構法論的想像力を身につけたい B193『内田祥哉 窓と建築ゼミナール』(内田 祥哉 他)

内田 祥哉 (著),‎ 門脇 耕三 (編集),‎ 藤原 徹平 (編集),‎ 戸田 穣 (編集),‎ 窓研究所 (編集)
鹿島出版会 (2017/10/5)

本著は建築構法学・ビルディングエレメント論(BE論)を唱えた内田祥哉による講座及び聴講者との座談会の記録である。

個人的にはまだ応えることが出来ていない大きな問題を再び投げかけられたように思う。

構法論的想像力

小さく乾いたものの集合として建築を考える、というのが、内田先生から教わったことだと隈はしばしば言っているが、これはBE論の隈独自の咀嚼なのではないかと私は理解している。(中略)普段は頼りになる機能論は、そもそも内田イズムでは最初から否定されている。それゆえに、建築を小さいものの集合としてつくっていくためには、新しい集合の論理自体を創造してくことが重要になる。(p.59 藤原徹平)

建築に対する想像力(解像度もしくは密度と言っても良い)にはさまざま段階もしくは位相があるように思う。

例えば、プランニングに対する機能論的想像力、立体的な場に対する空間論的想像力、まとまりの関係性に対する構成論的想像力、そして、建築の組立に対する構法論的想像力などを挙げられそうだ。

他人の図面や建物をみれば、どの位相の想像力がどの程度発揮されているか、(例えば、機能論的想像力は逞しいが空間論的想像力にはあまり力を入れてないな、とか)その密度感は容易に伝わってくるけれども、それらを実際に行使し具体的な建築に落とし込むことはなかなか難しい。

自分を振り返って見てみると、先に上げたものの内、構法論的想像力はまだまだ発揮できているとは言いがたい。

では、その他の想像力になくて構法論的想像力にあるもの、すなわち今の自分に不足しているものはなんだろうか

おそらく、それは建築をつくる、という人間の意志の現れのようなもので、これまでの言葉でいえば、「つくることとの出会い」のようなものだろう。
場や空間は多少つくることができるようになりつつあると思うけれども、建築そのものが「つくることとの出会い」を語るようなところにはまだまだ届いていない
これは、数年前から頭にあることだけども、構法論的想像力を鍛えることが自分の課題の一つだと思う。

和構法の自在さ

和小屋は日本の大工なら誰でもつくれる簡単な構法だという話がありました。誰でもつくれるほど簡単なことと、建築家がやらなきゃいけないことの境界がどこなのか、現在の状況の中で考えてみたいと思いました。(p.87 辻琢磨)

内田先生が、和構法は町家のフレキシビリティだとおっしゃったことがすごく大事なんでしょうね。決して書院や数寄屋や城のための構法ではない。庶民の構法です。(p.88 門脇耕三)

建築もサスティナブルが重要であるという以上は、フレキシブルでありつつ、変化の途上でもって、生活がうまくイカなくてはならない。そういう意味では、日本の町家は非常に素晴らしかった。現代の視点からすれば、町家は耐火や耐震の問題を抱えていますが、それでも僕が考える理想の建築に近かったんじゃないかと思っています。(p.188 内田)

おそらく皆さんは、そういう方向に向かって生きている時代に生きているはずで、皆さんは将来フレキシビリティを備えながら地震にも耐えられる新しい建築をつくるようになるのかもしれない。皆さんそれぞれが自由な建築を考えていくうちに、やがてひとつのスタンダードができ上がるはずだと、僕は思っています。(p.197 内田)

架空の水平面の上に束を立てていく和小屋・和構法とその自在さは容易に理解できるし、水平構面をきちんとつくって、その間を鉛直荷重を支える柱と水平力を負担する緩い壁が自由に配置されるというビジョンも分かりやすい。そして、それは構法論的想像力とも相性が良いように思う。

翻って、自分がこれまでつくってきたものを考えると、今のところ新築はすべて木造在来軸組工法で、構法的な新しさはない。
また、複雑な空間に連動して木造の軸組自体が一定以上の密度感を持つことを志向していたので、上に挙げた和構法のような一種のルーズさはどちらかと言うと削ぎ落としていくような方向だと思うし、そうして出来た抑制の効いたプロポーションにもある種の密度感が生まれるのではという気持ちがあったので、和小屋が持つフトコロのようなものはできれば小さくしようと考えてきた。(そこを攻めすぎるのもまた窮屈な気もするので、どちらかと言えば、という話だけれども)

そこには和構法の持つ構法的な自在さを目指す、という意識はなかったと思うのだけれども、果たしてそれで良いのか。

和構法的構成には現実的なフレキシビリティだけでなく、表現としてのある種の開放感が備わっているように思う。
それを、建築の規模、予算や技術の制約の中で自分なりにどう消化するか、というのが(構法論的想像力を鍛えることも含めて)今の自分の課題なのだろう。

そして隈は、このような建築=芸術という癒着を切り離し、建築を芸術、工学、科学の正しい三角関係に置き直すことに成功したのが内田祥哉であり、それゆえに日本の近代建築は救われたという。(p.57 藤原徹平)

構法論的想像力を、機能や空間や構成と言ったものとは独立したものとして一旦切り離してみる訓練をした方がいいのかもしれない。

もしかしたら構法論的なあり方は、建築という概念の中では親のような存在で、機能や空間や構成その他はその子どものようなものなのではないだろうか。
そんなことを考えさせられた。

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