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経験には喜びや希望、生きることのリアリティが内在している B188『経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ』(エドワード・S. リード)

エドワード・S. リード (著)
新曜社 (2010/3/31)

前回と同じ著者で、生態心理学の流れで倫理的な視点に対して信頼を持てるようになることを期待して手にとったもの。

原題は『The Necessity of Experience(情報の必要性)』だが、最終章のタイトルよりとった『経験のための戦い』が邦題である。
最初に感想を述べると、哲学的な枠組みからか、教育や労働環境等とその背景となる哲学や心理学に対する批判が8割以上を占めている感じで少し読むのが辛かった。
主旨から考えると、『経験のための戦い』として批判にページを割くのではなく、『経験の悦び』や『経験の希望』というような内容に力を入れて欲しかった、というのが率直な感想である。

哲学的枠組みに乗って現在あるものを否定することで正当性を求めるのは、本書で批判している枠組みそのものをなぞり、経験的な意味を損なうことになると思うし、その枠組では結局のところどういう立場からものをいうかの観念的問題でしかなくなるような気がする。それよりは経験に内在するという悦びや希望、可能性を丹念に描き出すことに力を注いで欲しかった。(そういう意味では前回の本は面白く読めた。)

とは言え、その批判的な部分は現在のものづくりにもそのまま当てはまるし、デューイの哲学はこれまで見てきた生態学的な倫理の基盤とも言えるものであった。

確かに現在のものづくりは不確実性に対する恐怖が支配的で機械的になものになっているし、一時的経験が剥奪されたものの集合体である都市は技術や経験の蓄積としての集合的記憶を見失いつつある

それに対し設計に関わることでできることは、不確実性に対する恐怖に贖い生きられた経験を取り戻すべく努力することと、設計を新たな集合的記憶への道を示すような”技術”として捉え直し風景へと埋め込むような可能性を模索することだろう。

では、知覚・経験がもつ根源的な意味については何が言えるだろうか。

確信を得るためのものが見つかったとは言えないが関連しそうな部分を抜き出しておきたい。(強調は引用者による)

(行動の動機となるような)行動に付随しておこる積極的あるいは消極的な感じは、孤立した内的状態ではなく世界を経験することの一部なのである。

日常経験にかかわるエロスつまり生きられた経験の喜びは、端的にいって生活への愛、[事物や他者との]出会いや効用の快感である。エロスは対象や情況とのわれわれの出会いに内在している

ごく普通に何かをすること-料理、庭いじり、裁縫、建築、音楽、スポーツ(中略)これらの活動は(フロイトによる)妨げられた性交などではなくて、環境と触れ合うありふれた方法であり、そのままで楽しみなのである。

彼(モリス)がゴシック様式を愛好したのは、石工その他肉体労働者が建物を設計したという事実に拠っていた。かれらは建築家の設計図をただ実行に移しただけではなかったのだ。(中略)モリスにとって有用な仕事は、とりわけ誇りと希望を人に植え付ける仕事だった。ここで、誇りとは自己と生産物に対する誇りであり、希望とは自己改善と十分な「休息」に対する希望である。

すべての人間の経験には、ごく単純なそぞろ歩きから複雑極まりない技術的熟練に至るまで、限りない可能性がある。したがって経験のもっとも重要な面である希望は、主観的感情ではなく、世界とわれわれの出会いの客観的特性なのだ。

希望は主観的でも私的でもない。希望は公共的な経験と行動の一面なのである。希望に必要なのは、個人が行為の主体として自らの成功と能力の両方を知覚することであり、目標への進路が「開かれている」(すなわち、自分のエージェンシーにとって実現可能である)ことである。

われわれの生活の意味は、自分でそれを捜す努力を払うときにのみ見いだされるだろう。

この本でも経験が喜びや希望とつながる、と言えるような確実な根拠はなかったように思う。(それを求めるのも不確実性に対する恐怖に囚われているのかもしれないが。)
それでも、経験(知覚と行為)が意味と価値を内包し、生物が生きていく上で不可欠なものであるのであれば、そこに喜びや希望、生きることのリアリティが内在しているとしても不思議ではないし、特に子供の頃を思い返せば実感としては納得できる気がする。

いや、もしかしたら、そこに確実性を求めるのではなく、リアリティとつながる体験とは何か、を考える実践的努力とそれを信じる勇気こそが必要なのかもしれない。
これまで見てきた佐々木正人他さまざまな人たちがそれを体現してくれているように思う。

(”少年のモード”と”つくることとつかうこと”がそのヒントになるだろうか。)