B191 『広告の誕生―近代メディア文化の歴史社会学』

北田 暁大 (著)
岩波書店 (2000/3/6)

この本は2000年出版でだいぶ前のものだけど、たこ大の課題図書だったため興味を持ち購入したもの。
気がつけば読書記録も2年近くストップしていた。読みっぱなしで身につかないままの本も溜まってきたので、これを機会になんとか時間をみて再開してみようと思う。

|  メガネと広告とわたし

通勤・通学というきわめつきに凡庸で退屈な場面においてどうしてもわれわれが感じてしまうあの、<いま、ここ、わたしだけ>という感覚、共在する他の人間の姿は見ることができるのに、他者=隣人の存在を信じることができなくなってしまうようなあの経験。住居のような「私的」空間においてではなく、逆説的にも、非私的であるはずの都市空間に踏み出すことにおいて現前する、純化された「私性」
・・・(中略)・・・
広告という存在が、われわれの生活世界の中へと静かに滑り込んでくるのは、まさしくこうした空虚で所在なげな日常の位置場面においてであろう。いわば広告は、「通勤する」「読書する」といった目的意識が弛緩するふとした瞬間に<わたし>の一瞥を捉えるべく、虎視眈々と息をひそめて日常世界の襞に待機しているのだ。(p.2)

2000年問題というワードが記憶に残っているからこの本が出版された頃だと思うけど、建築を学ぶために上京していた時のことが思い出された。

その時は、売れない芸人のような極貧生活をしていたため電車代が出せず、借りていたアパートのある千歳船橋から六本木の事務所まで、片道1時間ほどの自転車通勤をしていた。

東京の街中を通過するため、目には多くの人々とともに様々な広告群が飛び込んでくる。
最初は建築を学ぶ身分なので街を体感するいい機会くらいに思っていたのだが、4日目頃には何かに耐えきれなくなって、それからは通勤時はメガネを外して自転車に乗るようになった。

上京は一時的なものと考えていたので知り合いはほとんどいないし、極貧生活を送っていたため広告の類もほとんど自分には縁のないものばかり。そんな状況だったので、この感覚はよく分かる。

この頃は孤独をあえて受け入れようと思っていたのだけども、今思えば広告によって<わたし>がより純化されたかたちで目覚めさせられることが怖かったのだと思う。
孤独であろうと思って上京していながら、孤独というものを受け入れ・向き合うことができなかったのだ。
そして、わたしは広告すなわち<わたし>を拒絶し、メガネを外した。

|  広告コードと身体性、<香具師的なるもの>と<気散じ>

さて、この本は副題にあるように近代メディアとしての広告と受け手との関係を歴史を追いながら社会学的に捉えようとしいている。

その際に用いられているのが、
・<広告である/ない>というバイナリーコードの作用をめぐる問題系と意味作用{コト的次元の系譜学} と 受け手の身体性と広告の関係{モノ的次元の系譜学} の二つの視点による系譜学的方法。
・広告が持つ<香具師的なるもの>と<気散じ>の身体性というキーワード
である。

広告コードが未分化の時代から、広告コードを獲得し、やがて、散逸そして融解していく様、それに合わせて受け手の身体性、広告との関係性も変化し、<気散じ>という身体技法を獲得していく様、また並行して広告が背負い込んだ<香具師的なるもの>の変遷、が社会情勢や印刷技術などのコンテクストとともに描かれる。

私たちが生きていく社会は、その社会に融解しながらふいに<わたし>を目覚めさせる<香具師的なるもの>として存在し、眠ることも目覚めることも許さないような広告とともにある社会である。とするならば、そんな社会に生きる我々にはどんなあり方が可能なのだろうか。
そんな疑問が頭に浮かぶ。

しかし、著者は終章で

表象の制度としてはあまりに脆弱で、それゆえにいかなる文化表象にもまして、近代に生きる主体の両義性を赤裸々に物語ってしまう広告の潜勢力をまずは見極めること、その歴史性を対象化してみること、そして自らも生きる現代という近代の複雑な様相を矮小化することなくそのものとして捉えること。こうした視座に徹することにより、広告を善悪の彼岸にある実定的な契機として眺めてきた。それはそう、ちょうど、楕円を円の逸脱体としてまなざす思考からの、ロジカルな、そしてシニカルな脱却を意味するだろう。
広告という不定形の装置は、楕円としてたえまなく多様な方向性をもって運動する近代という時空間に生きる、どうにも落ち着きのない<気散じ>する身体を可能にする一つの契機であった。(p198)

と述べた。
広告はその時代の結果であると同時に、時代と並走し、われわれと並走する契機だったのだ。

自分の言葉に引き寄せて言うならば、目的合理的な行為ではなく、行為合理的な行為としての<気散じ>という身体性を獲得した遊歩者は、生態学的な「出会いの作法」とでも呼べる態度に近づいた存在であり、広告はその契機としてもあった。となるだろうか。(その際は<気散じ>は、生態学的な探索行為の一形態として捉えなおしてみてもいいかもしれない。)

私が拒絶した広告のある風景は、そのころから追い求めていた「ポストモダンの世界を生き抜く作法」への扉をあける鍵の一つだったのかもしれない。

だとすれば、その扉の先にあるはずの建築へと続く、何らかのヒントが含まれていたはずだ。

できることならあの頃の自分に会いに行き、外したメガネを再びかけなおしてあげたい。




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