談会] エコロジカルターンへの/からの道

    2の技術は人が環境との関わりの中から技術がどのようなあり方であるかが書かれていたように思うが、今回はその前段階として発達や進化、意識といった人と環境との関わり、認知や知覚について書かれていたように思う。そして、第3巻は複数の人によって構成される社会へと射程が拡がっていくようだ。

    心身二元論と環境との境界を超えたイメージ

    知覚について多くの人は、環境から刺激を受け取り、それを脳が処理し、その結果行為が行われる、また、発達などは予めプログラムされた結果である、というようなコンピューターや機械に似たイメージを持っていると思う。
    この巻の「転回」はそのイメージからの脱却することにある

    そのイメージをここで説明するのは難しいし専門ではないので正確に捉えられている自信はない。
    それでも書いてみると、動物が能動的に環境に働きかけ探索しながら情報をピックアップしていく過程で、身体と環境、行為と知覚が同時に進みながら新たな行為と知覚が紡がれていくというようなイメージだ。その基盤は環境と身体に埋め込まれている。どのような行為に繋がるかは予め厳密に決められているというよりはその都度発見されていくような動的なシステムなのだと思う。

    そこではデカルト以来の心身二元論と環境との境界が超えられている。(そして、もしそれがより可能性のある考え方だとすると、デカルト的心身二元論に基づいた今の教育は少し古臭い気もするし、固定的なイメージを植え付けているという点で罪悪ですらある気もする。)

    子どもと生き物に関する番組をよく見るが、どうしてそのように振る舞えるのか不思議に思うことが多い。
    例えば、アルコンゴマシジミの幼虫はアリの巣に潜り込みアリの幼虫になりすまして世話をしてもらい蛹となって羽化する。さらにエウメルスヒメバチはこのチョウの幼虫が忍び込んでいるアリの巣を感知しこのチョウの幼虫に卵を産み付け寄生する。
    アリの巣でせっせと育てられたチョウの蛹が更に食い破られて中からハチの成虫が出てくるような、もう笑ってしまうような複雑な生態を見ると、本能ってなんだろう、あの小さな体にどこまで複雑なプログラムが埋め込まれているのだろうと想像してくらくらしてしまう。(ツチハンミョウの幼虫の生態も同様にクラクラする。)

    しかし(この本で本能については書かれていなかったが)仮にそのような生態の基盤が環境と身体と欲求の中に埋め込まれていると考えると何かしっくり来た。例えば、アリに育てられているチョウの幼虫という環境が存在し、その幼虫を感知するような身体を備えたハチが、そこに卵を産みたいという欲求を持つとすると、本能によって緻密にプログラミングされていなくともこういった複雑な生態が成り立つような気がした。そのハチにとっての意味が環境自体に備わっていると言えるが、それは異なる生態にとっては異なる意味となる。さらに、身体に含まれる自由度が環境の変化によって異なる関わり方を生み出すこともあるだろうし、それが進化と繋がることもあるだろう。(選択交配とは異なる進化の可能性もこの本で触れられていた。)

    少し脱線したが何が書きたかったかというと、知覚や行為において環境と身体の境界は曖昧でダイナミックな関係にあるということである。その「転回」の面白さはデカルト以降の科学感が染みこんだ頭ではすぐに見失ってしまうのだけども。

    設計との関連

    さて、これらの「転回」は設計とどのような関連があるだろうか。言い換えると設計にどのような「転回」が起こりうるだろうか。
    大まかなイメージは掴めつつあるのだが具合的に設計に落としこむところまで行けていないのでもう少しイメージの精度を高めていく必要がありそうだ。

    以前書いた技術に関することと一部重複するかもしれないが、整理するために今回の本に関連して思いつくことを列挙しておきたい。

    ・隈研吾のオノマトペ
    オノケン【太田則宏建築事務所】 » B183 『隈研吾 オノマトペ 建築』

    プロセスにおいても現れにおいても、その足がかりとしているのがオノマトペのようだ。

    この二面角の定義では、二つの面の配置が私たちにアフォードすることが述べられている。『生態学的知覚論』で挙げられた面の配置の用語は、そのリストアップと定義の方法が今ひとつ不明瞭であるものの、確かに言えるのは生態幾何学の用語が知覚-行為にとって意味のあるレベルで環境を記述する可能性を持っているということである。(本書p77)

    一つはギブソンの生態幾何学的な環境の捉え方をそのまま建築の形態へと翻訳することで、隈さんのオノマトペはそれを実践したものであると言えそうだ。
    また、スタッフにオノマトペの曖昧な言葉を投げかける設計手法は生態的な探索過程の実践的置き換えと言えるだろう。

    ギブソンの『生態学的知覚論』は専門的な実験過程が詳細に書かれていて読むにはかなり大変だろうと予想していたため後回しにしていたけれども、思い切って購入してみると思っていたより遥かに読みやすそうなので一度じっくり見てみようかと思う。(こんなことならもっと早く読むべきだった。)
    オノケン【太田則宏建築事務所】 » B177 『小さな矢印の群れ』

    隈さんの本に佐々木正人との対談が載っていた。建築を環境としてみなすレベルで考えた時、建築を発散する空間と収束する空間で語れるとすると、同じように探索に対するモードでも語れるのではと思った。 例えば、探索モードを活性化するような空間、逆に沈静化するような空間、合わせ技的に一極集中的な探索モードを持続させるような空間、安定もしくは雑然としていて活性化も沈静化もしない空間。など。 隈さんの微分されたものが無数に繰り返される空間や日本の内外が複層的に重なりながらつながるようなものは一番目と言えるのかな。二番めや三番目も代表的なものがありそう。 四番目は多くの安易な建物で探索モードに影響を与えない、すなわち人と環境の関係性を導かないものと言えそう。この辺に建物が建築になる瞬間が潜んでいるのではないか。 実際はこれらが組み合わされて複雑な探索モードの場のようなものが生み出されているのかもしれない。建物の構成やマテリアルがどのような探索モードの場を生み出しているか、という視点で建築を見てみると面白そう。

    直接的に探索モードの場、というイメージを空間に重ねることも生態幾何学的な環境の捉え方を建築の形態へと翻訳することに繋がるかもしれない

    ・地形のような建築

    まず、(地形)は(私)と関係を結ぶことのできる独立した存在であり環境であると言えるかと思います。 (私)に吸収されてしまわずに一定の距離と強度、言い換えれば関係性を保てるものが(地形)の特質と言えそうです。 この場合その距離と強度が適度であればより関係性は強まると言えそうです。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » 「地形のような建築」考【メモ】)

    だいぶ前に書いた地形のような建築は、(私)との関係性を保てることが一つの特徴だと考えていたのだが、これは言い換えると探索の余地、もしくは身体と環境、行為と知覚が動的な生態学的関係を結べる余地とでも言えるだろう。

