B210 『ちのかたち 建築的思考のプロトタイプとその応用』

藤村龍至 (著)
TOTO出版 (2018/8/22)

ギャラ間の展覧会に合わせて出版されたもの。

表紙から始まる序文もしくは宣言文は、全文を暗唱したくなるほどの密度に凝縮されている。

現代的課題の知識化とかたちの提出

序文では、

・コンテクストが流動的で読めない状況が訪れた時に、それと形とのミスフィットを取り除くにはどうすればよいか。
・建築が民主主義と大衆主義のあいだで揺れている中、世論や市場の暴力に抗い、より創造的で普遍的な解を導くにはどうすればよいか。

というような課題が挙げられている。
今は新国立競技場や豊洲市場のごたごたに象徴されるような暴力的な状況に、いつ、どのような形でさらされるか分からないような時代である。
そのような中で公共的な仕事をする際は、これらの課題はもはや前提として考えなければいけないものになっているように思う。

しかし、自分は頭では「もはや前提として考えなければいけない」とは思いつつも、それに対応する展開可能な言葉を見つけられていなかった。

本書は、そんな現代的課題に言葉を与えて知識化し、それに対して方法論のかたちで応答する。
序文での

多様性を認め、寛容な社会の実現を信じて、より多くの知識が集まれば集まるほどより良いものができる、と言い切ることに挑戦するべきではないだろうか。

その作業をより多くの人で行い(中略)集合的な知をかたちづくる方法論へと展開し、建築を社会のさまざまな課題解決に向けた、創造的な知のツールとして再定義したい。

という宣言的な文章はとても力強く感じたのだが、おそらく、本書全体(もしくは氏の試み全体)が、社会がより良くなろうとするサイクルの一つのプロトタイピングなのであり、読者はそれに対して、自分なりのフィードバックとプロトタイピングによって、大きなサイクルへと参加することを求められているように思う。

ルールのインストール

ここで、問題を少し手元に引き寄せてみる。(毎度、スケールの小さな話になってしまうわけだけど。。。)

先に挙げた状況・課題はおそらく公共的な仕事に限らず、例えば個人住宅のようなものにも忍び寄っている。
テレビや雑誌だけでなく、インスタグラムなどのメディアから大量に、そして個人の嗜好と強く結びついた形で流れてくる情報は、流動的かつ暴力的な形でコンテクストの一部を形成しつつあるし、それに対して、より創造的で普遍的な解を導くにはどうすればよいか、というのはますます大きな課題になっていくように思う。

では、どうするか。

建築にどのような意味と価値があるか、もしくはどのような意味と価値を持って欲しいか、というのはDeliciousness / Encounters おいしい知覚/出会う建築としてまとめてみた。
しかし、カードをつくったり評価シートをつくったりしてみたものの、それらの多くはどうすれば実装できるかがまだ分かっていない、というのが現状である。

さて、本書では、0.00の序文から10.0のあとがきまで、ステップを踏みながら手法がアップデートされているのがよく分かる構成になっているけれども、それは単線的に変化していると言うよりは、複線的なもので、過去のルールに調整を加えながらも新しい要素を扱うためのルールを次々にインストールしていっているように見える。(それは、超線形的で、あたかもBuilding Kの世代とルールの表のように。)

さらに、そのルールは最終的なかたちを直接操作するためのもの、というよりは、そのルールによって自ずと建築に新たな意味や価値が加えられていくようなルールである。

河本英夫が『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』で、自ずと形成されていくようなシステムの生成プロセスについて幾つもの例を出して説明している。
例えば、時速90kmほどで飛び出すスキージャンパーが飛距離を伸ばすために「踏み切りを少し早く」しなければ行けない場面で、

数々のオリンピックメダリストを育てた八木弘和コーチは、飛び出すとき、たとえば100メートル先を見ている選手に対して、「100メートルの10センチ先をみるように」という指示を出すと言っている。「早く踏み切れ」と言われても、どうすることなのかがわからず、むしろ緊張が出て逆効果になるような場面では、本人自身の中にある選択肢を活用する以外にはない。

というようなことを書いているが、藤村氏が導入するルールも、選択肢を制限すると言うよりは、制御可能な選択肢の幅を広げ、結果として自ずとあらたな「かたち」へと向かうようなルールであるように思う。それは、多くの人の知恵を、というところから求められたものであると同時に、このようなルールの採用が、多くの人の知恵を、という思想を導いたのではないだろうか。


建築に「このような意味と価値を持ってほしい」と願うだけではだめで、それが自ずと実現するようなルールを考えて、設計手法の中に一つ一つインストールしていかなければならないのだろう。
そのようなルールを具体的に考え出し、実装できた人がいわゆる建築家と呼ばれるのかもしれないけれども、自分に足りないのはこの具体性なんだろうな。
ようやくスタート地点に立った感じ。

「流動的かつ暴力的な形で形成されるコンテクストに対して、より創造的で普遍的な解を導くにはどうすればよいか。」という問いに対してはどうだろう。
例えば、それを一つの要件として、選択肢の幅を拡げてくれるようなルール・設計手法の中に取り込んでしまい、新たなかたちへと形成されるようにしむける、というようなことが考えられる。

やっぱり、ルールのインストールを急がないと飲み込まれてしまいそうだ。




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