実践状態に戻す-建築における詩の必要性 B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』

小池 昌代 (著), 塚本 由晴 (著)
河出書房新社 (2012/6/9)

久しぶりの読書記録。
ちょこちょこ本は読んでましたがなかなかブログに書けないでいました。でもやっぱりその時々に感じたことを記録しておきたいのと、何か書くつもりで読んだ方が得るものが多いかと思い再開してみます。

この本はアトリエワンの塚本氏と詩人・小説家の小池氏の対話を収めたもの。

物理的に重量がない言葉を、重い建物に吹きかけることによって、その重さが必ずしも凝固したかちかちのものでないような、軟らかで変形可能なものにしておく。(塚本氏 p9)

これがどういう事を差すのか。氏の「ふるまい」という言葉には前から興味を持っていてなんとなく分かるような分からないような感じだったのだけど、本書に出てくる「実践状態」という言葉でかなりイメージしやすくなった気がします。

その木を見ると、木というのは形ではなくて、常に葉っぱを太陽に当てよう、重力に負けずに枝を保とう、水を吸い上げよう、風が吹いたらバランスしよう、という実践状態にあることからなっているのだと気がついた。太陽、重力、水、風に対する、そうした実践がなければ生き続けることができない。それをある場所で持続したら、こんな形になってしまったということなのです。すべての部位が常に実践状態にあるなんて、すごく生き生きとしてるじゃないですか。それに対して人間は葉、茎、幹、枝、根と、木の部位に名前を与えて、言葉の世界に写像して、そうした実践の世界から木を切り離してしまう。でも詩というのは、葉とか茎とか、枝でもなんでもいいですけど、それをもう一回、実践状態に戻すものではないかと思うのです。(中略)
詩の中の言葉は何かとの応答関係に開かれていて生き生きとしている。そういう対比は建築にもあるのです。窓ひとつとっても、生き生きしている窓もあれば、そうでない窓もある。建築には本当に多くの部位がありますが、それらが各々の持ち場で頑張っているよ、という実践状態の中に身を置くと、その空間は生き生きとして楽しいのではないか。それが、建築における詩の必要性だと思っています。(塚本氏 p169)

この文に出会えただけで読んで良かったなと思うのですが、氏の「ふるまい」という言葉を含めいろいろな言葉がすっと入ってくる感じがしました。

例えば精巧な造花、祭壇の電球ロウソクなどは、おそらく管理の問題から実践状態を放棄しており、そこには生き生きとした関係性は失われているように思います。
同様に、パッケージ化された住宅を始めとした多くの建築の作られ方は、生き生きとした実践状態を放棄して一定の言葉や価値観の中に閉じこもっているように思えます。

建築・空間を「実践状態に戻す」といっても機能的なことばかりでなく抽象的なレベルまで含めて様々な手法が考えられるかと思いますが、様々なレベルでそれを意識することは空間を生き生きとしたものにさせる上で有益だと思います。

そういう点で見れば、リノベーションはその定義から言っても「(例えば古くなることで)実践状態から外れたもののなかから、ふるまいに関わる要素を抽出・活性化して再び実践状態に戻すこと」が宿命付けられており、多くのリノベーションに生き生きとした豊かさを感じるのも当然のことかもしれません。

ただ、この時に「ふるまいに関わる要素を抽出・活性化」しようというような目線はリノベーションに限られるものではないので、新築の場合にも同じような目線・構造を持ち込むことはできるかもしれません。
例えば青木淳さんの「原っぱ」「決定のルール」、「地形のような建築」で考えたようなこと、「地形のように自律した存在の場所に、能動的に棲み込んでいく」ようなことは、リノベーションと同様の「ふるまいや実践状態への目線」を浮かび上がらせ、空間を生き生きとしたものにするための構造と言えそうな気がします。
(結局、棲み家、というところに戻ってきた。)

あと、実践状態というと、まちづくりやリノベの事例での生活に根ざした人々の笑顔や、象設計集団なんかが頭に浮かびます。
建物ができたときに、抽象的に美しい、かっこがいいというだけでなくて、むしろ、人がいきいきと使っている場所と言うのが一番価値が高い。(TV『福祉ネットワーク“あそび”を生みだす学校』)

人もものも生き生きとしているもの、つくりたいです。

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