B004  『意味に餓える社会』

ノルベルト ボルツ
東京大学出版会 (1998/12)

だいぶ前に買った本であるが、僕的にはヒットした本である。
がいまだ整理しきれない。

ここにはニーチェの「神の死」の後、ポストモダン社会をどう生きていくか、ということを考えるヒントがある。

著者は『意味を問うことはポストモダンの社会を欲しないということだ』と言い、われわれに意味を与えようとする様々なものの意味の意味を分析し、バッサバッサときっていく。

それはもう、ギター侍も真っ青なぐらい痛快に。

現代のような社会では複雑性と向き合うことを恐れ、思考をサボれば、分かりやすい意味の補助具にすがりつかざるをえなくなる。そして、その補助具に無意識に頼りすぎると自分の判断を失う。
その結果、ある種の「暴力」に知らずに加担するかもしれない。

見渡せば、そういった暴力はいたるところに見つけられる。

しかし、「意味」をクールに突き放すことには、自らの足場を不安定にし実存が崩れ落ちてしまうのではという恐怖がつきまとう。
いまだ僕は、「クールな視点の後の自由」と「実存的恐怖」の間を揺れ動いている。

もし、その恐怖を突き抜けることが出来たなら、もしくは突き抜ける必要がなかったなら、再度、この本について書いてみよう。
もし、この問題を解決できている人がいるなら、その秘訣・ヒントを教えてほしい。

以下、目次(一部は小見出しと部分抜粋も含む)
興味をそそる見出しが並ぶ。(時事ネタ多く古くなったものもある)
第7章、最後の小見出しは「すべてがデザイン」である!!

●●序論

・われわれの現実において、自明なものはもう何もない。自明性の喪失自体が、まったく自明になっているのだ。
・現代を生きるということは、価値のコルセットをつけて生きること、大きな理念や制度の型にはまって生きることではないのだ。人は自分が何であるかを自分で決めなければならない。意味はますます私的なことがらになっていく。

○意味の政治
・問われるのは実はひとつのことである。すなわち、きわめて複雑な、カオスと紙一重の世界と、どのようにかかわったらよいのか?複雑性とは全体が不透明だということだから、透明であること、明確であること、率直であることに対する憧れがいたるところで生まれる。そこで、人々はいまや、失われた意味を捜し求める。

○超自然としての自然
・環境問題が存在しないのではない。他の関連から切り離された環境問題「自体」が存在するのではなく、何らかのシステムが自己の環境から自己を区別するからこそ、環境問題が生ずるのだ。つまり、環境問題とは、本来、それぞれのシステムが非固定的な環境と自己との境界をどう引くかという原理的な問題なのだ。
・エコロジーは逆説的に、豊かな国々の豪華商品になってしまった。そうなると、環境問題に関する市民の感度は鈍ってくる。成長の限界についての感度の成長も限界に達した、とさえいうことができる。

○意味の意味

○意味論的カタストロフ
・これらは特定の概念が使えなくなったことを嘆いているにすぎない。まさにこの点で、またこのようにして、意味の問題が生ずるのである。どんな文化も、意味を仕立てるための一定の規則に基づいて成り立っている。だから、ある社会のこうした意味論的仕掛けが壊れてしまうと、意味の問題が生ずるのだ。したがって、意味の機器と渡渉するものは、何よりもまず、もはや昔ながらの概念をもってしては現代を満足に記述できないことを示唆するにすぎない。
・これに対して、多くの人々は、昔ながらの理論が役に立たなくなったことを、矛盾として世界に投影するという形で反応する。こうして「危機意識=批判的意識」が生まれるのだ。
われわれは単数集合名詞の檻に生きている。つまり、本来複数でしかありえない実態を一戸であるかのように見せる概念の折に生きている。「歴史」「現実」「人間」
・意味論的カタストロフに直面して、多くの人々は言葉を失う。開放をまったく欲しない人々も多い。だから、われわれの文化は、世界が見通しが利かないものになったことを紛らわすために人々に意味を提供し、言葉の補助具を用意するのだ。

○鍵になる概念
・われわれは明確な概念を必要とする。ただし、それが補助的な構成物に過ぎないことを忘れてはならない。そして、補助的な構成物なしにはやってゆけないということ自体が、この本のテーマなのだ。
・この本は、意味の問題を魔術から開放した上で、楽しげに「その日暮らしで行けばよい」と呼びかけるものではない。クールな実務家は、すでに幻滅に基づく世界像を持っているだけに、全然学習するつもりがない。「実務」を持ち出すことは、たいていは思考をサボるための口実に過ぎない。
・理論なしには、そしてヒエラルヒーなしには、いやでもやってゆけない。ヴィジョンを欲しながら同時にヒエラルヒ-を捨てることはできない。未来のブラックボックスを開くための鍵となる観念こそが、ヴィジョンの名に値するであろう。

