B176 『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』その1

村田 純一 (編集)
東京大学出版会 (2013/7/31)

『たのしい写真―よい子のための写真教室』の流れからアフォーダンス関連をもう少し突き詰めようと読んでいたもの。
なかなか読書時間がとれなかったのですが、最近移動時間が多かったのでそれを利用してなんとか読み終えられました。

記憶の補完としてブログにまとめようと思うのですが、読み応えのある本でとても長くなりそうなので3つか4つに分けてみたいと思います。

まずは序章の部分から。個人的なメモとしての意味合いが強いので引用と感想のようなものを並べることになると思うので分かりにくいとは思います。興味のある方は是非原本を読まれて下さい。

|  このシリーズの目指すところと建築設計

本シリーズは、生態心理学を理論的中核としながら、それを人間環境についての総合科学へと発展させるための理論的な基盤づくりを目的としている。(p ix)

人間環境の構成要素、すなわち、人工物、人間関係、社会制度は単なる意味や価値として存在しているばかりではなく、それぞれが人や物を動かす実効的効力(広い意味での因果的効果)を持っている。それゆえに、人間環境は、社会的・文化的な存在であると同時に、物理的な存在でもある。

本シリーズで追求したいのは集団的に形成された人間環境のあり方を記述し、人間個々人がその人間環境とどのような関係性を取り結んでいるかを明らかにし、最終的に、どのような人間環境を構築・再構築すべきかという規範的な問題である。

どんな生物もそれぞれが属する環境から切り離されては生きていけない。私達人間も同様である。これが「知の生態学的展開」と題された本シリーズの基本テーゼである。

建築に関わる人の多くはそうであると思うし、建築に限られた話ではないと思いますが、僕は建築をつくことは環境をつくることだという意識が強い。
ここでいう人間環境は何かというのは本書に譲りますが、このシリーズはまさに環境を扱っており、建築設計におけるメインとなるテーマに切り込むものだと思います。

|  知覚・技術・環境と建築設計

人間の環境内存在はつねに「技術的環境内存在」であったし、現在もそうである。本巻の主題は、この技術によって媒介された環境内存在のあり方を日常生活の中で出会う具体例に則して明らかにすることである。

「環境」に続き、この巻でテーマとしてあげられているのが「技術」。
続き、というよりは知覚・技術・環境といった一連の関係性が「生態学的転回」の視点を導くもののように思います。

例えば、私たちがそれまで危険で近寄れなかった火をうまく扱うことができるようになったり、あるいは、それまで何げなく見ていた木の枝を箸として使える道具とみなすことができるようになったりする過程は、新たなアフォーダンスの発見過程であると同時に、新たなアフォーダンスの製作過程と考えることもできる。このように知覚と技術に共通に見られる環境とのかかわり方に着目することによって、技術論の生態学的アプローチへの道筋が垣間見られる。

ギブソンの言葉を使うと、ここで知覚-行為連関は、特定の目的の実現に奉仕する「遂行的活動(performatory action)」から区別された「探索的活動(exploratpry action)」というあり方を獲得するといえるだろう。
このような仕方での知覚と行為の新たな連環の獲得、新たな仕方での環境との関わり方の「技術」の獲得が、先に述べた学習を通しての環境の構造変換の内実をなしている。

子供が技術を獲得したから、環境が変化するのではなく、また、環境が変化したから子供が技術を獲得したわけでもない。知覚の技術と知覚に導かれた運動制御の技術を獲得することはすなわち、新たなアフォーダンスが発見され環境に備わるアフォーダンスのあり方に変換が生じることに他ならないのである。

一部の引用だけではなかなか上手く伝えられないですが、知覚・技術・環境のダイナミックな関係性が見て取れます。

このブログでも藤森照信さんの書籍等を通じて技術とはなんだろうか、というのに興味を持ち始めているのですが
(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » 技術
では、このような知覚・技術・環境の構造が建築の設計においてどのような視点を与えてくれるでしょうか。
僕は少なくとも次の2つの場面において何らかのヒントを与えてくるように思いました。

一つは、建築を設計する作業そのものが環境との対話のようなものだとすると、設計するという行為において、いかにして環境を読み込み設計に反映させることができるか、またその技術はいかにして発見できるかを考える場面において。

もう一つは、建築が環境をつくることだとすると、そこで過ごす人々と建築との間にどのような関係を結べるか、を考える場面において。

これら二つは切り離せるものではないと思いますし、後の章でこれらの接続する試みもなされているのですが、ここではとりあえずこれら二つの場面について引用しながら少しだけ考えてみたいと思います。

|  設計行為における知覚・技術・環境

ギブソンによれば、ニッチとはどこに住むかを示す概念ではなく、むしろいかに住むかを示す概念であり、したがって同じ場所に多様な動物のニッチが共存しうると考えることができる。環境の場合も同様に、人間を含めて動物が世界にいかに生きるかを示す概念であり、それゆえ同じ世界に多様な環境が共存しうると解されるのである。

「どこに」ではなく「いかに」
環境という概念が絶対的な存在としてあるものではなく、関わりあいの中から発見・製作されるものだとすると、建築の設計は環境の中から「いかに」を発見・製作する作業だとも言えます。

