ケンペケ01「建築のすすめ」山口陽登

kenpeke

12/6にケンペケカゴシマというイベントの一回目があるということで参加させていただきました。

ケンペケカゴシマ第1回目のイベントは「建築のすすめ」と題し、関西発の歴史あるレクチャーシリーズ-2010-2011年のアーキフォーラムでコーディネーターを務めた山口陽登さんをゲストに迎えて開催します。

アーキフォーラム https://www.archiforum.jp/archive.html

SDレビュー2014受賞作やこれまでの設計活動、入居者全員でリノベーションしながら仕事をするシェアオフィス-上町荘などの建築に関するお話はもちろん、立ち上がったばかりのケンペケカゴシマの将来像についてもコーディネーターとして経験豊かなゲストといっしょに探っていきたいと思います。

SDReview_2014 https://www.kajima-publishing.co.jp/sd2014/sd2014.html
上町荘 https://www.facebook.com/uemachisou

食事、お酒も飲みながらのリラックスした雰囲気のレクチャー+交流会です。
どうぞ、お気軽にご参加ください。
フェイスブックのイベントページより>

「環境」を面白がる

山口さんはとても親しみやすい方で分かりやすく話して下さり、レクチャーも楽しませていただきました。
レクチャーの中から私なりにピックアップすると

・(ケンペケを通じて)鹿児島ならではの建築のムーブメントができれば素晴らしい。
・環境はあたり前のもので、あたり前から建築をつくる。
・環境を考えることによってそれを建築化したい。
・環境は面白いし、いろいろなものを内在していて上手くつかうことで最短距離で面白いものをつくるのに使える。そういう強度がある。
・僕らの世代が「環境」という言葉の持つ息苦しさのようなものを突破して面白いものをつくりたい。そのために見方を変えたい。

と言う感じでしょうか。
「環境」という言葉はいろいろな使い方ができ、建築に近すぎる、あたり前過ぎるので逆に焦点を絞るのが難しいのではと思ったのですが(試しに自分のブログを環境というワードで検索をかけると100件近くの記事がヒットしました)、そこを突破するためのキーワードとして面白がる、というのが出てきたように思います。

「あたり前である環境を面白がることによって息苦しさを突破する」といった時に頭をよぎったのは塚本さんの「実践状態」という言葉と「顕在化によるリアリティ」というようなことでした。
以前書いた記事から抜き出すと

その木を見ると、木というのは形ではなくて、常に葉っぱを太陽に当てよう、重力に負けずに枝を保とう、水を吸い上げよう、風が吹いたらバランスしよう、という実践状態にあることからなっているのだと気がついた。太陽、重力、水、風に対する、そうした実践がなければ生き続けることができない。それをある場所で持続したら、こんな形になってしまったということなのです。すべての部位が常に実践状態にあるなんて、すごく生き生きとしてるじゃないですか。それに対して人間は葉、茎、幹、枝、根と、木の部位に名前を与えて、言葉の世界に写像して、そうした実践の世界から木を切り離してしまう。でも詩というのは、葉とか茎とか、枝でもなんでもいいですけど、それをもう一回、実践状態に戻すものではないかと思うのです。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』)

個人的な引用(メモ)は(後日)最後にまとめるとして、この中で個人的に印象に残ったのが次の箇所。 『 つまり、アフォーダンスは人間が知っているのに気づいていない、あるいは知っていたはずのことを知らなかったという事実を暴露したのだ。その未知の中の既知が見いだせるのがアーティストにとっての特権であったし、特殊な才能であった。(p.140 深澤)』 これだけだと、それほど印象に残らなかったかもしれませんが、ちょうどこの辺りを読んでいた時にtwitterで流れてきた松島潤平さんの「輪郭についてのノート」の最後の一文、 『この鳴き声が、僕にとっての紛うことなきアート。 出会っていたはずのものに、また新たに出会うことができるなんて。 』が重なって妙に印象に残りました。 僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

という部分です。
つまり、環境を面白がるということは、息苦しさを持ってしまった環境という言葉を再び実践状態に戻すことであり、また、よく知っているはずである環境という言葉に再び新たに出会うことであり、それによって活き活きとしたリアリティのようなものが浮かび上がるのではと言うのが私の解釈です。
これは(建築化というところまでなかなか結び付けられていませんが)最近興味を持っていることとも重なり、とても興味深く聞かせていただきました。

建築の不自由さ?