●●第1章 扱いにくい灰色の基本問題・・・複雑性

○カオスとブラックボックス
・およそ自信のあるデザインならば、世界を開く構想のつもり、意味創出のつもりでなければなるまい。なぜなら、デザインとは、ブラックボックスの世界が複雑になればなるほど、人間と諸システムの接点の造形、インターフェイス・デザインというものが不可欠となる。
・デザイナーは、単純化の名人だ。彼らは常に、複雑性の縮減を任務とする。
・デザイナーは利用させるのが仕事だから、技術すなわち不透明な仕掛けに対する人間の不安を除かなければならない。

○三つの世界
・われわれ全員にとっての問題は、単純化することによってしか世界の複雑性に答えられないということにある。
・かどの複雑性は、まさに政治にとって、実務の優位という帰結をもたらす。
・哲学者でさえ、原理とか最終的根拠付けとか言うものは存在せず、われわれは常に「かのように」的な構成と取り組まねばならないこと、どんな理論の中心にも概念へと分解できないメタファーがあることを、ようやく理解しているようだ。
・そうした埋め合わせが必要だということは、環境に対し適切に対処するに足りる自己の複雑性を持たないということである。

○単に単純でないというだけのことではない
・刺激から守ってくれるものなしには、または刺激に無知でなければ、やってゆけない。何らかのフィルターが一定の情報を「ノイズ」として度外視することによって、複雑性が縮減される。

○人間本位主義と啓蒙主義
・「危機」という語は、高度の複雑性を単純化し、政治化するものである。はっきりいえば、危機は例外状態ではなく、現代に生きるわれわれのノーマルなあり方なのだ。
・「意味」とは、複雑性の自己記述に他ならない。だから、われわれの世界に意味がかけているわけではなく、われわれの属するさまざまのシステムそれぞれの価値が注目されていないというだけのことなのだ。
・ヒューマニズムもまた、複雑性の問題を覆い隠すものである。その友愛主義は人間を尺度として世界を測るものだが、それはとりもなおさず、生じたことの責任を人間に負わせるということだ。しかし、複雑性とは、人間のせいにできないということ、具体的な人間のせいだといえないことにほかならない。
道徳主義者が世論の動向を決めるのは、彼らがメディア受けするだけでなく、人間の心理を味方につけているからでもある。つまり、新しい思考というものは、それが緊急に必要なときに鍵って実現可能性を持たないのだ。ストレスに曝された者は昔ながらのやり方を頼りにする。複雑な観念を持ち出しても、たいていは空振りに終わってしまう。

○未来ないし統計
・統計が好まれるのは、構造を理解しなくとも数を比較するだけで複雑の諸連関を理解できるように思わせるからに他ならない。
・人々は今日、経験を信頼しないでトレンドを探り当てようとする。経験の軽視とトレンド志向とは表裏一体を成すものであろう。

○時間の矢印の破片
○原理主義者たちと阻止者たち
・生活時間と世界時間がかけ離れるや否や、意味を求める問いが発せられるのである。
・イタリアの映画監督パゾリーニは、低開発にとどまることが阻止者(カテコン)としての力を持つと説いている。後進性こそがユートピアとされるのだ。これと全く同様なのが、世間でもてはやされている「ユックリズムの再発見」の、背後にある発想である。ユックリズムを再発見しさえすれば、もうついてゆけないという体験を解釈しなおして、救出のしるしとみなすことができる、とされるのだ。
・ちなみに、ここには、阻止者論(カテコンテイク)のマーケティングが持つ大きな力、遅れをとったことを逆手に取る一種の販売技術が潜んでいる。「万年筆は、テンポを落とすこと、時間の流れに錨をおろすことの表現です」
・阻止者論を見ても原理主義を見てもいえるのは、現在を自己確認的に肯定する態度がますますまれになったということである。
・いまや、新しいものは終わろうとしているのだろうか?実際、終わりの時を示唆するしるしは沢山ある。

●●第2章 意味社会

・つまり宗教は、何が起こるか分からない(不条理な)世界において儀式により意味を構成するわけだ。
・無論、生きるということは、周りの世界の偶然を自分のアイデンティティーの要素になるように解釈してゆくことである。しかし、きわめて重大な問題にかぎって、個人が解釈しきれないものなのだ。宗教はまさにそこをとらえる。

