B213 『人の集まり方をデザインする』

千葉 学 (著)
王国社 (2015/8/1)

基本的にはこれまでの論考を集めたもの。本のタイトルは書き下ろしのタイトルと同じ『人の集まり方をデザインする』となっている。

最後のピース

タイトルから抽象的な内容が多いのでは、と思っていたけど、具体的な作品をベースとした論考(もしくは解説文)が中心で、建築的思考の王道を見てるようで安心して読めた。

最近は、雑誌の作品解説文を読んでも、抽象的な問題設定からいきなり具体的なものに跳んでしまっている印象を受けることが多いけれども、それらをつなぐ、ちょうどその間が丁寧に語られている。

安心して読めることが良いことだとは限らないけれども、抽象的な問題設定と具体的なものの間を埋めることがおそらく建築なのである。
そして、自分は最後、ものへと結びつけるような思考が弱いと感じている。
問題設定からものの近くまでは寄れるけれども、最後、ものへとつながるピースがなかなか埋まっていかない。

そういう点で久しぶりに建築を強く感じた本だったけれども、結局の所は、最後のピースはその時その時に必死に藻掻き、試しながら探し続けるしかない、というのを再確認することになったように思う。

人の集まり方 他者性 開かれた自由

間が語られていると言っても、まず共有もしくは考えるべきは、この本のより上流のメッセージのはずなので、それについて、少し考えてみたい。

だから建築が、そこに期待されるコミュニティや社会にとって最も相応しい人の集まり方のデザインとして構想されていくことは、建築の普遍的なテーマであると思うのである。(p.12)

だからこそ、この「他者性」を計画する、という難問を克服するしか方法はないのではないかと思うのだ。極めて動物的な臭覚を頼りにした上で見えてくる人の集まり方に対する観察を深め、それを「他者性」を前提に計画する建築との相関の中に見出していく。そうすれば、単に丸いとか四角いとか、幾何学的とか有機的であると言った短絡的な類型を超えた新しい建築のあり方が、流動化する世界に便乗することのない新しい建築の形式として見えてくるのではないかと思うのだ。そうすればきっと、この動かしがたい建築が、まるでテーブルと椅子を自由に並べ替えるかのように、本当の意味で開かれた自由を獲得することになるのだろうと思っている。(p.22)

出てくるキーワードをつなげると、人の集まり方の自由が、本当の意味で開かれた自由へとつながる。そして、それは他者性を前提として見出されていくもの。となるだろうか。

人の集まり方を主要なテーマとすることによって自由と向き合う道筋をつくる、という点が自分にとっては新鮮で少し目の前が開けた感じがする。建築ならざるものに意識の中心を向けつつ建築に結びつけようとすることは、建築に他者性を与えるための方法の一つであるとも言えそうである。

建築は人の集まり方を含めた様々な自由に対して、それらをどうしても規定してしまうものだが、それを避けるにはできる限り他者であろうとすることが重要である。
それは、建築の自立性や地形性として『deliciousness おいしい知覚』の「おいしい距離感~建築の自立性と自律性」「おいしい地形~原っぱから洞窟へ」のところで考えてきたことでもある。(詳細はリンク先を)

ゲームのような建築について 近代からの脱出

この時参照した、青木淳氏の「原っぱと遊園地」に関して、建築討論に浅子佳英氏の『「ゲームのような建築」序説 ─── 青木淳論』という興味深い記事がアップされた。
まだ序論のβ版なので、論の続きがあると理解した上で、自分自身がうまく消化できていないので少し考えてみたい。

onokennote: 個人的には青木淳はゲームとしての建築をつくろうとしてるんじゃなくて、ゲームをするように建築をつくろうとしてるんじゃないか。ゲームは目的ではなく手段。という気がしている。 [2019/03/09]


onokennote: プレイヤーは青木淳であって、利用者はそのゲームからも自由になれることが目指されているんじゃないか(そこで遊ぶかどうかは勝手)。ルールは作り手の側に要請されるものであって、本来利用者にはその存在を意識されるべきものではないのではないか。 [2019/03/09]


onokennote: と、今は感じているけれども、もしかしたら僕の主体像の更新が遅れているだけで、利用者もゲームもしくは遊びからは逃れられないのかもしれない。 [2019/03/09]


onokennote: ただ別様でもありえた、という状況を生み出すために、(別様でもあり得る)ルールが要請されると思うのだけども、その別様でもあり得るというところにゲーム性を見るのであれば、利用者はそれを「理解した上で、なおその世界に没頭して遊ぶ」ことがポストモダンの作法なんだろうな。 [2019/03/09]


onokennote: あっ、ちょっとつながってきたかも。主体像の更新というのはそういうことか。な。[2019/03/09]


少し前にツイートしたように、ざっと読んだだけでは青木淳氏とゲームのような建築の結びつきをうまく消化できなかったのだけど、この論が青木淳氏の建築論とともに主体像の更新を図るものである、と考えると自分の中で少しつながった気がした。

