探索の精度を上げるための型/新しい仕方で環境と関わりあう技術 B209『日本語の文体・レトリック辞典』(中村 明)

中村 明 (著)
東京堂出版 (2007/9/1)

10+1ウェブサイトの寄稿文、
10+1 web site|建築の修辞学──装飾としてのレトリック|テンプラスワン・ウェブサイト
を読んで気になったので勢いで購入。

onokennote: 文体・レトリック辞典、勢いでポチっちゃったよね。工学部だった、というのもあるけれども、意匠に関わるこの手の話が大学教育で全く触れられなかったのは今でも不思議。当時は雲をつかむ様だった(今は違うのかもしれないし、大学生なら自分で学べ、ということだったようにも思う。) [2018/04/10]


onokennote: 実感としては妹島さんくらいからレトリックによる微細な違いを競うことが主流になってる気がする。当たり前に、それこそが建築であるための入口、みたいな気になっているけれども、それが思考を限定していないか、という気もする。 [2018/04/10]


onokennote: 一定の振れ幅の中に納まる予定調和的なものが建物で、それからはみ出して、何らかの意味・とっかかりを生み出し、人に働きかけるものが建築だとしたら、レトリックの違いに建築としての魅力を感じるのも当然なのかも知れない。(思考の順序が逆かもだけど) [2018/04/10]


そして辞典が届く。

onokennote: 辞典届いた。ほんとに辞典だった。体系に添って並んでいた方が分かりやすかった気がするけれども、このボリュームを順に読み通すのは先が長いので、50音順の方がランダムに気ままに読むくらいで良いのかも知れない。 [2018/04/16]


味わいの型・探索の型としてのレトリック

その際、建築家が設計において意識していた思想や手法、発言などは、ここで一度括弧に入れる必要がある。私たちが目を向けるべきなのは、建築の物としての側面である。なにより、レトリックはつねに事後的に発見されるからだ。(10+1 web site|建築の修辞学──装飾としてのレトリック|テンプラスワン・ウェブサイト)

 

onokennote: レトリックが技法や技術でありながら「つねに事後的に発見される」というところはまだ理解できていないんだけど、仮に創作の技術ではなく、読解の技術として捉えた時に、それを創作にどう活かしうるだろうか、という問いが生まれる。 [2018/04/16]


onokennote: 設計が探索的行為と遂行的行為(例えば与条件・図面・模型を観察することで発見する行為と、それを新たな与条件・図面・模型へと調整する行為)のサイクルだとすると、前者の精度を上げることにつながるように思う。 [2018/04/16]


onokennote:
最初からゴールが決まっていないものを、このサイクルによって密度をあげようとした場合、創作術と言うよりは読解術(探索し発見する技術)の方が重要になってくるのではないだろうか。 [2018/04/16]


onokennote: ある方向で設計が上手い人って、やっぱり目の前のものから何かを発見する力に優れているんだと思う。一人事務所だと、目の前のもの(例えば図面)の多くが自分が関わったものだったりするから、新たに発見して設計サイクルを回すのが難しい。 [2018/04/16]


onokennote: だから、技術・手法にすがりたくなっちゃうのかなー。僕は今の三倍くらいは同じ密度でサイクル回せないといけないんじゃないか、という気がしてる。(ということはワンサイクルあたりのスピードを上げないといけないし、密度を落とさないための発見する技術がいる。) [2018/04/16]


レトリックを創作のための直接的な技術ではなく、探索の精度を上げるための型、だとした場合、サイクル型(超線形?)の設計態度において効力が発揮されるように思う。
では、直接的な創作の技術としてはどうだろうか。

おいしい技術

レトリックを「新しい仕方で環境と関わりあう技術」とした場合、例えば次のようなことが考えられそうである。
オノケン【太田則宏建築事務所】 » Deliciousness / Encounters

ここでいう技術とは、環境から新しく意味や価値を発見したり、変換したりする技術、言い換えると、新しい仕方で環境と関わりあう技術である。(それが集団的・歴史的に蓄積されて共有される技術となる。)
人間は環境との関わりの中から技術を獲得していく点で他の動物に比べて突出している。技術そのものが意味と価値の獲得であるから、おいしい技術というよりは技術はおいしい、と言ったほうが良いかもしれない。
(中略)
では、建築においておいしい技術の知覚はどのように考えられるだろうか。いくつか列挙したい。
一つは意味や価値の重ねあわせである。例えば、一つのもの、要素にいくつもの意味や価値が重なりあって内在しているデザインに何とも言えない魅力を感じることがある。いくつもの可能性、環境との関わり方が埋め込まれており、自由さや不意に意味を発見する悦びとつながっている。
あるいは保留。意味や価値がそのまま発見されるような環境を計画するのではなく、意味や価値を内包する環境が生まれる状況そのものをセッティングするという態度に留める。建築は全てを計画し切ることは難しいし、生活の中で不意に訪れる意味や価値の発見は、ある状況から無計画に発生した環境にあることが多い。
例えば、ある状況のもと何らかの知覚と行為のサイクルが生まれ、その結果として、環境がさまざまな意味や価値を内包するに至ったとする。その環境に直面した時、何ともいえない魅力を感じる。これは、いわば積み重ねられた技術を知覚する悦びである。
もう一つはずらし。意味や価値とその現れをずらしたり、曖昧さを残すことで、その意味や価値に焦点が絞られ固定化することを回避する。固定化してしまえば意味や価値との出会いの悦びは低減する。ずれや曖昧さはその悦びを継続的なものにしないだろうか。

ここで言う重ね合わせ、保留、ずらしを303の修辞技法の一つで表すとすれば、重技法、沈黙法、換喩、であろうか。
人間にとって、知覚そのものに意味や価値があるという立場をとった場合、レトリックはその意味や価値を際立たせる手法として有効に違いない
これは、坂本一成がの「人間に活気をもたらす象徴を成立させること」と重なる気がする。

現在の私たちにとって意味ある建築の行為は、いつも同じだが、人間に活気をもたらす象徴を成立させることであると言いたかった。そこで私たちは<生きている>ことを知り、確認することになるのであろう。そのことを建築というジャンルを通して社会に投象するのが、この水準での建築家の社会的役割と考えるのである。(『建築に内在する言葉』)

おそらく、この象徴へ到達するには、それが浮かび上がってくるまで、探索・調整のサイクルを回すことが有効だと思うのだけれども、もっと直接的・演繹的な設計技術に連なる、建築の修辞学としての建築構成学というものもありそうだけれども、これについては次回改めて。

自分もたまにこの辞典をぱらぱらとめくってレトリックと建築の間で空想してみたいと思うけれども、(先人がいるので)303の修辞技法を網羅するまでのモチベーションは持てそうにないし、そこまでの引出しはなさそう。

立石氏が303をコンプリートした暁には、建築の修辞学として是非書籍化して頂きたいところです。
(氏がキン肉マンを読んだことがあるのか。というのもちょっと気になる。)

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