○近代性の落とし穴
・われわれの近代世界が提供できるのはただひとつ、「何のために」を説いたり目標を掲げたりしないでやっていく「機能的意味」だけである。われわれの社会は、高次の意味を問うことがないからこそ、抵抗なく機能するのであろう。そこから言えるのは、意味を問うのは逃げの姿勢だということだ。「意味が見つからないこと」を気に病むものにとっては、すべてが別様でもありうることが(つまるところ自分の自由が)悩みの種なのだ。

・だから、私が思うには、失われた意味を求めるのは近代性の落とし穴から逃れようとする試みに他ならない。

○救済の約束
・もう一度ヤンチュを引用しよう。「意味に対する欲求は、人間意識の進化における強力な自己触媒的要素にほかならない」。われわれは意味を求めることによって、さらに発展しようとする自分の意識を刺激するのである。

○世界の脱魔術化
・社会学的にそっけなく言えば、生存の意味とは何かという問いは、生存そのものの彼岸で現れる。そうした問いは、肉体労働と自然の強制から開放されていることを前提としているのだ。世界と格闘しているものは「救済」してもらうどころではなく、「やる」しかないのだ。
・学問史家の立場からすれば、意味の喪失が体験されるようになった理由は二つしかない。
*近代の知が準拠すべき基準の喪失*知の分業化、ブラックボックス化
近代の知は、「外部の」世界を引き合いに出すのではなく、別の知を引き合いに出す。私は、自分の小さな箱に明かりをともすだけで他のすべてを無視する{つまりブラックボックス化}と言う条件の下でのみ、知の探求者として一人前になれるのだ。そこから生まれるのは、理解しないままで利用せざるをえないような知である。
・人々は理解しないものを用いるために、それに従うのだ。つまり、理解に代えて了承に甘んずるしかないのだ。世界に沢山の知があればあるほど、私自身の無知は増大する。この増大する無知を埋め合わせるためには、信頼するしかない。
・世界が科学的に・技術的になればなるほど、世界を「意味のある」ものとして体験することは不可能になる。

○ナルシシズムの痛手
・人間を尺度として世界を測ることは、もはやできない。これを「擬人的」に表現するなら、世界は人間を見捨ててしまったのである。すでにニーチェが、そのことをはっきり見抜いていた。「われわれはこの場所、この目的、この意味のせいで存在するのだ、こんな状態になっているのだと言えるような、場所も目的も意味もありはしない。とりわけ、全体を裁くこと、測ること、比較すること、まして否認することなどできるわけがないし、誰にもできまい」。

○学者たちと尊師たち

○近代的であることのコスト
・われわれの近代社会の特徴を、社会学者は彼らのそっけない用語で、さまざまの機能システムの分離と呼んでいる。善と真と美、法と権力は、分解して互いに無関係なものになっており、それぞれが特殊な文化によって、すなわちプロフェッショナルたちによって扱われるものになっている。
・しかし、それらは互いにどんな関係に立つのだろう?全体はどこに、一体性はどこにあるのか?答えはない。ここにぽっかり空いた空隙が、意味を求める人々を吸い込むのだ。つまり、意味喪失感の背景として、各部分システムそれぞれの独自性、特殊領域、固有論理が分かれてきたということがある。そして、機能ごとの分離がすべて意味喪失として体験されたことは明らかであろう。
・すなわち、近代化とは常に、一体にかわって差異を、ということなのだ。
・かなりの人々によって、「意味の欠如」として体験されるものは、実は意味の地平が開かれていること、オプションが豊かなことに他ならない。逆説的なことだが、意味が見つからないという喪失感は、文化的な意味がさまざまな形で過剰に提供されていることの結果である。何もかも、大きな意味があるとされるのだ!だから、「意味を見出せない」とは実のところ、「すべてが別様でもありうる状態を苦にする」ということ、つまり結局は「自分の自由を苦にする」、「不確定性(コンティンジエンシー)を苦にする」ということだ。

○押し売り的な救い手
○カタストロフの魅惑
○不幸せな「補助具をつけた神」
○(不)幸せのマネージメント
○独自の型
○重荷を下ろした意味概念
○意味を求める努力
○情報と神話
○意味の身代わり
○学問と政治の対話?
○エリートへの過大な要求
○政治化ではなく大衆化を

●●第3章ポストヒューマン・・・人間という尺度からの別れ
●●第4章批判的意識の大思想家たち
●●第5章それぞれのメディア世代
●●第6章メディアの世界
●●第7章文化・・・近代化の埋め合わせ
○深刻化をやめる
○あるがままの自分でいたい
○文化批判の文化
○重荷からの開放が重荷になる。



○すべてがデザイン

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