    ・塚本由晴のふるまいと実践状態

    その木を見ると、木というのは形ではなくて、常に葉っぱを太陽に当てよう、重力に負けずに枝を保とう、水を吸い上げよう、風が吹いたらバランスしよう、という実践状態にあることからなっているのだと気がついた。太陽、重力、水、風に対する、そうした実践がなければ生き続けることができない。それをある場所で持続したら、こんな形になってしまったということなのです。すべての部位が常に実践状態にあるなんて、すごく生き生きとしてるじゃないですか。それに対して人間は葉、茎、幹、枝、根と、木の部位に名前を与えて、言葉の世界に写像して、そうした実践の世界から木を切り離してしまう。でも詩というのは、葉とか茎とか、枝でもなんでもいいですけど、それをもう一回、実践状態に戻すものではないかと思うのです。(中略) 詩の中の言葉は何かとの応答関係に開かれていて生き生きとしている。そういう対比は建築にもあるのです。窓ひとつとっても、生き生きしている窓もあれば、そうでない窓もある。建築には本当に多くの部位がありますが、それらが各々の持ち場で頑張っているよ、という実践状態の中に身を置くと、その空間は生き生きとして楽しいのではないか。それが、建築における詩の必要性だと思っています。( 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』)(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』)

    なぜふるまいなのか 20世紀という大量生産の時代は、製品の歩留まりをへらすために、設計条件を標準化し、製品の目標にとって邪魔なものは徹底して排除する論理をもっていた。しかし製品にとっては邪魔なものの中にも、人間が世界を感じ取るためには不可欠なものが多く含まれている。特に建築の部位の中でも最も工業製品かが進んだ窓のまわりには、もっとも多様なふるまいをもった要素が集中する。窓は本来、壁などに寄るエンクロージャー(囲い)に部分的な開きをつくり、内と外の交通を図るディスクロージャーとしての働きがある。しかし、生産の論理の中で窓がひとつの部品として認識されると、窓はそれ自体の輪郭の中に再び閉じ込められてしまうことになる。 (中略) 窓を様々な要素のふるまいの生態系の中心に据えることによって、モノとして閉じようとする生産の論理から、隣り合うことに価値を見出す経験の論理へと空間の論理をシフトさせ、近代建築の原理の中では低く見積もられてきた窓の価値を再発見できるのではないだろうか。(『WindowScape 窓のふるまい学』)(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B166 『WindowScape 窓のふるまい学』)

    塚本さんのふるまいや実践状態という言葉にも生態学的関係への意志が見てとれるモノとヒトに対する眼差しの精度を高めることによって生態学的関係を開くようなモノのあり方へと導いていくことができるはずだ。島田陽さんの建築の部分を家具的に扱うこともこれに関連するように思う。

    ・ニューカラー的な建築

    イメーシとしては、ブレッソン的な建築と言うのは、雑誌映え、写真映えする建築・ドラマティックなシーンをつくるような建築、くらいの意味で使ってます。一方ニューカラー的というのはアフォーダンスに関する流れも踏まえて、そこに身を置き関り合いを持つことで初めて建築として立ち現れるもの、くらいの意味で使ってます。 設計をしているとついついドラマティックなシーンを作りたくなってしまうのですが、それを抑えて、後者のイメージを持ちながら建築を作る方が、難易度は高まりそうですが密度の高い豊かな空間になるのでは、という期待のようなものもあります。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B175 『たのしい写真―よい子のための写真教室』)

    関り合いによって初めて建築として立ち現われるものをイメージすることも生態学的関係を志向することなるように思う。それは隈さんのいう反オブジェクトとも重なるし、そのためにそのイメージを維持し続ける必要があるだろう。

    ・分かることへの距離感を保つ

    他方で僕は、何かをわかりたいと同時に、わかってしまうことが怖いのだ。(中略)わかろうとすることと、わかってしまうことを畏れることは矛盾する。その矛盾を自ら抱え込むことが、わかることの質を高めてくれる気がする。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B173 『考えること、建築すること、生きること』)

    寺田寅彦が「不思議のさなかを生きる」少年のモードを維持することの肝は、説明し分かったことにしない、「多様な現象を見る眼」にあるようだ。 寺田寅彦の思考法として、「問いの宙吊り」「アナロジー 原型的直感」「像的思考」を挙げている。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B182 『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』)

    分かることへの距離感も保ち続けること、少年のモードを維持し自在な建築を目指すことはおそらく生態学的関係を開くことへと繋がるように思う。

    ・設計プロセスの工夫

    なので、フォロアーの劣化版になることを怖れず、これを機会に自分なりにカスタマイズし消化することを試みてみたいと思う。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B180 『批判的工学主義の建築:ソーシャル・アーキテクチャをめざして』)

    動的で生態学的関係を考える際には必ず藤村さんが頭に浮かぶのだが、そのプロセスにはそのような関係の発生が埋め込まれている。(そして、その部分で氏の「建築」に可能性を感じている。)
    しかし、まだしっくりとした自分なりのプロセスの設計ができていないというのが現状である。
    クライアントや環境、その他与件に対して探索と応答を繰り返す普通の設計を誠実にこなせばいいとも思うのだが、その精度を高める工夫は必要だろう。

    ・都市的な目線
    現状、自分に最も不足しているのが都市的な視点であるように思う。これまで書いたことは主に建築の空間をイメージしているが、生態学的関係を都市へと開いていくようなことは可能だと思うしそれによってまちなみはより楽しく豊かなものになるだろう。
    そのために長谷川豪さんの建築内部と都市を貫くような視点を持つことも必要だろうし、実践状態が街を行く人に感じられるような表出の仕方も考える必要があるだろう。

    まとめ

    まとめると、
    生態幾何学的な環境の捉え方を建築の形態へと翻訳したり、モノへの眼差しの精度を高めながら生態学的関係を開くようなモノのあり方へと導きつつ、分かったことなったり建築がオブジェクトになることを避ける姿勢を維持しながらそれらを実現できるプロセスを考え、更にはその視線を都市へと拡張していく。
    となるだろうか。

    また、生態学的関係を開く上で関連があると思われるが、まだ明確な言葉にできていないことを課題という意味も含めて挙げておく。

    ・「住まうこと(つかうこと)」の中に「建てること(つくること)」を取り戻す

    建築の、というより生活のリアリティのようなものをどうすれば実現できるだろうか、ということをよく考えるのですが、それに関連して「建てること(つくること)」と「住まうこと(つかうこと)」の分断をどうやって乗り越えるか、と言うのが一つのテーマとしてあります。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » ケンペケ03「建築の領域」中田製作所)

    「建てること(つくること)」の中にも生態学的関係への可能性があるように思う。

    ・既知の中の未知との出会いのセッティング

    僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

    創造に関して、「発見されたもの」すなわち結果そのものを作ろうとするのではなく、「発見される」状況をセッティングする、という視点を持ち込むこと。 それは発見する側の者が関われる余白を状況としてつくること、と言えるかもしれないが、このことがアフォーダンス的(身体的)リアリティの源泉となりうるのではないだろうか。 (ここで「発見」を「既知の中の未知との出会い」と置き換えても良いかもしれない。) そういった質の余白を「どうつくるのか」ということを創造の問題として設定することで、発見の問題と創造の問題をいくらかでも結びつけることができるような気がする。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B179 『小さな風景からの学び』)

