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HS-23


何々の家と名付けるのが面倒になってきました。
最初はネーミングのしやすさそのものに価値がありそうな気がしてたのですが、それに縛られる必要はないですね。

分かりやすさという点を考えて続けていこうかと思いますが、どうしたものでしょうか。

これも安易にL型の家と付けましたが、大切なのはここからで、この構成に対して内部空間がどのような関係性を築け、それに対する住人との関係性・生活がどのように生まれてくるかを詰める必要があります。

プランもある程度は考えてるのですが模型をつくりながらもう少しイメージを膨らませてみよう。

建築が内部から作られるべきか、外部から作られるべきか、という問題があると思います。

以前は順番としては内部から外部が決まり、その後何度もそれらを行き来させることが良いように思っていたのですが、気付けば最近のスタディは内部のざっくりとしたあたりをつけた後、外部に行き、それに対して内部を考えながら行き来するという感じになってきています。

おそらく青木淳の 『原っぱと遊園地』を読んだあたりから、そういう欲求が強まったように思いますが、建築が(エコロジーという意味でなく純粋に)環境であって欲しい、その上で人と建築との関係性のようなものが生まれて欲しいという欲求から外部を先に考えるようになったのだと思います。

そう考えると、考えているのは外部ではなく、内部の方なのかも知れません。外観をあたえるというよりも、内部を生み出す器を先に与えているという感じ。

内部の機能・快適性から外枠を決めていくのが遊園地的だとすると、器を与えてそこに棲み込むというのはやっぱり原っぱ的ですね。

それで行くと、今欲しいのは器を考えるルールと言う事になります。

ルールによって建築が生まれるのか、という問に関しては、ルールによって人間の存在を越えられるんじゃないかという期待を持っている、と今は答えますが、人間の存在を超えないけれど目指すべき建築・もしくは人間の存在によってルールを超える建築というのはありえないのかという問にはまだ言葉を持っていません。

もしかして後者の中に鹿児島における建築を考えるヒントが眠っていそうな気もしますがよくわかりません。