それでも、まだ少しすっきりしないものが残る。
単純にこれまでのゲームを素材とした議論にあまり触れてきていないせい、ということもあると思うけれども、それはおいおい追ってみるとして、今考えられる範囲で何がすっきりしないかをもう少し考えておきたい。

ゲームのような建築は他者足りうるか。それは建築が主体の側に主体としての在り方・作法の更新を強いることになりはしないか。
また、果たしてそのような作法を持ちうるか、もしくはそのような主体としての振る舞いを導くような建築というものがありうるか。
それは時代を超えた普遍性をもちうるか、もしくはそういう普遍性は必要ない、ないしは普遍性の概念を更新すべきなのか。

いろいろな疑問が頭に浮かんでくるが、ここでふと、この疑問の形式自体が近代の枠組みに囚われているのではないか、と思えてきた。

前回読んだ本、
鹿児島の建築設計事務所 オノケン│太田則宏建築事務所 » B212 『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』

モートンはモダニティ、自然や世界、環境と言った概念のフレームや構造的な思考自体が失効し、その次のエコロジカルな時代が始まっていると言う。 エコロジーについて思考すると言っても、自然や環境といった概念的なものを対象とするのではなく、身の回りの現実の中にあるリアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当て、エコロジカルであるとはどういうことかを思索し新たに定義づけしようとしているように感じた。

(理解に乏しいのでおそらくだけど)モートンは「モダニティからの脱出」は可能といい、リアリティを丁寧に拾い上げるような姿勢の方に焦点を当てる。そこではあらゆるものがフラットに捉えられる。

先の疑問には、外部に主体に働きかける環境があり、その環境を改変すれば主体の側を変えることができる。そこには何らかの構造が存在し、概念のフレームを用いて解き明かすことができる。そんな思考の枠組みがあるのではないか。人間中心主義ならぬ建築中心主義とでも言えるような枠組みに囚われているのではないか。

つい、物事を構造的に捉えて建築の側からみてしまう、という枠組みから逃れるよう、(モートンの「人間ならざる存在」「自然なきエコロジー」になぞらえて)「建築ならざる存在」「建築なき建築論」とでも言えるような所からはじめて見てもよいのかも知れない。

そうすると、先に「建築ならざるものに意識の中心を向けつつ建築に結びつけようとすることは、建築に他者性を与えるための方法の一つであるとも言えそうである。」と書いたように「人の集まり方をデザインする」に戻ってくる。

建築そのものよりも、まずは主体の在り方をフラットな視点で捉えることが先決なのだ。

そう思いながら、自分の子供達の現況や未来を考えると、原っぱはますます希少になっていき、遊園地ばかりの状況を生きていくことは容易に想像できるし、かなりの部分はすでに遊園地である。
そうであるなら、原っぱを経験することも大切だけども、遊園地ばかりの状況を楽しくサーフィン(古い?)するような作法を身につける必要がある。というよりは、もはや遊園地なんて僕らにとっての原っぱくらいの存在へと脱色していきながら、そこでそこそこ楽しく過ごしていく作法を当たり前に身につけていくのかも知れない。

消化してみたいといろいろ考えてみたけれども、結局、浅子氏の主張は
「ゲームのような建築」序説 ── 青木淳論 – 建築討論 – Medium

自身の常識を疑い、学び続けること。 個人としても集団としても複数の世界を生きること。そしてそれを楽しみながらできる状態をつくること。

この文と文の並びに凝縮されているように思う。

最後のピースがなかなか見つからないのは、まだ建築に意識が向きすぎているからかもしれないな。

 
(余談だけど、「人の集まり方をデザインする」が「モダニティからの脱出」に(たぶん)つながったように、現代の建築について真剣に交わされる議論のほとんどは、ポストモダンな今に真摯に向き合って生まれたものだ、というのは割と信用しています。)

メモ

以下忘備録的メモ

つまり常に特異点でしかあり得ない建築の個別性を考えながら、同時にその建築がどこにあっても成立しそうな形式性を備えていること。あるいはどんなプログラムに対しても柔軟に対応できそうな冗長性を備えているという事象を強引に結びつけることに、これからの建築の可能性を見ようとしたのである。(p.69)

つまり建築に置いても、4つ目のsite determinedはあり得ると思ったし、それは、僕が「そこにしかない形式」という言葉に託して伝えようとしていたこととほぼイコールだと了解したのである。(p.72)

常に新しいツールを発見しながら、都市や自然に対する解像度を高め、そこから得られる情報を身体化するという基本的な「技術」の研鑽が、今あらためて必要なのではないかと思うのだ。(p.146)

このような都市への構え、つまり自らのプライベートな居場所を守りつつ、その場所に住んでいるという実感を獲得するという相矛盾した欲望を両立するような住宅は、実は僕にとっての理想的な住宅のあり方に近いのではないかと思っている。(p.155)

人間の身体を尺度に地形のような建築をつくる。このようなスタンスは、実は居住環境に限った話ではなく、近代合理主義的建築、ビルディングタイプ的思考に縛られた建築を脱する新たな方法にもなるのではないかと思っている。(p.162)




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