    既知の中の未知との出会いをセッティングすることは高度な手法であるかもしれないが、それゆえに精度高く生態学的関係を開くことができるように思う。

    ・内発的制約と熟達化

    ストリートダンスの熟達化とは、このような内発的制約からの自由を獲得し、同時に多様で洗練された表現への自由を獲得することであるといえる。(本書p125)

    リズムに合わせて膝をダウン又はアップさせる実験では、テンポを早くすると非熟練者はアップ課題においても意に反してダウン動作になってしまうそうだ。「熟達化とは、このような内発的制約からの自由を獲得」することであるという指摘は当たり前のように思える。しかし、それが力任せなものではなく、人と環境との関係の精度を高めることで冗長性と自由度を獲得するという点で新鮮に映った(イチローのバッティングが頭に浮かんだ。)。では、設計や空間における熟達化とはどのようなものだろうか。何が内発的制約となり、そこから自由になることでどう変わり得るだろうか。




    「環境」についてのメモ

    昨日運転中に山口陽登氏の講演の音声を聞いて自分なりに環境という言葉を整理したくなったのでメモ。

    以前とあるシンポジウムで何人かのデザイナーの話を聞いた時に、その一人がアフォーダンスという言葉を使われていた。
    それで懇親会の時に色々と聞いてみたのだけど、昔流行った言葉で、”椅子は座れる”のようなことを難しく言っているだけだよね、という感じだったのですごくもやっとした。

    環境とは何かということとつながるように思うけれども、そういった機能と形態が一対一で固定化しているということとは全く違うのではないか。

    環境そのものに情報が埋め込まれている、と言ってもそれは受け手との関係性の中から発見的に浮かび上がるものであって、その関係は無限にあるはずである。それを一対一で固定化するのでは、その通り機能主義を難しい言葉に言い換えただけで何の発展性もないだろう。

    それでは一種の制度として振る舞ってしまうようになった機能主義に対して、新しい地平を開くチャンスを与えてくれる概念を再び制度の内に閉じ込めてしまうようなものだ。

    先の講演の感想でも書いたように、固定化・陳腐化した環境という言葉を受け手の活き活きとした経験に開くことで再び実践状態に戻すことが重要であって、どうすれば関係性の鮮度を維持できるかがデザインの課題になるのだと思う。

    そういう意味では「環境」とは常に開かれた可能性の海のようなものであるべきだと思う。

    では、そのために具体的にどのような方法が考えられるだろうか。

    一つは、機能と形態を一対一で対応させて考えるのではなく、状況をつくるという態度に留めることで機能が具体的な像を結ぶことを注意深く避ける事だろう。それによって、機能が単体でフォーカスされずにぼんやりとした全体の空間・時間の中に溶け込ませることができるかもしれない。(ホンマタカシ氏が言うブレッソン的なものではなくニューカラー的なもののように)

    創造に関して、「発見されたもの」すなわち結果そのものを作ろうとするのではなく、「発見される」状況をセッティングする、という視点を持ち込むこと。 それは発見する側の者が関われる余白を状況としてつくること、と言えるかもしれないが、このことがアフォーダンス的(身体的)リアリティの源泉となりうるのではないだろうか。 (ここで「発見」を「既知の中の未知との出会い」と置き換えても良いかもしれない。) そういった質の余白を「どうつくるのか」ということを創造の問題として設定することで、発見の問題と創造の問題をいくらかでも結びつけることができるような気がする。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B179 『小さな風景からの学び』)

    カルティエ=ブレッソン派(決定的瞬間を捉える・写真に意味をつける)とニューカラー 派(全てを等価値に撮る・意味を付けない)の対比 何かに焦点をあて、意味を作ってみせるのではなく、意味が付かないようにただ世界のありようを写し取る感じ。 おそらく前者には自己と被写体との間にはっきりとした認識上の分裂があるが、後者は逆に自己と環境との関わり合いのようなものを表現しているのでは。 建築にもブレッソン的な建築とニューカラー的な建築がある。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B118 『包まれるヒト―〈環境〉の存在論 (シリーズヒトの科学 4)』)

    もう一つは島田陽氏の建築と家具の扱いが思い浮かんだ。
    建築の機能を引き剥がして家具的なものに置き換えることで「環境」や「機能」のあり方に変化を与えている。
    この時、建築を家具に置き換えることは普通に考えると機能と形態が一対一でより強く結びつきそうな気がするがどうしてそうならないのだろうか。(一般的に家具は機能に対して補助的に与えられるもののように思う。)
    よく見てみると、建築の機能を家具に置き換えると言っても、例えば階段が棚や箱になったり、トイレが収納になったりともともとの機能からずらして弱めることで一対一に固定化することを注意深く避けているように思う。
    そこにはやはり環境との出会いが状況として用意されている。

    このエッセンスを自分なりに展開したいところだが、すぐに思い浮かぶものでもないので実践の中で発見できればベストだと思う。

    最後に、先ほどのシンポジウムで最後に話をされた某デザイナーが思い浮かんだ。
    徹底した客目線を実践し、目立つデザインではないが繁盛店を次々と産み出しているという方なのだが、話の途中で突然マイクで話すのをやめ地声で語りかけるように話をされた。
    なんともないことだけどこれは結構心に響いた。
    こういうシンポジウムで話すときにはいい話をしようと思ってしまうものだと思うが、どういう人が集まっているか分からない小さなシンポジウムであってもきちんと伝える、ということに手を抜いていないのが伝わってきたし、いや、この人はお客さんにモテるだろう、と思わされた。
    徹底した客目線で考えたものを何でもないデザインとしてまるでデザインされてないかのように施している。それは、おそらく受け手の経験に対して心地よく開かれているだろうし、そこには気づかぬうちに環境との出会いが生まれているだろう。
    アフォーダンスのようなものを体験的・実践的に獲得しているように思ったのだが、その態度の現れとしての場を感じることができたのは非常に貴重な経験であった。(後日、著作を読んでみたけれども、テキストからでは感じ取れなかったので尚更貴重だったと思う。)

    やっぱり、まずは態度のイメージからだな。そのイメージの鮮度を保ち続けるための技術もおそらくあるはず。




    B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』

    村田 純一 (編集)
    東京大学出版会 (2013/7/31)

    『たのしい写真―よい子のための写真教室』の流れからアフォーダンス関連をもう少し突き詰めようと読んでいたもの。
    なかなか読書時間がとれなかったのですが、最近移動時間が多かったのでそれを利用してなんとか読み終えられました。

    記憶の補完としてブログにまとめようと思うのですが、読み応えのある本でとても長くなったので3つに分けてみたいと思います。

    序章

    まずは序章の部分から。個人的なメモとしての意味合いが強いので引用と感想のようなものを並べることになると思うので分かりにくいとは思います。興味のある方は是非原本を読まれて下さい。

    このシリーズの目指すところと建築設計

    本シリーズは、生態心理学を理論的中核としながら、それを人間環境についての総合科学へと発展させるための理論的な基盤づくりを目的としている。(p ix)

    人間環境の構成要素、すなわち、人工物、人間関係、社会制度は単なる意味や価値として存在しているばかりではなく、それぞれが人や物を動かす実効的効力(広い意味での因果的効果)を持っている。それゆえに、人間環境は、社会的・文化的な存在であると同時に、物理的な存在でもある。

