B192 『koshiki―ただ、島と生きている。』

著者:ヤマシタ ケンタ
撮影:jijifilms 高比良 有城
渕上印刷(2017/8)

戦闘モードが解かれる島

前回の読書では、社会に溶け込み、どこにいても<わたし>を目覚めさせようとする広告とそれに対する<気散じ>という身体技法をみたわけだけど、その時に何度も頭に浮かぶ風景があった。

それは、ゴールデンウィークに現場の確認を兼ねて家族で渡った甑島でのこと。
島を散策していると、拍子抜けするというか何というか、何かが抜け落ちている、という一種の不安にも似た不思議な感覚があった。
その時は良く分からないでいたのだけど、後でその時の写真を見てみると、そこにはこちらのスキを伺うような情報・広告の類がほとんど写っていないことに気がついた。
そこでは溢れる広告に対して身につけた<気散じ>の戦闘モードが空回りし、それが拍子抜けしたような感覚につながったのだと思う。
(⇛その時のFacebookの投稿

僕は島内の生活者ではないので、あくまで外から訪れる者としての視点しか持てないけれども、僕の中での甑島は、<気散じ>の戦闘モードが強制的に解除され、いつもと少し違う<わたし>と向き合える貴重な場所、として記憶に残った。
僕の実家は屋久島にあり、同じような感覚は屋久島でも感じるのだけども、圧倒的な自然と格闘しながら溶け合っていくような屋久島での戦闘モードの解かれ方とはまた少し違う感覚だった。

ただ、島と生きている。

さて、この本は甑島の風景が淡々と何事もないように切り取られている一種の写真集であるが、そこにはわずかばかりの言葉がぽつぽつと添えられている。

それらの言葉の裏には、淡々とした写真とは違い強い意志のようなものが感じられる。
と、同時にそれらの言葉は淡々とした写真が写しているもの、『ただ、島と生きている。』ことそのものに溶け込んでしまって同じもののように感じられた。

どうしてそう感じたんだろう。

僕が大学生の頃だったか、屋久島に帰省して近所の山のポンカン狩りを手伝っていた時だったと思う。たまたま他所から屋久島に来ていた二人組がポンカン狩りに参加していて、しきりに「いいわねー」と言っていた。
その時に何かよくない感情と思いつつ違和感を感じずにいられなかったのを時々思い出す。

その「いいわねー」という風景は、そこに住み続け、自然と格闘しながら生活をしている人々によって支えられている、ということをこの人達は考えたことなんてないのだろう。そんな風に意地悪な思いが頭をよぎった。
今思うと、他人事のように「いいわねー」を繰り返す人も、その風景を支える一人に違いなかったんだけども。

そんなことを思い出しながら、やっぱり、意志のこもった言葉とその風景は同じものなんだろうと思った。

そんな、自分が生きているということと、何かが一致していると感じられるような生活は、一人の人間としてはやっぱり少し羨ましくもあったりする。(これも観光客の「いいわね―」とそんなに違わないなと思いつつ。)




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