B016 『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』

檜垣 立哉
日本放送出版協会(2002/10)

哲学とは何かいまという時代は、どのような時代なのだろうか。そして、いまという時代の中で何かを真剣に考え抜いたり、何かをしようとしてその行動の指針を探したりするときに、よりどころとなるもの、よりどころとすべきものとは、どのようなものだろうか。あるいは、よりどころがあると考えたり、よりどころを求めたりする発想そのものが間違っているのだろうか。ではそれならば、(よりどころがないことも含めて)そこで確かなものと、声を大きくしていえることとはなんなのだろうか。(p8)

この本はこういう書き出しで始まる。

デザインの「強度」というものを考えたくて、ドゥルーズに関する分かりやすい著書を探していたのだが、「解けない問いを生きる」という副題とこの書き出しに惹かれて図書館から借りてきた。

テーマが今の僕にあってたのと(というよりこの時代のテーマなのだろうが)、なんとなく、一般うけのしそうな副題や前書きが、僕にも理解できそうな雰囲気を出していた。
おそらく、著書は難解なこの哲学者を分かりやすく論じるために、かなりの部分をはしょって、意図的にある部分をクローズアップしているのだろう。
そのかいあってか、なんとなくドゥルーズの「卵」「流れ」「生成」ということで言いたいことがぼんやりとはイメージできたような気がする。
僕は、哲学研究者ではないので、ドゥルーズを正確に理解する必要があるわけではなく、そこから、何らかのものを見つけられればよい。

おそらく、最も重要なことは「中心」や「固有性」「私」または「システム」といったものに問いが回収されないということだろう。
「私」「他」という二元論的な設定そのものが西洋的な不自由な見方の気もするが。

個体とは、揺らぎでしかありえず、不純でしかありえず、偏ったものでしかありえず、幾分かは奇形的なものでしかありえない。揺らぎであり、不純であり、偏っていて、幾分かは奇形であること。だからこそ、世界という問いをになう実質であるもの。それをはじめから、そのままに肯定する倫理を描くことが要求されている。実際にそれは、生きつづけることの過酷さをあらわにするものであるといえるだろう。なぜならばそれは、死の安逸さも他者による正当化も、正義による開き直りもありえない、変化しつづける生の流れを肯定するだけの倫理としてしか描けないのだから。(p107)

流れの中でそれぞれの個体が問題を創造、デザインしながら「かたち」を連続的に生成していき、自ら流れとなっていくさまが、なんとなくではあるがイメージできた。

その流れをあくまで流れとして捉えある一点で固定してしまわない、そんな流動的な態度こそ大切であろう。

ある、決まった解答があらかじめ存在しそれを探そうとするのではなく、その流れの中で「問題を創造」しながら流れていく。
それは、全く異なるベクトルであり、そこには自ら物事を生み出していく主体的な自由がある。

それは、「意味」に回収されずに意味をデザインしていこうとするボルツの著作に共通する部分がある。

人間にはよりどころが必要かもしれない。
しかし、そのよりどころを「受動的に与えられるもの」「すでに存在するもの」として「探す」のではなく、能動的に自ら「生み出す」「編み出していく」というように、ベクトルを変換することにこそ「自由」の扉を開く鍵があると思う。

この本でクローズアップされていた、「流れ」や「生成」、個体やシステムの考え方は、「オートポイエーシス」に通ずる。
一度、河本英夫の本を読みかけて途中で断念していたが、余裕のあるときにでも再チャレンジしてみよう。

また、「強度」がドゥルーズの文脈の中でどう現れるのかは分からなかったが、一度『差異と反復』あたりに挑戦してみるか。痛快な「ぶった斬り」を期待して。




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