    本シリーズで追求したいのは集団的に形成された人間環境のあり方を記述し、人間個々人がその人間環境とどのような関係性を取り結んでいるかを明らかにし、最終的に、どのような人間環境を構築・再構築すべきかという規範的な問題である。

    どんな生物もそれぞれが属する環境から切り離されては生きていけない。私達人間も同様である。これが「知の生態学的展開」と題された本シリーズの基本テーゼである。

    建築に関わる人の多くはそうであると思うし、建築に限られた話ではないと思いますが、僕は建築をつくことは環境をつくることだという意識が強い。
    ここでいう人間環境は何かというのは本書に譲りますが、このシリーズはまさに環境を扱っており、建築設計におけるメインとなるテーマに切り込むものだと思います。

    知覚・技術・環境と建築設計

    人間の環境内存在はつねに「技術的環境内存在」であったし、現在もそうである。本巻の主題は、この技術によって媒介された環境内存在のあり方を日常生活の中で出会う具体例に則して明らかにすることである。

    「環境」に続き、この巻でテーマとしてあげられているのが「技術」。
    続き、というよりは知覚・技術・環境といった一連の関係性が「生態学的転回」の視点を導くもののように思います。

    例えば、私たちがそれまで危険で近寄れなかった火をうまく扱うことができるようになったり、あるいは、それまで何げなく見ていた木の枝を箸として使える道具とみなすことができるようになったりする過程は、新たなアフォーダンスの発見過程であると同時に、新たなアフォーダンスの製作過程と考えることもできる。このように知覚と技術に共通に見られる環境とのかかわり方に着目することによって、技術論の生態学的アプローチへの道筋が垣間見られる。

    ギブソンの言葉を使うと、ここで知覚-行為連関は、特定の目的の実現に奉仕する「遂行的活動(performatory action)」から区別された「探索的活動(exploratpry action)」というあり方を獲得するといえるだろう。
    このような仕方での知覚と行為の新たな連環の獲得、新たな仕方での環境との関わり方の「技術」の獲得が、先に述べた学習を通しての環境の構造変換の内実をなしている。

    子供が技術を獲得したから、環境が変化するのではなく、また、環境が変化したから子供が技術を獲得したわけでもない。知覚の技術と知覚に導かれた運動制御の技術を獲得することはすなわち、新たなアフォーダンスが発見され環境に備わるアフォーダンスのあり方に変換が生じることに他ならないのである。

    一部の引用だけではなかなか上手く伝えられないですが、知覚・技術・環境のダイナミックな関係性が見て取れます。

    このブログでも藤森照信さんの書籍等を通じて技術とはなんだろうか、というのに興味を持ち始めているのですが
    (■オノケン【太田則宏建築事務所】 » 技術
    では、このような知覚・技術・環境の構造が建築の設計においてどのような視点を与えてくれるでしょうか。
    僕は少なくとも次の2つの場面において何らかのヒントを与えてくるように思いました。

    一つは、建築を設計する作業そのものが環境との対話のようなものだとすると、設計するという行為において、いかにして環境を読み込み設計に反映させることができるか、またその技術はいかにして発見できるかを考える場面において。

    もう一つは、建築が環境をつくることだとすると、そこで過ごす人々と建築との間にどのような関係を結べるか、を考える場面において。

    これら二つは切り離せるものではないと思いますし、後の章でこれらの接続する試みもなされているのですが、ここではとりあえずこれら二つの場面について引用しながら少しだけ考えてみたいと思います。

    設計行為における知覚・技術・環境

    ギブソンによれば、ニッチとはどこに住むかを示す概念ではなく、むしろいかに住むかを示す概念であり、したがって同じ場所に多様な動物のニッチが共存しうると考えることができる。環境の場合も同様に、人間を含めて動物が世界にいかに生きるかを示す概念であり、それゆえ同じ世界に多様な環境が共存しうると解されるのである。

    「どこに」ではなく「いかに」
    環境という概念が絶対的な存在としてあるものではなく、関わりあいの中から発見・製作されるものだとすると、建築の設計は環境の中から「いかに」を発見・製作する作業だとも言えます。

    そういう点で見れば、リノベーションはその定義から言っても「(例えば古くなることで)実践状態から外れたもののなかから、ふるまいに関わる要素を抽出・活性化して再び実践状態に戻すこと」が宿命付けられており、多くのリノベーションに生き生きとした豊かさを感じるのも当然のことかもしれません。 ただ、この時に「ふるまいに関わる要素を抽出・活性化」しようというような目線はリノベーションに限られるものではないので、新築の場合にも同じような目線・構造を持ち込むことはできるかもしれません。 例えば青木淳さんの「原っぱ」「決定のルール」、「地形のような建築」で考えたようなこと、「地形のように自律した存在の場所に、能動的に棲み込んでいく」ようなことは、リノベーションと同様の「ふるまいや実践状態への目線」を浮かび上がらせ、空間を生き生きとしたものにするための構造と言えそうな気がします。 (結局、棲み家、というところに戻ってきた。)(■(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』) )

    この引用部で考えたことに近いかもしれませんが、上手くいったリノベーション事例に感じる魅力の一端はリノベーションが必然的に「いかに」を内包する行為であるからかもしれませんし、それは新築の設計においても活かせるものだと思います。(個人的にはリノベと新築を区別せずに一元化した視点を持ちたいと思っているのですがそれはまた改めて考えます)

    出発点は、脳ではなく環境であり、環境に適合して生きる「環境内存在」というあり方である。知覚は環境に適合して生きる機能として成立したのであり・・・(中略)こうして見ると、伝統的知覚論は、知覚を成立させる可能性の条件である「環境内存在」のあり方を逆に困難の発生源と見なし、他の動物との共存を示すはずの知覚現象を主観的な脳内現象とみなすという根本的な逆転を起こしていることになる。それに対して、このような逆転を再逆転することが「生態学的転回」の最も基本的な課題である。
    それでは、同じことが技術に関してもいいうるだろうか。技術に関しても、その可能性の条件を環境に求めるような「環境内存在」という観点を確保しうるだろうか。

    建築を設計する行為はさまざまな環境を余条件として受け止めそれに対して回答を得ようとするものというイメージがあるかも知れません。
    これを先の引用の伝統的知覚論、いわば受動的な知覚論と重ねあわせると、別のイメージが浮かび上がってきます。
    環境を主観的な設計行為に対する制約として受け止めるのではなく、環境それ自体を可能性の海、能動的に探索する対象として捉え、知覚・技術・環境のダイナミックな関係性の中に置くともっと豊かな設計のイメージが浮かんで来ないでしょうか。
    こういう視点はいろいろな方が実践されてるので特に目新しいものではないかもしれませんが、それらを理解したり自ら実践するための一つの道具になりそうな気がします。
    また、ギブソンは環境の基本的な要素として、物質と媒質、そしてそれらの境界を示す面をあげています。これらは建築の基本要素とも言えるのでアフォーダンス論的に建築空間を捉えて設計に活かすことも考えられますがここでは置いておきます。(隈さんの本の佐々木正人さんとの対談でこの辺りに触れてました。)

