子どもを中心とした2つの矢印 B196『まちの保育園を知っていますか』(松本 理寿輝)

松本 理寿輝 (著)
小学館 (2017/3/23)

子どもたちに多様な出会いの機会を

僕の大学の卒論は『コミュニティから見たコーポラティブハウスの考察』というもので、コミュニティというものを現代社会の中での有効性という視点から考えてみたい、という思いで書いたものでした。
下のリンク先にその卒論の冒頭部分を抜き出しているのですが、次の文がその時の思いを端的に表しています。

「建築の心理学」で、クリフォード・モーラーは人の心の健康は他人との実りある交流によって決まる。又自分のパーソナリティというものは他人と交流し、人々から評価を受けることによって作られるものであり、成長過程においてそれは特に重要である。というようなことを言っている。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » 人と人との関係)

この時の思いは一貫して自分の中にあり続けていて、コミュニケーションの必要性を人を含めた環境全てにまで拡げて考えてきたのが『出会う建築』でした。
その「出会い」が「子どもの育ち」に必要不可欠なものだとすれば、子どもたちの多様な出会いの機会を担保してあげることが大人の役割だと思うのです。

また、社会学者の宮台真司は次のような事を言っています。

■日本的学校化の解除・異質な他者とのコミュニケーションの試行錯誤を通じてタフな「自己信頼」を醸成するような空間が必要 ■隔離された温室で、免疫のない脆弱な存在として育ちあがるのではなく、さまざま異質で多様なものに触れながら、試行錯誤してノイズに動じない免疫化された存在として育ちあがることが、流動性の高い成熟社会では必要。 ■試行錯誤のための条件・・・「隔離よりも免疫化を重要視することに同意する」「免疫化のために集団的同調ではなく個人的試行錯誤を支援するプログラムを樹立する」「成功ではなく失敗を奨励する」「単一モデルではなく多元的モデルを目撃できるようにする」(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B045 『「脱社会化」と少年犯罪』)

現代社会を生き抜くためにも、コミュニケーションの試行錯誤・多元的モデルとの接触によってタフな「自己信頼」を醸成する、ということが必要であり、ここでもやはり「子どもたちの多様な出会いの機会を担保する」ということが大きなテーマです。

まちの保育園

さて、本著ですが、前半は著者がどのようにしてまちの保育にたどり着いたか、その経緯が語られます。
著者はただでさえ若い女性と過ごす時間が大半となっている保育環境にふれ、『人格形成機である0~6歳にどのような出会いを持つかが大切であるということを考えれば、もう少し多様な出会いを持てるといいな』と思うようになります。

また、レッジョ・エミリア市の文化(大人たちが皆当たり前のこととして『子どもたちが力を発揮できるために、今ベストといえる環境を自分たちで考え続け、つくり続けていく』文化)に触れ感銘を受けます。

そこから『子どもを中心にして、「子どもが育つ理想の環境」「大人も含めた理想的な社会や市民のありかた」を対話し続けていくことで、日本で拓いていくオリジナルな「まちの保育」をつくっていこう』と考えた著者は、その理念を実現すべくまちの保育園を開設しました。

「まちの保育」は『子どもの育ち・学びにまちの「資源」を活かす→まちが保育園になる』『保育園がまちづくりの拠点として、地域が豊かにつながり合う→保育園がまちの頼れる存在になる』という子どもを中心とした2つの矢印がお互いに向き合っているような関係で成り立っているようです。

レッジョ・エミリアでは、まち→こどもの矢印が強く見えるのですが、その前に日本ではまず一度閉じかけたコミュニティを拓くことが必要で、そこに子どもの持つ「存在感」「社会的役割」の意義が生まれます子どもを中心に置くことで「まちが子どもを育てる」と同時に「子どもがまちを育てる」ような好循環が生まれるのです。さらに「子どもの環境を/まちを・社会を」どうやって良くしていくかという「問い」が中心にあることで、まちが動き続けることが重要だと言います(結果主義ではなくプロセス主義)。

こんな風に「まちの保育園」は子どもとまちを絶えず動かし続ける「はたらきそのもの」のような存在であり、それが働き続けることで、子どもだけではなくまちも(「育てられる」のではなく)「育つ」のかもしれません。
そこに「はたらき」の存在を見出すことが著者の言う「プロセス主義」なのだと思いますし、そこではオートポイエーシスに関連して河本英夫が言うように経験を拓いていくような態度が重要なのだと思います。

まずは対話のテーブルにつこう

「大人たちが楽しそうに生活し、自分たちの信じられることをやっている社会」、それこそが、子どもにとっての理想的な環境なのではないかと思います。
(中略)
「理想的な子どもの環境づくりは、理想的な社会づくりと同じこと」なのです。

この本はこんなふうに締められるのですが、ここで騎射場のきさき市を主催する須部さんが”のきさき市のその先に子どもたちを見ている”というようなことをラジオでチラッと言ったのが思い浮かびました。あー、そこまで見ているんだな―。

これまでは「良い設計の仕事をしていたら、それが認められてやがて良い仕事が来る」ということで良かったのかも知れませんが、保育園一つをとっても、ただ建築物だけをみているだけではいろいろなことが捉えられなくなっている。そういう時代なんだと思います。まちがうごく、というような「はたらき」に身を置くことでしか見えないことや達成できないことがあり、建築もそれとは無縁ではいられないのかも知れません。

著者は「問い」や「対話」に教育や社会の本質を見出し、「まずは対話のテーブルにつこう」と言います。

僕も独立前後はいろいろなところに顔を出し、いろいろなことを考えるようにしていましたが、仕事が安定し忙しくなるにつれて「クライアントの期待に応えることを最優先しなければならない」と言い訳をしながらどこかに顔を出すことを制限するようになってきていたように思います。
しかし、一歩引いて大きな目線で見るならば、「対話」と「はたらき」に身を置くことはどこかで仕事(を通じて貢献したいこと)につながるような可能性を持っているのかも知れません。須部さんのラジオでの一言がきっかけでそんなことを考えるようになりました。

「まずは対話のテーブルにつこう」
もう一度そこから初めてみるのも良いのかもしれません
。(とは言ってもチビが保育園に入るまではなかなか厳しいわけなのですが。)

(追記)
今、保育園、幼稚園、認定こども園などの保育施設について集中的に学ぼうとしているのですが、「理想的な子どもの環境づくりは、理想的な社会づくり」というのは「理想的な子どもの環境づくりは、理想的な建築づくり」とも言い換えられると思います。
子どもの事を考えた建築は大人にも良いだろうし、大人がそれぞれ真剣に楽しんで向かい合った建築が積み重なることで子どもが育つに相応しい風景が生まれるのではないでしょうか。

ここで学んだことは住宅やその他の建築にもきっと活かせるはずです。

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