そういう点で見れば、リノベーションはその定義から言っても「(例えば古くなることで)実践状態から外れたもののなかから、ふるまいに関わる要素を抽出・活性化して再び実践状態に戻すこと」が宿命付けられており、多くのリノベーションに生き生きとした豊かさを感じるのも当然のことかもしれません。 ただ、この時に「ふるまいに関わる要素を抽出・活性化」しようというような目線はリノベーションに限られるものではないので、新築の場合にも同じような目線・構造を持ち込むことはできるかもしれません。 例えば青木淳さんの「原っぱ」「決定のルール」、「地形のような建築」で考えたようなこと、「地形のように自律した存在の場所に、能動的に棲み込んでいく」ようなことは、リノベーションと同様の「ふるまいや実践状態への目線」を浮かび上がらせ、空間を生き生きとしたものにするための構造と言えそうな気がします。 (結局、棲み家、というところに戻ってきた。)(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』

この引用部で考えたことに近いかもしれませんが、上手くいったリノベーション事例に感じる魅力の一端はリノベーションが必然的に「いかに」を内包する行為であるからかもしれませんし、それは新築の設計においても活かせるものだと思います。(個人的にはリノベと新築を区別せずに一元化した視点を持ちたいと思っているのですがそれはまた改めて考えます)

出発点は、脳ではなく環境であり、環境に適合して生きる「環境内存在」というあり方である。知覚は環境に適合して生きる機能として成立したのであり・・・(中略)こうして見ると、伝統的知覚論は、知覚を成立させる可能性の条件である「環境内存在」のあり方を逆に困難の発生源と見なし、他の動物との共存を示すはずの知覚現象を主観的な脳内現象とみなすという根本的な逆転を起こしていることになる。それに対して、このような逆転を再逆転することが「生態学的転回」の最も基本的な課題である。
それでは、同じことが技術に関してもいいうるだろうか。技術に関しても、その可能性の条件を環境に求めるような「環境内存在」という観点を確保しうるだろうか。

建築を設計する行為はさまざまな環境を余条件として受け止めそれに対して回答を得ようとするものというイメージがあるかも知れません。
これを先の引用の伝統的知覚論、いわば受動的な知覚論と重ねあわせると、別のイメージが浮かび上がってきます。
環境を主観的な設計行為に対する制約として受け止めるのではなく、環境それ自体を可能性の海、能動的に探索する対象として捉え、知覚・技術・環境のダイナミックな関係性の中に置くともっと豊かな設計のイメージが浮かんで来ないでしょうか。
こういう視点はいろいろな方が実践されてるので特に目新しいものではないかもしれませんが、それらを理解したり自ら実践するための一つの道具になりそうな気がします。
また、ギブソンは環境の基本的な要素として、物質と媒質、そしてそれらの境界を示す面をあげています。これらは建築の基本要素とも言えるのでアフォーダンス論的に建築空間を捉えて設計に活かすことも考えられますがここでは置いておきます。(隈さんの本の佐々木正人さんとの対談でこの辺りに触れてました。)

|  建築という環境と知覚・技術・環境

(チンパパンジーがバナナを取る際に置いてあった箱を利用すること発見したことに触れて)このように、環境内に新たなアフォーダンスが発見され、それまでのアフォーダンスが変換を受けることが、すなわち箱を使って技術の獲得を意味しているのである。

技術の獲得・アフォーダンスの変換が生じることはそこで過ごす人々にどう関わるだろうか。
これはまだ個人的な見解にすぎませんが、そのようにして知覚・技術・環境のダイナミックな関係性が築かれることは、人間が環境と切り離せない存在だとすると、それは人の生活を豊かにすることにつながらないでしょうか。
ここで、技術の獲得をふるまいの発見と重ねあわせると塚本さんの「ふるまい」という言葉の持つ意味が少し見えてきそうな気がします。
再引用

なぜふるまいなのか 20世紀という大量生産の時代は、製品の歩留まりをへらすために、設計条件を標準化し、製品の目標にとって邪魔なものは徹底して排除する論理をもっていた。しかし製品にとっては邪魔なものの中にも、人間が世界を感じ取るためには不可欠なものが多く含まれている。特に建築の部位の中でも最も工業製品かが進んだ窓のまわりには、もっとも多様なふるまいをもった要素が集中する。窓は本来、壁などに寄るエンクロージャー(囲い)に部分的な開きをつくり、内と外の交通を図るディスクロージャーとしての働きがある。しかし、生産の論理の中で窓がひとつの部品として認識されると、窓はそれ自体の輪郭の中に再び閉じ込められてしまうことになる。 (中略) 窓を様々な要素のふるまいの生態系の中心に据えることによって、モノとして閉じようとする生産の論理から、隣り合うことに価値を見出す経験の論理へと空間の論理をシフトさせ、近代建築の原理の中では低く見積もられてきた窓の価値を再発見できるのではないだろうか。(■オノケン【太田則宏建築事務所】 » B166 『WindowScape窓のふるまい学』

「WindowScape」で取り上げられている様々な事例に感じる豊かさは、そこに住まう人と環境との間に豊かな関係が築かれているからだと思いますし、そのような関係性をどのように生み出すかは建築の設計においても大きなテーマになりうると思います。
その際にもギブソン的な視点は有効な道具になりそうな気がします。

また、一つのもの・要素がいくつもの機能を内包しているようなデザインに何とも言えない魅力を感じることがあります。
その理由を考えた時、それがいくつもの「技術のあり方」「環境とのかかわり方」を暗示しているため、そこに可能性のようなものや自由さを感じ取るからかもしれないと思いました。先の塚本さんの言葉を使うと「閉じ込められて」いないというか。


とりあえず序章の部分をまとめてみましたが、この後の章で特に印象的だった2つも日を改めてまとめてみたいと思います。




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