    建築という環境と知覚・技術・環境

    (チンパパンジーがバナナを取る際に置いてあった箱を利用すること発見したことに触れて)このように、環境内に新たなアフォーダンスが発見され、それまでのアフォーダンスが変換を受けることが、すなわち箱を使って技術の獲得を意味しているのである。

    技術の獲得・アフォーダンスの変換が生じることはそこで過ごす人々にどう関わるだろうか。
    これはまだ個人的な見解にすぎませんが、そのようにして知覚・技術・環境のダイナミックな関係性が築かれることは、人間が環境と切り離せない存在だとすると、それは人の生活を豊かにすることにつながらないでしょうか。
    ここで、技術の獲得をふるまいの発見と重ねあわせると塚本さんの「ふるまい」という言葉の持つ意味が少し見えてきそうな気がします。
    再引用

    なぜふるまいなのか 20世紀という大量生産の時代は、製品の歩留まりをへらすために、設計条件を標準化し、製品の目標にとって邪魔なものは徹底して排除する論理をもっていた。しかし製品にとっては邪魔なものの中にも、人間が世界を感じ取るためには不可欠なものが多く含まれている。特に建築の部位の中でも最も工業製品かが進んだ窓のまわりには、もっとも多様なふるまいをもった要素が集中する。窓は本来、壁などに寄るエンクロージャー(囲い)に部分的な開きをつくり、内と外の交通を図るディスクロージャーとしての働きがある。しかし、生産の論理の中で窓がひとつの部品として認識されると、窓はそれ自体の輪郭の中に再び閉じ込められてしまうことになる。 (中略) 窓を様々な要素のふるまいの生態系の中心に据えることによって、モノとして閉じようとする生産の論理から、隣り合うことに価値を見出す経験の論理へと空間の論理をシフトさせ、近代建築の原理の中では低く見積もられてきた窓の価値を再発見できるのではないだろうか。(■(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B166 『WindowScape窓のふるまい学』) )

    「WindowScape」で取り上げられている様々な事例に感じる豊かさは、そこに住まう人と環境との間に豊かな関係が築かれているからだと思いますし、そのような関係性をどのように生み出すかは建築の設計においても大きなテーマになりうると思います。
    その際にもギブソン的な視点は有効な道具になりそうな気がします。

    また、一つのもの・要素がいくつもの機能を内包しているようなデザインに何とも言えない魅力を感じることがあります。
    その理由を考えた時、それがいくつもの「技術のあり方」「環境とのかかわり方」を暗示しているため、そこに可能性のようなものや自由さを感じ取るからかもしれないと思いました。先の塚本さんの言葉を使うと「閉じ込められて」いないというか。

    「つくる」と「つかう」を超えて(関博紀)

    今回は『第3章「つくる」と「つかう」を超えて(関博紀)』の部分。

    なぜ設計と利用とを一元的に捉える必要があるか

    建物をめぐって、わたしたちは、日々多くを営んでいる。なかでも、設計すること(つくること)と住むこと(つかうこと)は、その代表的なものだといえるだろう。(中略)本章では、こうした背景を踏まえた上で、いま一度設計と利用の関係について検討してみたい。そして、設計と利用とを一元的に捉える、もうひとつの展開について検討してみたいと思う。それは、設計という営みに生態学的な特性を見出すことを通して、設計と生活のいずれもが環境に根ざした営みであることを確認しようとするものである。

    この(つくること)と(つかうこと)は奇しくも前回の(知覚-技術-環境)の構造が有効と思われる二つの場面と一致しそうに思いますし、とすればその思考の流れからそれらは(知覚-技術-環境)の視点から一元的に眺めることが出来ると言えそうな気もする。
    では、そのような一元化した視点はなぜ必要なのか。
    実はそれに関してはまだ上手く整理できていないのですが、例えば「参加型」の計画手法について

    計画者と生活者が共同する「参加型」のデザイン手法は、設計と利用との距離をかぎりなく近づけるという点で、dwelling perspectiveの具体的展開と位置づけられる。しかしこの手法は、設計行為と環境の関わりを関わりを必ずしも前提とするものではない。したがって、dwelling perspectiveの具体化にはさらなる可能性があるといえるだろう。

    と書かれています。
    「参加型」では十分でないもの、もしくは一元的理解によって得られるものとはなんだろうか。
    ここで出てきた(dwelling perspective(住む視点)はティム・インゴルドによって提示された視点で、ハイデッガーの「建てる・住まう・考える」を引き合いに出して次のように書かれています。

    一方で「建てることは、つまり、住まうことのの単なる手法や方途などではない。建てることは、それ自体すでに、住まうことである(ハイデッガー)」と主張し、環境との結びつき、すなわち「住」んでいることをわたしたちの生活の基盤として認めることによってはじめて、「建てる」ことの本性が理解されると指摘する。

    と、ここまで書きながら、確か『建築に内在する言葉(坂本一成)』にこの辺の事が書いてあったと思い紐解いて考えてみることにします。

    当然のことながら、人の生活が始まったその場と、竣工時のからの状態とのあいだに、そこに現象する空間の質の違いを感じた。そこでは私が計画して建てた空間は消失し、別の空間が現象している。(中略)人が住むそのことが、生活を始めるそのことが、別の空間を現象させることを意味する。すなわち、住むこと(住むという行為である生活)はひとつの空間をつくることになると言ってよい。(中略)<住むこと>と<建てること>(ハイデッガー)が分離してしまった現在において、建てる者、建築家に可能なことは、ただ人の住まう場を発生させる座標を提出、設定することに過ぎない。それゆえその住まう場の座標に、建築としての文化の水準、つまり<住むこと>の別の意味の水準が成り立たざるをえないことになる。『建築に内在する言葉(坂本一成)』

    ボルノウにしてもハイデッガーにしても、あるいはバシュラールにしても、ある意味で<住むこと>と<建てること>の一致に人間であるための前提を見ているように思われる。しかし、前で述べたようにその一致は現代において喪失されている。だからこそ、まさにその<住むこと>の意味が問題にされる必要があるのだろう。だが、現代社会を構成する多くの人間にとって、この<住むこと>の意味はほとんど意識から遠ざかっているのではあるまいか。日常としての日々の生活を失っていると言っているのではなく、<建てること>を失った<住むこと>は、その<住むこと>のほんの部分だけしか持ちあわせることができなくなったのではないかということである。『建築に内在する言葉(坂本一成)』

    生活が始まることで建築は設計者の手を離れて新しい空間となる。だとすると、その断絶を超えてなお、建築が住むことに対してできることはあるのだろうか。
    これに対して、坂本氏は象徴の力を通して、人間に活気をもたらすための様々な手法を模索されているように思います。

    精神が生きるということは人間の思考に象徴力を持続的に作用させることであり、精神が生きられる場はその象徴作用を喚起する場であるから、人間が住宅、あるいは建築に<住む>ためには、その場をも建築は担わざるをえないのである。『建築に内在する言葉(坂本一成)』

