B211 『勉強の哲学 来たるべきバカのために』

千葉 雅也 (著)
文藝春秋 (2017/4/11)

この本は前から気になってはいたのだけど、結構売れてる感じだったので少し距離をとったまま読まずにいました。
この本の流れで言えば、一般層に売れてるということは新しい言語との出会いは少ない(言語の不透明性が低い)だろうというカンが働いたのだと思います。(そして、それは想定の範囲内で当たっていたと思います。)

ですが、あるきっかけがあって買ってみました。

(以後、ごくごく個人的な内容になりそうです。)

なぜこの本を手にとったか ノることと勉強することについて

先日、中学時代の同級生の忘年会があり、そこに当時の先生も参加されてたのですが、先生に「太田はこういうノリの場所はあんまり好きそうじゃないのに毎回顔をだすのが偉いな」というようなことを言われました。
自分としては楽しくて参加してるので少し意外でしたが、確かにノリを求められるような空気は苦手です。
(ノリが良くて、かつそれを眺めながら自分のテンションで参加を許されるような場所はむしろ好きです。)

自分がノリの悪い人間だとは思わないけれども、周りのノリに合わせるは苦手なのは確かです。

そんな中、世の中の流れ、というか表れとして、ノリと勢いでいろいろなことを進めたほうがうまくいくんじゃないか、と感じる場面が増えてきました。
一方、ノリに合わせるのが苦手ということや、個人事務所としての限られたリソースの配分問題もあって、自由に使える時間を読書等に当てることが多いのですが、その時、新しい何かを掴みたい、という欲求と、こんなことをしていて良いのか。机上論ばかりになるのでは、という後ろめたさとの2つの感情がぶつかりあうことが多いです。

プロフェッショナルとしてもっと勉強してもっと自分を深めていきたい、という感情と、正論とノリと勢いを見方にした方が経験含めてもっと遠くに行けるんじゃないかというような感情(「早く行きたいなら、一人で行きなさい。遠くへ行きたいなら、みんなで行きなさい」みたいなのがありますよね。)がぶつかり合う感じで、自分の中の優先順位や姿勢の問題としてうまく整理できないでいたのです。

ノることと勉強すること。あまり横並びになることはなさそうな言葉だと思うのですが、そこへたまたま紹介されたこの本がまさにノリと勉強との関係を説いているのを知って読んでみた次第。

新しい言語環境へ飛び込む

この本で書かれている、異なる言語の新しい環境に引っ越すような感覚は経験としてもよく分かります。

建築を学び始めた頃はまったく言葉が入ってこなかったけれども、分からないなりに100冊位読んだ頃から徐々に読めると同時に考えられるようになったし、若い頃に出会ったアフォーダンスとオートポイエーシスの概念からは20年位付き合った結果新しい世界の見方、新しい言語環境にノれる様になってきました。
振り返ると新しい言語環境へ飛び込むことで得られたものはかけがえのないものだったと思います。

今は、街や都市、公共空間や大衆や空気といった社会的な目線での新しい環境・言語にノれるようになりたいと思っているのですが、その根本を眺めてみると建築やアフォーダンスなどの言葉を求めたのと同じ様な問題意識もしくは享楽的こだわりがある気がします。

ノることと勉強することの問題にどう折り合いをつけるか

本書を読むに当たっての問題意識は「ノることと勉強することに対して、優先順位や姿勢を自分の中で整理したい」というものでした。

それに対してどう答えることが可能か、考えてみたい。

まずは勉強に対して、勉強を続けるべきか否か。
結論としては続けるべき。仮固定として中断は良いが決断的にやめてしまうのは根拠をなくし他者へ絶対服従することにつながります。それは避けたい。
また、勉強するにあたって信頼すべき他者は勉強を続けている他者、すなわち仮固定を更新し続けている他者ですが、自分はできるなら信頼すべき存在でありたい。
さらに固定してしまわずに自分を変化させ続けること、動き続けられる状態を維持することが今の社会を生きていく上で必要なことだと思いますし、変化を拒むことはやがて社会的な分断へともつながります。いつでも動けるような状態は維持しておきたい。
そのために勉強し続けるという姿勢が必要なのです。

オノケン » B207 『公共空間の政治理論』より関連のありそうな部分

SNS等によってやんわりと可視化される境界と分離の構造。 それに対して個人としてはどういうスタンスをとるべきか。

実践を通じて、分離の構造の裂け目を動かしはじめている方、さらに、そこで新しく生まれた空間が結局分離の構造へと回収される、ということを避けるための振る舞いを編み出し始めている方、の顔も何人か頭に浮かびます。

ぽこぽこシステムじゃないけど、動いているということ、はたらきそのものが重要なのは間違いなさそうな気がします。

個人的には脆弱性をどう生きるか、というのが今の課題のように思いました。
歳を重ねるにつけて、脆弱であることよりも安全である方を選ぶ傾向が強くなってきているように感じるのですが、それは、自分の生と未来を少しづつ手放してしまっているのかもしれません。

それではノることはどうか。必要があるのか、どうやったらノれるのか。
この本の来たるべきバカとは、別の仕方でバカになり直すものであり、環境に対してメタになりつつ環境の中で特異的な存在として行為するものです。
勉強によって異なる環境・言語・コードと結びついたバカ(享楽的こだわり)でもって環境の中へ戻る。
ここでは、「ふたたび環境の中へ、行為の方へ向かう―それが筋トレの比喩で言えば、勉強におけるキモさの「減量期」なのです。」とだけ書いてあり、再び環境の中へ帰れとは書いていない。
しかし、そもそも勉強は環境のノリから自由になるためのものであったし、最初に書いたような個人的葛藤はバカと来たるべきバカの間の増量期であるから必然的に陥っているものである。であるなら、キモさの減量期に入ってもよいのではないだろうか。
来たるべきバカは、環境のノリから自由になり、代わりに自己目的的な享楽的こだわり=新しいバカ=第2のノリを携えて環境の中へ帰るのだ。

自分の勉強してきたこと、勉強していることの根底には共通して、享楽的こだわりがあることも分かってきた。結局はこだわりなのだ。

ノリを求められるような空気は苦手。
 ↓
勉強したい欲求が強い。
 ↓
勉強によって享楽的こだわり=新しいバカ=第2のノリを洗練させる。
 ↓
環境からのノリから自由になって、第2のノリを携えて環境の中へ、行為の方へ向かう。
 ↓
最初は減量期でギクシャクもするだろうけど、減量に成功すれば新たなノリで馴染めるようになり楽しいはず。

これで何とか筋が通った気がする。
要するに自分はキモい時期(増量期)で、どうやら減量期に入らないといけないようだ。

同級生の飲み会が楽しいのは、小さい頃からの付き合いで享楽的こだわりのノリが認められている(もしくは歓迎されている)からなんだな。
大人になってからの付き合いを深くするにはおそらく減量期を意識的に組み込まないと難しいんだろう。
(twitter同窓生もキャラ(享楽的こだわり)から付き合いが始まってるから昔からの友達みたいな懐かしさがあるんだな。)

自分の享楽的こだわりについて、もう少し突っ込んで分析してみよう。(この本にもそのための方法が紹介されている)

また、著者のより専門的な本も読んでみたくなりました。




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