イメージの更新 B307『分解の哲学 ―腐敗と発酵をめぐる思考』(藤原辰史)

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藤原辰史 (著)
青土社 (2019/6/25)

なので、環境を考える際に重要なのは、利用可能な資源性という点でのエクセルギーにあって、ゴミであるエントロピーは副次的なものに過ぎない。というのがなんとなくのイメージだった。 しかし、本書を読んで分かったのは全く逆で、あらゆる資源性(エクセルギー)は、エントロピーというゴミがうまく排出され循環の中に位置づけられることなしには機能しないため、重要な問題はエントロピーの方にある、ということだった。資源性を第一とするイメージは未だ近代的な世界観に囚われてしまっていたのだ。(オノケン│太田則宏建築事務所 » あらゆる循環を司るもの B292『エントロピー (FOR BEGINNERSシリーズ 29) 』(藤田 祐幸,槌田 敦,村上 寛人))

エントロピーの排出が循環の決め手であったのと同じく、分解は循環になくてはならないものである。
本書は、そのことを、科学的に位置づけたり、効用をとりあげるだけでなく、哲学的な考察を加えながら吟味していく。

分解という作用

生態学では、生物を「生産者」「消費者」「分解者」に分けるのだが、実際には、植物も呼吸をして消費をしているし、動物が食べることは消費であると同時に分解の一部でもある。微生物も分解も消費の一部だ。
この、生産や消費という言葉は経済との関連を想起させるし、分解者には循環に貢献する「機能」を期待させ、人間本位の意味合いを強く持たせてしまう。

近代的な世界観にどっぷり浸かった人間は、つい、生産や消費を、分解よりも上位において考えてしまい人間主体の思考から抜け出すことが難しい。これをどう振り払うことができるだろうか。

前回読んだ『人類堆肥化計画』が顕にしたように、分解者はただ、自らの生存のための営みを継続しているだけであり、そこには生と死にまみれた世界がただ存在しているだけだ。

これまで私は、ハインリッチの「生きものの葬儀」という視点を手掛かりに、糞虫という甲虫の生態を学びながら、生態学の「分解者」から「分解」を、うつろう「作用」として腑分けしてきた。機能ではなく作用としたのは意味がある。機能は、ある特定の受益者を想定しているような意味、政治的にはナチスの中央集権主義的な意味を持つのに対し、作用は、ある特定の受益者に対して比較的ニュートラルな意味を持つからである。まさに、分解は、生産者にも消費者にも、そしてもちろん分解者にも宿っては去っていく作用としてみてきた。(p.270)

生物を「生産者」「消費者」「分解者」といった存在として分け、機能をあてがうのではなく、ただ作用としてみること。
このニュートラルな視点こそがおそらく重要であろう。

これらの作用を、インゴルド的なはたらきの線としてイメージしてみる。それらの線が複雑に絡まり合っているのが生態系・この世界であると捉えたとき、生み出すことも、それを利用することも、解きほぐすことも一つの作用・線であり、これらが絡み合ったメッシュワークが全体としてメビウスの輪のように環をなし、持続可能な生態系の循環を成立させている、ということがイメージできるだろう。

さらに、生み出すこと、利用すること、解きほぐすこと、このどれかの作用が途切れたとしたら、この環が崩れ去るのも容易に想像できるのではないだろうか。

そして、現代の社会が生産と消費に邁進し、分解を疎かにしすぎていることも。

環境の問題から、生命、循環、土壌、菌類ときて分解にたどり着いたわけなのだが、おそらく、環境の問題は人間本位の副次的な問題に過ぎない。
本当は、ただ、ニュートラルに、それぞれが生き、それに応じた作用がそこにあり、それを生態系が包み込む、それだけでいいのだろうと思う。

建築における分解

とはいえ、現実に社会は偏っており、分解は意識の外へはじき出されている。
建築に携わるものとしては、どこまでできるかは別にしても何かしら自分の中にイメージを持っておくべきだろう。

では、建築において分解の作用はどのようにイメージ可能だろうか。

一つは、設計というプロセスに分解のようなイメージを組み込むことだろう。
計画という言葉に象徴されるように、設計は何か一つの完成形に向かって直線的に突き進まなければならないと思い込まされてきた。
しかし、作られたものを解きほぐし再構成させる道を開く分解者のように、設計プロセスもしくは作られたものを、より柔軟に、より自由にするような作用を組み込んだっていいのではないか、という気がする。
(といっても、まだ曖昧なイメージにすぎないけれども)

もう一つは、資源循環やサーキュラーエコノミーと言われるように、建築の素材を循環の中に位置づけることだろう。
現在の建築の多くはメンテナンスフリーを究極の理想として、分解されないもの・循環できないものをつくることが目指される。
建築はその巨大さや高コストのせいで、分解、すなわち手を入れることで再生成するのではなく、耐久性を高めることが合理的と信じられている。

しかし、その合理とは本当のものなのだろうか。

ここでは、「システムの耐久性と強度を強化する」方が耐久性が高く、維持コストも低いに違いない、という思い込みと、動き続ける宿命を背負うなどはまっぴらごめんだ、という近代的価値観がある。
(中略)
ただ、今のテーマは「建築に生命の躍動感を与える」であるからもう少し食い下がってみる必要がある。
エントロピーの法則に逆らうために、流れ続ける宿命を引き受けること。これが生命感の源であるとすれば、「建築に生命の躍動感を与える」には同様に宿命を背負う必要があるのかもしれない。 (このことは、ホッとするような魅力を感じる建物がどういうものだったか、経験を振り返ってみても分かるかもしれない。)
しかしこれは、なかなか簡単なことではない。
まず、更新のための材料を調達するには現代の建築システムではコストがかかりすぎるし、手間をかけるには現代人は忙しすぎる。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 流れの宿命を引き受けるには B299『生物と無生物のあいだ』(福岡 伸一))

私は、この耐久性こそが合理であるという常識は、単に、近代的な思考の枠組みがイメージできることの限界をつくっているだけのような気がしている。
現に私も、資源循環やサーキュラーエコノミーという言葉は単なる(人間主体の)お題目のように感じていて、ピンと来ていなかったのだけれども、本書や最近の読書・実践を通じて、これまでの合理性が導くイメージとは違うイメージが芽生えつつあるように感じている。

それはまだ曖昧で、現実と結びついたものではないかもしれないけれども、それまでの常識・合理性は、ちょっとしたきっかけでひっくり返るような案外脆いものだったのではないか、という疑いは日に日に強くなっている。
そして、新たなイメージは、思ってたよりもずっと当たり前で魅力的なものなのでは、とも。

ここでもやはり、環境問題だ、持続可能性だと大上段に構えることよりも、よりニュートラルな視点からものごとやそこにある作用を見る目の方が大切な気がするし、その目を持つことでようやく別のイメージが浮かび上がってくるのではないだろうか。

先程も書いたように、今はまだ、明確な像を結ぶようなイメージではないけれども、1年前に比べると遥かに視界はクリアになってきているのは確かだ。
ゆっくりでもいいので、もう少し進んでみたい。




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