    同じような視点からいくと、環境という同じ視点を持つことによって(つくること)と(つかうこと)の断絶を超えてつかう者にとっての(つくること)の一端を建築が担う可能性が開かれるのかもしれません。(かなり強引につなげると鹿児島の人にとっても桜島のような存在といえるかもしれません)
    例えば「象徴」はその視点を定着させ断絶を超えるためのツールとも読めないでしょうか。
    また、そのような断絶を超えられるかどうかが、建物が建築になれるかどうかに関わっているのかもしれません。

    多木浩二は『生きられた家』で「生きられた家から建築の家を区別したのは、ひとつには住むことと建てることの一致が欠けた現代で、このような人間が本質を実現する『場所』をあらかじめつくりだす意志にこそ建築家の存在意義を認めなければならないからである」と述べている。これはつまり<建てること>の意識のうちで挟まれた<住むこと>の乗り越えを求めることを意味しよう。『建築に内在する言葉(坂本一成)』

    建築家の存在意義に関する部分は非常に重いですが、そういうことなんだろうなと思います。
    (つくること)と(つかうこと)の断絶の乗り越えは、もしかしたらそこに住む人よりも建てる側の問題、存在意義にも関わる問題なのかもしれません。そして、結果的に環境や象徴を通じて(つくること)を何らかの形で取り戻すことがそこに住む人が本質的な意味での(つかうこと)、すなわち生きることを取り戻すことにつながるように思います。

    「複合」による乗り越え

    今回はさらっと終わるつもりが長くなってしましました。後半はなるべく簡潔にまとめてみたいです。

    本章では実際に住宅を設計するプロセスを分析しながら(つくること)と(つかうこと)を一元化する可能性が模索されています。

    その分析の中で様々な要素に対して「出現」「消失」「復帰」「分岐」といった操作が抽出されています。
    また、『操作同士が関係を結び始め、自ら新たな操作を生み出すというような自律的な変動』、操作の「連動」が抽出されます。
    さらに、『変化を伴いながら連続するという変動は、その背後で複数の動きが関係し、一方の動きが他の動きを含みこむような複合的な過程』、操作の「複合」が抽出されます。
    図式化すると(出現・消失・復帰・分岐)⊂(連結)⊂(複合)といった感じになるのかもしれません。
    また、「複合」は『平行する複数の操作を含みこむような動きであり、また設計者にとっては「設計コンセプト」に相当するものの発見として報告されていた。つまり、「複合」は他の五つの振る舞いを含みこんだ「高次」な動きになっていたといえる」とあります。

    もともと設計という行為はギブソン的な構造を持っていると思うのですが、「複合」はそれ以前の操作による環境の探索によって得られた「技術」のようなものとして現れたと言えそうです。それは、設計者がもともと持っていたものというよりは環境との関わりの中から発見されたもので、その「技術」には環境が内包されているため、(つくること)を超えて(つかうこと)においても新たな(つかうこと)を生み出す可能性を持っているように思います。
    また、それは(うまくいけば)利用者が設計者がたどった過程をなぞることができるかもしれませんし、そこには設計者→利用者の一方的な押し付けではなく、同じ環境・景色を眺めているような共有関係が生まれるかもしれません。

    以上の議論を踏まえると、前節で得られた「複合」としての振る舞いには、こうした「外部特定性」を獲得する振る舞いに相当する部分が含まれていると考えられる。なぜなら、「複合」とともにあらわれていた「設計コンセプト」としての「キノコ性」は、設計者が獲得したものでありながら、一方では対象地の与件に深く根ざしたものだからである。つまり「複合」とともにあらわれていた「キノコ性」は、Sによって特定されたこの案件の「不変項」として理解できる可能性がある。こうした理解が可能ならば、建築行為は、「設計コンセプト」の獲得という高次の水準においても環境と結びついており、生態学的な側面を必然的に含むものとして位置づけられると考えられる。

    設計コンセプトというと何となく恣意的なイメージがありましたが、環境との応答により得られた技術としての、多くの要素を内包するもの(「複合」)と捉えると、(つくること)と(つかうこと)の断絶を超えて本質的な意味で(つかうこと)を取り戻すための武器になりうるのかもしれないと改めて思い直しました。

    このような探索と定着のプロセスを通じて建築を目指すことを考えると、どうしても藤村さんの様々な取り組みが頭に浮かぶのですが、それらの手法がいかにエコロジカル(ギブソン的・生態学的)なものであるか改めて思い知らされます。

    だいぶイメージはつかめてきた気がしますが、僕も実際に実践を通じて設計に落とし込めるよう考えていきたいと思っています。(今年度はバタバタと過ごしてしまったので、そのための時間を確保するのが来年度の目標です)

    依存先の分散としての自立(熊谷晋一郎)

    onokennote:『知の生態学的転回2』で今まで読んだ部分だと熊谷晋一郎氏の話が一番ヒットした。障害者の自立に関するリアルな問題が捉え方の転換で見事に理論と道筋が与えられていたし、固有の単語を設計を取り巻くものに変えてもかなりの部分で同じような捉え方ができそうな気がした。 [10/20]


    onokennote:「予定的自己決定」と「後付的自己決定」。予測誤差の役割転換と分散化の有効性など、既出の設計に関する議論にそのまま援用できそうだ。 [10/20]


    『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』「第4章依存先の分散としての自立(熊谷晋一郎氏)」について。一応今回で締める予定です。

    依存先の分散としての自立

    この章は脳性まひを抱え車いす生活を送る著者によるもので、自らの体験や歴史的な背景も踏まえながら自立とは何かをまさに生態学的転回のような形で描き出している。
    建築設計そのものとは直接関連があるわけではないけれども、その捉え方の転回は見事で示唆に富むものだったのでまずは概略をまとめてみたい。

    障害のあるなしに関係なく、子供たちにとっての大きな課題の一つに「自立」というテーマがあるだろう。(中略)私は、「自立の反対語ってなんだろう」という問いかけを行った。(中略)これらの意見のうちで、私が「やはり」という思いとともに、興味深いと感じたのは、「依存していない状態」というイメージで、自立という概念がとらえられているということだった。

    自立がそのようにイメージされるのは容易に想像できるし、自分がそのようなイメージから自由であるか、と問われると心許ない。
    著者は『何にも依存せずに生きている人など、存在しない』『「依存-支え」の関係がうまく動作し続けている”平時”においては、私たちは、自分の日常がどのような支えに依存しているかに無自覚でいられる」『「依存-支え」の関係が不可視であり続けている状況こそが、日常性をもたらしている』としたうえで次のように述べている。

    障害者とは、「多くの人々の身体に合うようにデザインされた物理的・人的環境」への依存が、多くの人とは異なった身体的特性を持つことによって妨げられている人々のことである、と解釈することができるだろう。このように考えると、通常考えられているのとは逆に、障害者とはいつまでも何かに依存している人々ではなく、未だ十分に依存できない人々だと捉えることができるのである。環境との間に「依存-支え」の環境を十分に取り持てないために、障害者は日常性を享受しにくく、慢性的に”有事”を生きることになる。