また、2次会では哲学(社会学?)分野の方も参戦して面白い議論を聞くことが出来ました。鹿児島では建築家と異分野の人の議論を聞く機会が殆ど無いので良い体験をさせていただいたと思います。
酔っていたのと、理解不足で正確な議論は思い出せないのですが「建築の不自由さ」や作家性・非作家性のようなことに対する哲学的視点からの議論だったと思います。

これについては議論の最後まで見届けたいところでしたがタイムオーバーで消化不良でしたので、その後考えてツイッターに書いたことをメモ的に貼り付けておきます。

onokennote:河本英夫の対談集「システムの思想(2002)」を読み始めたので随時メモ。
氏は今日のシステムを特徴づけるのは自在さの感覚とし、自在さは自由さと違うと言う。自由とはあくまで意識の自由だが、自在さは何よりも行為にかかわり、行為の現実にかかわる。
自由な建築と自在な建築と言った場合、同じように意識と行為にかかわるのであれば、自由な建築を目指すといった時に逆説的に不自由さを背負い込んでしまうのではないか。
(酔ってて細部が思い出せないのだが)先日のケンペケの2次会で哲学分野の人から突っ込まれた建築の不自由さのようなものは、このあたりとも関わるのではないか。
僕はどこまでいってもデザインする行為があるだけで、意味のようなものを探そうとする態度は困難なのでは、というようなことを言おうとしたのだけども今もってうまく言えない。
だけど、設計を行為だと捉え、そこに自在があるのであれば、自在な建築をつくりたい、ということが言えないだろうか。意味のようなものがどこかにある、と言うよりは自在な行為の中から発見的に生まれるものなのでは。
ある本でオートポイエシスは観察・予測・コントロールができないというように書いていたような気がするけど、最近ほんの少しだけ接点のイメージが出来てきた気がする。だけどぼんやりしすぎて全然捉えられてない。
あと、「ハーバーマス・ルーマン論争」に関するあたりで何か掴めそうでやっぱり掴めない。
『対してルーマンは、問題を脱規範化すべきだという考えです。問題をもっとちゃんと抽象化して、脱モラル化することで、社会のメカニズムというものを理論的に解明することが必要だという立場だと思うんです。つまり理論的に解明することによって、問題に実践的に対応できる。(西垣)』
このくだりでなんとなくだけど藤村さんが頭に浮かんだ。ハーバーマスが現状を説明しているだけじゃないかと言い規範を持ち出すことに対して、時間的に経験や社会が変わることに対してより実践的なのは規範→行為ではなく行為→規範の方だという感じが、動物化せよというのとなんとなく重なって。
理解を深めるヒントがありそうな気がするんだけど整理できず。意識・自由・規範と行為・自在・脱規範の違いってbe動詞と動詞の違いに似てる。(こういう感じのこともどこかに書いてたけど思い出せず)
まだ読み始めたばかりなので時間を見つけて少しずつでも読み進めよう。多分表現のための方法論ではなくて、行為のためのイメージを自分の中に持っておきたいんだと思う。

まだうまく言えないのですが、建築の不自由さはポストモダン的な振る舞いとしての行為、自在な建築(設計)というあたりから乗り越えられるのではという予感があります。
また、これらはおそらく環境を面白がるという行為・態度とおそらく地続きだろう、というのが今の時点でのぼんやりとした仮説のようなものです。

この辺は機会があればもう少し突き詰めてお聞きしたいところであります。

ケンペケに期待すること

鹿児島に建築の議論の場を。というのは私も願っていたところでケンペケにはおおいに期待していますし、私は場を作ることに関してはあまり得意でないのでこういう場を作る動きが若い世代から生まれてきたことは非常に喜ばしいです。

こういう場はこれまでも何度も生まれてきては文化として定着できなかったということがあったと思うのですが、この場が定着するまで続くことを願いますし、そのために自分ができることはサポートしたいと思っています。

とはいえ、まだまだよちよち歩きを始めたばかり。最初は簡単な事でもいいと思いますし、大人数でなくても良いと思います。なにはともあれ関心を維持しつつ歩み続けることが大切かと思います。そういう風に続けることで鹿児島での議論の場として少しずつ成長していって欲しいと思います。

そのために一つだけ期待することと言えば、出来るだけ多くの人が今回のイベントを面白かったで済ませずに、何らかの言葉で残すようになることです。はじめは稚拙でも良いし短い一文でもいいかと思います。ノートに書くでも良いし、人に話すでも良いし、もしろんSNSやブログに書いてオープンにするのでも良いかと思います。
私も学生の頃は本を読んでもさっぱり意味が分からなかったのですが、とにかく何か書く、恥ずかしくても書く、ということを続けているうちに少しづつですが理解できることの幅が広がってきたように思いますし、そういうことなしにはなかなか議論の場になっていけないんじゃないかと言う気がします。それに、どんなに稚拙であろうと自分の中から絞り出した言葉には書いた本人に限らず何らかの発見があるはずです。

とは言いつつ、それでもやっぱり歩み続けることが一番大事だと思うので楽しんでいきましょー。

なんだか、最後おじさんが書くような話になってしまいましたが、実際そろそろおじさんなんだなー・・・。まだまだ建築の入口を掴みかけたかどうかという感じなのですが。

最後に廣瀬さん含め運営の方々、良い可能性の場をありがとうございました。

あっ、レクチャーの動画貼っておきます。

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