    そして、それが鮮明に可視化された震災での自らの体験を例に出して『私の考えでは、多くの人が「自立」と読んでいる状況というのは、何者にも依存していない状況ではなく、「依存先を増やすことで、一つ一つの依存先への依存度が極小となり、あたかも何者にも依存していないかのような幻想を持てている状況」なのである。』と述べる。

    自立とは最初にあげたイメージとは逆に、無自覚に依存できている状態だというのはなるほどと思わされた。そして、共依存(「ケアの与え手が、受け手のケア調達ルートを独占することによって、受け手を支配すること」)という言葉を出しながら「依存先の分散としての自立」はどのように成立しうるかが問われていく。

    痛みと予測誤差-可塑性

    自立が『依存先を増やし、一つ一つの依存先への依存度の深さを軽減することで「依存-支え」関係の冗長性と頑強性を高めていくプロセス』だとすると、それを邪魔するものとして「痛み」があげられている。

    著者は幼いころのリハビリ体験を振り返り、経験のない健常者と同じような動きを強要され、それが出来ないと心の問題にされてしまい、『目標のイメージと実際の動きが乖離してしまい、その予測誤差を焦りやこわばり、痛みとして甘受してしまう。その結果、ますますイメージと運動の乖離が拡がってしまうというふうな悪循環に陥って』しまう体験をあげながら、『(痛みによる)学習性不使用の悪循環から抜け出し、仕様依存先に可塑性を誘導するには、痛みとか失敗といったネガティブな予期を、必ずしもネガティブではないものへと書き換えるような、新しい文脈が必要になるだろう』と転回をはかる。

    ここから先はとてもダイナミックな展開で面白いものだったので是非本著を読んで頂きたいのですが、続いて次のような問いが発せられる。

    しかし他方でこの予測誤差は、「現在の予期構造は、現実と符合していない可能性がある」というシグンルでもある。そして、予期構造を可塑的に更新させるための動因として、必要不可欠なものだ。そう考えると、自分の予期構造を裏切るような予測誤差の経験を、どのような意味連関の一部に配置するかということが、可塑性誘導の成否を決める可能性があるだろう。予測誤差を、痛みとか、焦りとか、ネガテイブな意味を付与する意味関連の中に配置するのか、それとも、それに対してある種の遊びの契機、あるいは、快楽を伴う創造性の契機としての意味を付与するのかによって、可塑的変化の方向性は変わると思うのだ。
    では、予測誤差の意味がある種の快楽に変換されるような文脈とはどのようなものか、というのが次の問いだ。

    少し設計の話に戻すと、設計という作業も決して予定調和的なものではなく、さまざまな環境のもと予測誤差を含むものです。そして、それらは必ずしもそれまでの設計作業の流れから行くと歓迎されるものばかりとは言えません。では、どのようにそれらを「快楽を伴う創造性の契機に変換」し、前回までに書いたような可能性の海として捉えることができるのだろうか、いうなれば可塑性を獲得できるのかというのは興味深い問題です。

    モノ・他者とのかかわり

    さらに著者が一人暮らしをはじめ、トイレとの「遊びにおける失敗」といえるようなものを繰り返しながらの格闘を通じた経験をもとに論考が進められる。
    試行錯誤の中で自らの行為のパターンが「自由度の開放→再凍結」という形で進みながら、便座のデザインも同じような「自由度の開放→再凍結」というプロセスを経ながら、お互い歩み寄る形で「依存-支え」の関係を取り結んでいく。
    そして

    この、自由度の開放→再凍結というプロセスは、完成品としての行為パターンや道具のデザインをうみおとすだけでなく、その過程で同時に、冗長性や頑強性という副産物をもうみおとす。なぜなら、あらかじめ一つの正解が与えられて、それに向かって訓練するのではなく、「どういう方法でもよいから、排泄行為をする」という漠然とした目的に向かって、断片的な素材を制作したり組み合わせたり、無駄をはらみつつ試行錯誤するため、否が応でも一つの目的にいたる手段が複線化するからである。結果、私のアパートのトイレには、一つの方法がうまくいかない場合の代替手段を可能にするようなアイテムが、いくつも常備されることになるのである。
    そして、私の身体と便座双方の可塑的な変化を突き動かすものは、常に予測誤差という「うまくいかなさである。
    リハビリにおける監視と裁きの文脈の中では痛みとして感じ取られていた予測誤差は、一人暮らしの「遊び」のような文脈に置かれるや否や、痛みというよりも、むしろ新しい予期構造への更新を突き動かす期待に満ちた動因として感じ取られ、私の探索的な動きを促したのである。その結果、私の身体と便座をつなぐ、新しい行為のレパートリーや道具のデザインがうみおとされ、徐々に自分の体のイメージとか、世界のイメージというものが、オリジナルに立ち上がっていった。

    というような手応えを得る。

    また、著者の一人暮らしは不特定多数の介助者という他者との関わりも必要とし、その経験も語られる。
    他者との関わりは、著者のように密接に関わらざるをえない場合は特に、予測誤差の発生が不可避である。その予測誤差を減らすために、著者は相手を支配するのではなく、『触れられる前に、次の行為や知覚についての予期を、共同で制作し、共有する』という方法を重要視している。

    介護を受け他者と密接に関わる場面でも、相手になったつもりで頭の中を再構成し追体験することで、相手の次の行為への予期が読めてきて、まるで相手を自分に「憑依」させるような感覚になれ、能動性を維持しうるという。

    予測誤差を減らすために、あらかじめ固定化させた予期による支配を貫徹させようとする状況から、予期の共同生成・共有によって予測誤差を減らしつつ予期構造を更新させる状況へ移行すること。ものとの関わりにおいても、他者との関わりにおいても、「依存-支え」の冗長な関係を増やしていくためには、それが重要だといえる。そして、そのことを可能にするのは、予測誤差、言い換えれば他者性を楽しめるような、「遊び」の文脈なのだろう。

    続いて、薬物依存症などの例を通じて「依存してはいけない」という規範的な方向ではなく、依存先を分散させていくことの重要性が語られる。
    最後には、依存先の分散と孤独に触れながら、依存先の分散が万能ではなく、『依存先の分散は、孤独をなくさせるわけではない。そうではなく、孤独の振幅を小さくさせることで、「ちょっと寂しいくらい」の平凡な日常をもたらすのである。』と本章は締められる。

    「予定的自己決定」的設計と「後付け的自己決定」的設計

    では、先の『どうすれば設計における予測誤差を快楽を伴う創造性の契機に変換し、環境を可能性の海として捉えることができるようになれるか』という問いにはどう答えられるだろうか。
    一つは、予測誤差を「遊び」の文脈に置くことでしょうか。それは、予測誤差をうむ他者を制約の発生源として見るのではなく、探索の共同者とみる視点を持つことだと思いますが、実践の現場でそれを行うには、設計のプロセスや他者との関わり方を見直し、新たにデザインすることが必要になってきそうです。それが今の自分の課題だと思っています。

    そういえば、倉方さんの著作で決定に関わる「遊び」について触れられてました。
    オノケン【太田則宏建築事務所】 » B120 『吉阪隆正とル・コルビュジエ』

    また「決定する勇気」 の源といって良いかもしれないが、建築を『あそぶ』ということもコルから引き継いだものだろう。コルの少年のように純粋な(そしてある部分では姑息な)建築へのまっすぐな思いに触れ『あそぶ』強さも引き継いだに違いない。(ここまで記:太田)
    『吉阪の魅力は、(機能主義、「はたらき」、丹下健三に対して)それと対照的なところにある。むしろ「あそび」の形容がふさわしい。視点の転換、発見、機能の複合。そして、楽しさ。時代性と同時に、無時代性がある。吉阪は、未来も遊びのように楽しんでいる。彼にとって、建築は「あそび」だった。「あそび」とは、新しいものを追い求めながらも、それを<必然>や<使命>に還元しないという強い決意だった。(括弧内追記・強調引用者)「吉阪隆正とル・コルビュジエ(倉方 俊輔)」』

    最後の部分などまさに、という感じですが、コルビュジェや吉阪隆正に感じる自由さ・魅力のようなものはここから来るのかもしれません。

    最後に、実は本章の注記の部分も密度が濃く示唆に富むものだったため、長くなりますが一部抜き出して考えてみたいと思います。

    私は、自己決定や意思決定と呼ばれるものには、二種類のものがあるのではないかと考えている。一つ目は、行為を行う「前」に、どのような行為を行うかについての予測を立て、その予定に沿った形で自己監視しながら行為を遂行するというものである。これを、「予定的自己決定」と呼ぶことにしよう。リハビリをしていたころの一挙手一投足は、予定的自己決定だったといえるだろう。
    二つ目は、さまざまな他者や、モノや、自己身体の複雑な相互作用に依存して先に行為が生成され、その「後」に、行為の原因の帰属先をどこにも求められず、消去法によって「私の自由意志」というものを仮構してそこに帰責させるというものである。これを「後付け的自己決定」と呼ぶことにする。一人暮らしの一挙手一投足の多くは、後付け的自己決定だった。
    予定的自己決定だけで上手くいくには、「こうすればこうなる」という予期構造の学習が必要である。しかし、現実を完全に予測し尽くす予期構造を学習することは不可能であるし、もしも完全に予測できているなら、自己決定なしの習慣化された行為だけで事足りるだろう。予定的自己決定は、ある程度予期構造はあるが、不確実性も残されている状況下で決断主義的になされるものであり、否応なしにある確率で予測誤差が生じる。この時、予測的自己決定は断念せざるを得ず、後付け的自己決定に切り替えて探索的な行為を生成させることで、予期構造を更新させる必要がある。
    後付け的自己決定が自由な探索を可能にする前提には、「行為の原因を帰属させられるような、突出して目立った依存先からの予測誤差を知覚できない」という条件がある。痛みなどの強い身体感覚や、顕著なモノや人からの知覚といった、目立った依存先からの予測誤差がある場合、自分の行為がその依存先によって、「仕向けられたもの」と原因帰属されるため、後付け的自己決定は失敗しやすい。たとえば、学習性不使用のように、痛みという目立った身体感覚によって行為が支配されている時には、後付け的自己決定による自由な探索は失敗し、その結果予期構造の可塑的更新がストップする。
    「予期構造→予定的自己決定→予測誤差→後付け的自己決定→予期構造の更新→・・・」という循環が回り続けるためには、「各方面の依存先から予期構造を裏切る予測誤差が豊富に与えられるが、突出して目立った依存先からの予測誤差を知覚できない」ということが前提条件となる。そして、依存先の集中は、限定された依存先へと知覚を集中させ、その依存先を目立たせる可能性が高まるので、この循環を阻害しうる。むろん、依存先を分散させなくても、限られた依存先がひっそりと目立たず行為を支えることで、後付的自己決定が可能になることはあるが、それは予測誤差の知覚そのものを低減させることで予期構造の更新をストップさせる。しかも目立たない依存先への集中による見かけの安定性は、非常に脆弱な基盤の上に立った状況と言わざるを得ず、震災のような突発的な外乱によって、容易に依存先の(不十分さの)存在を目立って知覚させる。依存先の分散は、二つ目の自己決定の循環を可能にする法法の中でも最も頑強で公正なものだと考えられる。

    ここで出てきた「予定的自己決定」「後付け的自己決定」というのは「予定的自己決定」的設計と「後付け的自己決定」的設計というように設計の場面でも適応できるように思います。
    (これは『たのしい写真―よい子のための写真教室』で書いたブレッソン的建築、ニューカラー的建築とも対応しそうですし、dot architectsなんかの方法も分散化の手法と言えそうです。)

    また、「後付け的自己決定」的設計を成功させるための鍵は、「各方面の依存先から予期構造を裏切る予測誤差が豊富に与えられる」ことと「突出して目立った依存先からの予測誤差を知覚できない」ことにありそうです。
    (そういえば、『空間から状況へ(2001)』あたりでみかんぐみがパラメーターを豊富に集めて等価的に扱う、というようなことを書いていたような気がしますが(該当の文章が見つからない)、まさにこういうことを実践されていたのかもしれません)
    では、「突出した依存先からの目立った予測誤差が知覚」される場合、例えば行政の仕事の場合に多いかもしれませんが、権力者であったり、前例主義であったり、好みであったりなどとの予測誤差が大きい場合はどうすればいいでしょうか
    非常に難しい問題だと思いますが、ひとつ考えられるのは、他の依存先を増やしたり重要度をあげることで相対的に目立った依存先の占める割合を下げることがありそうです。もしくは信頼を積み重ねることで目立った依存先の絶対的な知覚量を減らし共同関係に持ち込むように力を注ぐか。
    いずれにせよ、何らかの戦略を持つことが必要だと思いますが、本著で書かれているようなことはそのための礎になりうる気がします。


    ここまで、本著の内容の一部をまとめて思ったことを書くという形で進めてきました。誤解が含まれているかもしれませんがある程度イメージはつかめてきたような気がします。

    建築設計の場面で生物学的転回を目指すには
    ・環境を主観的な設計行為に対する制約として受け止めるのではなく、環境それ自体を可能性の海、能動的に探索する対象として捉え、知覚・技術・環境のダイナミックな関係性の中に置く。
    ・(つくること)と(つかうこと)のそれぞれの場面で上記のような関係性を考える。
    ・(つくること)と(つかうこと)の間の断絶を乗り越え、(つかうこと)の一端を建築が担う可能性を開く。環境はそれらをつなぐ可能性がある。また「複合」もしくはコンセプトはそれをより高次で維持するための武器となりうる。
    ・予測誤差を「遊び」の文脈に置き、予測誤差をうむ他者を制約の発生源として見るのではなく、探索の共働者とみる視点を持つ。
    ・「後付け的自己決定」的設計を成功させるために「各方面の依存先から予期構造を裏切る予測誤差が豊富に与えられる」ようにし「突出して目立った依存先からの予測誤差を知覚できない」状態を保つ。

    ということがとりあえずはあげられそうです。(他の章も丹念に読みこめばヒントがありそうですが・・・)

    そして、ではどのようにすれば、実際の現場でそれを実践することができるか。成功率をあげるためには具体的にどのような工夫ができるか。という宿題に対してはしっかり時間をとって考える必要がありそうです。